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米国が経済封鎖でキューバを苦しめているのは、キューバには、揺るがない、勝利に向かう反帝国主義があるからだ。  

米国が経済封鎖でキューバを苦しめているのは、キューバには、揺るがない、勝利に向かう反帝国主義があるからだ。

<記事原文 寺島先生推薦>US suffocates Cuba for unwavering, victorious anti-imperialism at great cost

The Gray Zone 2021年8月2日

アーロン・マテ(AARON MATÉ)

<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>2021年10月20日




 キューバの反帝国主義政策は、南アフリカのアパルトヘイトを阻止し、世界中の解放運動を維持する手助けになってきた。歴史家のピエロ・グレジェセス(Piero Gleijeses)氏は、米国が今日に至るまでなぜこの島国を攻撃し続けてきた理由について語ってくれている。

 キューバの反帝国主義政策は、南アフリカのアパルトヘイトを阻止し、世界中の解放運動を維持する支援となってきた。その闘いの標的は、米国政府による極悪非道な政策だった。米国政府は、この島国に大きな損害を与える経済封鎖措置を、60年以上にもわたって課し続けてきた。

 歴史家であり、作家でもあるピエロ・グレジェセス氏が、キューバの外交政策の歴史と、米国が、世界覇権を手にするために、どのような邪悪な制裁をこの小さな島国に課してきたのかについて解説してくれた。

 「アフリカでキューバ政府が見せたような理想的な外交政策は、歴史上ほとんど先例がないものです」とグレジェセス氏は語っている。

今日のゲスト:ピエロ・グレジェセスさん。ジョンズ・ホプキンス大学。『Conflicting Missions: Havana, Washington, and Africa, 1959-1976』と『Visions of Freedom: Havana, Washington, Pretoria, and the Struggle for Southern Africa, 1976-1991』の著者。





映像からの文字起こし

AARON MATÉ(以下AM):当番組「Pushback」へようこそ。司会のアーソン・マテです。今日のゲストはピエロ・グレジェセスさんです。ジョンズ・ホプキンス大学の教授をされていて、『Conflicting Missions: Havana, Washington, and Africa, 1959-1976』と『Visions of Freedom: Havana, Washington, Pretoria, and the Struggle for Southern Africa, 1976-1991』いう著書をお書きになっておられます。グレジェセス教授、ようこそお越しくださいました。

PG(以下PG):お招きいただきありがとうございます。

AM:グレジェセス教授を当番組にお招きしたのは、キューバの外交政策について教授がもっとも権威のある研究をなされているからです。そして今見落とされていることは、米国によるキューバの経済封鎖措置の問題だと思うからです。

 キューバは今非常に厳しい状況に直面しています。COVID禍もそうですし、食べ物も含めた生活必需品が不足している問題もあります。こんな状況なのに、米国のジョー・バイデン大統領は、経済封鎖を緩和するという約束を反故にしたままで、前職のトランプ大統領の政策を維持して、経済封鎖を続け、殺人的な制裁を課し続けています。このような状況や、米国が何の目的でこのような制裁を課しているかについて話し合う際に抑えておくべき要因がいくつかあります。ひとつは、右寄りのキューバからの大きな移民団体がフロリダ州に存在しているという事実です。さらには長年米国がキューバの社会主義を打倒したいという欲望を持っているということです。そうしないと米国が主導する資本主義社会とは別の形の社会体制を世界に示すことになってしまうからです。しかし今日まず私が聞きたいのは、キューバの外交政策についてなのです。このことは、米国がキューバに対して持っている敵愾心について話をするときに見落とされている論点だと思うからです。ですので、キューバの現状の背景についての話をする前に教授にお聞きしたいのは、キューバが今どういう状況に置かれているかについてや、バイデンの対応はどうなのかについてなどです。バイデンは、今キューバをより苦しめようとしているだけのように見えますが。

 PG:はい。キューバは厳しい経済状況に置かれ、政治的な危機に直面しています。私は2015年からずっとキューバに行っていませんので、今のキューバの詳しい状況は分かりません。6~7年前の状況なら分かるのですが。経済状況は非常に厳しいです。新政権はフィデル・カストロやラウル・カストロが持っていたようなカリスマ性や名声はありませんので、難しい状況です。さらにキューバには政治的な危機や、経済危機が存在しています。

 米国による制裁にはまったく正当性がありません。米国は冷戦時代からキューバの外交政策を理由に制裁を課してきました。米国とキューバ間の衝突が原因でした。しかしその衝突のほとんどは、米国側に非がありました。そしてアフリカが、米国とキューバ間の衝突をわかりやすく示している例でした。つまり、今キューバが抱えている問題には二つの別個のものがあるのです。一つはキューバにおける非常に厳しい政治や経済の状況であり、もうひとつは、フィデル・カストロ統治下のキューバが掲げていた外交政策により敗北させられた国が、キューバに課している邪悪な制裁なのです。米国人というのは非常に邪悪な性質をもっているのです。アングロ・サクソン民族の遺伝子にはフェア・プレーの精神は乗っていないのです。

AM:分かりました。ワシントンにいるアングロ・サクソン民族がなぜ邪悪なのか教えてもらっていいですか(笑)?さて、どこから始めましょうか?キューバの外交政策の遺産というのは、何十年も前までさかのぼりますからね。

PG:キューバ革命が米国の気分を害し始めたのは、1950年代後半から1960年代前半にかけてのことでした。米国人の習性なのですが、米国と同じ半球にある国で、米国に挑戦しようとしてきた政権が出現すれば、軍隊を使って転覆させようとするのです。「米国の裏庭」である中央アメリカや、カリブ海諸国については特にそうなのです。これらの地域を支配することに慣れてしまっていたからです。その地域に、米国に対して反抗したのに、生きながらえることができた政権があるのです。米国は亡命キューバ人を使ってキューバ政権を転覆させようとした「ピッグス湾事件」を起こしましたが、キューバにより粉砕されました。このこともケネディ政権などの米国政権にとっては屈辱でした。

 さらにキューバと米国は、ラテンアメリカやアフリカにおいて衝突しました。しかし私から言わせてもらえば、キューバ革命が生きながらえることができたのは米国にとっては、屈辱であり、侮辱でした。特に1960年代はそうでした。その遺産がずっと引き継がれていたのです。そして1970年代の前半には、いわゆる「キューバを許そう」という気風が米国で起こり、キューバの政権の存在を受け入れようという論調が高まりました。キューバとは「暫定的に穏やかな関係(modus vivendi)を続けよう」という方向に状況が動き始めたのです。それからどうなったのでしょうか?1975年にキューバの軍隊がアンゴラに入ったのです。キューバ軍は米国と、アパルトヘイト政策がとられていた南アフリカが起こした秘密作戦を打ち破ったのです。これは米国にとって屈辱でした。しかし1975年のアンゴラの状況は、本当に悪の枢軸により支配されている状況でした。具体的には、南アフリカと米国政府です。この二国がキューバ軍により敗北させられたのです。かつては米国の事実上の植民地であった小国に敗北するという屈辱がどれほどのものかは、想像がつくでしょう。

 そしてカーター政権になりました。カーターはキューバとの暫定的に穏やかな関係(modus vivendi)を求め、キューバと国交関係を結ぼうとしていました。しかしカーターは、キューバにアンゴラから軍を引くことを要求したのです。1970年代には、米国は西欧に何十万人もの兵を常駐させていました。それは西欧を「ソ連からの恐怖」という存在しない恐怖から守るためだとされていました。1970年代には、ソ連は西欧に対して何の脅威でもありませんでした。それなのに、アンゴラに軍を駐留させ、アンゴラ政府を、南アメリカからの脅威(こちらの方は実在していた脅威でした)から守ろうとしていたキューバのことは許せなかったのです。CIAでさえ、南アフリカからの脅威があるため、アンゴラの独立を維持するためにキューバ軍が不可欠であることを認めていました。南アフリカはアンゴラの隣接国のナミビアを指揮下に置いていました。

 さらにもう一つの理由がありました。1974年の初旬に、エチオピア革命が起こったのです。その後の経緯ははしょりますが、1977年の夏に、ソマリアがエチオピアに侵入しました。その目的はソマリ人が住んでいたエチオピアの領土であったオガデンを併合するためでした。そして1977年の11月にキューバは軍を送り、ソマリアによる侵入を止め、エチオピアがソマリ人たちをエチオピア領土外に追い出す手助けをしようとしました。

AM:では、なぜキューバがアフリカ、特にアンゴラに軍を送ることにしたのかについて話をしましょう。あなたのお話では、これは、アパルトヘイト政策下の南アフリカに対して外国が介入した最初のケースだとのことでした。この歴史についてよく知らない方々もおられると思いますので、カリブ海に浮かぶ人口1100万人の小さな島国であるキューバがアフリカに軍を送ることにした経緯、三つの勢力がせめぎ合うという複雑なアンゴラでの内戦に、軍を送ることにした経緯についてお話しいただけませんか?
PG:1960年代初旬から話を始めないといけませんね。アンゴラの運動の発展についてはすでにその1960年代初旬から始まっていましたので。その前に全般的なことを2点だけ言わせてください。一つは第三世界、すなわちラテンアメリカとアフリカについてのキューバの外交政策のことです。それに関しては、CIAやINR(米国情報調査局)からたくさんの報告が挙げられています。それによると、1960年代におけるキューバの第三世界に対する外交政策には二つの重要な点がある、とのことです。1960年代の話ですよ。一つは「自衛のため」でした。当時米国はキューバと「Modus vivendi」を交わすことを拒絶していました。

AM:「Modus vivendi(ラテン語)」とは、デタント(détente)と同じ意味で、「関係の正常化」という意味ですね。

PG:そうです。関係の正常化です。民兵組織を使った工作や、キューバ経済を締め付ける行為などを終わらせる、ということです。米国はそれを拒絶しました。CIAやINRの報告書をもとに話をすると、キューバには「自衛」という目的がありました。つまりこういうことです。「今我々はラテンアメリカやアフリカでの革命運動を支援しようとしています。その目的は米国に対抗できる勢力を増やすためです。たとえばの話、米国がラテンアメリカで“第2のキューバ”や、“第3のキューバ”と対峙することになれば、米国はキューバだけを矛先にすることはできなくなります。同じことはアフリカでも当てはまります」とキューバは考えていたのです。

 そしてもう一つキューバには重要な動機があります。再度、CIAやINRの報告書に基づいた話をします。(私は米国の一般国民たちのために本を書いています。ですのでCIAやINRの報告をできるだけ多く引用するようにします)。CIAやINRは、キューバ革命の理想や、フィデル・カストロや彼の仲間たちの信念について報告しています。キューバの人々が第三世界の人々を支援しなければいけないのは、それが自分たちを解放することになるからです。それが、キューバ革命が持つ道徳的義務なのです。CIAやINRの立場から見れば、キューバの外交政策にはこの二つの要素が挙げられるのです。

 CIAやINRの1960年代の報告書を読んでも、「キューバが第三世界に対して、ソ連の代理として活動を行っていた」ことを記載した内容を見つけることはないでしょう。ソ連がキューバの第三世界での活動を促したという記載はありません。フィデル・カストロの慢心についての記載は散見されますが、それがキューバの第三世界での活動の大きな理由ではありません。「自衛」と「理想主義」。この二つが重要な動機だったのです。

AM:わかりました。キューバはソ連に依存していましたが、実際のところ外交政策ではこの二国の間に衝突があったのでしょうか?特にラテンアメリカの外交政策については?

PG:はい、実は両国間には、大変興味深い行き違いがありました。

 まず、キューバはあけすけにソ連を批判したことがあります。フィデル・カストロが演説の中で、かなり強い口調でソ連を批判しました。具体的には、1966年から1967年にかけてのソ連のラテンアメリカの外交政策についてや、ベトナムの支援が足りない点や、ソ連国内の内政について批判を浴びせたのです。あけすけに、です。キューバがソ連に対して行ったような非難や、衝突を、米国に対して敢えて行う西側の国などあったでしょうか?ド・ゴール政権下のフランスでさえ、そんな馬鹿げた行為はしませんでした。1960年代の政策面を語る際、「キューバはソ連の従属国だった」という話をする人々もいますが、それはアフリカにおける外交政策については、両国が同じ方向性をもっていたからです。衝突はありませんでした。しかし1963年を境に、キューバとソ連のアフリカ政策は衝突しました。それは、キューバはラテンアメリカの武力闘争を支持し続けようとしていたのですが、ソ連はそのようなキューバの支援に反対していたからです。ソ連の狙いは、ラテンアメリカに外交攻勢をかけることで、ラテンアメリカ諸国と国交正常化を結ぼうとしていたからです。

AM: よくわかりました。

PG: 両国には意見の対立があったのです。

AM: 分かりました。次にアンゴラの話に移りましょう。1975年にキューバがアンゴラに軍を送ると決めた理由は何であり、その後の経緯はどうなったのでしょうか?

PG: キューバは1960年代に初めてアフリカに足を踏み入れ、すでにアフリカで存在感を示していました。1960年代の話をしないで、1975年に何があったかの話はできません。急に1975年の事件が起きたわけではないのです。

 キューバが初めてアフリカに介入したのは1961年のことでした。アルジェリアの独立戦争の最中、キューバの一隻の船がモロッコのカサブランカに到着しました。この船はアルジェリアの自由戦士たちの後衛部隊としての役割を果たしていました。具体的には、アルジェリアに武器を送り、けがを負ったアルジェリア人や、アルジェリアの孤児や、戦争孤児たちを連れてカサブランカを後にしたのです。これらの孤児たちはキューバに連れて行かれてそこで教育を受けることになっていました。この事象から、キューバとアフリカの関係が始まったのです。

 覚えておいて欲しいことは、キューバがアフリカに行った支援には二つの側面があったということです。一つは軍事的な支援であり、もう一つは人道的な支援でした。このような支援が1960年代に続けられたのです。キューバはコンゴ・レオポルドビル(別名コンゴ共和国)にも介入しました。この国は元ベルギーの植民地でした。さらに1966年のはじめに、キューバは1966年にポルトガルからの独立を求めていたギニア・ビサウでの反乱行動を支援しました。そしてすでに1965年から1967年にかけて、キューバはMPLA(アンゴラ解放人民運動)とも協力関係を結んでいました。それはキューバがコンゴのブラザヴィルに軍を駐留させていて、ゲリラ活動の訓練などを行っていたからでした。

 1970年代前半には、ギニアビサウと、アンゴラを例外として、キューバはアフリカには介入していませんでした。1970年代前半のキューバについて、私は「ソ連の従属国だ」という評価を下していたことを記憶しています。そんな中、キューバ軍が数千人規模でアンゴラに突然現れたのです。

 何がキューバの介入の原因だったのでしょうか?アンゴラは1975年の初旬にキューバに頼ろうとしていました。MPLAです。MPLAはアンゴラの内戦で助けを必要としていたのです。キューバは支援を行っていましたが、非常に限られたものでした。

 キューバが支援に本腰を入れた理由は、南アフリカが介入してきたからでした。南アフリカがアンゴラを支配しようとする動きが見えたのです。それは南アフリカが、アフリカの南部諸国にアパルトヘイト政策を押しつけるということでした。私の個人的な意見を言わせてもらえば、南アフリカが介入してこなければ、キューバも介入はしなかったでしょう。フィデル・カストロは、ある会談でこの支援活動についてこう語っていました。「これはアパルトヘイトとの闘争」であり、「la causa más bonita romanidad(スペイン語)、人類における最も美しい理由である」と。私の推察ですが、フィデル・カストロや、キューバ人は、「米国と南アフリカという悪の枢軸国が勝利すれば、アフリカの南部地域でアパルトヘイト政策が強力になる」と考えていたように思います。

 とても興味深い話ではありませんか!キューバは、現実的な政策を放棄したのです。1975年といえば、キッシンジャーがキューバとの外交関係構築を模索しようとしていた頃です。秘密の話し合いが進行中で、その目的は両国が外交関係を結ぶことでした。米国の許可のもと、米州機構はキューバに対する経済制裁を引き上げていました。キューバもそのような状況を受け入れようとしていました。そして史上初めて主要西側諸国からの融資取引を始めようとしていました。フランスや、英国、さらにはドイツ、キューバの発展に向けた融資を約束してくれていました。カナダもです。

 明らかに分かっていたことは、アンゴラに介入すれば、このような状況がすべて危うくなるということでした。しかもキューバはソ連からもアンゴラ介入の同意を得ていませんでした。キューバがソ連にアンゴラに軍を送ることを伝えていなかったのは、伝えれば反対されることがわかっていたからです。当時のソ連の共産党中央委員会書記長であったブレジネフは、米国と緊張緩和する考えに取り憑かれていました。米国の中央情報局局長は、米国国家安全保障会議の会議にフォード大統領を呼びました。1975年8月のことだったと思います。局長がフォード大統領に、“ブレジネフは1976年2月のソ連共産党大会が、ブレジネフにとって最後の大会になることがわかっている”ということを伝えました。ブレジネフの健康状態が良くなく、その大会でブレジネフはSALT-II treaty(戦略兵器制限交渉)を米国と始めるという結論を提案するつもりだったのです。そして明確に分かっていたことは、キューバがアンゴラに軍を送れば、米ソ間の緊張緩和に悪影響を及ぼす、という事実でした。だからキューバはソ連から支援の約束をとりつけないままでアンゴラ介入に踏み切ったのです。さらにキューバは当時の米国政府が軍事を使って対抗することを恐れていませんでした。というのは、フォード大統領は選挙で選ばれた大統領ではなかったからです。フォードの影響力はとても限定的なものでした。ですので、フォードがキューバに攻め込むというような大胆な決定を行うことは考えられなかったのです。

 もちろんキューバは南アフリカからの脅威が深刻なものになる可能性についても考えていました。南アフリカがアンゴラに対する介入を強めたのなら、(キューバがアンゴラに軍を送ることを決定した1975年の11月の時点で、アンゴラには南アフリカ軍が3千人駐留していました)、南アフリカはアンゴラの隣接国なので、キューバには対抗するすべはありませんでした。それでもキューバは非常に危険な賭けに出たのです。そして問題なのは、「なぜキューバがそんなことをしたか」です。

AM:そうです。その点を先ほどお聞きしようとしていたのです。

PG:その答えはキッシンジャーが出してくれています。キッシンジャーの『回顧録』の第三巻に、アンゴラについて書かれた章があります。キッシンジャーというのは、基本的にはたいそうな嘘つきですが、この件に関しては、嘘はついていません。そこにはこうあります。(ここからは『回顧録』からの引用です)。「キューバが介入してきたとき、私はキューバがソ連の代理として動いていると革新していました。なぜならこんな小国が、自国から遠く離れたところでこんな危険を冒すなどとは考えられなかったからです。しかし明るみに出たすべての証拠からは、(今私が語っているのは、キッシンジャーの『回顧録』からの引用ですよ)、キューバは、ソ連に連絡を取ることなく動いていたことしかつかめなかったのです」。(『回顧録』からの引用はここまで)。

 それからキッシンジャーはこう問いかけています。「なぜキューバはこんなことをしたのでしょうか?」と。さらにキッシンジャーはこう記しています。「フィデル・カストロは、当時権力を持っていた革命運動の指導者として最も偉大な指導者であったことは間違いありません。彼はもっとも誠実な革命指導者だったのです」。本当にキューバのこの動きというのは、キューバの理想主義を体現する動きだったのです。1960年代の第三世界に対するキューバの外交政策を見れば、政治における「理想主義」と「現実主義」が全く同じ方向で両立していたことが分かるでしょう。米国はキューバと関係正常化に向けて交渉することを拒んでいました。しかし1975年にキッシンジャーは交渉を持とうとしていたのです。

AM:ひとつお伺いしてもよろしいでしょうか?キューバがこのような理想主義に基づいて、アンゴラのアパルトヘイト政策に干渉しようとしなかったならば、米国とキューバの間の関係は正常化できていたとお考えですか?キューバは、米国との関係正常化という機会をふいにした、ということなのでしょうか?

PG:まさにその通りです。両国間の交渉は進行中でした。秘密裡におこなわれていたのですが。当時の文書が明らかになっています。キューバがアンゴラに干渉していなければ、キューバと米国の間である種の関係正常化があったと考えていいでしょう。

AM:ということは、アンゴラ干渉というのは大きな自己犠牲を払う行為だった、ということですね。私がこのことについて語りたいのは、この件が素晴らしい話だからです。こんな小国が、こんな大きな自己犠牲を払ったなんて。いったい何のためだったのでしょう?第三世界を解放するためだったのでしょうか?それともアパルトヘイト政策を打ち破るためだったのでしょうか?

PG:ええ、そしてこのキッシンジャーの件だけではありません。カーター政権もキューバと関係を構築したいと考えていました。機密扱いが無効になった文書の中に、カーターがキューバに行き、フィデル・カストロと対談した内容もありました。カストロはこう語っていました。「アンゴラの件について米国と交渉はしません。アンゴラの件はアンゴラと交渉します。交渉相手は、あなた方米国ではありません」。このカストロの言葉には、アンゴラ政府に対する真摯な気持ちや、気遣いが含まれていました。当時アンゴラ政府は、南アフリカからの侵攻を食い止めるためにキューバ軍を本当に必要としていたのです。こういう言い方をすれば気取った言い方のようにとられるかもしれませんが、アフリカに対する当時のキューバ政府の外交政策は、理想主義が体現されていた極めてまれな事例の一つなのです。

AM: 分かりました。それこそが私がこの対談を番組で行いたかった理由なのです。米国がなぜキューバに対する経済封鎖措置を維持しているのかについての話をするとき、たいていその答えは、「米国が、自国がとっている経済システム以外の経済システムを粉砕したいからだ」とか、「社会主義はうまくいかないという事例にしたいのだ」とか、「マイアミにあるキューバからの亡命者の団体の影響力が、米国の選挙政策において重要な位置を占めるからだ」などという答えなのです。しかし私がずっと考えていたのは、今お話いただいたような話が見過ごされているのでは、という点なのです。ここでさらにあなたのお考えをお聞きしたいのは、米国が経済封鎖措置をとり続けた動機のうち、米国の支援するアパルトヘイト政策を打倒しようというキューバの外交政策に対する敵意や反感による動機はどのくらいの割合を占めるものだったのでしょうか?

PG:私の考えでは95%です。

AM: 95%ですか?

PG: はい。

AM: では米国の内部資料には、この件についてどんな記載がされていますか?米国が、キューバが米国の帝国主義や、米国の同盟国である南アフリカを踏みにじったことに対して、どのくらい怒っていたかの記載はありましたか?

PG: 非常に憤慨していたようです。ケネディは、ピッグス湾事件に関して憤慨していましたよね。ジョンソンはキューバに対して特に敵意は持っていませんでした。さらにニクソンも実はキューバに対して特に敵意は持っていませんでした。好意をもっていたわけではありませんが、敵愾心とまではいかないものでした。ケネディが感じていたほどの敵愾心は彼にはなかったのです。キューバに対する敵愾心が再興したのは、フォード大統領時代になってからです。そのときにキューバが米国に対して屈辱を与える行為を行ったからです。

 1982年の初旬だと思うのですが、或る会談がありました。そのときの文書が開示されています。レーガン大統領下のジョージ・シュルツ国務長官と、キューバのカルロス・ラファエル・ロドリゲス副大統領の会談でした。この会談はメキシコで行われました。メキシコ政府が取りはからった会談でした。その際シュルツは非常に慇懃な態度で、ロドリゲスが遠路はるばるメキシコまで赴いてくれたことに感謝の意を表すこともしていました。そしてシュルツ国務大臣、間違いました。アレクサンダー・ヘイグ国務長官でしたね、ヘイグが伝えたレーガン大統領からの伝言は、「私たちはジョン・ケネディとは違います。キューバ政権を転覆させようなどとは考えていません。実際、私たちは東欧の社会主義諸国と共存しています。ですからあなたがたキューバ政府とも共存できるのです。しかしそのためには、ニカラグアのサンディニスタの支援をやめ、アフリカ系から撤退して欲しいのです。アンゴラから軍を引き上げなければいけないのです」

 自国の海岸からわずか90マイルしか離れていない惨めな小国と共存しようという申し出を拒絶された超大国米国の怒りのほどは、想像がつくでしょう。米国はキューバを許すことができたとしたら

AM:  つまり米国はキューバが自立国家になることを許す気があった、ということですね。すみません。話の腰を折ってしまって。私が言おうとしていてたのは、米国の抑圧から逃れることができた、ということです。その条件は・・・

PG:自立することだけではありませんでした。それ以上のことだったのです。米国がして欲しくなかったことをやめろ、ということだったのです。それは、アンゴラに軍を駐留させることや、サンディニスタを支援することでした。

AM:では、キューバは米国からの申し出にどう答えたのでしょうか?キューバはサンディニスタの支援を放棄したのですか?

PG:その答えはカルロス・ラファエル・ロドリゲス副大統領が出した「アンゴラについては交渉できません。アンゴラの件について、あなたがたと交渉する気はありません」という回答と同じでした。キューバは同じことをカーターに伝えたのです。この会談の文書を読めばもっと背筋が寒くなると思います。たしかにヘイグの態度は慇懃でした。しかし同時に非常に警告的な態度も見せていたのです。ヘイグはこう語りました。「現在我が国がキューバに対して禁輸政策を課しています。そのことをあなたがたは、経済封鎖などと呼んでいるようですが。何も分かっておいででないようですね。私たちはもっと強力な措置を取ることもできるのですから」。それでもキューバの回答は変わりませんでした。そして1987年まで、つまりイラン・コントラ事件が完全に明るみになるまで、キューバはいつ米国から襲われるか分からないという悪夢に苦しめられていたのです。

 そして知っておかないといけない事実は、1981年と 1982年は、レーガン政権がキューバへの侵攻を真剣に考えていたという事実です。しかしその侵攻に反対している2つの勢力がありました。それは国防総省とCIAでした。「米国にとって大きな損失になる」というのが両者の答えでした。米国国防情報局は、1980年代に、キューバ軍の戦力についての研究を発表しています。これは公開されているので、誰でも読めます。その研究は、キューバ軍の戦力がどれほど強いかについてや、米国が侵攻した際どれほど反抗できるかについてまとめていました。

 それでもこのような状況はキューバにとっては熟考が求められる状況であったことには変わりありませんでした。さらにキューバが同時に掴んでいた情報がもうひとつありました。それは、1982年当時のソ連共産党中央委員会書記長のユーリ・アンドロポフが、ラウル・カストロに伝えていたことなのです。ラウル・カストロは1982年にソ連に派遣され、ソ連政府と会談していたのです。その内容は、「米国がキューバに侵攻してきても、私たちソ連ができることは何もありません。キューバは遠すぎますから」というものでした。ラウルがソ連に送られたのは、「私たちは心配しています。全ての兆候が見えているのです。米国が侵攻してくるかもしれないのです」ということを伝えに行っていたのです。しかし、アンドロポフの答えは以下のようなものでした。「あなたがたは私たちに何を求めておられるのですか?私たちができることは何もありません。武器をもっとお渡ししたり、ソ連の船をキューバに派遣する回数を増やしたり、キューバとの友好関係をさらに強化する旨の発表をしたりはできます。しかし、米国がキューバに攻めてきたとしても、私たちがあなたがたのために具合的にできることは何もありません」。つまり、1987年までは、キューバは「米国から攻め込まれるかもしれない」という悪夢から逃れることはできなかったのです。1987年になって再びイラン・コントラ事件というスキャンダルが起こり、レーガン政権は弱体化しました。その頃のキューバからは、レーガンは「終わった」と思われていましたので。

AM:つまりキューバは米国に反対するという大きな危険を敢えて冒していたということですね。具体的には、アンゴラの解放を支援したり、ニカラグアの国家主権を米国がサンディニスタに対して仕掛けたテロ戦争から守るという行為のことです。しかし、1987年から1988年にかけて、キューバはアンゴラで再度決定的な闘いに勝利し、南アフリカのアパルトヘイトを終わらせることについて大きな援助を果たしました。そのことについてお話しいただけますか?

PG:もちろんいいですよ。米国も南アフリカも、南アフリカ軍がナミビアに侵攻すると考えていました。当時ナミビアは事実上南アフリカの植民地でした。南アフリカはキューバ軍と本格的な戦争をしようとは考えていませんでした。その理由は、米軍も、国防総省も、南アフリカ軍も、アフリカ南部のアンゴラに駐留していたキューバ軍は、南アフリカ軍が対キューバ軍として集められる軍よりも強力であると分析していたからです。ですのでキューバ軍が、当時南アフリカの事実上の植民地であったナミビアに入るという脅威から、南アフリカは本質的には降伏と呼べる交渉を結ばざるを得なかったのです。

AM:ネルソン・マンデラはこの時期のキューバの貢献についてどう語っていたのでしょうか?

PG:ネルソン・マンデラは時期をずらして2度このことについて語っています。ひとつは、「キューバの人々ほどアフリカのために何かをしてくれた国民はいない 」という話でした。「アフリカはキューバ国民に対して感謝すべきであり、大きな借りを作った」とのことでした。もうひとつの話は、「キューバがアンゴラで勝利したことは、南アフリカ国民がアパルトヘイトに勝利した大きな要因になった」ということでした。キューバの勝利がアパルトヘイト打倒をめざしていた勢力に勇気を与え、アパルトヘイトを維持したがっていた側を、落胆させることになった、という話でした。

 植民地での戦争や、南アフリカのような植民地状態にあった国の戦争においては、心理的な要素がとても重要なのです。1988年から1989年にかけての、心理的要素はどのようなものだったのでしょう?何よりも、1988年には、南アフリカとナミビア国民は、キューバによりアパルトヘイト軍が敗北させられることを目撃してしまったのです。この件が与えた心理的な印象は巨大なものでした。それは南アフリカにおいても、ナミビアにおいても、アパルトヘイトに反対していた勢力にとっても、アパルトヘイトを守ろうとしていた政権にとっても、です。そのことについては、南アフリカや米国の文書を見ればよく分かります。

 2つ目の心理的な要素は1989年に起こった事件でした。1988年のキューバの勝利により、南アフリカはナミビアでの自由選挙の実施をのまざるを得なくなりました。その結果ナミビアでは黒人ゲリラ勢力が選挙で勝利したのです。

AM:ナミビアで、ですね。

PG:そうです。ナミビアで、です。そして1970年代以降、南アフリカの文書も、米国の文書にも同じことが書かれ続けてきました。それは、もし自由選挙が行われれば、ゲリラ運動側が選挙で勝利するだろう、ということは皆が考えていることでした。そしてゲリラ運動側が選挙で勝利すれば、それは南アフリカ国の内部を大きく変えることになることも明らかでした。南アフリカの白人たちにとっては、ナミビアを失うという精神的打撃を与えることになりますし、黒人たちにとっては、ナミビアの開放を勝ち取ったという精神的要素を与えることになるからです。つまり南アフリカにとって大きな2つの打撃を連続で与えるということです。ひとつはアンゴラでの敗北であり、もうひとつはナミビアでの敗北です。ネルソン・マンデラによれば、これらはアパルトヘイトに対する重大な打撃になったということでした。そしてそれを成し遂げた要因はキューバでした。キューバがなければ決してありえないことでした。

AM:分かりました。あと2点質問をさせてもらってよろしいでしょうか。

 1つ目はキューバの医師たちについてことです。米国のメディアでは、キューバの医療従事者たちはひどく中傷されています。しかし米国の外に行けば、全く違うのです。コロナ禍の間、キューバの医療従事者たちがどれだけ中心となってコロナ対策に取り組んできたかを目にしてきました。激しくコロナに襲われたイタリアでは特にそうでしたし、それ以外の世界中の多くの地域でもそうでした。歴史から見て、米国がキューバの医療政策に対して敵対心を持つようになった経緯について話してくださいませんか?さらに、これらのキューバの医療政策が、あなたがこれまで話してくだったような国際社会におけるキューバの外交政策とどう適合しているかについてもお話しいただけませんか?

PG:キューバの医療政策は1960年代から始まっていました。米国はそのことに気がついていなかっただけです。そして1975年の初旬にアンゴラのことがあり、その際キューバの医師団は本当に大きな役割を果たしました。カーター政権はキューバの医師団などの医療政策に関して特別な敵意を持ってはいませんでした。しかしレーガン政権は敵意を持っていました。というのも、これらの医師たちが国際社会からのキューバへの共感を拡げることになったからです。キューバの医師たちは、キューバの外交官の仕事をしたのでした。そして明らかだったことは、医療による支援が、キューバの第三世界に対する人道的な支援において、最も効果的な支援だったのです。

 ですので1980年代、米国は、医療支援を含むキューバの人道的支援を本当に好きではありませんでした。他国に対する政権転覆行為にあたるほどに捉えていたのです。そしてキューバが支援していたのはアフリカだけではなく、ラテンアメリカもでした。ニカラグアです。そして最終的には、フィデル・カストロが行ったもう一つの行為が米国を震撼させました。2001年から2002にかけて、フィデル・カストロは貧しい外国人のための医科大学を設立したのです。外国人たちはその大学に来て、最初の二年間はキューバで医学を学ぶことができたのです。そこからキューバの他の大学に移籍しました。このような政策は、外国の学生たちに希望を与えるものでした。

 今キューバの医師たちがどんな医師なのかは私には分かりません先ほど申した通り、私はここ5年間キューバに行っていないのですから。冷戦時代と、冷戦時代が終わった数年後は、キューバでは大学教授のほうが医師より収入が多かったです。キューバで医師になりたいのであれば・・・。その前に米国の話をします。米国で医師を目指している人の優先順位の1番はお金が得られることです。例外もありますが、本質的にはそういうことなのです。しかしキューバで医療の仕事に就くというのは、全く違う考え方なのです。医師を目指す人というのは、心から患者を救いたいと考えている人々でした。米国とは全く違っていました。これがキューバの医療だったのです。私はキューバの医師たちとしばらく時間を過ごしたことがあります。その理由は、私の親友の家族に医師がいたからという理由と、何度かキューバに行ったときに体調を崩し、医師に見てもらったことがあったからという理由です。キューバの医師たちは米国の医師たちとは違う種類の医師たちでした。今の状況はわかりません。今は極端にものが不足していて、様子は変わりつつあることでしょう。理想主義も変節をしいられているかもしれません。

AM: では最後の質問です。キューバは今非常に厳しい状況に直面しています。経済問題は本当に深刻で、食料のような生活必需品に窮しています。キューバの現状と、これからについてどう見られていらっしゃいますか?最大の危機は何でしょう?キューバ国民を苦しめるために行われている米国による経済封鎖の中、キューバ国民たちを、どういう方向に導けばいいのでしょうか?

PG: 今まで見てきた通り道は厳しいです。医療、さらには教育の分野においては、キューバは輝かしい勝利を収めてきました。世界銀行が出している報告書でさえ、キューバが自国民に対して行った医療政策などを高く評価しています。しかし今は状況が劇的に変わりつつあります。優秀な医師たちはいるのですが、薬が十分ではないのです。設備も整っていません。医師の仕事を辞して、運転手やタクシードライバーに転職する人たちもいます。その方が、ドルを手にできるからです。今キューバ政府は非常に厳しい状況に置かれていると思います。キューバの政治システムを(従来の一党独裁制から)解放する可能性も考え始めていると思います。それがたやすいことではないのです。というのも現政権には、フィデル・カストロや、ラウル・カストロのようなカリスマ性がないからです。それでも新政権に課せられた課題というのは、キューバの政治体制を開放することだと私は思います。

 これは本当に難しいことです。ワシントンの私の机の前に座って何かを言うことはたやすいことです。私には創造できません。一党独裁制を捨てて、政治的に開放したとしても、キューバ革命の偉業や尊厳を維持できるのでしょうか?マイアミにいるキューバからの亡命勢力の手に、キューバが落ちることはないのでしょうか?本当に心配です。しかしそれでも、政治を開くということに取りかからねばならないのです。 

AM:では番組はこの辺で。今日のゲストは、ピエロ・グレジェセスさんでした。ジョンズ・ホプキンス大学の教授で、『Conflicting Missions: Havana, Washington, and Africa, 1959-1976』と『Visions of Freedom: Havana, Washington, Pretoria, and the Struggle for Southern Africa, 1976-1991』の著者でいらっしゃいます。

 



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