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9/11は阻止できた。アル・カイダ内部にスパイを送り込むチャンスはいくらでもあった。

9/11は阻止できた。アル ・カイダ内部にスパイを送り込むチャンスはいくらでもあった。

<記事原文 寺島先生推薦>

9/11: The spies inside Al-Qaeda who could have prevented the attacks

Russia Today 論説面

2021年9月10日

トム・セッカ-(Tom Secker)

<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>

2021年10月15日

By Tom Secker, a British-based investigative journalist, author and podcaster. You can follow his work via his Spy Culture site and his podcast ClandesTime



 9/11事件の20周年を迎える日が近づいている。そんな中、西側諸国の工作員としてアル・カイダ内部に侵入した3名のスパイの驚くべき話を再度詳しく考えてみても損はないだろう。なぜ彼らをもっと利用しなかったのだろうか?

 9/11のテロ攻撃についてこれまで何度も繰り返されてきた話によれば、情報提供者を雇い、アル・カイダ内部で諜報活動を行わせることは極めて困難であるということだった。その理由は、アル・カイダというのは正体を掴みにくくするために極端に細かく区分化された組織だったからだ、ということだった。しかし実は9/11に至るまでに、英・米・仏、どの国の諜報機関も、アル・カイダの内部になんとか食い込むスパイを送り込むことは可能だったのだ。アフガニスタンにあったアル・カイダの訓練所にさえも、それは可能だったのだ。

 オマール・ナシリは1960年代にモロッコで生まれ、ベルギーで育った。1990年代の前半に、ナシリはGIAのもとでの銃の密輸に関わった。GIAとはアルジェリアのイスラム教民兵組織であり、アルジェリア内戦では何万もの人を殺害している。その組織からお金が盗まれたというもめ事に巻き込まれた後、ナシリはフランスの諜報機関に近づき、それ以降GIA内部でのスパイとして雇われた。

 ナシリは武器の密売行為に荷担し続け、1994年にGIAが起こしたエア・フランス機のハイジャックにおいては武器を供給する役目を果たした。そのハイジャックの目的は、飛行機をエッフェル塔に突っ込ませることだった。しかしその筋書きは失敗した。フランスの特殊軍が飛行機を包囲したからだ。その際もナシリは、GIAへの武器の提供を実行した。ナシリは爆発物を積み込んだ自動車でフランスからスペインに移動し、モロッコで工作を行うGIAにその爆発物を届けることさえしている。ナシリの雇い主であったフランス人ジルは、ナシリのその行為を承認しており、その数日後にアルジェリアで大規模な自動車爆撃事故があったときも、不問に付した。

 このような詳細が明るみに出たのは数年後のことである。ナシリは自伝を書き上げ、BBCから特集のインタビュー取材も受けている。





 1995年の夏には、ナシリはパキスタンに飛び、アフガニスタンとパキスタンの国境付近にあるアル・カイダの訓練所に入り込むという新しい任務を行った。ナシリは1年間その訓練所で過ごし、武器の使い方や自家製爆弾の作り方などを学んだ。さらにはイスラム教の教義も学んだ。

 ヨーロッパに戻るや、ナシリは英国の諜報機関で職を得、ロンドンのイスラム教徒居住区や、アル・カイダを支援しているネットワークとして知られている「Al Muhajiroun(移民たち)」という団体に潜入する任務を行った。しかしナシリにはこの任務は退屈であった。というのも、この任務には英国内での攻撃活動が計画されていなかったからだ。そこでナシリは雇い主にアフガニスタンの訓練所に戻して欲しいと頼み続けていた。ナシリは英国の諜報機関にパキスタンにいる関係者の電話番号を教えて、その人物に英国政府から与えられた資金を送ることさえもしたが、諜報機関の幹部たちはナシリを訓練場に引き戻すことは許さなかった。

 アル・カイダが東アフリカの米国大使館を爆撃した後でさえも、MI5やMI6(いずれも英国の諜報機関)のナシリの上司は、ナシリをアフガニスタンに戻すことを拒んでいた。その後ドイツの諜報機関で一定期間仕事をしたが、そこでも同じようないらいらした気分を味わったナシリは、2000年にスパイという仕事を辞めた。ナシリの雇い主が真剣にナシリの言い分に耳を傾け、アフガニスタンに戻ることを了承していたならば、これから記すエーメン・ディーンの話の通り、ナシリが9/11テロ攻撃の警告を前もってできていた可能性は非常に高かっただろう。

 ナシリがテロ攻撃を実際に計画していた人々のスパイとして活動することを上司から許されなかったのと同じ頃、英国の諜報機関であるMI6は新しいスパイを雇い入れた。その男の名は、エーメン・ディーン。彼は1978年にバーレーンで生まれ、サウジアラビアで育った。ナシリと同様、ディーンもソ連・アフガニスタン戦争後に、世界規模で展開されていたジハードに参加していた。ディーンは、西側が支援するボスニアのムジャーヒディーンの一員としてボスニアでの戦争に参加した。その前にはアゼルバイジャンのバクーでイスラム教徒による慈善活動に参加し、フィリピンのモロ・イスラム解放戦線にも加わっていた。のちにディーンは自身の人生に関する本を著し、メディアから多くの取材を受けてきた。




 アル・カイダによる1998年の米国大使館爆撃事件が、彼のものの見方を変えた。その時点までは、ディーンは完全にジハードに入り込み、ウサ-マ・ビン・ラディンに忠誠を誓っていた。しかしケニヤやタンザニアの破壊や苦しみを目にして、ディーンは人が変わった。特に、大使館爆撃の後に米軍がアフガニスタンのファルーク訓練所に対して行った空爆において瀕死の経験をしたことが、彼を変える大きなきっかけとなった。

 訓練所を出てまもなく、ディーンはカタールの為政者たちに拾われ、これまでの経緯をすべて話し、知っていることをすべて打ち明けた。カタールの為政者たちは、ディーンに西側の諜報員になることを勧め、少し話し合った後、ディーンは英国を勤務先に選んだ。その後8年間、ディーンはMI6の秘密諜報員として活動した。

 ディーンは雇い主に、アル・カイダについて知っているすべてのことを語った。具体的には、指導者の詳細、組織構造、銀行口座、移動ルート、資金源についてなどだった。1999年には、MI6はディーンをアフガニスタンに戻し、訓練所に侵入させ、この先起こるであろう攻撃計画についての情報を入手させようとした。

 著書によると、ディーンはその後2年間を費やして、アル・カイダの計画であった「千年紀計画(Millennium Plot)」をやめさせ、シドニー・オリンピックにおいて攻撃を起こさない確約をタリバンと結び、MI6の援助のもとでパキスタンのISI牢獄から脱獄するなどの活動を行った、とのことだった。ディーンの記述によれば、彼はその後イラクのアル・カイダ組織の長となるアブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィーとの面会さえ果たした、とのことだった。

 2001年の夏、訓練所では、何か大きなことがこの先起こりそうだという話でもちきりだった。そしてディーンはアル・カイダの地方指導者の手紙を手に、ロンドンにもどされた際、MI6の人々にその話を打ち明けた。ディーンの報告によれば、MI6の役人たちにこの話を全部打ち明けたのだが、なぜか彼らは行動を起こそうとはしなかった。MI6はディーンをアフガニスタンに送り返し、さらに詳しい情報を入手させようとはしなかったし、CIAにディーンを引き合わせることもしなかった。当時CIAは、友好国に問い合わせて、アル・カイダ内部のスパイを必死で探していたのだが。

 9/11攻撃が起こって数週間後たっても、MI6はディーンをアル・カイダ内部に戻そうとはせず、ディーンには、嘘のテロ計画を使って、イスラム教徒たちを罠にかけるという工作任務を与えた。ディーンをCIAに引き合わせ、アフガニスタンやパキスタンにいるアル・カイダのメンバーを捕まえることや、9/11計画を再構築して、すべての犯人を特定することを援助させることは一度もなかった。

ALSO ON RT.COM

French intelligence knew cement giant Lafarge paid MILLIONS to ISIS & capitalized on its ties with terrorists – leaked papers

 9/11攻撃につながる芽を摘み取ることに失敗した同じような例がアウカイ・コリンズ(Aukai Collins)だ。彼も元イスラム教過激派であり、後に西側諸国のスパイに転身した口だ。彼も自身の体験談をに著している。コリンズが送ってきた人生は驚くほど悲しみにみちたものだった。16歳の時、母はギャングに殺害された。その後、彼はギャングの末端として、服役と脱獄を繰り返した。

 刑務所でイスラム教に改宗したのち、コリンズは1990年代中盤に拡大していたイスラム教徒による軍事行動に惹かれていった。コリンズはボスニアでの聖戦に参加しようとしたがうまくいかず、カシミールや、アフガニスタンの訓練所で時間を過ごし、そこで後に米国の記者ダニエル・パールを殺害することになる英国のテロリスト、オマール・サイード・シェイクと出会った。

 チェチェン紛争がコリンズにとって最初の実戦を味わう戦場となり、コリンズはチェチェンに赴き、ロシア軍との戦いに加わった。そこでコリンズは美しい16歳の娘と出会い、結婚した。その後、ロシアの特殊任務部隊が訓練所を攻撃したため、そこに滞在していたコリンズは脚に大けがを負い、後に彼は脚を切断しなければならなくなった。

 さらにチェチェンのマフィアとの間での不幸な事故にもあい、コリンズは目を覚まし、1996年にカイロで行われたエジプトのイスラム教徒組織である「イスラム集団」が起こした攻撃を体験したコリンズは、イスラム教徒による軍事行動が引き起こす脅威を実感した。コリンズはアゼルバイジャンの首都バクーの米国大使館に徒歩で侵入し、CIAの役人に自分が知っていることと、自分がやってきたことのすべてを話し、スパイとして雇ってくれるよう頼み込んだ。しかしCIAの答えは、コリンズを雇うことはできない、というものだった。しかしその理由は伝えなかった。CIAは代わりにコリンズに米国に戻る費用を渡し、FBIに引き合わせた。




 その後の4年間は、コリンズは対テロ諜報員として主にFBIに籍を置いて働いていたが、FBIとCIAの共同工作にも関わっていた。米国内にテロ攻撃の訓練所を作る計画があったため、FBIやCIAはスパイを送り込んで、訓練参加者を追跡することもできたが、そのような工作は当時の米国司法長官であったジャネット・レノにより中止された。

 1998年の初旬、CIAによるロンドンのイスラム教徒居住地への侵入作戦が行われていたとき、コリンズはびっくりさせられるような申し出を受けた。ビン・ラディン本人が、コリンズに会いたいからアフガニスタンに来て欲しいと申し出てきたのだ。

 コリンズがこの情報を諜報機関に伝えると、FBIはコリンズを訓練所に行かせることには前向きだったが、CIAのコリンズの上司は、この作戦にストップをかけた。(この上司の名はコリンズの著書の中ではトレーシーという名で知られている)。そのトレーシーはこう言っていた。「米国政府はビン・ラディンの訓練所に秘密裡に侵入する作戦を承認することはない」。

 これは本当に奇妙な話だ。CIAのビン・ラディン対策として設置されていた特別チーム「アレック・ステーション」は、何年間も、ビン・ラディンに近い人物を探し続けていたのだ。この「アレック・ステーション」に資金を出していたCIAのマイケル・シューア(Michael Scheuer)は、ナシリの著書の前書きに、「ナシリのような人物こそ、まさにCIAがスパイ要員として必要としていた人物だった」と記していた。いったいなぜ、ビン・ラディンから個人的な招待を受けたコリンズが、「ビン・ラディンと面会するという事態は絶対に起こらない」と言われたのだろうか?

 この失敗を理由に、コリンズはCIAの元で働くことをやめた。コリンズはコソボ紛争の間はアルバニアで時間を過ごし、その後米国に戻り、FBIに再度連絡を取った。コリンズがFBIに警告したのは、ハーニー・ハンジュールという人物のことだった。ハンジュールは9/11の際、国防総省に突っ込んだハイジャック機の操縦をしていた人物だ。コリンズがハンジュールにアリゾナ州フェニックスで出会った際、ハンジュールが飛行機の操縦の訓練を受けていたことを知ったのだ。しかし米国政府はコリンズの話に食いつこうとはしなかった。

 コリンズの雇い主が出世し、新しい上司に代わったのだが、この上司がコリンズのことを信頼していなかったので、コリンズとFBIとの関係は悪化し、コリンズはFBIを去った。1年以上後に9-11攻撃をテレビの生映像で見たコリンズは、FBIに電話をかけ、何かできることはないかと申し出た。コリンズは、アフガニスタンに赴き、アル・カイダのメンバーを捕まえるつもりもあることさえ伝えていた。しかしFBIはコリンズの申し出を受け入れず、コリンズを嘘発見器にかけ、コリンズが9-11攻撃を事前に知っていたことを非難しただけだった。

 FBIも、CIAも、MI5も、MI6も、一体全体どういうつもりだったのだろう?なぜこれらの機関はよってたかって、9-11の前後で、アル・カイダ内部に諜報員を送り込むという作戦を講じなかったのだろう?エーメン・ディーンは2001年の夏の時点で、アル・カイダによる大がかりな攻撃がまもなく起こることを報告していたのだ。なぜそのとき西側の諜報機関は、ディーンや、ナシリや、コリンズ(あるいはこれら三名とも)をアフガニスタンに送り込み、より詳しい情報を得ようとはしなかったのだろう?これらの諜報機関は全くそのようなそぶりを見せなかった。

 これらの話が、千載一遇の機会をふいにしたただの悲劇だったのか、これらの諜報機関が全く無能だったことを示しただけなのか、それとも何かもっと暗い企みがその裏に隠されていたのか?真実はわからない。ディーンは一般の日常生活を送れているが、ナシリは人目を避けるような生活を強いられ、コリンズは2016年に亡くなっている。アル・カイダ内部に忍び込めた、これらのスパイたちの話の全編は、もう2度と明らかにされることはないかもしれない。 

 

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