実はキング牧師は即死ではなく、病院で殺されたのだ!マーティン・ルーサー・キング暗殺の真実

10 January 2021
<記述原文 寺島先生推薦>
The Plot to Kill Martin Luther King: Survived Shooting, Was Murdered in Hospital
マーチン・ルーサー・キングは陰謀により殺された。その陰謀は当時のFBI長官、J・エドガー・フーバーが仕組んだものだった。この記事はウィリアム・ペッパーの著書の要旨をまとめたものだ
グレイグ・マッキー著
グローバル・リサーチ
2021年1月10日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>
2021年3月1日
この記事ば2020年のグローバル・リサーチの全記事の中で最も人気のあった記事だ。
この記事の初出はグレート・リサーチの2016年9月5日だ。この記事には、アメリカ合衆国の真の姿や反人種差別の真の姿が描かれている。さあ、「本当の敵は誰なのか」、共に熟考しようではないか。
1960年代後半、我が国において或る明るい瞬間があった。その時、私たちは確かに自分の国を変えることができると信じていた。私たちには誰が敵なのかがはっきり見えていた。その敵が、すぐ近くに見えていたし、私たちは、その敵への対策も持っていたし、勝てると思える戦いだった。私たちが手にしていたホンモノの前では、奴らの考えなど空洞に過ぎなかった。しかし、私たちのホンモノは暗殺者の凶弾に倒されてしまったのだ。 – ウィリアム・ペッパー (15頁,『キング暗殺計画』)
新たに明かされた事実は素晴らしいものだ。しかしメディアはきっとこの事実に関心を示さないだろう。
人権問題専門の弁護士のウィリアム・ペッパーによるほぼ40年間の調査のおかげではっきりわかったことは、マーティン・ルーサー・キング牧師は陰謀により殺されたということだ。そしてそれを仕組んだのは、当時のCIA長官だったJ.エドガー・フーバーであり、米軍やメンフィス警察署やテネシー州メンフィスの「デキシー・マフィア」配属の犯罪者たちも加担していたことも、だ。キング牧師暗殺に関するこれらの事実やそれ以外の詳細については、ペッパーが著した三部作の中で描かれている。その完結作が最近出版された『キング暗殺計画』だ。そして一冊目が『殺人命令』(1995)であり、二冊目が『国家による犯罪 』(2003)だ。
主流メディアからの情報は明らかに皆無であり、法廷から得られる情報もほとんどない中で、ペッパーはなんとか小さな情報を繋ぎ合わせて以下のことを明らかにした。それは、1968年4月4日にメンフィスでいったい何が起こったのか、誰が命令を下し、カネを渡したのか、どうやって偽りの犯人候補が選ばれたのか、そして銃の引き金を引いたのは、本当に誰だったか、についてだ。
ペッパーが明らかにしてくれたこれらの情報がなければ、キング牧師暗殺についての真実は闇に葬られ、歴史から消されてしまっていただろう。目撃者たちも墓場まで秘密を抱えたまま亡くなってしまっていただろう。そして、キング牧師はジェームス・アール・レイという名の人種差別主義者の暗殺者の単独犯罪のため亡くなったというウソの公式説明が「事実」であるとされたままになっていただろう。
しかし、ペッパーのおかげで、レイは濡れ衣を着せられていただけで真犯人ではなかった事が分かっている。メンフィス警察署の或る警察官が致命傷となる一発を撃ち込んだこともわかっている。そして第902軍事情報団に属していた射撃者2名がメンフィスに派遣され、もし一人目の射撃者がしくじった時の予備のために待機していたことも、だ。 さらに驚くべき情報も手に入っている。それは、ペッパーがジョン・ダウニー大佐と面会したという事実だ。ダウニー大佐は、この計画に加担していた軍部の指揮をとっていた人物で、リンドン・ジョンソン大統領の元ベトナム情勢説明係をつとめていた人物だ。さらに、私たちにわかっていることは、計画実行の際に射撃時の写真が取られていたのだが、ペッパーはすんでのところでその写真を手に入れる所までいった、という事実だ。
残念ながら、主流メディアはペッパーのこの貴重な情報を全く無視しており、レイをキング暗殺の単独犯人だという決めつけに固執している。実際、ペッパーが詳しく記述しているのだが、偽情報を流そうという取り組みが、多くの主流メディアの記者たちの協力のもと、ほぼ半世紀もの間繰り広げられてきたのだ。 ペッパーによると、今日まで続いている、この嘘情報を撒き散らそうという企みが功を奏しているせいか、主流メディアは、彼が書いた内容にはもはや関心がない、とのことだ。
「権力層にとったら、私のことなど痛くも痒くもないようなんです」 ペッパーはインタビューでこう語った。
「私は自分が権力層に恐れられているとは思いません。本当に。現在は、メディアを抑え込むことが上手くいっているので、私のようなものを、永久に頬かむりさせて、隠しておくことができるのです。この本が主流メディアできちんと取り上げられることはないでしょう。テレビやラジオで流されることもないでしょう。権力層はメディアを押さえ込んでいるからです。60年代の状況もひどいものでしたが、今ほどひどい状況はこれまでなかったでしょう」
そして『キング暗殺計画』で最も驚くべき事実は、(もしかしたらその情報はまた聞きなので当てにならないという人もいるかもしれないが)キング牧師が聖ヨセフ病院に搬送された時点ではまだ息があったという事実だろう。そして彼は病院で殺された、というのだ。彼を救おうとすべきはずであった医師の手によって。
「この事実がおそらくこの本の中で最も衝撃的な事実だと思います。偉大な指導者が最後にどのようにして私たちから引き離されることになったのかの真実です」。ペッパーはこう語った。(なお、この記事で「ペッパーが語った」という表現を使った場合は、それはペッパーがインタビューで語った内容である。著書からの引用の場合は、その都度ことわりを入れる)。
この病院の話をペッパーに伝えたのは、ジョルトン・シェルビーという男性だった。ジョルトンの母のルーラ・メイ・シェルビーは、キング牧師暗殺の夜、聖ヨセフ病院で治療の助手をしていた。シェルビーはペッパーにシェルビーの母親が狙撃の翌日帰宅した時に家族を集めて語った内容を伝えた。 (シェルビーの母親は、狙撃の夜は帰宅を許されなかったのだ) 。シェルビーは彼女がこう言ったことを覚えていた。「信じられない。あの人たちが、キング牧師の命を奪うなんて」
彼女の話によれば、外科部長のブリーン・ブランド医師が、スーツ姿の二人の男と緊急治療室に入ってきたそうだ。キングの治療に取りかかっていた医師たちを見るや、ブランドはこう命じた。「その黒人の治療をやめて、死なせるんだ!そして、この部屋にいるものはみんな出ていくんだ。今すぐに、だ。みんなだ」
ジョントン・シェルビーによれば、彼の母親ルーラ・メイは3人の男が唾を飲み込み、それから唾を吐いた音を聞いたそうだ。ルーラ・メイが家族に語ったのは、彼女が部屋を出る際に、キングから呼吸器が引き抜かれ、ブランド医師がキングの頭に枕を巻き付けたのを肩越しに見たことだった。(ペッパーの著書には、ジョントン・シェルビーがペッパーに語った内容の詳細がすべて書かれている。なので、読者はシェルビーの話に信ぴょう性があるか、自分で確かめることができる。なお、ペッパーは、シェルビーの話を信じているようだ )。
そして、2つ目の非常に貴重な情報源はロン・アドキンスだ。ロンの父、ラッセル・アドキンス・シニアはディクシー・マフィアのギャングの一員であり、この暗殺計画の共謀者のひとりだった。ただし、ラッセルは暗殺の1年前に亡くなったのだが。ロンがペッパーに伝えたのは、ロンは父のかかりつけだったブランド医師が父にこういうのを耳にしたことがあったという話だった。それは、もしキング牧師が射撃を受けても死ななかった時は、必ず聖ヨセフ病院に搬送されなければいけない、ということだった。その話について、ペッパーはこう語っている。
「ロンが覚えているのは、ブリーン・ブランドがロンの父に「キングが射撃を受けても死ななかったならば、必ず聖ヨセフ病院に連れてくるようにしないといけないんだ。キングを病院から立ち去らせてはいけないんだ」と言っていたことだったそうです」:
狙撃事件があった時まだ16歳だったロンは、父が行くところはほとんどどこでもついて行かされていたようだ。なので、ロンは暗殺が計画され、実行された時に何が起こったかについて、詳しく証言することができたのだ。
「私はロンの言っていることは完全に信頼できると思っています」とペッパーは語った。「ロンには厄介事がついて回っていたと思います。ロンが若い頃に起こった出来事のせいで、ロンの人生はいろいろな苦境に囲まれてきたと思います」
ロンの告白も著書に掲載されている。ペッパーによればこの告白は非常に重要なので、読者自身が、その信ぴょう性を判断して欲しいと解説している。
「私の望みは、これらの決定的な瞬間や決定的な事実の告発の全文が私の本に書かれていることを知ってもらうことなのです。そして、読者にその告発を読んでもらって私の言っていることが正しいかどうか判断して欲しいのです」とペッパーは話している。
ブランド医師が自分の父親に言った話を伝えてくれているだけではなく、ロン・アドキンスは父ラッセル・シニアのもとに、クライド・トルソンが何度も訪ねてきた話もしてくれている。トルソンは当時のFBI長官J・エドガー・フーバーの右腕だった。ロンが「クライドおじさん」と呼んでいた、FBI高官のトルソンは、フーバーの代理として、何度も父アドキンスと彼の手のものに現ナマを届けていたそうだ。子アドキンスによると、その報酬はマーティン・ルーサー・キングの動きについての情報提供の見返りだったとのことだ。そして報酬を受けていたものの中には、サミュエル・「ビリー」・カイルズ牧師やジェシー・ジャクソン牧師もいたそうだ。
公式見解による基本設定
主流メディアによるジェームス・アール・レイの情報を調べれば、レイはマーティン・ルーサー・キングの殺人者だという記述を目にするだろう。そうだ、リー・ハーベイ、オズワルドとサーハン・サーハンがそれぞれ、ジョン・ケネディとロバート・ケネディの「暗殺者」とされているのとまったく同じように。
しかし、キング牧師殺害に関するペッパーの三部作のすべて、あるいはどれか1作でも読めば、レイはまったく殺人犯ではなかったことがはっきり分かるだろう。そして、レイはちょっとした罪をおかした軽犯罪者で、ただの「おまけ」に過ぎないことが。オズワルドやサーハンと同様に、レイは米国のディープ・ステートの指示で行われた暗殺の濡れ衣を被せられたのだ。ペッパーによると、この計画についての調査を深めて、米国のトップまで繋がっていることが分かったそうだ。
「全てのことは当時の副大統領リンドン・ジョンソンが書いた筋書きに繋がっていたようなのです」。ペッパーはこう語っている。「ジョンソンは全てを把握していたと思います」。
射撃に関する公式説明によれば、4月4日の午後5時50分、カイルズはロレイン・モーテルの306号室をノックし、キング牧師と彼の同伴者たちに、予定されていたカイルズ宅での夕食会に遅れるので急ぐように知らせた。それからカイルズは、バルコニーを20メートルほど降りていき、そこで待っていた。6時ころキング牧師が部屋から出てきた後も、そうしていた。 (カイルズはずっとキング牧師の最後の半時間中自分は部屋にいたと主張しているが、ペッパーはそれが事実ではないことを証明している)。
黒人過激派グループ「インベーダーズ」のメンバーが、キング牧師を訪問しようとこのモーテルに泊まっていたのだが、彼らは射撃の直前に、モーテルの従業員の一人から、彼らの部屋代が、南部キリスト教指導者連盟(以降SCLC)から支払われなくなったことを理由に、直ぐに部屋を立ち退くように伝えられている。メンバーたちが、誰の指示なのかを問いただすと、それはジェシー・ジャクソンだ、という回答だった。射撃が行われた時、ジャクソンはプール付近で待機していた。ロン・アドキンスもジャクソンがロレイン・モーテルのオーナーに電話をかけ、キング牧師に、安全だった中庭側の部屋から、外から見える、道に面した2階の部屋に移るよう要求したことを認識している。
キング牧師がメンフィスに来る時は、メンフィス警察署は、いつもは黒人特別部隊を配置してキング牧師を保護していたが、その夜はそうしていなかった。そして緊急補助部隊はロレイン・モーテルから消防署に引き上げられていた。その消防署はモーテルを見渡せるところにあった。ペッパーが掴んだ情報によれば、メンフィス消防署にはたった2名の黒人しかいなかったのだが、その2名が射撃の前日に翌日は消防署で記録の仕事をしないよう伝えられていた。そして黒人探偵エド・レディットは射撃の一時間前に、「家にいないと命の保証はない」と脅されていた。
キング牧師が部屋を出たほんの1分後、一発の銃弾が発射され、弾丸がキング牧師の顎と脊髄を貫通し、キング牧師は直ぐに倒れた。弾はマルベリー通りから発射されたように見えた。キング牧師は急いで病院に搬送され、7時ちょっと過ぎに、その病院で、死が確認された。
公式説明によれば、銃弾はジムズ・グリルというバーの上の民宿の翌日から発射されたことになっている。そのバーはマルベリー通りの裏側で、サウス・メイン通りに面している。しかし、ペッパーの調査により、その銃弾は実は、そのバーと通りの間にある茂みから発射されたものだと分かったのだ。実はその際にレイを目撃した唯一の「目撃者」は、チャールズ・ステファンズというメロメロに酔っ払った男で、後にレイの写真を見てもそれがレイだと分からなかったそうだ。 タクシーの運転手のジェームス・マックローは、ステファンズの乗車を拒否したそうだ。それはステファンズがレイを見たとされる時間の直前の話だった。
狙撃者を隠した茂みは、射撃の次に日に、都合よく刈り取られており、射撃犯がそこに身を隠すとは考えにくいという、間違った印象を持たせるように細工されていた。しかし、ジャーナリストのアール・コールドウェルや、キング牧師のメンフィスでの運転手だったソロモン・ジョーンズなど数名の人々は、弾が茂みから発射されたと証言しており、それは民宿から発射されたという公式説明とは食い違っている。
キング牧師殺害に関するもう一人の犠牲者は、タクシーの運転手バディ・バトラーだ。彼は、射撃の直後に犯人が走り去る姿を見たと証言していた。彼によると射撃犯はその後マルベリー通りを南向きに走ってパトカー(後にそれはメンフィス警察署のアール・クラーク補佐官のものだと判明した)に飛び乗ったとのことだった。バトラーはこのことをタクシー会社の発車係と、それから同僚のルイ・ウォードに語っていた。バトラーはイエロー・キャブ社でその夜遅く、警察から事情を聞かれている。ウォードが翌日聞かされたのは、バトラーがメンフィス・アンカンザ橋を、スピードを上げて走っていた車から落ちたか突き飛ばされたかして亡くなったことだった。
バーのジムズ・グリルのオーナーであったロイド・ジョーワールドズは、後に自分がキング暗殺計画の共謀者であったことを認めている。後に彼は、キング牧師の家族が起こした1999年の民事裁判において、様々な政府関係者たちとともに、キング牧師殺害に関して責任があるという判決を受けている。その裁判はペッパーが原告代表をつとめていた。
「キング牧師の家族はこの裁判の結果や、この裁判の結果得られた真実について、本当に満足していました」とペッパーは語っている。
バーのジムズ・グリルでウェイトレスをしており、オーナーのジョワーズの恋人でもあったベティ・スペイツによると、彼女はジョワーズが、射撃の数秒後に、民宿の裏口に駆け込んで来るのを目撃したそうだ。その時の彼の様子は亡霊の如く蒼白で、腕にライフルを抱えており、テーブルクロスで身を覆い、カウンターの下の棚に隠れたそうだ。 ジョワーズはベティの方を向き、こう言ったそうだ。「ベティ、お前はオレを傷つけるようなことは絶対しないよな」。それに対してベティは「もちろんよ、ロイド」と答えたそうだ。スペイツは1990年代になるまではこれらのことを、人に話さなかったのだが、彼女はさらに証言しているのは、ジョワーズがキング暗殺の前に多額のカネを手にしていた事実だった。
先述のタクシー運転手、ジェームス・マックローによれば、ジョワーズはジェームスに事件の翌日ライフルを見せ、そのライフルがキング殺害に使われたと語っていたとのことだ。
「私たちはバーのオーナーのロイドと面会しました」とペッパーは説明している。「私たちがロイドに伝えたのは、私たちに協力せず、情報を教えてくれなければあなたは起訴されるかもしれない、ということでした。ジョワーズは、自分が大陪審に掛けられることはないとは思っていませんでした。ジョワーズは、自分が何をしでかしたか、自分が何に加担していたか、それで自分がいくら貰ったか、しか分かっていなかったのです。ジョワーズは、多額のカネを手にし、タクシー会社を買収して、ギャンブルでこしらえていた借金を(メンフィスの地元マフィアのフランク・リベルト)にチャラにしてもらっていました」
リベルトという人物は、ルイジアナ州のギャング組織のボスのカルロス・マルツェーロの手下だったのだが、そのリベルトもキング暗殺に加担していたことが分かっている。リベルトは卸売店を持っており、彼のお得意さんの1人にジョン・マックファーレンという人物がいた。 そのマックファーレンはその店で毎週買い物をしていたのだが、キング射殺の数時間前、リベルトが電話口でこう叫んでいたのを聞いている。「あのクソ野郎がバルコニーにいる時に撃つんだ!」。ネイサン・フィットルックと母親のラバダ・アディソン・ウィットロックは、リベルトがよく利用していたレストランを経営していたのだが、二人が証言しているのは、リベルトが「自分はキング暗殺に関わっている」と語っていたことだった。
偽犯人でっち上げ工作
多くの人に知られていない事実なのだが、レイは、暗殺の一年前の1967年には刑務所にいた。レイは1959年に犯した食料品店強盗の罪で20年間の服役中だった。何度か脱獄しようと試みて失敗していたレイだが、1967年の4月23日に脱獄に成功している。レイは知らなかったのだが、実はその脱獄は仕組まれたものだったのだ。というのは、レイはすでにキング暗殺計画において偽犯人役に選ばれていたのだ。その暗殺実行の1年も前から。
ミズリー州刑務所の監視員には、ラッセル・アドキンス・シニアから、レイを脱獄させるため2万5000ドルが手渡されていた(これはロン・アドキンスの証言による)。そのカネはFBI長官の右腕のトルソンが届けていた。このルートはキング暗殺の際に使われたカネの動きとまったく同じルートだった。
脱獄に成功したレイは、シカゴに行き、そこで数週間仕事をしていた。しかし捕まることを恐れたレイはカナダに向かい、主にモントリオールに身を潜め、名をエリック・S・ゴールトに変えた。彼は、偽名でパスポートを取得し、米国に送還される恐れのない外国に高飛びするつもりだった。
1967年8月、モントリオール港近くにあるネプチューン・バーという飲み屋で、レイは自分を「ロール」と名乗る謎の男と出会っている。ロールがレイに依頼したのは、怪しげな仕事に手を貸すことだった。その申し出をレイは受けた。その後数ヶ月間、レイは銃密売などのたくさんの仕事を行った。ロールはレイに報酬として車を与えていた。レイは常にロールからの連絡を待っていないといけなかった。レイは、このことについて、「ロールは暗殺当日まで、オレの動きを調整していたのだ」と語っている。
あるとき、レイは照準器付きの狩猟用ライフル銃を買うように指示された。 (ただ、ロールはレイが買ったライフル銃が気に入らず、別のものと交換させた)。レイはメンフィスに行くよう指示され、 (レイがメンフィスに着いたのは1968年4月3日だった)、ジムズ・グリルというバーの上にある民宿で、ロールとおちあい、翌日3時にそこで合うことになっていた。レイは、ロールにライフル銃を手渡していたが、レイによるとそのライフルを、その後二度と目にすることはなかったという。
レイは、バーのジムズ・グリルの上の階の民宿で部屋を取っていた。 (レイとロールは予定通り暗殺当日そこで会っている). 射撃の1時間前、レイは映画でも見に行くようにカネを渡されたが、レイはまず車のパンクを修理しようとしていた。というのも、ロールが車を借りたいといっていたからだ。しかし、レイが射撃の後に鳴らされたサイレンの音を聞いたとき、こわくなってそこから逃げ出したのだ。
捕まることを恐れたレイは、米国を出てイングランドにいき、1968年6月8日に、ロンドンヒースロー空港で捕まった。英国を出国しようとしていた時だった。キング牧師殺害の罪を追求されたレイは、二人目の弁護士であったパーシー・フォアマンに、レイがやったという証拠があまりにもたくさんあるので、罪を認めるよう圧力をかけられたのだ。さらに、レイは、フォアマンから、フォアマンは健康状態がよくないので、レイを保護することもできないということも伝えられていた。
「フォアマンは最初の弁護士を担当から外すためにあてがわれたんです」とペッパー^は言っている。
フォアマンはレイに、罪を認めて、500ドル出せば、他の弁護士を紹介すると言っていた。さらにそのことを文書で書き残すこともしていた。レイはこの申し出を受けてしまったことを彼の余生中ずっと後悔することになった。レイは罪を認めたことを取り下げようとしたが、うまくいかず、それから30年間服役することになった。そして、1998年、獄中で、がんで亡くなった。
ペッパーはレイの無実を確信している。
暗殺が起こって10年経って初めて、ペッパーはレイと面会することに決めたのだ。当初ペッパーはレイが暗殺者であることは当たり前だと考えていた。しかし、ペッパーが、レイと会う気になったのは、ラルフ・アバーナシー牧師の助言があったからだ。アバーナシー牧師は、キング牧師の後を受けてSCLC(南部キリスト教指導者協会)の協会長をつとめていた。アバーナシー牧師は暗殺の公式説明に納得がいっていなかったのだ。
著書の中で、ペッパーは1978年にレイと初めて会ったときのことを記述している。そのとき、ペッパーはすぐにレイが暗殺者ではなく、この暗殺事件の真相はまだ解明されていないことを理解した。ペッパーは、レイがこの暗殺計画において、意図的な役割を全く果たしていなかことを確信し、この件に関して、ペッパーはレイの代わりに真実を伝えなければならないという義務感を感じていた。そして、ペッパーはレイがなくなるまでその義務を果たしていた。
暗殺の公式説明を普及させようとしているものたちがいつも指摘しているのは、ロールはレイが作り出した架空の人物であるという主張だ。そして主流メディアの説明は、この疑問に対する答えは未解決である、としている。ペッパーはロールと関係があったと証言している目撃者に会っているだけでなく、グレンダ・グラボーという人物の助けを借りてロールを見つけ出してさえいるというのに、だ。(ペッパーは、ロールの名字はコエーリョであることも突き止めている)。グレンダは、1963年にヒューストンでロールを見たことがあると証言している。さらに彼女は1974年ごろに、ロールが憤慨した様子で、自分がキング殺害に関わっていることを認めていたと証言している。それはロールが彼女を強姦する前のことだったそうだ。グラボーはさらに、1963年にロールと一緒だったジャック・ラビーという人物を覚えていた。この驚くべきエピソードについては、『国家による犯罪』と『キング暗殺計画』、両著に記載されている。
これら両著の中で最も興味深い内容の一つは、暗殺後にアルバマ州のナンバープレートのついた白のマスタング(車種の名前)を調べるよう派遣されたドン・ウイルソンというFBIの若い工作員の話だ。(レイは白のマスタングに乗っていた)。その車が、乗り捨てられてあり、キング暗殺に関わりがあると考えられていたのだ。ウイルソンが車を開けると、何枚かの書類が車から落ちてきた。ウイルソンが後に調べて見つけたものは、1963年版のぼろぼろになったテキサス州ダラス市の電話帳の何ページか、だった。そこに書かれてあったのは、ロールという名と「J」というイニシャルと電場番号だった。その電話番号は、ジャック・ラビーという人物が経営しているラスベガスのナイトクラブの番号だと分かった。そのジャック・ラビーというのは、ダラス警察署の地下室にいたリー・ハーヴェイ・オズワルドを撃った男だ。2枚目には、何人かの人名とその横に金額が書かれている表のようなものが書かれていた。ウイルソンはこの証拠を保管しておくことに決めた。それを上に提出すれば、永遠に闇に消されることを恐れていたからだ。ウイルソンはその証拠を29年間保持し続け、それをペッパーとキング牧師の家族に見せたのだ。
真犯人が見つかった
『キング暗殺計画』の中で、もう一つ驚くべき情報は、致命傷となる一撃を発射した男を特定していることだ。ペッパーは、その人物の情報をレニー・B・カーティスという人物から得た。カーティスはメンフィス警察署でライフル銃保管の仕事をしていた。彼がペッパーにこの情報を伝えたのは2003年のことだったが、ペッパーはカーティスの証言をずっと秘密にしておいた。というのは、カーティスに命の危険があると考えていたからだ。2013年にカーティスが亡くなってから初めて、ペッパーは「真犯人はメンフィス警察署警官のフランク・ストローサーである」ことを明かした。
「カーティスの命の安全を守るため、注意を払わないといけませんでした」とペッパーは語っている。
カーティスがペッパーに証言したのは、ストローサーが暗殺の4~5ヶ月前からキングについて話していたのを聞いた、ということだった。内容は、誰かが「ヤツのいかれた脳みそを吹き飛ばす」ということだった。カーティスによれば、ストローサーは、ライフル射撃場で射撃の練習をしていた時、あるライフル銃を使っていたとのことだ。そのライフル銃は4~5日前に消防署員が購入したものだった。その消防士がライフル銃をカーティスにみせて、こう聞いてきた。「この銃は、気にいったかい?いい銃だろ?」。カーティスが、「どこにでもある銃とかわらない」と答えると、その消防士はこう答えた。「いや、これは特別な銃なんだ。ほんとうにすごい銃なんだ」。レニー・カーティスが覚えていたのは、暗殺当日ストローサーは丸一日その銃で練習していたことだった。 (ストローサーは彼が当日、どこで何をしていたかについて筋の通らない供述をしている)
暗殺後、カーティスは自分がストローサーに、脅されるかのようにつきまとわれていたことを証言している。以下はペッパーの記述だ。
「レニー・カーティスによれば、後に彼は自分の身の周りで奇妙な出来事がおこっていることに気づいたそうだ。部屋に入ろうとしたら、家のガスが勝手についたことがあったり、タバコに火をつけていたが、ドアを開けるとガスのにおいがして、すぐに消したこともあったそうだ。見知らぬリンカーン(自動車)がレニーのアパート前の通りに定期的に駐車されていて、レニーはその車におびえていたという。ある朝、そこに車が止められていた時、レニーは自分の車に飛び乗り、その場を去ろうとすると、そのリンカーンが後をつけてきたこともあったそうだ。レニーは運転手の顔を見ることができたそうだ。それはストローサーだったのだ。
著書の中で、ペッパーはストローサーと面会した様子を記述している。ペッパーによれば、ストローサーは根っから黒人を毛嫌いしている人物だった。
「ストローサーは黒人に全く敬意を示していませんでした」とペッパーは語っている。「ストローサーは自分が人種差別主義者だとははっきり言っていませんでしたが、マーティン・キングに対してまったく同情心を示していませんでした」。
よい証言が取れることを期待して、ペッパーは、ストローサーがキング殺害に加担していることをバーのオーナーのロイド・ジョワーズがほのめかしているという嘘をストローサーに伝えたが、ストローサーはそのえさには飛びつかなかったそうだ。ペッパーはさらに、ストローサーに、射撃の後、あの茂みの中で足跡が見つかり、その靴のサイズが13だった(それは本当の話だ)ことをペッパーに伝えてから、ストローサーに靴のサイズをたずねた。
「ストローサーは、顔にちらっと笑いを浮かべてこう言いました。“13だ”、と」。ペッパーはこう語った。
ペッパーはさらに、ストローサーのことを知っている、タクシー運転手のネイサン・フィットルックにたのみ、ストローサーに「ストローサーが暗殺犯として起訴される可能性が高くなっている」話を伝えてもらった。それに対してストローサーはこう答えたそうだ。「オレを起訴して何になるってんだい。30年も前にオレがやったことだろ」。そして、はっとしてこう言い直したそうだ。「いや、オレが30年前のことで知っていることについて、さ」。
時の権力者に対する脅威
ペッパーの説明の通り、1960年代に存在感を増していたキング牧師は、権力者から嫌悪されていただけではなく、恐れられてもいたのだ。キング牧師には、平和と不服従の精神を訴えて、多くの人々を動かす力があっただけではなく、政界に打って出ようという意思もあったのだ。ペッパーによれば、反戦活動家のベンジャミン・スポック博士とともに、キングは第3党から大統領選に出馬する計画をたてていたそうだ。さらに、キング牧師は、権力者層を慌てさせていた。それは、キング牧師が、1968年の春に何十万人もの貧しい人々をワシントンDCで野営させ、彼らの窮状を皆に知らしめようとしていたからだ。
「権力者たちが恐れていたのは、デモの参加者たちが、求めていた要求を満たしてもらえず、その怒りをキング牧師が抑えきれなくなり、その中の過激的な集団が権力を握り、革命を起こしてしまうかも知れないことでした」とペッパーは説明している。「権力者たちには、そのような革命を押さえ込む組織がありませんでした。それは、軍がもっとも恐れていたことでした。その恐怖は正当であると思います」。
キング牧師はさらに、政界の権力者たちにとってますます恐れられる存在になっていた。それは、キング牧師がベトナム戦争に反対する立場をよりはっきりさせていたからだ。キング牧師は、ある記事と写真に感銘を受けていたのだ。ペッパーは、その記事を「ベトナムの子どもたち」という名で呼んでいた。その記事は1967年の1月にランパート誌に掲載されていたもので、のちにルック誌にも転載された。(ルック誌でこの記事を掲載した人物は、ビル・アトウッドである。ビルがペッパーに語ったところによると、ビルは前ニューヨーク州知事でありソビエト大使もつとめたアヴェレル・ハリマンから訪問を受け、ハリマンは、ジョンソン大統領からの言づてを伝えたそうだ。その内容は、アトウッドに、その記事を出版しないでいてくれないか、というものだった。この話はペッパーが調べたものだ)。
キング牧師が、正義と平和と平等の実現のために強力な力をもっていたという事実だけではなく、キング牧師はペッパーの友人だった。だからこそ、法律家でありジャーナリストでもあるペッパーは、キング牧師を失ったことについて対処してきたのだ。ペッパーは、誰がキング殺害の真犯人であるのかという真実を追い求めてきた。そして誤って真犯人だとされてきた人物、レイの濡れ衣を晴らすために戦ってきた。ペッパーはこう書いている。
「私にとってこの話は悲しみであふれた話だ。人々や組織が嘘や裏切りで固めた悲しい話だ。今回の調査で分かったことや、今回の調査で体験したことを振り返ると、私はある気持ちでふさぎ込んでしまう。それは、人間という生き物は、いくら職業倫理感を守っているとされる人間であっても堕落する生き物なのである、という避けられない闇と向きあわざるを得なくなるからだ。さらに私個人として、この長年にわたる調査からくる絶望感にさいなまれているのだ。そして、私がこれまでやってきたこの努力から、何か意味のある教訓が得られるのだろうか?と疑念を持たざるを得なくなってしまっている。 (『キング暗殺計画』14頁)
それでもペッパーはこの仕事をやりきったのだ。そして、我々は彼のその仕事に大きな敬意を払うべきだ。
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