オデッサで起きたのは「悲劇」ではなく「大虐殺」---目撃者の医師が語る2014年5月2日
<記事原文 寺島先生推薦>
'An act of genocide': A witness recalls the 2014 Odessa massacre — RT Russia & Former Soviet Union
(「大虐殺という行為」:目撃者が語る2014年のオデッサ虐殺事件)
出典:RT
2022年5月4日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>
2022年6月14日
政治的見解を理由にウクライナによって収監されたオデッサの親ロシア派医師が証言

2014年5月2日(金)、親ウクライナの支持者が焼けた労働組合ビルの前で国旗を振っている。そのビル内で衝突から逃れようとした人々が30人以上死亡した。ウクライナのオデッサで。© AP Photo/Sergei Poliakov)
2014年5月2日にオデッサで起きた悲劇は、間違いなくウクライナの政治危機の激化に弾みをつけた。実際、多くの人が、この悲劇を全面的な内戦への扉を開いた後戻りのできない所だと考えている。しかし、オデッサの悲劇は、ウクライナ南東部の多くの人々を武装させただけでなく、ロシアを支持するウクライナ国民の間にも、ウクライナの民族主義者が敵を殺す覚悟を持っているという事実を認識させた。RTは、2014年5月2日のオデッサの抗議行動に参加し、その政治的見解のためにウクライナの刑務所で4年以上を過ごしたウラジミール・グラブニク(医学博士)に話を聞いた。彼はRTに対し、ウクライナのロシア系住民にとって、また同国の南東部に住む人々のロシア的独自性(identity)にとって、2014年5月2日が何を象徴しているかを語った。
―2014年5月2日まで、ウクライナのロシア系民族にとってオデッサは何だったのですか?
その問いに答えるには、時代をさかのぼる必要があります。18世紀後半、黒海の北岸がロシア領になると、ロシア帝国はそこに大規模な開発プロジェクトを開始しました。ケルソン、ニコラエフ、オデッサなど、この地域の主要都市をすべてロシアが設立し、建設したのです。ケルソンは前哨基地として、ニコラエフは造船所として、オデッサは港として機能することになりました。オデッサは、非常に特別な場所になりました。自由港の特権を与えられたオデッサは、多くの商人を引きつけ、地域全体の発展が促進されました。「南のパルミラ」と呼ばれるほど、重要な都市となりました。「北のパルミラ」と呼ばれた帝都サンクトペテルブルクに次ぐ重要な都市でした。
*パルミラ:シリアの古代都市。ローマとササン朝に挟まれて,ユーフラテス川からダマスクスにいたる東西交易の中継地点として2~3世紀に栄えた。
オデッサでは、文化の多様性が繁栄していました。ユダヤ人、アルメニア人、ギリシャ人、ブルガリア人、そしてウクライナ人、ロシア人のコミュニティが形成されました。大帝国にふさわしい都市でした。このように様々な民族が混在していたことが、オデッサに特別な味わいを与えました。オデッサは多くの伝説の舞台となり、アイザック・バベルをはじめとする多くの文豪たちが、ここでしか見られない絵に描いたような南国人たちを登場させました。同時に、オデッサは常にロシアの都市であり続け、ロシアの双頭の鷲は、この多様性のすべてをその翼の下に収めていました。

参考記事:https://www.rt.com/russia/554729-us-ukrainian-perception-donbass/
ソ連時代、オデッサはウクライナ・ソビエト社会主義共和国の一部であり、行政手続きは決められていましたが、オデッサの文化には何の影響もありませんでした。1991年にウクライナが独立を宣言してから、その状況は変わり始めました。しかし、独立したウクライナの一部であっても、オデッサはそのユニークな多文化状態を忠実に守っていました。「ウクライナ化」というプロジェクトが進行中であり、それは避けられないことだったのですが、オデッサは何とか踏ん張っていました。オデッサは常にロシアの都市であり、多くの言語と文化の本拠地であったため、一つの独自性と一つの言語のみを推進する新しい政策は、オデッサが象徴するすべてに逆行するものでした。オデッサの人々は、基本的に強制的なウクライナ化を嫌っていましたが、それを支持する人々もいました。オデッサはそのような状況でした。政治危機がウクライナを巻き込み始めたとき、この街は引き裂かれ、葛藤していました。
―ドネツクは、キーウからの新しい政策に対して、文化的にも政治的にも反対勢力の本拠地であったというのが大方の見方です。その中でオデッサはどのような役割を担っていたのでしょうか。
オデッサは異なる立場をとっていました。すでに説明したように、この街は良い意味での寛容さ、つまり多文化主義を大切にしていました。オデッサでは、ウクライナ人であれロシア人であれ、民族主義(他民族排他主義)を好む人はいない。民族主義は、この街の倫理に反するものでした。しかし、ドネツクは違います。労働者階級が多く、人々はより厳格で、寛容ではなく、白か黒かの思考をする傾向があります。これは状況によって、長所にも短所にもなり得ます。ドネツクはオデッサよりずっと洗練されていなかったので、人々はかなり早い段階から強く身構えました。それが欠点ともいえますが、一方で、政治的な解決が不可能になったときに、組織的な武力抵抗をするために必要なことだったともいえます。
―ユーロマイダン抗議運動が始まった2013年のオデッサは、どのような状況だったのでしょうか。
知識人たちは、親ヨーロッパであることが適切であると考えました。これが要は、より文明化され、より先進的な、よく知られた「覚醒したヨーロッパ」だったからです。ウクライナの他の都市や地域も同様でした。オデッサにはそのような知識人が大勢いたわけではありませんが、それでも彼らはいました。一方、親ロシア派の活動家もさまざまなタイプがいました。ソ連の理想に忠実な者もいれば、ロシア帝国に郷愁を抱く者もいました。ユーロマイダン騒動は、この両者の違いを極限まで高めました。ウクライナの国家プロジェクトを支持する人々は2014年2月の革命によって、ロシアを支持する人々は2014年のクリミアでの住民投票によって、奮い立たされました。
2014年のクリミア住民投票以前は、ユーロマイダンに反対する勢力は与党の地域党に集約されていたことを理解する必要があります。ヤヌコビッチ大統領が国外に逃亡し、党が崩壊すると、そのメンバーも逃亡し、ウクライナに台頭したネオナチの言いなりになってしまった者もいました。そこで、ヤヌコビッチや地域党がいる間は離れていた人たちが、反マイダン運動に参加したのです。これはずっと私たちの立場でした。私は、ヤヌコビッチと彼のチームには常に批判的でしたし、ユーロマイダンが勝利した事実の責任の大部分は彼が負っていると考えています。抗議デモは、ヤヌコビッチと彼の率いる地域党の虐待的な政策と慣行によって火がつきました。彼らは人々を虐待し、法律を乱用しました。彼らは徹頭徹尾腐敗しており、欲しいものをただ手に入れるだけでした。特にヤヌコビッチの息子である歯科医のアレクサンダーと彼の凶悪犯のチームはそのようなことをしました。

(焼けた労働組合ビルの外で負傷者を避難させる消防士たち。このビルでは衝突時に脱出しようとして30人以上が死亡した。ウクライナのオデッサで。2014年5月2日(金)、© AP Photo/Sergei Poliakov)
2014年4月までに、オデッサの両陣営は極めて先鋭化していた。「ロシアの春」運動はロシアと一緒になることを望んでおり、それはドネツクからオデッサまで、南東部の地域全体で感じられた。われわれと、親マイダン派の当局、それを支持するウクライナやオデッサの人々との対立は、解消されることがなかった。
―ところで、オデッサの対立する集団が準軍事組織を結成し始めたのはいつ頃ですか?どのような出来事の後ですか?
ユーロマイダンが転機となりました。デモ参加者は、マイダン自衛軍や右翼セクターなど、自分たちで民兵を結成し、街頭で戦えるようにし始めたのです。マイダンに反対する人々は、このような事態を目の当たりにしながらも、政府がこれらの準軍事組織を解体してくれることを望んでいました。国家には武力を行使する権利があり、法の支配を守るための責任もあります。しかし、国家はそのすべてを無視しました。だから、民衆が国家の役割を担い、自分たちの手で問題を解決しなければならなかったのです。その結果、反マイダン運動も準軍事部隊を結成するようになったのです。
―5月2日の悲劇はなぜ起きたのか。あのような激しい衝突が起こることは予想されていたのでしょうか。
悲劇というより、大量殺人です。すべてがそれに向かって動いていたのです。2014年2月の時点で、市内での紛争の悲劇的な終局が避けられないことは分かっていました。当局は反マイダンの指導者たちに、キャンプを市庁舎付近からクリコボ野外広場に移動するよう求めていたのです。これによって、私たちのキャンプは無意味になりました。必要であれば市庁舎を占拠できるよう、設置したのです。クリコボ広場は戦略的な場所ではないので、そこにキャンプを移動するのは意味がないのです。しかし、デモ隊は反論せず、そのままテントを移動させました。だから、キャンプを暴力的に解体するのは時間の問題だったのです。
最初の反マイダン準軍事部隊は、ヤヌコヴィッチが国外逃亡する前に市当局によって結成された。しかし、当局は、彼らが地域党そのものを脅かすような独立勢力にならないように気をつけた。党は権力を共有したくなかったのだ。オデッサの地方議会の議長で、地域党のメンバーでもあるニコライ・スコリクが、これらの部隊の結成を担当した。ユーロマイダンの勝利後、なぜか過激な民族主義者たちは、これらのボランティア部隊のメンバー全員の住所やその他の個人情報を含むリストを手に入れた。
彼らは最も活動的な指導者たちの家を捜索した。ガレージに侵入し、棒やナイフのようなつまらないものを見つけては、人々がクーデターを準備している証拠として採用した。一方、実のところは、これらの集団は憲法の秩序を守るために結成されたのだった。
その集団は、2013年から2014年の冬にユーロマイダン活動家によって結成されました。西ウクライナの地方議会が占拠されたことを受けての結成でした。
5月2日の大量殺人は、オデッサの反マイダンの指導たちが、戦う必要があるとは考えもしなかったから起きました。彼らは話し合いをしようとし、座談会を開きました。一方、ウクライナの民族主義者たちは過激な活動の準備をしていました。親ロシア派は、本当の膠着状態になる準備ができていませんでした。彼らの多くは、オデッサでもクリミアと同じように、ロシア軍がやってきてすべてが終わり、ウクライナの民族主義者や過激派は無力化されると考えていました。しかし、違うのは、クリミアでは当局がデモ隊を支持したことです。彼らは住民投票を行いたかったのです。議会に参加したくない議員たちは、事実上、民兵部隊によって議会に引きずり込まれました。彼らは政治家に自分の仕事をさせました。でも、オデッサでは、そのようなことは何も起こりませんでした。

関連記事:「すべての犯罪者は何らかの痕跡を残す」。ロシアの筆頭捜査官がウクライナ紛争についての見解を語る。
―悲劇が起こる前、クリコボ野営地では何が起こっていたのでしょうか。
何人かの人がそこに常駐していました。彼らは交代で野営地の世話をしていました。しかし、クリコボ広場は抗議の象徴的な中心地であっただけではないことを理解してほしい。何よりもまず、あそこは標的だったのです。いつでも火炎瓶で攻撃され、爆撃される可能性のある、都心にある脆弱な野営地だったのです。ソーシャルメディアでは、常にヒステリックな議論が交わされていました。「ナチスが焼き討ちに来た」という報告が何度も投稿されました。時には一晩に3、4回も脅かされることもありました。結局、みんなそんなメッセージには注意を払わなくなりました。「オオカミが来たと叫ぶ少年」のような状況でした。しかし、結局、ウクライナのナチスは本当に野営地を破壊しに来たのですが、誰もそんなことが実際に起きるとは信じていなかったのです。私たちは、グレチェスカヤ広場での衝突の後、人々を説得して立ち去らせようとしました。群衆が自分たちを殺しに来るんだと言ったんですが、彼らは信じてくれませんでした。
―2014年5月2日、オデッサ中心部での激しい衝突はどのように始まったのでしょうか。
ナチスは明らかに襲撃の準備をしていました。彼らは、いわゆるマイダン自衛官の一部やサッカーファンなど、多数の過激派を市内に連れてきました。彼らは街中の保養所に泊まっていました。中には私服のウクライナ軍や保安庁の職員もいました。
個人的には、彼らは致命的な攻撃を行うつもりはなかったと思っています。ニコラエフ*ののときと同じようなシナリオを考えていたのです。そのときは、反マイダン派を挑発して政府庁舎を襲撃させ、それを口実に活動家を殴打して抵抗運動を妨害、鎮圧していました。
*ウクライナ南部、ニコラエフ州の州都
これはまた、私服を着た兵士たちによって行われました。彼らはクリミアから来たウクライナの海兵隊員で、誰も殺されないようにすることを任務とする警察が彼らを監督していたのですが、いずれにせよ、殺害は行われました。しかし、彼らは、分離主義者を追い出したのは国民自身であるという印象を植え付けようとしました。オデッサでも彼らは同じようなことを考えていたのでしょう。しかし、グレチェスカヤ広場に行った人たちはその計画を阻止しました。

(2014年5月2日(金)、ウクライナのオデッサで、焼けた労働組合ビルの外で燃えるゴミを消す消防隊員。そのビルでは衝突の際に脱出しようとして30人以上が死亡した。© AP Photo/Sergei Poliakov)
ウクライナ人は、街頭での衝突に備えて、充分な装備と武器を持っていました。グレチェスカヤ広場の近くの中庭に、機関銃を持った人たちが立っていたのを覚えています。彼らは、我々が勝利した場合に介入する任務を負っていたのでしょう。そして起こったのは、2014年5月9日にマリウポリで見たような、通りや広場で人々が銃殺されるだけのことでした。オデッサでは、活動家に対処することは可能でしたが、当局は、銃殺というこの切り札を行使する用意があったのです。それは悲劇でも事故でもありませんでした。5月2日のすべての出来事の根底には、ロシア人、ソビエト人、そしてマイダンを支持しないすべての人々に対するイデオロギー的な憎悪があったのです。
―多くの人が負傷し、死亡した後、警察は何をしたのでしょうか?
治安部隊の中にも多くの負傷者がいたことを理解する必要があります。封鎖線上に立っていた人たちは、バックショット*で負傷しました。治安部隊も、私たち活動家も、猟銃で撃たれたのです。私の仲間は、負傷した警察官を衝突の中心地から運び出しました。ナチが群衆に散弾を浴びせていただけだったからです。しかし、治安部隊はこれに対して何の反応も示しませんでした。私は、この衝突のある時点で、治安部隊が急進派の圧力によって撤退し始め、最終的には、民族主義者がその数の優位を利用するのを阻止できるグレチェスカヤ通りから我々を遠ざけたことをよく覚えています。そして、ウクライナ人が優位に立つのを助けたのは、銃撃を受けていた治安部隊でした。というのも、ある瞬間、彼らの包囲網は簡単に分断されてしまったからです。我々は整然と退却しましたが、その後、テント村を守るチャンスはありませんでした。
*シカなどの大型動物用の大粒の散弾銃のペレット
一方、警察当局の指導部は麻痺していました。上司は全員、会議に呼び出され、携帯電話を取り上げられただけでした。警官たちは、撃たれてもどうしたらいいか分かりませんでした。仲間は撃たれているのに、治安部隊は武器を使いませんでした。
―もう決着がついたと思われたのに、なぜクリコボ広場に移ったのか。
グレチェスカヤ広場にいた人たちが散り散りになり、その一部がクリコボ広場に退却しました。問題は調整力のなさでした。退却を指示できる指導者が一人もおらず、街中から人が集まり続けました。衝突は自然発生的に始まりました。多くの人は、このような事態を想定していませんでした。彼らは、バーベキューをするために、街を離れました。ちょうど前日の5月1日には、大きな集会があり、何事もなく開催されました。弾圧があることは分かっていましたが、当局があえてすることはないだろうというのが大方の見方でした。
―5月2日の出来事は、意図的な懲罰的行動だったのでしょうか、それとも自然発生的な事件だったのでしょうか。
真実はその中間です。直接的に弾圧を組織していた人たちは、必ずしも流血を望んでいたわけではありませんが、街の状況が制御不能になったのです。しかし、活動家を一掃するために送り込まれた膨大な数の活動家が、傷つけ殺す覚悟のあるナチスだったということを理解する必要があります。そして、彼らは殺しました。窓から飛び降りた人々は、石畳の上で焼かれ、虐殺されました。しかし、もう一つの点が重要です。これらの出来事は、過剰に、つまり血に酔いしれた群衆と書き表すことができるかもしれません。
しかし、最も胸くそが悪くなるのは、その後に起こったことでした。
暴徒は労働組合会館に入り、公然と死体をあざけり始ました。こうして、自分たちがやったことを過ちだとは思わず、すべては意図的に行われたことで、これでいいと考え、しかもその過程を楽しんでいたことを示しました。
彼らは死体に足を乗せているところを写真に撮ってもらっていました。彼らは陽気に冗談を言い、死者をあざ笑っていました。例えば、階段で焼かれた若い男と少女がいましたが、彼らの体は融合していました。彼らは「ロミオとジュリエットだ」と冗談を言っていました。アレクセイ・ゴンチャレンコ(現ヴェルホブナ議会副議長)は、通りすがりに遺体を蹴飛ばしました。自分たちがしたことを楽しんでいました。悲劇に対する反省はなく、誰もがウクライナ・ナチズムの素顔を見ました。ウクライナ・ナチスが我々を人間だと考えていないことを誰もが見ました。そして、彼らは今でも私たちを人間とは思っていません。したがって、彼らと交渉することはできないし、しようとすべきではありません。それが覚えておくべき最も重要なことです。彼らは私たちを決して対等には考えていません。つまり、彼らの論理では、騙したり裏切ったり殺したりすることはいつでも可能なので、協定に応じる必要はないのです。そして、彼らはこれらのことを一切犯罪とは考えません。彼らにとっては、ゴキブリを潰すようなものです。

(2014年5月2日、ウクライナのオデッサ中心部で親ロシア派と親ウクライナ派の活動家の間で始まった衝突の様子。© Getty Images / Maksym Voytenko)
残念ながら、あれから8年、すべての人がそのことに気づいたわけではないが、人々は徐々に目を覚ましています。ウクライナ・ナチズムを破壊し、根こそぎ根絶やしにしなければならないことを理解し始めています。我々と彼らの間に明確な線引きをする必要があります。なぜなら、彼らはとっくの昔に線引きしているからです。
―2014年5月2日の悲劇は、内戦の後戻りできない局面となったと考える人が多いようです。あなたはどう考え、なぜそう考えるのでしょうか。
あれは悲劇ではなく、大量虐殺行為でした。そして、それが内戦の起爆剤となりました。展開される出来事に対して、人々の真の意図を示しました。戦争ほど悪いものはないという理論があります。イゴール・ストレルコフとロシアのボランティアがドンバスに戦争を持ち込んだという理論があります。これは非常に悪いことです。戦争より悪いものは何もないからです。戦争はもちろん恐ろしいものですが、戦争よりひどいものもあります。例えば、大虐殺です。5月2日は、戦争に代わるものが虐殺であることを示しました。オデッサのように、ウクライナのナチスに武装抵抗しなければどうなるか、はっきりと示されたのです。ウクライナの南東部、ドンバス、そしてロシアの膨大な数の人々がこのことを理解していました。
5月2日に起こったことを見て、彼らはリュックを背負って、ウクライナ・ナチスと死ぬまで戦い、彼らを破壊しに行きました。彼らは住民を虐殺から守ったのです。そして、2022年2月24日、国民を虐殺から守るプロセスは、単に新しい段階に移ったのです。したがって、真実は我々の側にあり、正義は我々の側にあります。そして、ウクライナのナチスが権力を握っている限り、合意に至ることはありえません。彼らは我々を人間とは思っていません。したがって、私は繰り返します。戦争は恐ろしいが、我々は代替案がさらに悪いという状況にある、と。
―労働組合の事務所で起こった悲劇に対する調査は、なぜ絶えず妨げられたのでしょうか?当局にとって、起こった理由を隠すことは有利だったのでしょうか。
もちろん、それは当局の意識的な決定でした。5月2日の事件に関する裁判で、彼らは殺人を犯した者ではなく、犠牲となった者たちを裁きました。クリコボ広場の活動家は集団暴動を扇動した罪で裁かれましたが、ナチスは一人も被告席に入りませんでした。さらに、私が裁判を受けたとき、ウクライナの活動家たちは、裁判官や検事がいる法廷で私に近づき、こう言ったのです。「我々は奴らを燃やした、お前も燃やしてやる 」と。そして、裁判官たちは目を背け微笑んで、気づかないふりをしました。2014年2月以降のウクライナは、法的ニヒリズムの国となっています。
また、当局は意図的に証拠を隠滅しました。例えば、私たちの活動家と警察官が銃撃される映像があります。これについては、誰も責任を問われませんでした。ここで、法的な枠組みの中で、どのような対話ができるのでしょうか。ここはテロ国家です。
―5月2日以降、オデッサのロシア人運動はどうなったのでしょうか。
特にロシア連邦のオデッサ進駐を予想した人たちが、地下のレジスタンスを結成しようとしました。オデッサの住民の一部はドンバスに去り、民兵に参加しました。現在特別警備隊SBUに逮捕されているユーリ・トカチョフというジャーナリストのように、法的な分野に残った者もいました。彼は、いつ投獄されるかわからないと知っていながら、ジャーナリズムに従事し、客観的であろうとしました。5月2日の犠牲者を追悼するイベントを開催するなど、公的な活動に従事し、刑務所にいる私たちの活動家を助けようとした人もいました。しかし、残念ながら、彼らには何の支援もありません。オデッサの住民は通常、5月2日だけ関心を持っています。そのときこそ「悲劇」について書く必要があるからですが、1年のうち他の364日は犠牲者のことは忘れられています。この大量殺人は、あらゆるものにその痕跡が残っており、結論は出されていません。
このことは、親ロシア派の運動にとって非常に大きな打撃となりました。なぜなら、人々はロシア当局から何の支援も受けられなかったからです。彼らは言われました。「ここにヴィクトル・メドヴェチュクの党がある」--彼自身は一般にウクライナの民族主義者だ--「彼は我々の仲間で、ここにいてプーチンと握手している。彼に一票を投じよ」。地下の抵抗勢力は形成されましたが、あまり大きなものではありませんでした。なぜ危険を冒す必要があるのか、人々が理解していなかったからです。ロシアは来るのでしょうか? ロシアの一部になる権利を求めて血に溢れたドンバスが、ミンスク合意によって7年半もウクライナ国家に押し戻されていたのに、なぜリスクを冒すのでしょうか。我々の同胞は、ナチが自分たちの立場のために自分たちを切り刻んだり燃やす用意があることを見ました。そして、単に中央集権的な(ロシアの)支援がなかっただけです。

関連記事:ウクライナで西側兵器庫が破壊される - モスクワ
そして、このために、この人々の心のために、いま私たちは戦う必要があります。かれらは心的外傷を抱えているからです。彼らの信頼を回復するために。彼らに意味を与え、ロシアがどのようなシナリオで進んでいるのかを理解させることです。ロシアが永遠にここにいることを理解したとき、彼らは立ち上がるでしょう。
―恐怖心から、あるいは利益のためにウクライナの国家プロジェクトに忠誠を誓った人々が、ロシアの仲間に戻るチャンスはあるのでしょうか。
まず、誰が「親露派」なのかを見極める必要があります。このカテゴリーに含まれるのはロシア人だけではないからです。ソ連的な独自性を持つ人、マイダンに反対したウクライナ人で、ウクライナにはロシアとの正常な関係が必要だと考えている人もいます。さらに、西ウクライナにもこのような考え方の人たちがいます。マイダンにはウクライナ語を話す大勢の市民が反対しましたが、また一方でロシア語を話す人や民族的なロシア人の中にもマイダンを支持した人がいました。そして現在でも、ロシア国内、首都モスクワでも、ウクライナのナチズムを支持する層が存在します。これは、ロシアとウクライナの対立ではありません。イデオロギーと文明の軌道の衝突であり、このような形で何が起きているのかが議論されるべきです。

(2014年5月2日深夜、オデッサで焼けた労働組合の建物で消防隊員が作業している様子を見る人々。© AFP PHOTO / STRINGER)
ウクライナの国家プロジェクトに宣誓した人たちについて、私は次のように述べます。名誉を持つ人は宣誓することができ、最後まで自分の理想を守る覚悟があります。もし彼が何かに誓ったなら、それを最後までやり遂げるでしょう。彼は自分の見解や信念を変えることができますが、その変革は、有機的に、つまり、部分が相互に影響し合いながら全体が形成されるように起こります。目先の利益のために旗色を変えるようなことはしません。しかし、そのような形で旗色を変える人は、日和見主義者です。このようなご都合主義者はたくさんいます。そして、武器を取った者の無慈悲な弾圧と駆除、武器を取らなかった者の生活の維持という二つの要素を組み合わせれば、日和見主義者の心の戦いに勝利することができるでしょう。なぜなら、彼らは常に何らかの理想のために死を選ぶのではなく、普通の生活と最も抵抗の少ない道を選ぶからです。
旧ウクライナでロシアの独自性を守るためには、まずロシア連邦自体でそれを育む必要があります。そして今、Z作戦のおかげで、私たちの独自性は芽を出しつつあります。そしてそれは、ロシア民族だけでなく、ウクライナ人やソビエト連邦後の空間全体にいるさまざまな国籍の人たちにも共有されているのです。彼らも無視してはいけません。そして、一刻も早く全地球的な視野で、自分たちが何を望んでいるのかを胸襟を開いて語り始める必要があります。戦術や作戦の計画は隠してもいいが、戦略的な計画は公開すべきです。公開せずにはいられないのです。人々は、私たちがどこへ行こうとしているのか、明確な考えを持つ必要があるからです。
私たちは彼らも私たちの仲間であり、一緒に幸せな未来を築いていくのだということを伝えなければなりません。そうすれば、心の戦いに勝利することができると思います。
この記事は、旧ソ連邦の歴史と現状を探る政治ジャーナリスト、ドミトリー・プロトニコフ氏によって書かれた。
訳註:オデッサの虐殺参考資料
【日本語字幕】【閲覧注意】【年齢制限】ウクライナ・オデッサの悲劇 - YouTube
'An act of genocide': A witness recalls the 2014 Odessa massacre — RT Russia & Former Soviet Union
(「大虐殺という行為」:目撃者が語る2014年のオデッサ虐殺事件)
出典:RT
2022年5月4日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>
2022年6月14日
政治的見解を理由にウクライナによって収監されたオデッサの親ロシア派医師が証言

2014年5月2日(金)、親ウクライナの支持者が焼けた労働組合ビルの前で国旗を振っている。そのビル内で衝突から逃れようとした人々が30人以上死亡した。ウクライナのオデッサで。© AP Photo/Sergei Poliakov)
2014年5月2日にオデッサで起きた悲劇は、間違いなくウクライナの政治危機の激化に弾みをつけた。実際、多くの人が、この悲劇を全面的な内戦への扉を開いた後戻りのできない所だと考えている。しかし、オデッサの悲劇は、ウクライナ南東部の多くの人々を武装させただけでなく、ロシアを支持するウクライナ国民の間にも、ウクライナの民族主義者が敵を殺す覚悟を持っているという事実を認識させた。RTは、2014年5月2日のオデッサの抗議行動に参加し、その政治的見解のためにウクライナの刑務所で4年以上を過ごしたウラジミール・グラブニク(医学博士)に話を聞いた。彼はRTに対し、ウクライナのロシア系住民にとって、また同国の南東部に住む人々のロシア的独自性(identity)にとって、2014年5月2日が何を象徴しているかを語った。
―2014年5月2日まで、ウクライナのロシア系民族にとってオデッサは何だったのですか?
その問いに答えるには、時代をさかのぼる必要があります。18世紀後半、黒海の北岸がロシア領になると、ロシア帝国はそこに大規模な開発プロジェクトを開始しました。ケルソン、ニコラエフ、オデッサなど、この地域の主要都市をすべてロシアが設立し、建設したのです。ケルソンは前哨基地として、ニコラエフは造船所として、オデッサは港として機能することになりました。オデッサは、非常に特別な場所になりました。自由港の特権を与えられたオデッサは、多くの商人を引きつけ、地域全体の発展が促進されました。「南のパルミラ」と呼ばれるほど、重要な都市となりました。「北のパルミラ」と呼ばれた帝都サンクトペテルブルクに次ぐ重要な都市でした。
*パルミラ:シリアの古代都市。ローマとササン朝に挟まれて,ユーフラテス川からダマスクスにいたる東西交易の中継地点として2~3世紀に栄えた。
オデッサでは、文化の多様性が繁栄していました。ユダヤ人、アルメニア人、ギリシャ人、ブルガリア人、そしてウクライナ人、ロシア人のコミュニティが形成されました。大帝国にふさわしい都市でした。このように様々な民族が混在していたことが、オデッサに特別な味わいを与えました。オデッサは多くの伝説の舞台となり、アイザック・バベルをはじめとする多くの文豪たちが、ここでしか見られない絵に描いたような南国人たちを登場させました。同時に、オデッサは常にロシアの都市であり続け、ロシアの双頭の鷲は、この多様性のすべてをその翼の下に収めていました。

参考記事:https://www.rt.com/russia/554729-us-ukrainian-perception-donbass/
ソ連時代、オデッサはウクライナ・ソビエト社会主義共和国の一部であり、行政手続きは決められていましたが、オデッサの文化には何の影響もありませんでした。1991年にウクライナが独立を宣言してから、その状況は変わり始めました。しかし、独立したウクライナの一部であっても、オデッサはそのユニークな多文化状態を忠実に守っていました。「ウクライナ化」というプロジェクトが進行中であり、それは避けられないことだったのですが、オデッサは何とか踏ん張っていました。オデッサは常にロシアの都市であり、多くの言語と文化の本拠地であったため、一つの独自性と一つの言語のみを推進する新しい政策は、オデッサが象徴するすべてに逆行するものでした。オデッサの人々は、基本的に強制的なウクライナ化を嫌っていましたが、それを支持する人々もいました。オデッサはそのような状況でした。政治危機がウクライナを巻き込み始めたとき、この街は引き裂かれ、葛藤していました。
―ドネツクは、キーウからの新しい政策に対して、文化的にも政治的にも反対勢力の本拠地であったというのが大方の見方です。その中でオデッサはどのような役割を担っていたのでしょうか。
オデッサは異なる立場をとっていました。すでに説明したように、この街は良い意味での寛容さ、つまり多文化主義を大切にしていました。オデッサでは、ウクライナ人であれロシア人であれ、民族主義(他民族排他主義)を好む人はいない。民族主義は、この街の倫理に反するものでした。しかし、ドネツクは違います。労働者階級が多く、人々はより厳格で、寛容ではなく、白か黒かの思考をする傾向があります。これは状況によって、長所にも短所にもなり得ます。ドネツクはオデッサよりずっと洗練されていなかったので、人々はかなり早い段階から強く身構えました。それが欠点ともいえますが、一方で、政治的な解決が不可能になったときに、組織的な武力抵抗をするために必要なことだったともいえます。
―ユーロマイダン抗議運動が始まった2013年のオデッサは、どのような状況だったのでしょうか。
知識人たちは、親ヨーロッパであることが適切であると考えました。これが要は、より文明化され、より先進的な、よく知られた「覚醒したヨーロッパ」だったからです。ウクライナの他の都市や地域も同様でした。オデッサにはそのような知識人が大勢いたわけではありませんが、それでも彼らはいました。一方、親ロシア派の活動家もさまざまなタイプがいました。ソ連の理想に忠実な者もいれば、ロシア帝国に郷愁を抱く者もいました。ユーロマイダン騒動は、この両者の違いを極限まで高めました。ウクライナの国家プロジェクトを支持する人々は2014年2月の革命によって、ロシアを支持する人々は2014年のクリミアでの住民投票によって、奮い立たされました。
2014年のクリミア住民投票以前は、ユーロマイダンに反対する勢力は与党の地域党に集約されていたことを理解する必要があります。ヤヌコビッチ大統領が国外に逃亡し、党が崩壊すると、そのメンバーも逃亡し、ウクライナに台頭したネオナチの言いなりになってしまった者もいました。そこで、ヤヌコビッチや地域党がいる間は離れていた人たちが、反マイダン運動に参加したのです。これはずっと私たちの立場でした。私は、ヤヌコビッチと彼のチームには常に批判的でしたし、ユーロマイダンが勝利した事実の責任の大部分は彼が負っていると考えています。抗議デモは、ヤヌコビッチと彼の率いる地域党の虐待的な政策と慣行によって火がつきました。彼らは人々を虐待し、法律を乱用しました。彼らは徹頭徹尾腐敗しており、欲しいものをただ手に入れるだけでした。特にヤヌコビッチの息子である歯科医のアレクサンダーと彼の凶悪犯のチームはそのようなことをしました。

(焼けた労働組合ビルの外で負傷者を避難させる消防士たち。このビルでは衝突時に脱出しようとして30人以上が死亡した。ウクライナのオデッサで。2014年5月2日(金)、© AP Photo/Sergei Poliakov)
2014年4月までに、オデッサの両陣営は極めて先鋭化していた。「ロシアの春」運動はロシアと一緒になることを望んでおり、それはドネツクからオデッサまで、南東部の地域全体で感じられた。われわれと、親マイダン派の当局、それを支持するウクライナやオデッサの人々との対立は、解消されることがなかった。
―ところで、オデッサの対立する集団が準軍事組織を結成し始めたのはいつ頃ですか?どのような出来事の後ですか?
ユーロマイダンが転機となりました。デモ参加者は、マイダン自衛軍や右翼セクターなど、自分たちで民兵を結成し、街頭で戦えるようにし始めたのです。マイダンに反対する人々は、このような事態を目の当たりにしながらも、政府がこれらの準軍事組織を解体してくれることを望んでいました。国家には武力を行使する権利があり、法の支配を守るための責任もあります。しかし、国家はそのすべてを無視しました。だから、民衆が国家の役割を担い、自分たちの手で問題を解決しなければならなかったのです。その結果、反マイダン運動も準軍事部隊を結成するようになったのです。
―5月2日の悲劇はなぜ起きたのか。あのような激しい衝突が起こることは予想されていたのでしょうか。
悲劇というより、大量殺人です。すべてがそれに向かって動いていたのです。2014年2月の時点で、市内での紛争の悲劇的な終局が避けられないことは分かっていました。当局は反マイダンの指導者たちに、キャンプを市庁舎付近からクリコボ野外広場に移動するよう求めていたのです。これによって、私たちのキャンプは無意味になりました。必要であれば市庁舎を占拠できるよう、設置したのです。クリコボ広場は戦略的な場所ではないので、そこにキャンプを移動するのは意味がないのです。しかし、デモ隊は反論せず、そのままテントを移動させました。だから、キャンプを暴力的に解体するのは時間の問題だったのです。
最初の反マイダン準軍事部隊は、ヤヌコヴィッチが国外逃亡する前に市当局によって結成された。しかし、当局は、彼らが地域党そのものを脅かすような独立勢力にならないように気をつけた。党は権力を共有したくなかったのだ。オデッサの地方議会の議長で、地域党のメンバーでもあるニコライ・スコリクが、これらの部隊の結成を担当した。ユーロマイダンの勝利後、なぜか過激な民族主義者たちは、これらのボランティア部隊のメンバー全員の住所やその他の個人情報を含むリストを手に入れた。
彼らは最も活動的な指導者たちの家を捜索した。ガレージに侵入し、棒やナイフのようなつまらないものを見つけては、人々がクーデターを準備している証拠として採用した。一方、実のところは、これらの集団は憲法の秩序を守るために結成されたのだった。
その集団は、2013年から2014年の冬にユーロマイダン活動家によって結成されました。西ウクライナの地方議会が占拠されたことを受けての結成でした。
5月2日の大量殺人は、オデッサの反マイダンの指導たちが、戦う必要があるとは考えもしなかったから起きました。彼らは話し合いをしようとし、座談会を開きました。一方、ウクライナの民族主義者たちは過激な活動の準備をしていました。親ロシア派は、本当の膠着状態になる準備ができていませんでした。彼らの多くは、オデッサでもクリミアと同じように、ロシア軍がやってきてすべてが終わり、ウクライナの民族主義者や過激派は無力化されると考えていました。しかし、違うのは、クリミアでは当局がデモ隊を支持したことです。彼らは住民投票を行いたかったのです。議会に参加したくない議員たちは、事実上、民兵部隊によって議会に引きずり込まれました。彼らは政治家に自分の仕事をさせました。でも、オデッサでは、そのようなことは何も起こりませんでした。

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―悲劇が起こる前、クリコボ野営地では何が起こっていたのでしょうか。
何人かの人がそこに常駐していました。彼らは交代で野営地の世話をしていました。しかし、クリコボ広場は抗議の象徴的な中心地であっただけではないことを理解してほしい。何よりもまず、あそこは標的だったのです。いつでも火炎瓶で攻撃され、爆撃される可能性のある、都心にある脆弱な野営地だったのです。ソーシャルメディアでは、常にヒステリックな議論が交わされていました。「ナチスが焼き討ちに来た」という報告が何度も投稿されました。時には一晩に3、4回も脅かされることもありました。結局、みんなそんなメッセージには注意を払わなくなりました。「オオカミが来たと叫ぶ少年」のような状況でした。しかし、結局、ウクライナのナチスは本当に野営地を破壊しに来たのですが、誰もそんなことが実際に起きるとは信じていなかったのです。私たちは、グレチェスカヤ広場での衝突の後、人々を説得して立ち去らせようとしました。群衆が自分たちを殺しに来るんだと言ったんですが、彼らは信じてくれませんでした。
―2014年5月2日、オデッサ中心部での激しい衝突はどのように始まったのでしょうか。
ナチスは明らかに襲撃の準備をしていました。彼らは、いわゆるマイダン自衛官の一部やサッカーファンなど、多数の過激派を市内に連れてきました。彼らは街中の保養所に泊まっていました。中には私服のウクライナ軍や保安庁の職員もいました。
個人的には、彼らは致命的な攻撃を行うつもりはなかったと思っています。ニコラエフ*ののときと同じようなシナリオを考えていたのです。そのときは、反マイダン派を挑発して政府庁舎を襲撃させ、それを口実に活動家を殴打して抵抗運動を妨害、鎮圧していました。
*ウクライナ南部、ニコラエフ州の州都
これはまた、私服を着た兵士たちによって行われました。彼らはクリミアから来たウクライナの海兵隊員で、誰も殺されないようにすることを任務とする警察が彼らを監督していたのですが、いずれにせよ、殺害は行われました。しかし、彼らは、分離主義者を追い出したのは国民自身であるという印象を植え付けようとしました。オデッサでも彼らは同じようなことを考えていたのでしょう。しかし、グレチェスカヤ広場に行った人たちはその計画を阻止しました。

(2014年5月2日(金)、ウクライナのオデッサで、焼けた労働組合ビルの外で燃えるゴミを消す消防隊員。そのビルでは衝突の際に脱出しようとして30人以上が死亡した。© AP Photo/Sergei Poliakov)
ウクライナ人は、街頭での衝突に備えて、充分な装備と武器を持っていました。グレチェスカヤ広場の近くの中庭に、機関銃を持った人たちが立っていたのを覚えています。彼らは、我々が勝利した場合に介入する任務を負っていたのでしょう。そして起こったのは、2014年5月9日にマリウポリで見たような、通りや広場で人々が銃殺されるだけのことでした。オデッサでは、活動家に対処することは可能でしたが、当局は、銃殺というこの切り札を行使する用意があったのです。それは悲劇でも事故でもありませんでした。5月2日のすべての出来事の根底には、ロシア人、ソビエト人、そしてマイダンを支持しないすべての人々に対するイデオロギー的な憎悪があったのです。
―多くの人が負傷し、死亡した後、警察は何をしたのでしょうか?
治安部隊の中にも多くの負傷者がいたことを理解する必要があります。封鎖線上に立っていた人たちは、バックショット*で負傷しました。治安部隊も、私たち活動家も、猟銃で撃たれたのです。私の仲間は、負傷した警察官を衝突の中心地から運び出しました。ナチが群衆に散弾を浴びせていただけだったからです。しかし、治安部隊はこれに対して何の反応も示しませんでした。私は、この衝突のある時点で、治安部隊が急進派の圧力によって撤退し始め、最終的には、民族主義者がその数の優位を利用するのを阻止できるグレチェスカヤ通りから我々を遠ざけたことをよく覚えています。そして、ウクライナ人が優位に立つのを助けたのは、銃撃を受けていた治安部隊でした。というのも、ある瞬間、彼らの包囲網は簡単に分断されてしまったからです。我々は整然と退却しましたが、その後、テント村を守るチャンスはありませんでした。
*シカなどの大型動物用の大粒の散弾銃のペレット
一方、警察当局の指導部は麻痺していました。上司は全員、会議に呼び出され、携帯電話を取り上げられただけでした。警官たちは、撃たれてもどうしたらいいか分かりませんでした。仲間は撃たれているのに、治安部隊は武器を使いませんでした。
―もう決着がついたと思われたのに、なぜクリコボ広場に移ったのか。
グレチェスカヤ広場にいた人たちが散り散りになり、その一部がクリコボ広場に退却しました。問題は調整力のなさでした。退却を指示できる指導者が一人もおらず、街中から人が集まり続けました。衝突は自然発生的に始まりました。多くの人は、このような事態を想定していませんでした。彼らは、バーベキューをするために、街を離れました。ちょうど前日の5月1日には、大きな集会があり、何事もなく開催されました。弾圧があることは分かっていましたが、当局があえてすることはないだろうというのが大方の見方でした。
―5月2日の出来事は、意図的な懲罰的行動だったのでしょうか、それとも自然発生的な事件だったのでしょうか。
真実はその中間です。直接的に弾圧を組織していた人たちは、必ずしも流血を望んでいたわけではありませんが、街の状況が制御不能になったのです。しかし、活動家を一掃するために送り込まれた膨大な数の活動家が、傷つけ殺す覚悟のあるナチスだったということを理解する必要があります。そして、彼らは殺しました。窓から飛び降りた人々は、石畳の上で焼かれ、虐殺されました。しかし、もう一つの点が重要です。これらの出来事は、過剰に、つまり血に酔いしれた群衆と書き表すことができるかもしれません。
しかし、最も胸くそが悪くなるのは、その後に起こったことでした。
暴徒は労働組合会館に入り、公然と死体をあざけり始ました。こうして、自分たちがやったことを過ちだとは思わず、すべては意図的に行われたことで、これでいいと考え、しかもその過程を楽しんでいたことを示しました。
彼らは死体に足を乗せているところを写真に撮ってもらっていました。彼らは陽気に冗談を言い、死者をあざ笑っていました。例えば、階段で焼かれた若い男と少女がいましたが、彼らの体は融合していました。彼らは「ロミオとジュリエットだ」と冗談を言っていました。アレクセイ・ゴンチャレンコ(現ヴェルホブナ議会副議長)は、通りすがりに遺体を蹴飛ばしました。自分たちがしたことを楽しんでいました。悲劇に対する反省はなく、誰もがウクライナ・ナチズムの素顔を見ました。ウクライナ・ナチスが我々を人間だと考えていないことを誰もが見ました。そして、彼らは今でも私たちを人間とは思っていません。したがって、彼らと交渉することはできないし、しようとすべきではありません。それが覚えておくべき最も重要なことです。彼らは私たちを決して対等には考えていません。つまり、彼らの論理では、騙したり裏切ったり殺したりすることはいつでも可能なので、協定に応じる必要はないのです。そして、彼らはこれらのことを一切犯罪とは考えません。彼らにとっては、ゴキブリを潰すようなものです。

(2014年5月2日、ウクライナのオデッサ中心部で親ロシア派と親ウクライナ派の活動家の間で始まった衝突の様子。© Getty Images / Maksym Voytenko)
残念ながら、あれから8年、すべての人がそのことに気づいたわけではないが、人々は徐々に目を覚ましています。ウクライナ・ナチズムを破壊し、根こそぎ根絶やしにしなければならないことを理解し始めています。我々と彼らの間に明確な線引きをする必要があります。なぜなら、彼らはとっくの昔に線引きしているからです。
―2014年5月2日の悲劇は、内戦の後戻りできない局面となったと考える人が多いようです。あなたはどう考え、なぜそう考えるのでしょうか。
あれは悲劇ではなく、大量虐殺行為でした。そして、それが内戦の起爆剤となりました。展開される出来事に対して、人々の真の意図を示しました。戦争ほど悪いものはないという理論があります。イゴール・ストレルコフとロシアのボランティアがドンバスに戦争を持ち込んだという理論があります。これは非常に悪いことです。戦争より悪いものは何もないからです。戦争はもちろん恐ろしいものですが、戦争よりひどいものもあります。例えば、大虐殺です。5月2日は、戦争に代わるものが虐殺であることを示しました。オデッサのように、ウクライナのナチスに武装抵抗しなければどうなるか、はっきりと示されたのです。ウクライナの南東部、ドンバス、そしてロシアの膨大な数の人々がこのことを理解していました。
5月2日に起こったことを見て、彼らはリュックを背負って、ウクライナ・ナチスと死ぬまで戦い、彼らを破壊しに行きました。彼らは住民を虐殺から守ったのです。そして、2022年2月24日、国民を虐殺から守るプロセスは、単に新しい段階に移ったのです。したがって、真実は我々の側にあり、正義は我々の側にあります。そして、ウクライナのナチスが権力を握っている限り、合意に至ることはありえません。彼らは我々を人間とは思っていません。したがって、私は繰り返します。戦争は恐ろしいが、我々は代替案がさらに悪いという状況にある、と。
―労働組合の事務所で起こった悲劇に対する調査は、なぜ絶えず妨げられたのでしょうか?当局にとって、起こった理由を隠すことは有利だったのでしょうか。
もちろん、それは当局の意識的な決定でした。5月2日の事件に関する裁判で、彼らは殺人を犯した者ではなく、犠牲となった者たちを裁きました。クリコボ広場の活動家は集団暴動を扇動した罪で裁かれましたが、ナチスは一人も被告席に入りませんでした。さらに、私が裁判を受けたとき、ウクライナの活動家たちは、裁判官や検事がいる法廷で私に近づき、こう言ったのです。「我々は奴らを燃やした、お前も燃やしてやる 」と。そして、裁判官たちは目を背け微笑んで、気づかないふりをしました。2014年2月以降のウクライナは、法的ニヒリズムの国となっています。
また、当局は意図的に証拠を隠滅しました。例えば、私たちの活動家と警察官が銃撃される映像があります。これについては、誰も責任を問われませんでした。ここで、法的な枠組みの中で、どのような対話ができるのでしょうか。ここはテロ国家です。
―5月2日以降、オデッサのロシア人運動はどうなったのでしょうか。
特にロシア連邦のオデッサ進駐を予想した人たちが、地下のレジスタンスを結成しようとしました。オデッサの住民の一部はドンバスに去り、民兵に参加しました。現在特別警備隊SBUに逮捕されているユーリ・トカチョフというジャーナリストのように、法的な分野に残った者もいました。彼は、いつ投獄されるかわからないと知っていながら、ジャーナリズムに従事し、客観的であろうとしました。5月2日の犠牲者を追悼するイベントを開催するなど、公的な活動に従事し、刑務所にいる私たちの活動家を助けようとした人もいました。しかし、残念ながら、彼らには何の支援もありません。オデッサの住民は通常、5月2日だけ関心を持っています。そのときこそ「悲劇」について書く必要があるからですが、1年のうち他の364日は犠牲者のことは忘れられています。この大量殺人は、あらゆるものにその痕跡が残っており、結論は出されていません。
このことは、親ロシア派の運動にとって非常に大きな打撃となりました。なぜなら、人々はロシア当局から何の支援も受けられなかったからです。彼らは言われました。「ここにヴィクトル・メドヴェチュクの党がある」--彼自身は一般にウクライナの民族主義者だ--「彼は我々の仲間で、ここにいてプーチンと握手している。彼に一票を投じよ」。地下の抵抗勢力は形成されましたが、あまり大きなものではありませんでした。なぜ危険を冒す必要があるのか、人々が理解していなかったからです。ロシアは来るのでしょうか? ロシアの一部になる権利を求めて血に溢れたドンバスが、ミンスク合意によって7年半もウクライナ国家に押し戻されていたのに、なぜリスクを冒すのでしょうか。我々の同胞は、ナチが自分たちの立場のために自分たちを切り刻んだり燃やす用意があることを見ました。そして、単に中央集権的な(ロシアの)支援がなかっただけです。

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そして、このために、この人々の心のために、いま私たちは戦う必要があります。かれらは心的外傷を抱えているからです。彼らの信頼を回復するために。彼らに意味を与え、ロシアがどのようなシナリオで進んでいるのかを理解させることです。ロシアが永遠にここにいることを理解したとき、彼らは立ち上がるでしょう。
―恐怖心から、あるいは利益のためにウクライナの国家プロジェクトに忠誠を誓った人々が、ロシアの仲間に戻るチャンスはあるのでしょうか。
まず、誰が「親露派」なのかを見極める必要があります。このカテゴリーに含まれるのはロシア人だけではないからです。ソ連的な独自性を持つ人、マイダンに反対したウクライナ人で、ウクライナにはロシアとの正常な関係が必要だと考えている人もいます。さらに、西ウクライナにもこのような考え方の人たちがいます。マイダンにはウクライナ語を話す大勢の市民が反対しましたが、また一方でロシア語を話す人や民族的なロシア人の中にもマイダンを支持した人がいました。そして現在でも、ロシア国内、首都モスクワでも、ウクライナのナチズムを支持する層が存在します。これは、ロシアとウクライナの対立ではありません。イデオロギーと文明の軌道の衝突であり、このような形で何が起きているのかが議論されるべきです。

(2014年5月2日深夜、オデッサで焼けた労働組合の建物で消防隊員が作業している様子を見る人々。© AFP PHOTO / STRINGER)
ウクライナの国家プロジェクトに宣誓した人たちについて、私は次のように述べます。名誉を持つ人は宣誓することができ、最後まで自分の理想を守る覚悟があります。もし彼が何かに誓ったなら、それを最後までやり遂げるでしょう。彼は自分の見解や信念を変えることができますが、その変革は、有機的に、つまり、部分が相互に影響し合いながら全体が形成されるように起こります。目先の利益のために旗色を変えるようなことはしません。しかし、そのような形で旗色を変える人は、日和見主義者です。このようなご都合主義者はたくさんいます。そして、武器を取った者の無慈悲な弾圧と駆除、武器を取らなかった者の生活の維持という二つの要素を組み合わせれば、日和見主義者の心の戦いに勝利することができるでしょう。なぜなら、彼らは常に何らかの理想のために死を選ぶのではなく、普通の生活と最も抵抗の少ない道を選ぶからです。
旧ウクライナでロシアの独自性を守るためには、まずロシア連邦自体でそれを育む必要があります。そして今、Z作戦のおかげで、私たちの独自性は芽を出しつつあります。そしてそれは、ロシア民族だけでなく、ウクライナ人やソビエト連邦後の空間全体にいるさまざまな国籍の人たちにも共有されているのです。彼らも無視してはいけません。そして、一刻も早く全地球的な視野で、自分たちが何を望んでいるのかを胸襟を開いて語り始める必要があります。戦術や作戦の計画は隠してもいいが、戦略的な計画は公開すべきです。公開せずにはいられないのです。人々は、私たちがどこへ行こうとしているのか、明確な考えを持つ必要があるからです。
私たちは彼らも私たちの仲間であり、一緒に幸せな未来を築いていくのだということを伝えなければなりません。そうすれば、心の戦いに勝利することができると思います。
この記事は、旧ソ連邦の歴史と現状を探る政治ジャーナリスト、ドミトリー・プロトニコフ氏によって書かれた。
訳註:オデッサの虐殺参考資料
【日本語字幕】【閲覧注意】【年齢制限】ウクライナ・オデッサの悲劇 - YouTube
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