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追悼:パトリス・ルムンバ・・・1961年1月17日に暗殺

<記事原文 寺島先生推薦>

In Memory of Patrice Lumumba, Assassinated on 17 January 1961

エリック・トゥーサン(Eric Tousaint)

2021年1月19日

<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>

2021年5月17日


 国民が参加したコンゴ初の本格的な選挙で圧勝したパトリス・ルムンバは、1960年6月24日コンゴ首相となった。同年9月14日、ジョセフ=デジレ・モブツ(Joseph-Désiré Mobutu)大佐とその支持者たちに首相の座を追いやられ、投獄された。その後、モブツはコンゴの支配者となった。最初は表舞台には出なかったが、1965年から1997年に彼の政権が転覆されるまで直接コンゴを統治した。

 1961年1月17日、コンゴの独立、社会正義、そして国際主義のために立ち上がった偉大な闘士であるルムンバは、欧米列強に加担したコンゴの指導者たちやベルギーの警察・兵士たちによって拷問され、数人の仲間とともに処刑された。ルムンバはまだ35歳であり、自国コンゴで、アフリカで、そして世界レベルで重要な役割を果たし続けることができたはずである。

 ジャーナリストのコレット・ブレックマン(Colette Braeckman)はこう書いている:
「コンゴの首相パトリス・ルムンバは、9月、違法に首相職を解任され、自宅軟禁された後、シスビルに拘留され、翌年1961年1月17日にカタンガに送られた。カタンガの地に到着してから5時間後、彼は2人の仲間であるモーリス・ムポロ(Maurice M’Polo)とロバート・オキト(Robert Okito)とともに処刑された。」 [1]

 ルムンバ殺害に直接参加したコンゴの指導者の中には、コンゴ・カタンガ州大統領を自認するモイーズ・チョンベ(Moïse Tshombé)がいた。コンゴ・カタンガ州は1960年6月30日のコンゴ独立から2週間も経たない1960年7月11日に分離独立している。モイーズ・チョンベが宣言したカタンガ州の分離独立は、パトリス・ルムンバ首相率いる政府を不安定にする目的で、ベルギーとコンゴの一部を支配していたベルギーの大規模鉱山会社(後述)に支援されていた。

 暗殺現場には少なくとも5人のベルギー人警察官と兵士がいた。ルムンバ暗殺の責任者であるコンゴの中心的指導者のひとり、ジョセフ・デジレ・モブツ(Joseph-Désiré Mobutu)は、コンゴ西部にある首都キンシャサにいたため、暗殺には参加しなかった。

 1961年1月のルムンバ暗殺におけるベルギーの責任は、何人かの歴史家によって立証されている。『ルムンバの暗殺(The assassination off Lumummba)』を書いた*ルード・ヴィッテ(Ludo De Witte)はその一人。ベルギーの責任は、2001年から2002年にかけてベルギー議会の調査委員会のテーマとなった。また、2018年に行われたルード・デ・ウィッテのインタビュー(フランス語)もある。
*ルード・デ・ウィッテ・・・パトリス・ルムンバの殺害に関する彼の著書「ルムンバの暗殺」で国際的に知られているベルギーの社会学者、歴史家、作家。(ウィキペディア)

 このインタビューでデ・ウイッテは簡単な言葉でルムンバの暗殺にいたる動機をまとめ上げている:
「ルムンバは帝国主義の犠牲者だった。実際、コンゴで帝国支配を続けようとしていた列強は、植民地システムを新植民地システムに置き換え、アフリカ人が政治的権力を行使するが、西側列強とその企業がそれを支配するシステムにした。これは新植民地主義であり、ルムンバが闘う対象としたかったものだ。これが、彼が暗殺された理由である。」

 コンゴ共和国の首相パトリス・ルムンバが、ベルギー国王ボードゥアン(Baudouin)の発言に対して行った演説:
「コンゴの独立は、*レオポルド二世という天才が考案した「文明化作戦」の集大成です。彼はこの作戦を粘り強い勇気を持って立ち上げ、ベルギーという国はそれを辛抱強く継続していきました。」
*レオポルド二世・・・在位1865~1909のベルギー国王。自分が所有していたゴム園の労働者数百万人が、殺害されたり、体を切断されたり、病気で亡くなったりしたという。

During the proclamation of Congo’s independence on June 30, 1960, the Prime Minister of Congo, Patrice Emery Lumumba, gave a memorable speech

 この演説でルムンバはコンゴの人々のために正義が実行されることを主張した。ここにその演説の英訳がある。

 以下は、コンゴ共和国独立宣言の日に国会で行われた彼の演説。その前にボードゥアン国王とジョゼフ・カサブブ大統領の演説があった。

 「コンゴ共和国のみなさん、独立を勝ち取った戦士諸君、

コンゴ政府の名の下にご挨拶します。

 私の友であるみなさん!みなさんは私たちの隊列の中で疲れを知らずに戦ってきました。みなさんにお願いがあります。今日この日1960年6月30日を輝かしい日としてみなさんの心の中に刻み込んでください。その意味を誇らしげに自分の子供たちに説明する日としてください。そうすれば今度はその孫たちが、そしてひ孫たちが、自由のために私たちが闘った輝かしい歴史を伝えることになるでしょう。

 コンゴの独立は、対等な関係にある友好国ベルギーとの合意によって、今日、宣言されていますが、コンゴ人は、独立が闘いの中で勝ち取られたことを誰一人忘れることはないでしょう。日々弛むことのない、霊的な息吹を与えられる闘いの連続でした。この闘いにおいて私たちは欠乏や苦難があっても怯むことはありませんでした。持てる力を出し惜しみすることはなかったし、血が流されることも厭わなかったのです。

 涙と炎と血に満ちた闘いでした。私たちはこの闘いに心の底から誇りを持っています。なぜなら、この闘いは正義であり、崇高であり、私たちに強要された屈辱的な束縛に終止符を打つために不可欠なものであったからです。

 この闘いは80年に及ぶ植民地支配が導き出した私たちに与えられた運命でした。私たちの傷はあまりにも生々しく、その途方もない痛みは到底忘れることなどできません。

 私たちは、強制労働をさせられ労賃を得るということを経験しました。その労賃たるや、飢えを満たすものではなく、着る物も手に入りませんでした。まともな家に住むこともできず、最愛の子ども達をきちんと育て上げられるような労賃ではなかったのです。

 朝も昼も夜も、私たちは「ニグロ」であるがゆえに、いろいろな嘲笑、侮辱、そして実際の暴力も受けてきました。誰が忘れましょう、黒人が「tu」と呼ばれたのは、親しみを込めてのことではありませんでした。尊称の「vous」は白人のために取っておかれました。

 私たちの土地は、「正義の法」の名の下に、奪われてゆきました。力ある者の権利だけが認められたのです。

 私たちは忘れてはいません。法は白人と黒人ではまったく別物でした。白人には甘く、黒人には残酷で非人間的なものでした。

 私たちは、政治的信念や宗教的信念のために迫害され、祖国から追放されるなど、非道な苦しみを経験してきました。私たちに与えられた運命は死よりも過酷でした。

 私たちは忘れていません、都会では、大邸宅は白人のものでした。荒れ果てた小屋が黒人のものでした。黒人たちは「ヨーロッパ人」専用の映画館、レストラン、そしてお店には入れませんでした。黒人は貨物船の船倉で旅をしていました。天井からは豪華な船室を行き来する白人たちの足音が聞こえました。

 誰が忘れることができるでしょう、多くの兄弟たちを殺した銃撃音や、植民地主義者が支配の道具として用いた不正、抑圧、搾取の体制にもはや従うことを望まない人々が容赦なく投げ込まれた独房を。

 兄弟達よ、こんなことがあっても私たちはその苦難を口にすることはできませんでした。

 しかし、私たちはみなさんの、人民の選んだ議員の投票によってここにいます。そして私たちの祖国の導き手となるのです。植民地支配の抑圧で私たちの体も魂も大きな苦しみを受けました。いいですか、みなさん、これからはそんなことはすべて縁のないものになったのです。

 コンゴ共和国の独立が宣言されました。私たちの愛すべき国の未来は、今や、その人民の手の中にあります。

 兄弟達よ、共にまた新たな闘いを始めましょう。私たちの国を平和と繁栄と偉大さに導く崇高な闘いです。

 共に手を携え社会的な正義を確立し、誰もが自分の労働に対する正当な報酬が確実に手に入るようにするのです。

 自由の中で労働をすることで黒人は何ができるのかを世界中の人たちに見て貰いましょう。コンゴをアフリカの誇りにしましょう。

 私たちの祖国が子ども達の幸せをほんとうに考えるところを見届けましょう。

 古い法律はすべて改訂しましょう。そして公正で気高い法律に改めるのです。

 言論の抑圧は終わらせましょう。人権宣言によって与えられている基本的な自由が、すべての市民にとって、一点の曇りもなく自分の自由となるまで見届けましょう。

 私たちは、その起源が何であれ、あらゆる差別を撤廃し、すべての人に対し、その人間としての尊厳にふさわしく、その労働と国への忠誠心に値する生活の場を確保するでしょう。

 私たちは、銃や銃剣ではなく、和合と親善に基づく平和をこの国にもたらします。

 これらすべてにおいて、親愛なる同胞の皆さん、私たちは自国の巨大な力と莫大な富に頼るだけでなく、多くの外国の援助にも頼ることができます。私たちに異質な政策を押し付けることを目的としたものではなく、友好の精神に基づいて与えられるものであれば、私たちはその協力を受けることができるでしょう。

 ようやく歴史の教訓を学び、もはや私たちの独立に反対する必要がなくなったベルギーでさえ、私たちに援助と友情を与えようとしています。その目的のために、対等で独立した関係をもつこの両国の間に合意文書が締結されました。(その結果から生じる)協力関係は両国に利益をもたらすことを確信しています。私たちとしては、警戒を怠らず、私たちが自由に交わした約束を守るよう努めます。

 このようにして、内的にも外的にも、私の政府によって創設される新コンゴ、私たちの愛するこの共和国は、豊かで自由で繁栄した国になるでしょう。しかし、この目標を滞りなく達成するために、議員の皆様、コンゴ国民の皆様には、できる限りのご協力をお願いいたします。

 部族間の紛争のことはお忘れください。部族間紛争が続けば、私たちの力は弱まり、国外から侮蔑される原因となりかねません。

 私たちの壮大な事業を確実に成功させるために必要であれば、どんな犠牲にも怯まないでください。

 最後に、同胞や私たちの国に定住している外国人の生命と財産を無条件に尊重することをお願いします。もし、これらの外国人の行動に問題がある場合、私たちの司法は速やかに彼らを共和国の領土から追放するでしょう。逆に、彼らの行動が良い場合は、彼らもまた私たちの国の繁栄のために働いているのですから、平和裏に滞在してもらう必要があります。

 コンゴの独立は全アフリカ大陸の解放に向けた歴史的な第一歩です。

 国家と国民が統合した私たちの政府は、この国に奉仕します。

 すべてのコンゴ国民のみなさん、男性も女性もそして子ども達も、国民経済の創出と私たちの国の経済的独立を不動のものにする作業に決然と取り組んでください。

 国民解放のために闘う戦士たちに永遠の栄光あれ!

 独立と統一アフリカ万歳!

 コンゴの独立と主権万歳!」

国際主義の戦士であるルムンバ

 ルムンバは、首相になる前から、反帝国主義、汎アフリカ主義、国際主義の多くの運動や人々と強固な関係を築いていた。1958年12月、彼はアクラで開催された全アフリカ人民会議に出席し、カリブ海・アルジェリア出身の精神科医で自由の戦士であるフランツ・ファノン(Frantz Fanon)、ガーナ大統領のクワメ・ンクルマ(Kwame Nkrumah)、カメルーンの反植民地主義指導者フェリクス=ロランド・ムミエ(Félix-Roland Moumié)などと会った。彼は、次の様な演説をした:
「私たちの運動の基本的な目的は、コンゴの人々を植民地主義体制から解放し、独立を勝ち取ることです。私たちは、世界人権宣言に基づいて行動しています。国連憲章によって市民の誰にも保障されている権利です。コンゴは人間社会として自由な民族の仲間入りをする権利があると私たちは考えています。」

 最後に次の言葉で締めくくった:
「だからこそ、私たちはすべての代表者とともに熱烈な叫びをあげるのです。植民地主義と帝国主義を打倒せよ!植民地主義と帝国主義を倒せ! 人種差別と部族主義を倒せ!そして、コンゴ民族万歳!独立アフリカ万歳!」

 全アフリカ人民会議の終わりに、ルムンバは調整委員会の常任メンバーに任命された、とサイード・ブアママ(Saïd Bouamama)が『Figures de la révolution africaine(アフリカ革命を巡る人物たち)』[3]で回想している。ルムンバはまた、ジャン・ヴァン・リエルデ(Jean Van Lierde)のような反植民地主義そして反資本主義の武闘派とも緊密な連絡をとっていた。ジャン・ヴァン・リエルデはアルジェリアでの革命を支援するために活動し、週刊誌『ラ・ゴーシュ(La Gaucheand)』やそれを中心的に推進していたアーネスト・マンデル(Ernest Mandel)と密接な関係を保っていた[4]。

 アクラでの会議から数週間後、ルムンバと彼が率いる運動は、レオポルドヴィル(当時のベルギー領コンゴの首都)で開催された反植民地主義サミットの議事を報告する会議を開いた。ルムンバは、1万人の聴衆を前にコンゴの独立を訴えた。彼は、コンゴ民族運動の目標を「植民地主義体制と人間による人間の搾取を清算すること」と表現した。[5]

 ル・モンド・ディプロマティーク誌の1959年2月号によると、会議後のレオポルドヴィルでは、1959年1月4日から暴動が起きていた。次はこのフランスの月刊誌からの引用:
「この暴動の発端は、アクラの全アフリカ人民会議に直接関係している。騒動が最初に起こったのは、この運動の議長であるルンバ氏が率いるコンゴ民族運動の指導者たちが、このテーマで公開会議を開く準備をしていたときだった。ベルギーのコンゴ総督コルネリス氏の許可を得て、ルムンバ氏率いるコンゴの民族主義者の代表団は12月ガーナを訪問した。1月4日、代表団がガーナを訪問したこととその活動について報告する準備をしているときに、警察が会議出席者や彼らの話を聞きに来た人たちに解散命令を出したのである。」[6]

 ここで重要なのは、1959年に植民地主義者ベルギーが組織した弾圧によって、数百人とは言わないまでも、数十人の死者が出たことである。どんな弾圧だったかの一例:
1959年10月、スタンレービルで行われたMouvement National Congolais(コンゴ民族運動)(MNC)の全国大会の際、警察が群衆に発砲し、30人が死亡、数百人が負傷した。ルムンバは数日後に逮捕され、1960年1月に裁判にかけられ、1960年1月21日に6ヵ月の禁固刑が言い渡された。

 しかし、あまりにも激しい抗議行動に、ブリュッセルの政権は恐れをなして、コンゴ人の参加を認める地方選挙を実施して事態を収拾することにしたのである。ルムンバは、判決からわずか数日後の1月26日に釈放された。地方選挙に続いて、ついには、1960年5月にベルギー領コンゴ史上初の総選挙が行われた。1960年5月、ベルギー領コンゴ史上初の総選挙が行われ、Mouvement National Congolais(コンゴ民族運動)(MNC)が勝利し、ルンバが首相に任命されたのだ。

ルムンバ政権へのクーデターと彼の暗殺に至る流れ

 6月30日のルムンバの演説を受けて、ベルギー政府、王室、コンゴに進出しているベルギーの主要企業のトップは、ルムンバ(政権)を揺るがし、原料(銅、コバルト、ラジウム)の大半が採取されているカタンガ州の分離を挑発して実現させることを決めた。時を置かず、次にあげるコンゴ国内にいる内応者たちがこの動きを加速させた:
①モイーズ・チョンベ。1960年7月11日にカタンガ州大統領を宣言。
②ジョゼフ・カサ-ブブ大統領。1960年9月、憲法上の権限がないにもかかわらずルムンバ(の首相任命)を撤回した。
③ジョゼフ-デジレ・モブツ。数日後にクーデターを起こし、ルムンバを逮捕した。閣僚たちはルムンバに信任を表明し、議会ではルムンバの政党が第一党であったのに、だ。モブツは植民地時代に軍人としての経歴があり、コンゴの親植民地新聞の記者でもあった。モブツは新軍の大佐に任命され、すぐさまコンゴの選挙で選ばれた政府に対して反旗を翻したのである。

 ベルギーは、NATOの一員として、西ドイツ領内に、ベルギー国境からソビエト同盟諸国との国境付近まで伸びる重装備の軍事地帯を持っていた。ベルギー軍参謀本部は、少なくとも部分的には米国に由来する相当な軍事兵器を自由に使用することができ、NATOは航空機、兵員輸送機、さらには軍艦の配備を許可し、コンゴの河口にあるコンゴ軍の陣地を砲撃した。アメリカ政府とCIAは、ルムンバを暗殺することを決めたベルギー軍と「歩調を合わせ」指令する側にいた。[7]. フランスも一枚噛んでいた。1960年8月26日付の電報で、CIA長官のアレン・ダレスはレオポルドヴィルにいる彼の工作員たちに対して、ルムンバについて語っている:

 「それだから、彼の排除はどうしても緊急かつ最重要な目的であり、現在の状況下ではこれが我々の秘密行動の最優先事項でなければならない、というのが結論だ。」[8]

 1960年8月12日、ベルギーがチョンベと協定を結び、カタンガの独立を事実上承認したことに触れておきたい。ルムンバ政府が(チョンベ派の)分離独立に対処しようとしたことは、十分に合法的なものであったが、欧米の大国がこれに反対する闘いに出た。

 ルムンバは、モブツに逮捕されたにもかかわらず、屈することなく、自分たちの為すべきことに忠実な閣僚や同志たちとの連絡を続けた。スタンレービルには、アントワーヌ・ギゼンガ(Antoine Gizenga)が率いる秘密政府が設立された。ルムンバは、1960年11月27日に脱獄し、スタンレービルの政府に合流しようとしたが、数日後、移動中に逮捕された。1961年1月、ルムンバは依然として高い人気を誇っていたが、モブツと西欧列強は、民衆の反乱が指導者の解放につながることを恐れ、ルムンバの処刑を決定した。ルムンバの処刑に至る作戦は、ベルギー政府からの命令を受けたベルギー人が直接同行し、指揮した。1961年1月17日、ルムンバ、モーリス・ムポロ(Maurice Mpolo)、そしてジョセフ・オキト(Joseph Okito)の3人は、ベルギー人乗組員が操縦する飛行機でカタンガ州の州都エリザベートビルに連行され、地元当局に引き渡された。その後、モイーズ・チョンベをはじめとするカタンガの指導者やベルギー人から拷問を受けた。そしてその日の夜、ベルギー人将校の指揮下にある兵士によって銃殺された。

 当時、「カタンガ国家警察」の設立を担当していたベルギー人のジェラール・ソエテ(Gerard Soete)警視総監の証言によると、3人の遺体は処刑場から220キロ離れた場所に運ばれ、森に囲まれたサバンナの中にあるシロアリ塚の後ろの土中に埋められたという。



Image on the right: Mobutu and Ronald Reagan

 この証言を収集したAFP通信によると、3日後には追跡の可能性を消すために死体を再び移動させたという。ソエテは、「もう一人の白人」と数人のコンゴ人がノコギリで死体を切り刻み、酸で溶かしたときに同行していたと語った。[9]

ボブツ独裁へのベルギーからの支援

 ベルギー軍は、モブツとその独裁政権がルムンバ派組織の抵抗を潰すのを助けるために、コンゴに2度介入した。最初は1964年11月、スタンレービルでのレッド・ドラゴン作戦、そしてポーリスでのブラック・ドラゴン作戦だ。このときの作戦は、ベルギー軍、モブツ軍、米軍参謀本部、そして反カストロ派のキューバ人を含む傭兵が共同で指揮を執った。

 エルネスト・チェ・ゲバラ(Ernesto Che Guevara)は、1964年11月の国連総会での演説で、サンチアゴ・デ・クーバ(訳注:キューバ南東部の都市)での演説と同様に、この介入を非難した:
「今日、私たちの誰もが忘れ得ない痛ましい記憶は、コンゴとルムンバの記憶である。今日、距離的にはとても遠いが、私たちの心にはとても近い(コンゴという)国で、私たちが知らなければならない歴史的な出来事が起こっています。そこで経験されていることから私たちは学ばなければなりません。先日、ベルギーのパラシュート部隊がスタンレービルの街を襲撃しました。」1964年11月30日、フランク・パイス(訳注:キューバの革命家であり、キューバのフルジェンシオ・バティスタ将軍政権の打倒を訴えた)に率いられた町の蜂起8周年を記念して、サンティアゴ・デ・クーバで行われたチェ・ゲバラの演説からの抜粋(フランス語版から*CADTMが翻訳)
*CADTM=The Committee for the Abolition of illegitimate Debt(違法債務廃止委員会)・・・1990年3月15日にベルギーで設立された活動家の国際的ネットワーク。発展途上国の債務の廃止と人々の基本的な権利、責務、そして自由を尊重する世界の創造を追求する運動_ウィキペディア)

 ベルギー軍の2回目の介入は、1978年5月にシャバ(カタンガ州)の鉱山地帯の中心にあるコルウェジで、フランス軍やモブツ軍と協力して行われた。

ルムンバの暗殺に関する訴訟は今でもベルギーで進行中

 
 ルムンバ殺害事件について、ベルギーの裁判所はまだ判決を下していない。この裁判が閉廷せずにいるのは、それはひとえに正義を貫こうとするすべての人々の継続的な行動があるからだ。ルムンバ家の人たちは、真実を明らかにするための行動を続けている。この事件は、時効が適用されない戦争犯罪に分類されているため、ベルギーの審査官は現在も事件を担当している。また、2011年6月23日にベルギーのテレビでルムンバ家の弁護士であるクリストフ・マルシャン(Christophe Marchand)が指摘したように、「この事件を推進した主要な人間たち全員死んでしまったが(中略)、外務省の元顧問や大使館員たちはまだ生きている。」

Image below: Lumumba in Brussels (1960) (CC – Wikimedia)


ルムンバは象徴的な人物に

 パトリス・ルムンバという人物は歴史という枠に収まらず、今日でも民族解放を擁護するすべての人にとってお手本となっている。

 独裁者モブツ体制下でも彼の人気はたいへんなもので、1966年、パトリス・ルムンバは国民的英雄であるとの布告を彼は出すことになった。1960年9月にルムンバを失脚させ、彼の殺害に加担したことに満足せず、モブツは彼のオーラの一部を剥奪せんとした。彼が処刑された1月17日は、コンゴ・キンシャサの銀行休業日になっている。

 ブリュッセルでは、反植民地主義急進派が長年活動した後、2018年4月23日に市議会は「パリス・ルムンバ広場(Place Patrice-Lumumba」の創設を決議し、コンゴ民主共和国独立58周年の日である同年6月30日に正式に開設した。

 しかし、そんなものは束にしても(彼の真価には)ほど遠い。

 ルムンバの闘争に関する真実を広め、彼に正義がなされることを要求する必要があるだけでなく、彼の闘争、そしてあらゆる形態の搾取、抑圧、搾取と闘ったコンゴのすべての女性と男性の闘争は継続されなければならない。

 ベルギー当局者は次の7点を実行しなければならないと、CADTMが感じている所以だ:

§  レオポルド二世とベルギー君主制がコンゴ人民に対して犯した虐待と犯罪の数々を公に認め、それをつまびらかにして正式に謝罪すること。

§  公共の教育や一般的な教育活動、また組織的な分野も含めて、適切な人材を関与させることにより、追悼の課題を深め、拡大すること。

§  コンゴのすべての文化財をコンゴ人に返却すること。

§  ベルギーの公共スペースにあるすべての植民地主義的なシンボルの再調査を積極的に支援すること。

§  コンゴの植民地化の際に搾取された金額を無条件で財政的に賠償し、遡及するために、債務の歴史的監査を行うこと。

§  多国籍機関(世界銀行、IMF、パリクラブなど)の内部で、その参加国はコンゴ民主共和国に対するすべての違法債務の返済を完全かつ無条件に中止するように行動すること。

§  公衆衛生システムを改善し、公衆衛生への支出を増やせば完全に防ぐことができる致死性のCoViD-19やその他の病気の蔓延に立ち向かうために、コンゴ政府が制定したすべての債務返済モラトリアムを公的に支持すること。

 CADTMは、「Black Lives Matter」の抗議行動を受けてベルギーで行動を呼びかけているさまざまな団体や、植民地主義の認識の分野で行動を起こしているすべての人々を支援する。

 CADTMは、CoViD-19危機の健康、経済、社会的影響に正面から向き合うことでコンゴの人々を支援する。債権者たちの有無を言わさぬ押しつけと、歴代コンゴ政府の深刻な失政の数々だった。その結果が厳しい弾圧と基本的人権の明白な否定だったのだ。にも拘わらずコンゴの社会運動は抵抗姿勢を崩さなかった。CADTMはこのような社会正義のための闘争を支援する。

補遺

世界中のアフリカ人の間に拡大する賠償請求

1:コンゴ独立以前のベルギーの犯罪



Belgium’s crimes before Congo’s independence (1885-1960)

 ベルギー国王と、彼が当時のベルギー政府と議会の同意を得て統治したコンゴ自由国には、意図的な「人道に対する罪」の責任があることは確かであると考えてよい。これらの犯罪は過失ではない。コンゴ国民が曝されていたタイプの搾取の直接的な結果である。著名な作家の中には、「ジェノサイド」を口にする人もいる。私はこの問題に焦点を当てた議論はしないことにしている。というのも、数字で一致点を見いだすことは難しいからだ。一部の著名な著者は、1885年のコンゴ人の人口を約2,000万人と推定し、レオポルド2世がコンゴをベルギーに譲渡してベルギー領コンゴが誕生した1908年には、1,000万人のコンゴ人が残っていたと書いている。しかし、これらの著名な著者による推定値は、人口調査が行われていないため、検証が困難である。

ベルギーがコンゴを所有していた植民地時代(1908-1960)

 レオポルド2世は、コンゴと縁を切ろうとした。というのもコンゴをベルギーに譲渡することで、様々な銀行から集めた借金も振り払うことになるだろうからだ。ベルギーはレオポルド2世の要請に応じ、コンゴ人を搾取するために契約した借金を引き継いだ。国王は、搾取した富を私財として貯め込む一方で、ベルギーの権力とイメージを強化するために、ベルギーに莫大な支出を命じていた。しかし、ベルギー国内外の大資本主義企業も、その分け前にあずかっていたのだ。ベルギーの武器製造会社や貿易会社、機材を供給する会社、天然ゴムを採取して加工する会社などである。

 ベルギー国はかくしてコンゴとレオポルド二世の借金を引き継いた。それはコンゴ人民を更に搾取することにつながった。

 コンゴがベルギーの植民地であった間、ベルギーの大資本は、コンゴの巨大な天然資源、特にあらゆる種類の鉱物を搾取することで、最大の利益を上げていた。ベルギー国は、レオポルド2世の債務を返済し、新たな債務を契約することで、大資本が最大の利益を蓄積できるようにしていたのである。

 コンゴの人々にはこれといった権利は何もなかった。ベルギーはコンゴ人が高等教育や大学に進学してほしくなかったので、教育制度は悲しくなるほど不十分だった。

 コンゴの人々は、自分の国土で搾取されただけでなく、コンゴの東にあるドイツの植民地ルワンダやブルンジを狙って、ベルギーが関与したさまざまな戦争の際にも、ベルギーのために戦うことを求められた。何千人ものコンゴ人が、ヨーロッパの資本主義国が起こした戦争で、故国を離れて戦死していったのである。

 第二次世界大戦中、アメリカはコンゴのカタンガ州で採取したウランを使って、1945年に広島と長崎を消滅させた原子爆弾を製造した。また、第一次世界大戦で勝利したベルギーは、1919年のベルサイユ条約によってドイツ帝国から奪い取ったルワンダとブルンジで植民地を拡大することができたのである。

 第二次世界大戦中、アメリカはコンゴのカタンガ州で採掘されたウランを使って、1945年に広島と長崎を壊滅させた原子爆弾を製造した。アメリカは謝意を表す目的で、ベルギーが負っていた借金を帳消しにした。

 一方、1960年6月30日にコンゴの独立に同意したベルギーは、パトリス・ルムンバ率いるコンゴ政府が、ベルギーが1950年代に世界銀行と共に「ベルギー領」のコンゴを搾取するために溜め込んでいた借金を引き継ぐことを期待していた。

 ルムンバは拒否した。これが誘因となってベルギーが1961年のルムンバ暗殺の計画とその直接参画に至った理由の一つであった。

2:コンゴ独立後のベルギーの犯罪

 世界銀行に唆され、その協力も得て、ベルギーは、力尽くで、コンゴ人民に自分たちが植民地的搾取のために使った借金を払わせた

 2006年に出版された『世界銀行:終わることのないクーデター(The World Bank: a never-ending coup d'Etat)』[10]で、私は、1950年代にベルギーが世界銀行と契約した債務は、モブツが加担したお陰で、コンゴの人々に不当に押しつけられたという事実を指摘した。このころモブツはルムンバの逮捕を手配し、彼の暗殺に積極的に参画した。

 その仕組みは?自決権に違反して、世銀はベルギー、フランス、イギリスの植民地でのプロジェクトに資金を提供するために融資を行ったのである。[11] 世銀の歴史家が認めているように、「ヨーロッパの植民主義列強のドル不足を緩和する役割を果たした融資は、直接投資や、鉱業に関連した輸送インフラの開発のような間接的な援助を通じて、主に植民地の利益、特に鉱業に向けられた」のである。[12]これらの融資のお陰で、植民地主義列強は植民地の人々を支配するための軛を強化することができた。この融資が、植民地の大都市に鉱物、農作物、燃料を供給することに貢献したのである。ベルギー領コンゴの場合、この植民地を支配する権力が決定したプロジェクトのために供与された数百万ドルは、コンゴの植民地政権がベルギーから輸出される製品を購入するためにそのほとんどすべてが費やされた。ベルギー領コンゴは全体で1億2000万米ドル(3回に分けて)の融資を「受けた」が、そのうち1億540万米ドルはベルギーで使われた。[3]パトリス・ルムンバの政府にとって、ベルギー領コンゴを搾取するためにベルギーが契約した債務を世界銀行に支払うことはまったく考えられないことだった。

 世界銀行とベルギーは、国際法に違反して、1960年代に独立したばかりのコンゴに、自分が植民地化のために契約した借金の負担を押し付けた。

 事情が変わったのは1965年:モブツの軍事クーデターの後、ザイールと改称されたコンゴは、世界銀行に対する債務があることを認めた;もちろんこの債務の契約を実際に結んだのはベルギー。ベルギー領コンゴを搾取するためだった。

 この点について、国際法は非常に明確である。過去にも似たようなケースがあり、ベルサイユ条約が決定を下している。第一次世界大戦後、ポーランドが独立国としての地位を取り戻したとき、ドイツが占領していたポーランドの一部を植民地化するために契約した債務は、この新たに独立した国ポーランドには請求しないことが決められた。1919年6月28日に締結されたベルサイユ条約では、次のように規定された:
「賠償委員会の調査結果により、ドイツ政府およびプロイセン政府がポーランドにおけるドイツの植民地化を目的として採用した措置に起因する債務の一部は、ポーランドが負う金融債務の分担から除外されるものとする。」[14]

 ベルサイユ条約では、ポーランド領内でのプロジェクトのためにドイツに貸し付けた債権者は、ポーランドではなく、その植民地の本国(つまりドイツ)にのみ支払いを請求できると定めている。不良債権の理論家であるアレクサンダー・ナハム・サック(Alexander Nahum Sack)は、1927年法条約の中で次のように明記している:
「政府が自国の領土の一部の住民を服従させるために、あるいは支配的な国籍の国民で植民地化するために債務を契約する場合、それらの債務は債務国領土のその地域にいる先住民にとっては違法債務となる。」[15]

 ベルサイユ条約は、ドイツ帝国がアフリカの植民地を失い、その債務を帳消しにすることを定めたものである。この点についてサックは、支払い義務が生じるからという理由で債務の帳消しを受け入れないドイツに対して、連合国が出した回答の一部を引用している:
「植民地はドイツの債務の一部といえども負担してはならないし、保護国の帝国管理にかかった費用をドイツに返還する義務を負うこともない。実際、ドイツ自身の利益のために発生したと思われる支出を先住民に負担させるのは不当であり、国際連盟によって受託者に任命される限り、そのような受託から何の利益も得られない委任統治国にこの責任を負わせるのも同様に不当である。」[16]

 これは、世銀がベルギー、フランス、英国の植民地開発のために行った融資についても完全に当てはまる。かくして、世銀とベルギーは、独立したばかりのコンゴに、1960年代、植民地化のために負った債務の負担を押し付け、国際法に違反する行為を行ったのだ。

モブツ独裁へのベルギーの支援

 さらにベルギーは、モブツ独裁政権下のコンゴに高級顧問を派遣していたが、その中には、1960年初頭にベルギー・コンゴ間で行われたベルギー領コンゴ独立準備のための円卓会議に参加したジャック・ド・グルート(Jacques de Groote)がいた。モブツは、ブリュッセルで開かれた円卓会議の開会式にも参加した。1960年4月から1963年5月にかけて、ド・グロートはワシントンのIMFと世界銀行でベルギーの専務理事のアドバイザーを務めた。1965年11月24日、モブツはカサブブ大統領に対してクーデターを起こし、完全な権力を掌握した。1966年3月から1969年5月まで、ド・グルートはモブツ実質政権の経済顧問を務める一方、コンゴ国立銀行の顧問としても働いた。コンゴの経済政策の立案・実施や、モブツ、IMF、世界銀行、そして米国政府との交渉に積極的な役割を果たした。

 1973年から1994年の間、ジャック・ド・グルートは国際通貨基金(IMF)の専務理事と世界銀行グループのひとつである国際復興開発銀行(IBRD)を管理する側の一人であった。彼はベルギーの政治階級の中核的メンバーとして活動する一方で、国際機関においてベルギーの利益と大企業の利益を代表していた。[17]

 1970年代末、IMFの高官であり、ドイツの銀行家であり、元ブンデスバンクの外交部長であったアーウィン・ブルメンタールが、モブツのザイール経営について非難のレポートを発表した[18]。彼は外国の債権者に対して、モブツが政権を維持する限り返済を期待してはならないと警告した。

 1965年から1981年の間に、ザイール政府は外国の債権者から約50億ドルを借り入れている。1976年から1981年の間に、22億5000万ドルにのぼる対外債務の一部について、パリクラブから認可された4つの再建プログラムがあった。(モブツの独裁時代のコンゴ・キンシャサの債務額については、以下の図を参照)。これらの債務はすべて違法債務に該当するため、無効とみなされる可能性がある。

 非常に拙い経済運営と、モブツによる融資の一部の組織的な横領があっても、IMFと世界銀行はモブツの独裁政権への支援を止めることはしなかった。驚くべきことに、ブルメンタール報告書が提出された後、世銀の融資額は増加した(IMFの融資額も増加したが、下のグラフには表示されていない)。[19]明らかに、世銀やIMFの選択は、健全な経済運営を主要な根拠にして決定されているわけではない。モブツ政権は、冷戦が続く限り、米国やブレトンウッズ機関の他の影響力のある大国(フランスやベルギーなど)の戦略的同盟国であり続けた。

コンゴ-キンシャサ(モブツ政権下のザイール):世界銀行の融資

 


 1989年から1991年にかけて、ベルリンの壁が崩壊し、ソ連が崩壊すると、欧米諸国はモブツ政権への関心を失い始めた。ザイールを含む多くのアフリカ諸国では国民会議が開催され、民主化を主張していたため、なおさらである。世界銀行は融資を減らし、1990年代半ばには融資を完全に停止した。

 モブツの支配下(1965年~1997年)では、IMFと世界銀行は米国の政策と地政学に貢献する道具だった。それ故、冷戦時代における支持に対してモブツはその報酬を受けていたという訳だ。


Source : World Bank, CD-Rom, GDF, 2001

 「冷戦時代には、この融資が政府の腐敗に利用されるケースも少なくありませんでした。問題は、そのお金が国の福祉を向上させているかどうかではなく、世界の地政学的な現実を踏まえた上で、安定した状況につながっているかどうかだったのです。」

 ジョゼフ・E・スティグリッツ(Joseph E. Stiglitz)。世界銀行主席経済学者(1997-1999)。2001年ノーベル経済学賞受賞。これは2000年3月7日にアルテ(Arte)(訳注:フランス語およびドイツ語で放送される、独仏共同出資のテレビ局。本部はフランス・ストラスブール)で放送されたフランス語番組「もう一つのグローバリゼーション」での発言。

 そのため、ド・グルートが幹部を務めていたIMFと世銀は、金融債務をまったく履行しない独裁体制への支援を続ける限り、モブツ政権による人権、経済、社会、文化的権利の侵害に加担することになった。

 「債権者の道義的責任という問題は、冷戦時代の融資の場合に特に顕著だった。IMFと世界銀行がコンゴ民主共和国の悪名高い支配者モブツに資金を貸し付けたとき、彼らはその資金のほとんどがコンゴの貧しい人々を助けるために使われるのではなく、モブツを豊かにするために使われることを知っていた(知らないはずはない)。それは、この腐敗した指導者にコンゴを西側と同一歩調を確実に取らせるために支払われた金だった。多くの人にとって、腐敗した政府を持つ国の一般納税者が、自分たちを代表していない指導者が取り決めた融資を返済しなければならないのは、公平ではないと思われる。」- Joseph Stiglitz, Globalization and Its Discontents, 2002年

 モブツとその一派は、国家の財源を安定した豊富な個人的利益の源として利用していたが、その際、合法的な支出、違法な支出、不可解な支出という3種類の不正流用が行われていた。合法的なものは、大統領基金のように、何の管理もなく割り当てられた。違法な支出については、ブルメンタール報告書(この秘密報告書は1982年に公開された)[20]に記載されており、大統領府が個人的な支出と公的な支出をほとんど区別していなかったため、国家の財務取引を管理することは不可能であったと書かれている。アーウィン・ブルメンタールは、モブツの個人的な銀行口座や腐敗した政治家に直接お金を流すために使われた、海外に保有されている少なくとも7つの銀行口座を特定した。アーウィン・ブルメンタールのメッセージは明確だ:
「ザイール(訳注:コンゴの旧称)の腐敗したシステムは、その邪悪さと醜さをすべて露呈しており、その不始末と不正行為は、ザイール経済の回復と再生に向けた国際機関、友好国政府、商業銀行のすべての努力を台無しにするだろう。もちろん、モブツはまた新たな約束はするだろうが、ザイールの債権者が予見可能な将来に資金を取り戻せる見込みはない(繰り返す:ない)。」[21]

 1979年以来、IMFと密接な関係にあるモブツ政権への主要な融資者は、こうした行為は不正であり、モブツへの融資を続ければリスクがあることを知っていたし、自覚もしていた。

 本報告書では、横領の第3のカテゴリーとして、「謎の支出」を挙げている。1989年の世界銀行の調査によると、国の最大の予算項目の1つ(18%)は「その他の商品およびサービス」であり、この支出がどのように配分されているかについてはほとんど情報がない「ごた混ぜ経理状態」である。世界銀行の専門家によると、軍事機器の購入はあるが、その大半は贅沢品の支出に使われていたという。これは、世銀が自分たちが融資した資金の不正使用を知っていたことを示している。

 1970年代半ばまでに、融資や助成金の形でザイールに注入された資金が組織的に不正利用されていることが明らかになった。それらは海外にある個人の銀行口座に直接送金されたり[22]、誰が見ても立派だが、(ザイールの現状に)合わない、そして/あるいは無駄なプロジェクトに投資された。それは多くの人が(一時的に)より豊かになる手助けにはなったが、(ザイール)経済の持続的な工業化に役立たなかったことははっきりしている。例えば、国民会議で創設された不正蓄財局(Office des biens mal acquis、OBMA)によると、モブツはインガ水力発電所の資産価値7%を手数料として懐に入れたとされている。この調査は、官界の抵抗により、結論まで追求することができなかった。 [23]

 J.ド・グルーテは、モブツ政権を積極的に支援し、IMF、世界銀行とモブツとの関係を改善するために何度も介入したが、ブルメンタールが報告書で糾弾した内容を詳細に知っているという点では、非常に有利な立場にあったと言える。また、モブツ政権による深刻な人権侵害についても知っていた。

 しかし、任期を終えた1994年、ド・グルーテは、コンゴ・キンシャサ(=モブツ政権)に対する自分の行動に満足していると語った。その間一貫して、コンゴ人民の圧倒的多数は凄惨な境遇で生活していたし、政権に反対する人たちへの弾圧と暗殺は横行していた。経済も壊滅状態だった。

ベルギーの企業はベルギーとコンゴ間の関係を利用して組織的に利益を得ていた

 以下の抜粋がそれを物語っている。1986年、ジャック・ド・グルーテがベルギーの会社役員たちを前にして行ったスピーチであり、Bulletin de la Fédération des Entreprises de Belgique(ベルギー企業連盟のニュースレター)に掲載されたもの:
「ベルギーが関係グループ機関の活動に参加していることから得る利益がどの程度かは「フローバック」を見れば分かります。世界銀行のメンバーとなっている国はすべて同じです。つまり次の2つの間の関係ということになります:

①IDA(国際開発協会、世界銀行グループの一員)や世界銀行が、ある国の企業と契約を結んだ際に、その国の企業のために支出した金額の総額
②世銀の資本金やIDAの財源に対するその国の貢献度

 つまり、「フローバック」とは、企業が機器の販売やコンサルティングサービスを通じて得るものと、ベルギーがIDAの資源や世銀の資本に拠出するものとの間の関係になります。世界銀行から先進国への「フローバック」は大きく、継続的に増加しています。すべての先進国において、1980年末から1984年末にかけて、フローバックは7から10に増加しました。言い換えれば、システムに投入された1ドルに対して、先進国は1980年に7ドルを取り戻し、今日では10.5ドルを受け取っています。」 [31]

IMFや世界銀行での役職を終えた後のジャック・ド・グルーテ

 
 1994年ル・ソワール(Le Soir)(訳注:ベルギーで発行されているフランス語日刊紙)のベアトリス・ドルボーから受けたインタビューでド・グルーテは、1980年代ベルギーが新自由主義的な取り組みを採用する時に自分が果たした役割を振り返って悦に入っていた:
ベアトリス・ドルボー:しかし、あなたはワシントンから、ベルギーの経済政策の方向性に大きな役割を果たしていました。1980年代初頭の経済転換にIMFからの保証を提供したのは、プペアングループとの密接な関係からですね。

J.ド・グルーテ    :もちろんです。自分でも本当によくやったと思いますよ。これ以上の満足はないと言ってもいいでしょう。当時、私たちは色々な研究を完成させ、この重要な経済的選択肢をベルギーに当てはめることを可能にしました。このことについては、その後アルフォンス・ヴァープラエッツ氏(Alfons Verplaetse)[33]やその他ウィルフリード・マルテンス氏(Wilfried Martens)を始めいろいろな方々と議論しました。

 これらの発言は、ド・グローテのような人物と、特定の国において鍵となる政治指導者との間に密接な関係があることをよく表している。更に言えば、ド・グルーテにはベルギー国立銀行の独立性が形の上だけであることがよく分かっていた。ベルギーの(金融)政策は、首相から国立銀行総裁、キリスト教組合長や企業経営者の代表など、重要な利害関係者を集めた、ごく少数の秘密の集まりで決定されていたからである。みんなIMFと同じ穴のムジナだった。

モブツ没落後のベルギーの態度

 
 ベルギーは、モブツが溜め込んだ違法債務を誤魔化すことに加担した。ベルギーは、違法な債務だから取り消さなければならないということを認める代わりに、コンゴ国民が損をして、旧政権を支援した債権者が勝つという複雑なメカニズムの構築に関与した。

 モブツが倒れた後、CADTMなどの嘆願にもかかわらず、ベルギー政府は、モブツとその一派が横領し、ベルギー国内で現金や不動産という形で投資した金をコンゴ人が取り戻すために何もしなかった。もっとも、スイスのような国は、一度は、その方向で動き始めている。しかし、ベルギーの支配層とモブツ一派の結びつきは非常に強く、積極的な対策を取ろうとする判事がいても、決定的なことは何もしなかった。

 その後、ベルギーはモブツが積み上げた違法債務を誤魔化すことに加担した。ベルギーは、非合法であるがゆえにそんなことは撤回しなければならない、とは認めず、コンゴ国民が損をし、旧政権を支援した債権者が勝つという複雑なメカニズムの構築に関与したのである。

This article was originally published on CADTM.
Translated by Snake Arbusto and Christine Pagnoulle


Source of the two appendices: Éric Toussaint, “Reply to the letter by Philippe, King of the Belgians, about Belgium’s responsibility in the exploitation of the Congolese people”

Eric Toussaint is a historian and political scientist who completed his Ph.D. at the universities of Paris VIII and Liège, is the spokesperson of the CADTM International, and sits on the Scientific Council of ATTAC France. He is the author of Debt System (Haymarket books, Chicago, 2019), Bankocracy (2015); The Life and Crimes of an Exemplary Man (2014); Glance in the Rear View Mirror. Neoliberal Ideology From its Origins to the Present, Haymarket books, Chicago, 2012 (see here), etc.



[1] Colette Braeckman, « Congo La mort de Lumumba Ultime débat à la Chambre sur la responsabilité de la Belgique dans l’assassinat de Patrice Lumumba Au-delà des regrets, les excuses de la Belgique REPERES La vérité comme seule porte de sortie Van Lierde l’insoumis», 6 February 2002 https://plus.lesoir.be/art/congo-la-mort-de-lumumba-noir-ultime-debat-a-la-chambre_t-20020206-Z0LGFG.html (in French)

[2] Félix Roland Moumié (1925-1960), a leader of the anticolonialist and anti-imperialist struggle in Cameroon, was assassinated on orders from France in Geneva on 3 November 1960.

[3] Saïd Bouamama, Figures de la révolution africaine, La Découverte, 2014, 300 p.

[4] See the synthesis of Jean Van Lierde’s intervention during a conference in Brussels in October 1995 in homage to Ernest Mandel http://www.ernestmandel.org/new/sur-la-vie-et-l-œuvre/article/dernier-hommage-a-ernest-mandel

[5] Saïd Bouamama, Figures de la révolution africaine, La Découverte, 2014, p. 160-177.

[6] Philippe Decraene, “L’Afrique noire tout entière fait écho aux thèmes panafricains exaltés à Accra” in Le Monde diplomatique, February 1959 https://www.monde-diplomatique.fr/1959/02/DECRAENE/22920

[7] The Assassination Archives and Research Center, Interim Report: Alleged Assassination Plots Involving Foreign Leaders, III, A, Congo. http://www.aarclibrary.org/publib/church/reports/ir/html/ChurchIR_0014a.htm consulté le 15 janvier 2021

[8] Saïd Bouamama, Figures de la révolution africaine, La Découverte, 2014, p. 160-177.

[9] « Les aveux du meurtre de Patrice Lumumba », https://www.thomassankara.net/les-aveux-du-meurtre-de-patrice-lumumba/

[10] Eric Toussaint, Banque mondiale : le Coup d’Etat permanent. L’Agenda caché du Consensus de Washington, co-published by CADTM / Syllepse / CETIM, Liège/Paris/Geneva, 2006, 310 pages. http://cadtm.org/Banque-mondiale-le-coup-d-Etat; translated into Spanish Banco mundial: el golpe de estado permanente Editorial Viejo Topo (Barcelona), 2007 ; Editorial Abya-Yala (Quito), 2007 ; Editorial del CIM, Caracas, 2007 ; Editorial Observatorio DESC, La Paz, 2007; into English The World Bank: a never-ending coup d’Etat: the hidden agenda of Washington Consensus Pub. VAK (Mumbai-India), 2007, also as The World Bank : A Critical Primer, Pluto Press, London; Michigan University Press, Michigan; Between The Lines, Toronto,; David Philip, Cape Town; and recently into Japanese.

[11] The colonies for which the World Bank granted loans are, to Belgium the Belgian Congo, Rwanda and Burundi; to the UK, East Africa (including Kenya, Uganda and future Tanzania), Rhodesia (that became Zimbabwe and Zambia) as well as Nigeria, to which we must add British Guyana in South America; to France, Algeria, Gabon, French West Africa (Mauritania, Senegal, French Sudan that became Mali, Guinea-Conakry, Ivory Coast, Niger, Upper-Volta that became Burkina Faso, Dahomey that became Benin).

[12] KAPUR, Devesh, LEWIS, John P., WEBB, Richard. 1997. The World Bank, Its First Half Century, Volume 1, p. 685-686.

[13] The fact that Belgium was the beneficiary of loans to the Belgian Congo can be deduced from a table published in the WB’s 15th Annual Report for 1959-1960. IBRD (World Bank), Fifteenth Annual Report 1959-1960, Washington DC, p. 12.

[14] Article 92, see http://polandpoland.com/treaty_versailles.html.

[15] SACK, Alexander Nahum, Les Effets des Transformations des Etats sur leurs Dettes Publiques et Autres Obligations financières, Recueil Sirey, Paris, 1927. p. 158.

[16] Source : Treaty series, no. 4, 1919, p. 26. Cited by Sack, p. 162.

[17] In 2013, I devoted a book to this figure: The Life and Crimes of an Exemplary Man, https://cadtm.org/The-Life-and-Crimes-of-an-Exemplary-Man Though anecdotal, the list of decorations awarded to Jacques De Groote is quite telling: he is Grand Officier de l’Ordre de Léopold Ier in Belgium, i.e. the second highest Belgian distinction; Mobutu decorated him with the Palme d’or in Zaire; he is also Grand Officier de l‘Ordre d’Orange-Nassau (Luxembourg), he is bearer of the Orden für Verdienste in Austria and received the Red Star in Hungary.

[18] It is worth mentioning that at the height of his power, Mobutu had people call him “Mobutu Sese Seko Kuku Ngbendu wa Za Banga” (which means Mobutu the unstoppable warrior who goes from one victory to another).

[19] The Bank’s historians wrote that in 1982 “Lured by Mobutu’s guile and promise of reform and by pressures from the United States, France, and Belgium, the bank embarked on an ambitious structural adjustment lending program to Zaire” in Devesh Kapur, John P. Lewis, Richard Webb, The World Bank, Its First Half Century, 1997 Volume 1: History, p. 702.

[20] In 1978, the IMF sent Erwin Blumenthal to the Central Bank of Zaire to improve its operations. In July 1979, he resigned after receiving death threats from those close to Mobutu.

[21] Erwin Blumenthal, “Zaire: Report on her Financial Credibility”, 7 April 1982, typescript, p.19.

[22] Mobutu even managed to intercept money before it actually reached the public coffers, as happened for instance with the $5 million granted by Saudi Arabia in 1977 (Emmanuel Dungia, Mobutu et l’argent du Zaïre (Mobutu and the money of Zaire), 1992, L’Harmattan, p.157).

[23] Steve Askin and Carole Collins, “External Collusion with Kleptocracy: Can Zaire Recapture its Stolen Wealth?” in African Political Economy, 1993, no. 57, p.77.

[24] L’ENTREPRENEUR. 1980. « Le lancinant problème de la dette extérieure du Zaïre » (The problem of Zaire’s persistent external debt), n°11, December 1980, p. 44-47.

[25] The $32 million corresponds to the debt that Belgium and the World Bank imposed on the Congo with the complicity of Mobutu’s regime. As stated above, during the 1950s Belgium borrowed $120 million from the World Bank to develop its colonial projects in the Belgian Congo. Belgium had only repaid part of this loan before the Congo gained its independence on 30 June 1960. The remaining amount ($32 million) was passed on to the Congo when Mobutu established his dictatorship in 1965.

[26] HAYNES, J., PARFITT, T. and RILEY, S. 1986. “Debt in Sub-Saharan Africa: The local politics of stabilisation,” in African Affairs, July 1986, p.346.

[27] Ibid, p. 347.

[28] NDIKUMANA, Leonce and BOYCE, James. 1997. Congo’s Odious Debt: External borrowing and Capital Flight, Department of Economics, University of Massachusetts.

[29] Ibid, p.17.

[30] Ibid, p.18.

[31] FEB, 1986, p. 496-497.

[32] The Poupehan group was a lobby made up of the main conservative political leaders in the Belgian Christian Social Party, who played a key role in the neoliberal shift. See http://archives.lesoir.be/les-fantomes-de-poupehan-liberaux-et-fdf-veulent-enquet_t-19910917-Z04EPV.html

[33] Alfons Verplaetse was the Governor of the National Bank of Belgium, and a member of the Flemish Christian Social Party.

[34] Wilfried Martens, the Christian Social Prime Minister who put in place neoliberal policies in alliance with the Liberal Party.

All images in this article are from CADTM unless otherwise stated



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