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「生命倫理学と新優生学」 ( 2021年3月6日、ニュースサイトのコーベット・レポートの音声記事の文字起こし )(その2)

(その1はこちら
 エゼキエル・エマニュエルのような生命倫理学者が、危機が全体に広まっている最中に、医療活動の適正配分ルールを変えるような論文を書いていることは、驚くべきことではない。弟のラーム・エマニュエル(RAHM EMANUEL)が「恰好の危機を無駄にしてはいけない」と顰蹙を買うような発言をしてもエゼキエル・エマニュエルに関しては驚くべきことではない。


ラーム・エマニュエル(RAHM EMANUEL):

 深刻な危機を無駄にしようなどと考える人は一人もいません。そして私は本気で言っていますが、これはチャンスです。以前であればとてもできないと考えていたことが今ならできるのです。

出典: Rahm Emanuel on the Opportunities of Crisis

 


 しかし、より広い視点から見れば、「生命の選別委員会」という概念が、生命倫理学者たちによって裏口からこっそり、まんまと持ち込まれたとしてもまったく不思議ではない。

 実際、生命倫理学の歴史を最初から見てみると、この分野の研究が目指しているものがまさにそうであることがわかる。つまり、大きな争点となる議論の枠組みをつくり、優生思想の持ち主が抱く理想や価値観を社会の主流になるよう画策し、それを法制化することを可能にさせる。中絶から安楽死に至るまで、医療分野で議論する前には必ず、生命倫理学者や生命倫理学の機関が、道徳観、価値観、そして法律の大変革に向けて国民に心構えをさせている。

 その生命倫理の歴史を調べていくと、「生命倫理の分野を確立する上で重要な役割を果たした」とホームページに書かれている非営利研究センター「ヘイスティングスセンター」の門前にたどり着く。ヘイスティングスセンターの創設者であるテオドシウス・ドブジャンスキー(Theodosius Dobzhansky)は、1969年から1975年まで米国優生学協会の会長を務めていた。一方、ヘイスティングスセンターの共同設立者であるダニエル・キャラハン(Daniel Callahan)は、このセンターの初期の活動はロックフェラー人口評議会や国連人口基金の資金に頼っていたことを認めている。1987年から1992年まではアメリカ優生学協会(社会生物学研究協会に改称)の理事を務めていた。

 前回のコーベット・レポートのゲストであるアントン・チェイキンが幅広い範囲で報告している通り、20世紀初頭にロックフェラー家がアメリカで優生学を推進したことと、20世紀後半にヘイスティングスセンターが設立されたことには、歴史的な連続性がある。ヘイスティングスセンターは、ロックフェラーが設立したPopulation Council(人口評議会)が、「生命倫理」の名の下に、中絶、安楽死、死の判定団の設置などの優生学的課題を推進するための前線基地として育成したものだとチェイキンは指摘する。



チェイキン:
 私たちが目にした優生学の実践や、1920年代初頭にアメリカで行われていた優生学の議論や諸準備は、19世紀後半にさかのぼりますが、同じ議論や諸準備はイギリスでも行われていました。それらはナチス・ドイツにも引き継がれました。第二次世界大戦後、これらの運動に参加した人々は、優生学の考えを存続させたいと考え、特にロックフェラー財団(第二次世界大戦前にヨーロッパでナチスの優生学を支援していた)の支援を受けて、優生学協会や優生思想と重なる人口管理運動を立ち上げました。そして優生学と人口制御の組み合わせから、いろいろな機関やプログラムが生まれたました。それらは今日、「生命倫理学」と呼ばれるものの中心に位置しています。そこで制限があると考えられている医療資源をベースにした医療実践における倫理的な問題について決断が下される、まあ、決断が下されると見なされます。

 一般的に、この分野は完全にインチキで、道徳的にも嫌悪感を抱かせるものです。根底にあるのはその怪しげな生誕であり、医療界や学術界では、これを実践の一部としていますが、「生命倫理学」の存在の根拠と向き合ったことなど一度もありません。

出典: Anton Chaitkin on the Eugenics / Euthanasia Agenda

 


 生命倫理学の歴史は、アメリカ優生学の第一波を支えたロックフェラーの資金、カイザー・ウィルヘルム研究所とナチス時代のドイツの優生学プログラムを支えたロックフェラーの資金、そして人工評議会(Population Council)、ヘイスティングスセンター、その他の戦後の「隠れ優生学」研究センターを支えたロックフェラーの資金と結びついている。その結果、今日活躍している最も有名で最も物議をかもしている生命倫理学者の多くがヘイスティングスセンターに関係していることは、おそらく驚くに当たらないだろう。

 例えば、エゼキエル・エマニュエルその人。エゼキエル・エマニュエルは、ジョン・ポデスタが設立したアメリカ進歩センター(Center for American Progress)のシニアフェローである。このセンターは、オバマ政権との間に「回転ドア」を持ち、さまざまな業界のロビイストとの間で金のやりとりを行っているとThe Nation誌の2013年の暴露記事で告発されている。彼は同時にヘイスティングスセンターのフェローでもあるのだ。エマニュエルの生命倫理学者としてのキャリアは、1996年11月に掲載された「The Hastings Center Report」の記事に端を発している。この記事では、ダニエル・キャラハンが医学の目的に関する議論を医療活動の議論に持ち込もうとしたことを称賛した上で、リベラル派とコミュニタリアン派の双方が同意できる点を強調している:「参加する市民である、あるいはこれから参加する市民になる道を不可逆的に閉ざされている個人に提供される(医療)サービスは、基本的なものではないし、保証すべきものでもない。」エマニュエルは、この原則が実際に運用されている「わかりやすい例」として、「認知症の患者に医療サービスを保証していない」ことを挙げている。

 つい昨年、ヘイスティングスセンターは、米国におけるCOVID-19のパンデミック規制を検討する際に、「どのような価値観を指針とすべきか」というオンライン・ディスカッションを開催した。その中でエマニュエルは、大手テクノロジー(ビッグテック)企業はユーザーの動きに関するデータを政府や研究者と共有するのに十分な努力をしていないとの意見を述べた:

 

エマニュエル:
 これまでのところ、ビッグテック(大手テクノロジー企業)はこの件に関して全く役に立たないと言わざるを得ません。COVID-19に関しては、彼らが何か本当に役立つことをしたとは思えないのです。彼らには多くの能力があります。本当ですよ。Facebookはすでに、あなたが普段誰と交流しているのか、どのくらい親しくしているのか、いつ家を出るのか、どの店に行くのかを知っています。Googleも同じです。そして、彼らはこのデータを使っていません。人々の怒りを恐れているのかもしれませんが、誰かに渡して効果的に使ってもらうことすらしていません。このままでは、彼らの道は二つだと思います。このプロセスとは無関係な存在になってしまうか、あるいは、この問題の解決に貢献してくれる存在に実際なること、のいずれかです。

出典: Re-Opening the Nation: What Values Should Guide Us?

 


 また、ヘイスティングスセンターのフェローであり、ウィスコンシン大学マディソン校の生命倫理学教授であるノーマン・フォスト(Norman Fost)を取り上げよう。彼は、Kennedy Institute of Ethics Journalという学術誌で「臓器提供者が死んでいることが重要かどうか」を問うだけでなく、2013年に開催されたパネルディスカッション「Challenging Cases in Clinical Ethics(臨床倫理における挑戦的な事例)」で、今では世界中で非難されているアメリカの優生学プログラムと言えばこれ、とされる強制不妊手術を支持している。

 


ノーマン・フォスト:
 避妊手術について言えば、もし彼の性行動が減衰させる可能性があり、誰かを妊娠させる危険性がなくなるのであれば、それが一番いいことでしょう。(強制)不妊手術は除外すべきでないと思います。それは彼の利益であると同時に、彼の性的暴行を受ける可能性のある潜在的な被害者にとっても利益になるからです。

 アメリカで不妊手術の評判が悪いのは、10万人以上の発達障害者を優生学的に不妊手術したからだと思いますが、そのほとんどは不適切な措置でした。そして、ウィスコンシン州は、その過剰反応の先頭に立っています。立法府が許可するまでは未成年者の不妊手術をしてはならないという最高裁の判決があります。そして同州は絶対に許可を出しません。それは発達障害を持った多くの子どもたちの利益になりません。彼らにとって生殖活動は最悪の事態となるでしょう。妊娠が自発的なものであれ、押しつけられたものであれ、です。

 もし、この子が親になることができないことが本当だとしたら・・・そしてこの国の限られた歴史から言ってそんなことを言い切ることができないとしたら、そしてそれが本当でないのかもしれないとしたら、でもこれだけは申し上げたいのはこの国の(強制)不妊手術に対する過剰反応は、――正しいとは言えないのかもしれません。誰かをその人の意志に反して不妊手術をすることは、例外なく酷いことだ、という言い方は正しくありません。少なくともその人の利益になるかもしれないものとして(討議の)テーブルには置いて置くべきです。

出典: A Conversation About Challenging Cases in Clinical Ethics


 
 しかしこういった議論はヘイスティングスセンターの上層部だけに止まっていない。

 例えば、ジョセフ・フレッチャー(Joseph Fletcher)。フレッチャーは、彼を批判する人間からも彼を擁護する人間からも生命倫理学のパイオニアと呼ばれている。彼はバージニア大学で医療倫理学の初代教授を務め、同大学に「生物学と社会プログラム」を共同で設立した。アメリカ安楽死協会の会長として、また家族計画連盟の設立に尽力したほか、アメリカ優生学協会のメンバーでもあった。1968年に発表した論文には、ダウン症や他の痴呆症を持った赤ちゃんを殺すことを擁護する内容が書かれている:


 「聖なるもの(それを尊いものにしているもの)は、本質的には生命そのものにあるのではない。あくまでも外在的なものであり、bonum per accident, ex casu(たまたま偶然に外から与えられるもの)である。つまり状況に応じたものなのである。あるものに比べれば、命を奪うことは小さな悪であり、あるものに比べれば、命を失うことは小さな悪である。死は常に敵というわけではなく、時には友であり僕にもなり得る。」

 例えば、ピーター・シンガー(Peter Singer)。生命倫理学者の中で、一般に名前が知られているのは、動物解放論で有名なピーター・シンガーである。しかし、一般にあまり知られていないのが、嬰児殺しを是とする彼の議論だ。中絶と「重度障害児」の殺害との間には関連する差異は全くないとする考えも彼は持っている。批判派が彼を「フレッチャーの息子」呼ぶことになった立場だ。

 もっともシンガーは、一般の人向けに話すときには、最新の注意を払って、議論の波風が極力立たないような立場を取りながら、嬰児殺しを是とする議論を組み立てている・・・。.


ピーター・シンガー:
 ・・・そこで私たちは「いいですか、難しい決断は、この嬰児を生かしておきたいかどうかです」と言いました。それは、両親と医師が、病状についての可能な限りの情報に基づいて決定すべきことです。しかし、そのような判断をした後、もしそれがあなたの判断であれば、赤ちゃんを迅速かつ人道的に死なせることも許されるはずです。その子が生きていない方が良いという判断であれば、その子が速やかに人道的に死ぬようにすることは可能なはずです。

 それが私たちの提案でした。さて、この提案は、プロライフ運動の人々や行動的障害者運動の人々など、さまざまな反対派によって取り上げられました。ついでに申し上げれば、この行動的障害者運動は、私たちがこのテーマについて初めて文章を書いた時には存在していませんでした。彼らは、私たちが乳幼児をどのように扱うべきかを率直に述べていることから、私たちを(反対陣営を攪乱させる目的だけの)「おとり」――あるいは、(悪い子どもをさらってゆくといわれる)「ブギーマン」)のように捉えています。

出典: The Case for Allowing Euthanasia of Severely Handicapped Infants 




 ・・・彼の実際の著作には、もしそれをあからさまに言ってしまえば、平均的な人々の感性に確実なショックを与えてしまうような、より大胆な主張が含まれている。例えば、倫理学入門コースのテキストとして書かれた『実践倫理学』では、シンガーは重度の障害や先天性欠損症についての議論を抜きにして、新生児を殺すことが根本的に不道徳であるかどうかについて広く語っており、「新生児は選択できる自律的な存在ではないので、新生児を殺すことは自律性尊重の原則に反することはない」と述べている。

  「もちろん、子どもたちが、何歳で、自分たちがゆっくりとした時間の流れの中で存在する独自の存在と見なし始めるかを断言するのは難しいだろう」と認めた上で、「2歳や3歳の子どもたちと話をしても、死についての首尾一貫した概念を引き出すのは通常非常に難しい」と指摘し、「生命に対する完全な法的権利は、出生時ではなく、出生直後(おそらく1か月程度)まで効力がある」と決定することで、そのような懸念に対する「十分な安全圏」を確保することができる。」

 このテーマについて自分の職業の中で議論しているのは、シンガー一人だけではない。実際、彼は、嬰児殺しを議論する際にどこで線を引くべきかを考えている一連の生命倫理学者の流れの一端を担っているに過ぎない。

 例えば、オーストラリアで活躍する2人の生命倫理学者、アルベルト・ジュビリーニ(Alberto Giubilini)とフランチェスカ・ミネルバ(Francesca Minerva)は、2012年The Journal of Medical Ethics誌に「After-birth abortion: Why should the baby live?(堕胎後:その赤ん坊が生きるのは何故か?)」を発表している。その論文の中で彼らは、「乳児の道徳的地位は胎児のそれと同等である」と主張。それ故「堕胎を正当化する同じ理由で、嬰児の段階にいる潜在的な人(訳注:人としての十分な条件をまだ満たしていない、という意味に解する)を殺すことも正当化されるべき」とも主張している。重度の障害を持つ新生児を殺すことについて、生命倫理学者が何十年も前から主張してきたのと同じ古い議論をさらに展開するのかと誤解されないように、この二人は注意深く次の事例を補足している:「新生児は(最低)生きられる潜在力を持っているにしても、その家族の幸福が危機に曝される事例がある。」

 しかし、他の多くの学術論文とは異なり、この論文は一般の報道機関にも広く取り上げられた。The Guardianのような有力大手メディアでさえも「嬰児殺しは不快な話題だ。(しかし)そう感じても全員が*グレン・ベック(Glenn Beck)にはなるわけではない」と主張している。
*グレン・ベック(Glenn Beck)・・・アメリカ合衆国の保守系ラジオパーソナリティ、コメンテーターである。かつては、FOXニュースのテレビ番組で司会者を務めていた。2011年、保守系複合メディア企業「THE BLAZE」を設立、現在もオーナーを務める。( ウィキペディア)

 「赤ちゃんを殺すことは道徳的に許されている」という学術論文に否定的な反応が多かったことに驚いたのか、この二人の筆者は、「一般の人々は、あまりに無知なため生命倫理という高度に学術的な分野で行われているこの複雑な議論を理解できないのだ」とやり返し、非難した。



 出産後の中絶についてこの記事を書こうと決めたとき、私たちの論文がこのような激しい議論を引き起こすとは思いませんでした。

 「なぜダメかって?そんなこと聞くまでもないでしょう!」と、ウェブ上いたるところで繰り返されます。それに対する答えはとても簡単です。私たち二人の記事は、このテーマや私たちの主張をすでによく知っている生命倫理学の仲間たちに読んでもらうことを想定していたということです。実際、サバレスキュ(Savulescu)教授が彼の編集記で説明しているように、この議論は40年前から続いています。



 この研究者たちの反応について別に何か言われるかもしれないが、上に引用したことは彼らの研究に対する不誠実な弁護というわけではなかった。この論文を掲載した『The Journal of Medical Ethics』誌の編集者であるジュリアン・サバレスキュ(Julian Savulescu)は、その論文を擁護して、赤ちゃんを殺すことが許されるかどうかについての学術的な議論は、少なくとも1960年代にまでさかのぼると実際指摘している。DNAの構造を共同発見したフランシス・クリック(Francis Crick)は、政府が貧しい人々や望ましくない人々の繁殖を防ぐために、政府発行の出産許可証を必要とすることを提案した自他共に認める優生思想家であり、出生後に特定の遺伝子基準を満たしていることが判明した場合にのみ、子供の生存を認めるべきであると提案しているのだ。

 実際、医療倫理の専門誌には、まさにそのような議論が次のように数多く掲載されている。

①1992年にThe Hastings Center Report誌に掲載されたダン・ブロック(Dan Brock)の「自発的積極的安楽死」に関する論文
②1997年にThe Hastings Center Report誌に掲載されたジョン・ハードウィグ(John Hardwig)の「死ぬ義務はあるのか?」を問う論文
③ヘイスティングスセンター副所長のナンシー・バーリンガー(Nancy Berlinger)による2008年の公式声明:「子供へのワクチン接種を良心に基づいて拒否することを親に許すのは、いくつかの点で問題がある」

 これらの倫理学の教授達はこれまで知られていなかった、そして注目されていなかった学問の片隅で苦労しながら、世界中の人々にとって文字通り生死を分ける政策の舵取りにおいて、ますます大きな影響力を持つようになってきている。


 リチャード・J・ノイハウス(Richard J. Neuhaus)が執筆した1988年の予知的論文『優生学の再来』から:


 医療倫理学者や生命倫理学者と呼ばれる何千人もの人々は、考えられないことから出発し、議論可能という途中経過を通過しながら、それが正当化できるものになり、最終的には例外はあり得ない、というところまで専門的な観点から全体の議論を引っ張っている。その過程で、やっかいな問題にあまり時間をかけすぎて考える人は、「専門的にはその点は解決済みになっているのですよ」と言われるのがおちだ。実際、たいていの場合、専門家たちが必死になってやっているのは、道徳的な問題は何もないというお墨付きも得ぬまま自分たちがもう始めてしまっていることの帳尻合わせだ。



 確かに、生命倫理学者は、一般的に言って、訓練を受けた医師でもないし、訓練をうけた研究者でも医療従事者でもない。彼らは(医療現場には身を置かない)学者として、医師や研究者の言葉を字面通りに受け取るしかない。しかし、どの医師?誰の研究?必然的に、WHO(世界保健機関)、AMA(米国医師会)、その他の組織のそれとなるが、これらの組織は、その内部の人間でさえも認めているように、医療上の必要性だけではなく、組織を支援する億万長者の恣意的な気まぐれに左右される。

 その結果、生命倫理学の教授たちは、権威者と奉られ、医学的なアドバイスをするだけでなく、どのような医療行為を受けることが道徳的に義務づけられているかについて、一般の人々にお説を垂れるまでになっている。人々が自分の体の状態をどう感じているかにはお構いなしだ。

*CLIP (0m35s-1m27s)

出典: Emanuel: Wearing a mask should be as necessary as wearing a seatbelt


ジュリアン・サバレスキュー:

 世界には、すでにワクチン接種を義務化している国があります。オーストラリアでは、「no jab, no pay」といって、予防接種を受けていない子どもには育児手当を出さないという政策がとられています。イタリアでは罰金が科せられます。アメリカでは予防接種を受けていないと学校に通えません。これらの政策は、いずれもワクチン接種率を向上させ、問題なく実行されています。

出典: “Mandatory COVID-19 vaccination: the arguments for and against”: Julian Savulescu & Sam Vanderslott


 

ケリー・ボウマン(Kerry Bowman):
 ある形式を持ったワクチン・パスポートの流れはもうほぼ止められません。旅行の際には、事実上当然のことになっています。また、イスラエルのようにグリーンカードを導入している国もあります。これらはすべて、ワクチンを接種した人は簡単にはウイルスを広げられない、つまり感染させられないという前提のもとに行われています。それはまるで科学についての私なりの読み取りみたいに見えます。大半のワクチンについて当てはまるように見えます。だから、それが問題になってくるのでしょう。

 民主主義社会では、ワクチンを拒否する人もいれば、ワクチンを打てない人もいるのだから、そんなことは絶対にできないと言う人がいます。しかし、ここで反対の意見があります。ワクチンを接種した後、1年間都市閉鎖をしてもう他の人に感染させるリスクがなくなったカナダ人に対して、その自由を制限し続けることは本当に公平なのでしょうか?

 さあ、この議論について相反する二つの立場が出てきました。

出典: ‘Vaccination passports’ a near certainty says bio-ethicist | COVID-19 in Canada


 生命倫理の分野は、その発足当初から、その中核となる機関を設立した正真正銘の優生学信奉者たちから道徳的なヒントを得てきた。この優生思想を持った学者たちにとって、現代の医学の進歩がもたらす重要な道徳的問題は、本質的に常に実利的な意味を持っている。強制的なワクチン接種や強制的な不妊手術は、地域社会にどのような価値をもたらすのか?水道にリチウムを入れることでより幸せな社会になるのか?新生児を殺すことでもたらされる家族の救いは、殺される時のその赤ん坊の不快さを上回るのか?

 このような考え方の行間から読み取れるのは、「価値」、「幸福」そして「安心感」を定義するものは何か、そしてこれらの抽象的な概念をどのように測定し、比較するのかという、すべてその中に組み込まれた前提だ。そうこうするうちに、個人の価値は、恣意的に決められる集団の利益と対抗するように調整することができるし、そうすべきだという功利主義の基本に関わる前提が考慮されることはほとんどなくなる。

 だが、一般の人の大半は、この種の疑問が、生命倫理学の教授たちによって問われていることを知らない。ましてその答が出ていることなど、なおさらだ。訳の分からない学術誌でのやりとりだからだ。一般人は、こういう議論についての知識を欠いていることで文字通り滅びてしまうかもしれない。

 すべてが平等であるならば、こういうタイプの思念はこれまでずっとやってきたように扱われることになるだろう。つまり、象牙の塔に住む学者の意味の無い室内ゲームとして、その狂った思念を人に押しつける権限を一切持たずにやれ、ということだ。しかし、(現実は)すべてが平等ということではなくなっている。

 エゼキエル・エマニュエルは、社会を変えるための危機管理の有用性について、兄のラームのノートを参考にしたのか、「戦争や恐慌、その他の大きな内乱が起きたときにのみ、医療制度改革が実現する」と2011年に宣言した。彼はそういう異変のリストの中に「パンデミック」は入れなかった。その必要もなかった。この1年の出来事が証明しているように、危機が起きていると言われれば、国民はこれまでは考えられないとされていたことを、誰に指図されるまでもなく自分から進んで考慮するようになる。

 強制的な予防接種。免疫(証明)パスポート。バイオセキュリティー(生物テロ対策ができている)国家の創設。優生学の影響を受けた生命倫理の哲学者たちが、初めて実権を握ろうとしているのである。そして、このような学者たちが何十年もかけて行ってきた議論を、一般の人々はまだほとんど知らない。

 少なくともビル・ゲイツはやっとホッとできる。ついに「生命の選別委員会」についての議論を持てることになったのだから。

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