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「寛容さを失った祖国にはもう戻らない」オデッサ出身のドネツク戦闘員は語る。



<記事原文 寺島先生推薦>
'We will never go back to Ukraine': DPR fighter jailed for his views by Kiev talks to RT — RT Russia & Former Soviet Union
「私たちはウクライナに戻ることは決してない」。 ”親ロシア的見解”を理由でキエフ政府に投獄されたDPR(ドネツク人民共和国)戦闘員がRTに語る。

出典:RT 

2022年3月7日

<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>

2022年6月13日



隊列を組んで立つ動員されたドネツク人民共和国の市民たち。ドネツク人民共和国、ノボアゾフスクの町で。© Sputnik/Ilya Pitalev

オデッサ出身の親ロシアDPR(ドネツク人民共和国)戦闘員へのインタビュー

 ウクライナで現在行われている軍事作戦を、ウクライナの地元の人たちはどう思っているのだろうか、と問う人がいるかもしれない。というのも、8年前、南部と東部は親ロシア派というのが一般的な見方だったが、その後、キエフ政権はその他の地域でも、モスクワとの関係強化を望む活動家たちを残酷に弾圧し始め、ロシアを標的とした積極的な戦争プロパガンダ活動を開始したからだ。

 RTは、証拠もないのに「親ロシア的破壊活動」で起訴され、4年間を刑務所で過ごしたオデッサの活動家、ウラジスラフ・ドルゴシェイ氏にこのことについて話を聞いた。彼は2019年、囚人交換の一環として釈放された。このインタビューの後、彼はボランティアとして前線に行き、ドネツク人民共和国の人民民兵に入隊している。

 ―親ロシア的な政治的見解を持つようになったのは、どのような経緯があったのでしょうか。

 私は自分の政治的見解を親ロシア的とは思っていません。ある問題に対して、ロシアという国家の立場を反映している場合に、親ロシア的な意見を持っているならそうですが。私は自分を民族的、精神的、国家的にロシア人だと思っています。確かに、私はロシアではなく別の国で生まれましたが、それは私個人の事情に過ぎません。

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 私の考え方は、周囲の環境によって形成されたものです。オデッサは今でもウクライナで最もロシア的な都市です。ロシア語が絶対的に優位で、ウクライナの民族主義者ですら、オデッサにウクライナ人が来ると彼らはロシア語を話し始める、と文句を言うほどなのです。住民はオデッサの独自性(identity)をとても大切にしています。その独自性がオデッサへの同化を促すのです。

 私の生い立ちも影響しています。父は親ロシア派の政治家でしたが、自分の考えを押し付けることはなく、ただ本を読むことを勧めてくれました。私はウクライナ、ポーランド、ロシアの歴史家の本を読みました。

 ―オデッサのロシア人運動は、ユーロマイダン*の出来事にどう反応したのでしょうか?
*「ユーロマイダン」:2013年12月首都キエフにある「ユーロマイダン(欧州広場)」で起きた反政府デモはヤヌコビッチ大統領の追放をもたらした。西側報道は「尊厳革命」と呼んでいるが、実際は米国が主導した政権転覆(クーデター)だったことが分かっている。

 2014年の状況は、私たちにとって素晴らしいものではありませんでした。ヤヌコビッチ大統領はロシア人運動をあまり好まず、民族主義者にも正教会活動家にもそのような態度をとっていたのです。にもかかわらず、私たちのイベントには毎年多くの人が参加してくれました。民族主義者、正教徒、左翼など、さまざまな人たちが、ロシア人としての独自性という1つの考えで結ばれていたのです。

 ユーロマイダンの事件に対する私たちの反応は、当初から否定的でした。まず、この事件の背後にいるのが誰なのかが分かっていました。私たちは、ユーロマイダンがどちら側を向いているかを理解していたし、自分たちが属したい政治的共同体は西側ではないという事実も承知していました。

 私たちは2月に民兵部隊を結成し始めましたが、遅すぎました。マイダンはすでに起きていて、相手側には暗殺部隊も資金もありました。「ロシア人は準備に時間をかけるが、その後、素早く行動する」ということわざがあるように、私たちは素早く行動しました。しかし、来るべきものへの備えはまだできていませんでした。ロシア人は人のいい性格なんですね。5月2日のような悲劇的な出来事*が本当に起こるとは思ってもみませんでした。(ウクライナの民族主義者が、親ロシア派が抗議デモをしている最中に労働組合会館でデモ隊50人を殺害している。ウラジーミル・プーチン大統領は2月21日の演説で犯人を見つけ、罰すると約束した―RT)。
*「オデッサの悲劇」:2014年5月2日、ネオナチのグループがオデッサの労働組合ビルに逃げ込んだオデッサ市民を何十人も焼き殺した事件。

 ウクライナの指導者たちは、これは平和的な抗議行動であり、人々が自分たちの権利を守り、民主主義のために戦っているだけだと言い続けています。しかし、いったん西側がやってくれば、民主主義はありえません。親欧米の革命はこれまですべて、民主主義のためではありませんでした。彼らの目的は、植民地支配の腐敗したシステムを作ることでした。民主主義は、西側が自分たちのためだけに望んでいるものです。そして、西側はウクライナを外部からの影響に弱い不安定な構造に変えてしまいました。

 ―5月2日の悲劇の後、何が変わったのでしょうか?

 かつては、キエフ政権によって許可された合法的な政治活動がありました。それらは、共産主義や宗教的な考えを持つ老人たちによって行われていました。しかし、ウクライナの過激派は、そんなおじいちゃん、おばあちゃんまで容赦なく攻撃するのです。健康で頑強な多くの男たちがドンバスの最前線に向かいました。もちろん、全員がそこに行けたわけではありません。オデッサの刑務所には一度に100~150人の受刑者が収容できるのですが、ドンバスに向かおうとして逮捕された人たちはそこに入れられました。

 また、オデッサとオデッサ地方で活動している地下組織もありました。私に対する起訴状には―その容疑は一度も立証されていないことを強調しておきたいのですが―私の指揮下にあった破壊工作部隊とされるものが、ウクライナ南東部のいくつかの地域にわたってテロ攻撃と破壊工作を行ったと書かれていました。地下活動の約18カ月間は本当に長い時間だということをわかってほしいです。経験もなく、拠点もなく、資源もない活動ですからね。

 ―なぜ、オデッサのような悲劇が南東部の他の都市で起きないのでしょうか?

 オデッサはウクライナの親ロシア感情の拠点であったことを理解する必要があります。昔から自己主張が強く、今でも私たちはウクライナ政府を快く思っていません。現オデッサ市長のゲンナジー・トルハノフ氏はロシアのパスポートを持ち、実は親ロシア的な考えを持っているという噂があります。確かに、5月2日のことが起こる少し前には、トゥルハノフはクリコヴォ・ポール広場で親露的な演説をしています。でもやはり、この噂は本当だとは思いません。彼は、ユーロマイダンの勝利と悲劇の間のこの時期、我々の側にいたのですが、その後は向こう側に寝返ってしまったからです。政治家にはよくあることですがね。

 しかも、ウクライナの他の都市でも、親ロシア派の運動が武力で潰されたことはあまり知られていません。例えば、ジトーミル。もちろん、5月2日のようなことは起きていませんが、ジトーミルはオデッサではなく、もっと西にあります。ハリコフではひどかったし、ニコラエフでは仮設キャンプが燃やされました。しかし、それはカメラに映らなかったし、メディアも取り上げませんでした。本当の戦い、市街戦があって、犠牲者も出たのに、です。

 何が起こっていたのかをよりよく理解してもらうために、このことも言っておきます。後にアゾフ大隊(ロシア連邦ではその活動は禁止されている)の一員となったあるユーロマイダン支持者は、いま行われている戦争でさえ2014年のハリコフより怖くなかったと主張しています。どの方向から攻撃されるかわからない、常に奇襲を警戒していなくてはならなかったからです。それはオデッサでも同じでした。街中で車や家に火がつけられ、文字通りの戦争が起きていました。車や家が燃やされ、人が殺され、行方不明になる人もいました。それは内戦だったのです。


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 ―では、なぜ「ロシアの春」の思想は、2014年にウクライナ南東部の大部分では勝利することができなかったのでしょうか。
*「ロシアの春」:2014年2月にキエフで起こった米国主導のクーデター「ユーロマイダン」の余波を受けて、ウクライナ東部と南部に広がった親ロシア派の抗議行動のこと。ウクライナからの分離独立を主張し、ウクライナ政府との交戦状態が生まれた。停戦のために2014年9月に「ミンスク議定書」、2015年2月に「ミンスク合意2」が結ばれるが、ウクライナ側は約束を守らなかった。2022年2月、ロシアのプーチン大統領は「(履行されないのであればミンスク合意は)もはや存在していない」として合意の破棄を明言し、同月24日に、ウクライナの非軍事化を目的とした特別軍事活動を承認してロシア軍によるウクライナへの全面侵攻が開始された。

 2014年に失敗したのではありません。「ロシアの春」は2015年、「ミンスク合意2」の後に終わったのです。それまでは、軍事的な敵対行為も前線もないにもかかわらず、何百人、何千人もの人々が政治的に活動し、オデッサなどの地下運動に参加していたのです。後に捕虜と交換されたウクライナの政治犯の数の多さを見れば一目瞭然です。

 なぜ最前線がオデッサやニコライエフではなく、ドネツクになったのでしょうか。簡単なことです。場所の問題なのです。ドネツクには幸いなことに、ロシアから水やエネルギー、人道的援助が供給されます。志願兵も問題なく集まりました。オデッサの場合はそうではありませんでした。たしかに親ロシア派のトランスニストリアには近いのですが、オデッサ地方への支援物資は足らなかったのです。地元の民兵では勝ち目がなかったでしょう。

 それでも、本格的な反乱は起こせたはずです。ドネツクやルガンスクと同じように、地域当局の建物を襲撃し、占拠したのですから。しかし、我々の「賢明な」政治家たち(親露派ではあるがロシア人ではない)は、SBU(ウクライナ保安庁)本部への襲撃を控え、挑発行為を避けて去るようにと言ったのです。個人的に彼らがどれほど親ロシア的であるかについてはコメントしません。

 では、オデッサがドネツクと同じように戦ったと想像してみましょう。オデッサ地方は断絶し、水もエネルギーも供給されないまま放置されていたことでしょう。このような問題を解決することは、単純に不可能でしょう。だから反乱は起きなかった。だから、オデッサの人たちは、「クリミアの春」* が始まるとクリミアに行き、ドンバスに行った。武力抵抗があるところならどこへでも行ったのです。戦いたかったのです。誰もが地下でこっそり活動するのに向いているわけではありません。
*「クリミアの春」:クリミアは2014年、住民投票の結果によりウクライナから独立し、その後ロシアに対して併合を求めた。ロシアはこれを承認して併合が行われた。

 ―ウクライナ南東部のロシア語を話す住民の多く(主に、シロビキ―法執行官や治安維持官)はユーロマイダンを支持していました。彼らが脅威を感じなかったということはあるのでしょうか?

 ウクライナのシロビキは公僕です。個人的な政治的意見は全くありません。彼らは、自分の家の台所で友人とウォッカを飲みながら、ロシアへの愛情を語ります。たまに、このようなウクライナ人シロビキが、自宅での発言を理由に逮捕され、投獄され、除隊させられるケースも見受けられます。しかし、彼らのほとんどは、政治に興味がなかっただけです。誰が権力を握っているかなんて、どうでもいいと思っていたのです。そして、ほとんどの人は何も変わらない、今までと同じように国から処遇されるのだと思っていました。そして、彼らは正しかったのです。ちょうど1年後、ウクライナのシロビキは新たなマイダンのデモを弾圧していたのですから。

 ―ドンバス共和国は、2014年に下した選択のために最後まで戦う決意を本当にしているのでしょうか。


 ドンバスの人々は、絶対にそうする決意を持っていると思います。8年間、私たちはいつ戦争が起こるかわからないと思いながら生きてきました。もしかしたら、平和やミンスク合意の履行を期待している人もいるかもしれません。しかし、大多数の人は、ウクライナ問題を一挙に解決する戦争を期待してきたのです。ドネツクの人たちが「戦争になる」と言うとき、たいてい笑顔で言います。彼らは恐れていないし、パニックにもなっていません。戦争はもう8年も続いているのですから、少しくらい(あるいはそれ以上に)激化しても構わないと思っています。ロシアとの統一が彼らの究極の歴史的使命であり、それをやり遂げるという確固たる信念を持っている人たちです。

 ―ウクライナ南東部やオデッサで、ロシア軍や親ロシア派の民兵をどう出迎えるのですか?

 ロシア内戦*のころの歴史的な逸話をお話ししましょう。三国同盟の連合軍がオデッサから撤退した時、地元住民は白軍と赤軍の双方を花で出迎えたといいます。オデッサの人たちは、ロシア民族の一員であり、ロシアのルーツを持っているのです。私は、地元住民がどんなロシア軍をも花で迎えることに絶対の自信を持っています。さらに、ドンバスの人々は、SBU(ウクライナ保安庁)を妨害し、敵の後方に攻撃を仕掛けることによって、支援の声を上げると確信しています。それが一番喜ばれることでしょう。
*ロシアは1904年革命(第一次)のあと一時期、内戦状態になり、革命軍(赤軍)と反革命軍(白軍)が戦った。三国同盟the Triple Entente(1907-1914、英国・フランス第3共和国・ロシア帝国)連合軍は白軍を支援した。

 ―独立したウクライナで、親ロシア派の政治運動は可能なのですか?

 ありえません。理論的指導者や2014年にロシアの蜂起を先導した人たちは、みんな死んでいるか、ドネツクやロシアにいます。ウクライナには親ロシアの政治勢力も残っていません。ただ、2014年以前は、クリミアのロシア・ブロック党やオデッサのロディナ党がありました。もちろん、地方の分権的な政治団体も残っています。しかし、ウクライナ当局は大規模な政治運動は絶対に許しません。

 ―親ロシア派の活動家に対する大規模な弾圧や、ウクライナ南東部でのウクライナ化工作は、過去8年間にわたり行われてきました。そのようなウクライナの地域に残っているロシアの民族的独自性について、私たちは話すことができるでしょうか?


 現在のウクライナやロシアの住民、少なくともその親たちの圧倒的多数は、ソビエト連邦で生まれた人たちです。そして、ウクライナではロシアの国家的独自性は決して発揮されなかったことはご存知の通りです。さらに、ソ連はプロパガンダの効果や市民への政治的見解の押し付けという点で、現代のウクライナに勝ることはないでしょう。しかし、ロシアの国家的独自性は、このような状況にもかかわらず、存続してきたのです。


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 ロシア人は常にロシア人であり続けるでしょう。もちろん、裏切り者はいるでしょうが。いつもそうです。しかし、大多数の人々、善良な普通の人々は、ウクライナのプロパガンダがどれほど注がれようとも、ロシア人であり続けるでしょう。残念ながら、現在のウクライナでは、ロシア人であることができるのは、国家に認められるときだけなのです。

 ―ウクライナが「ミンスク合意」を履行する可能性はあったのでしょうか?

 ドネツクとルガンスク、両共和国の歴史には、2つの重大な過ちがありました。1つ目は2015年、ウクライナがミンスク合意を守るつもりがないことをはっきりさせたときです。その時、私たちは攻撃すべきだったのです。ミンスク合意は事実上、ウクライナの降伏を意味するものとして機能しました。その機会を逃したことは残念でなりません。第二の過ちは、ウクライナがドンバスとの和平協定に合意すると信じたことです。欧米はウクライナを戦争に向かわせることを決して止めないでしょう。

 ドンバスからすれば、ウクライナに引き取られることを望む者はいないと断言できます。そんなことのためにドンバスの人たちは8年間、自分たちの選択を守ろうと血と汗を流してきたわけではありません。8年前なら納得する人もいたかもしれませんが、今は違います。かつては、お互いの考え方は違っていましたが、あの国(ウクライナ)との絆があったのです。しかし、今はその絆は切れてしまっているのです。


この記事は、旧ソ連邦の歴史と現状を探る政治ジャーナリスト、ドミトリー・プロトニコフ氏による。
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