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CIAのインドネシアへの関与、そしてJFKとダグ・ハマーショルドの暗殺

<記事原文 寺島先生推薦>The CIA’s Involvement in Indonesia and the Assassinations of JFK and Dag Hammarskjold

By Edward Curtin and Greg Poulgrain

Global Research
2020年11月22日

Greg Poulgrain
2016年7月2日




<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>
2021年1月30日

ジョン・F・ケネディ暗殺(1963年11月22日)追悼

 インドネシアの歴史と現在進行中の悲劇への米国の関与についての真実は、西側ではほとんど知られていない。 オーストラリアの歴史家グレッグ・ポールグレインは、数十年にわたり、その歴史の真実に人々の目を開かせ、否応なくこの醜い真実と対立・浄化させる努力を続けてきた。 それは、CIAとアメリカ政府が政権交代を支援し、消耗品とみなされた人々を大量に虐殺するという野蛮な陰謀の物語である。最新の著書『介入のインキュバス:ジョン・F・ケネディとアレン・ダレス間のインドネシア戦略対立』で、ケネディ大統領はアメリカのインドネシア政策を変えようとしたが、アレン・ダレスとCIAに反対され、結果的にJFKは殺害されたことをポールグレインはっきり書いている。 ケネディの死の前に国連事務総長ダグ・ハマーショルドが死亡、その後、何百万人ものインドネシア人、パプア人、そして東チモール人がアメリカの後ろ盾の下、殺害されたのだ。

※インキュバス : ヨーロッパ中世の伝説の、寝ている女性とセックスするという男の悪魔_英辞郎

 事実を精緻に捉えることで定評のある歴史学者でありながら、ポールグレインは同時に真実も語る稀有な人物だ。

 今回のインタビューでは、インドネシアをめぐるアレン・ダレスとケネディの相反する戦略、JFKとダグ・ハマ-ショルドの暗殺へのダレスの関与、インドネシアのスカルノ大統領の失脚へのCIAの関与、そしてその後のインドネシアと西パプア全域での虐殺事件など、著書の中で取り上げた多くの問題点を深く掘り下げている。

 良心を備えた人にとって、彼の声は傾聴に値する。

『介入のインキュバス』の序文で、あなたは次の問いを投げかけています。:「アレン・ダレスが、アメリカ大統領暗殺という手段に訴えたというのであれば、それはケネディの戦略ではなく、アレン・ダレスの『インドネシア戦略』を確実に達成するため、ということだったのだろうか?」と。この問いへの答は読者が決めることであり、それがこの本を書いた理由だとおっしゃっていますね。 この後半の記述には少し曖昧さがあります。 あなたの結論とは何だったのですか?

 ゆっくりと、ゆっくりとですが、私は、アレン・ダレスとジョン・F・ケネディの間に生まれたいろいろな不一致の中におけるインドネシアの役割を理解するようになりました。もう数十年になりますが、インドネシアの歴史と政治に関する講演や研究を行いながら、私は常にこの流れを辿ってきました。私は、インドネシアのアダム・マリク元副大統領に対して忘れられないインタビューをしました。そのインタビューのあと、1年も経たないうちに元副大統領は亡くなってしまいました。そのインタビューで、「中ソ対立に関連してインドネシアは大事なのです」としきりにマリク氏が言っていた理由が、私にはちんぷんかんぷんでした。私はずっと後になってから気がついたのですが、中ソ間の溝を察知したダレスは、その溝をさらに広げる楔としてインドネシアを利用したのでした。


 ブリスベンからインドネシアを訪れるのは、アメリカから行くよりはずっと近いので、私は長年にわたり、スカルノや60年代の政治について多くの人と話をしてきました。私は19世紀と20世紀の歴史を教えていますが、中でもインドネシアが独立するために苦労していた1950年代と60年代に私はずっと焦点を当てています。オランダは、3世紀以上もインドネシアを離れませんでした。なぜなら、彼らは世界で最も豊かな植民地を統治していたからです。

  ベトナム戦争が本格化する前、ワシントンの関心はラオスに向けられていました。いっぽうアレン・ダレスは以前からインドネシアに注目していました。しかし、アメリカ政府の政策や公式発表において、その政治的な不安定さ、豊富な天然資源、そして広い国土があるにも拘わらず、インドネシアが言及されることは滅多にありませんでした。インドネシアは東南アジアのほとんどの国の何倍もの人口(世界第4位)を抱えています。世界最長の群島であり、赤道をはさむその長さは、ロサンゼルスとニューファンドランド間に匹敵します。

 1963 年のインドネシアの民衆は、JFK を大統領在任中も大統領在任後も英雄と考えていました。しかし、インドネシアを「米国陣営」に組み入れ、冷戦の宥和を図ろうとしたケネディの戦略はインドネシア国外ではあまり知られていません。その事実は、私たちがインドネシアについて何も分かっていないということを本当に浮き彫りにしています。また、アレン・ダレスのインドネシアでの隠密作戦を知っている読者はどれだけいるでしょうか?1958年の作戦のことです。かつてダレスと一緒に働いていたフレッチャー・プロティ大佐によれば、ベトナムを除けば、これはCIA最大の作戦でした。 私は読者のみなさんは1960年代のインドネシアをあまりご存知なく、ケネディとダレスのそれぞれの戦略についてはもっとお分かりにならないだろうと思います。それで、インドネシアを中心に二人をつなぐ驚くべき証拠があることを読者のみなさんに知っていただくために、こういったことに光を当てる必要が出てきます。それは桁外れの政治的決闘であり、ダレスの勝利はケネディの死だけでなく、何百万人もの人々の死につながりました。それは現在も続いています・・・

その背景と二人それぞれの戦略についてお話しいただけますか?

 インドネシアの潜在的な富、特に石油と鉱物は、1920年代、弁護士のアレン・ダレスの目に留まりました。彼は、ロックフェラー・オイルの利害を代表し、オランダ東インド諸島の伝説的な石油王であるアンリ・デターディングに対抗していました。第一次世界大戦の時に諜報部に入ったアレン・ダレスは、1950年代にDCI(中央情報局長官)になった時も、ロックフェラーの石油利権と密接に結びついていました。彼の専門は政権転覆であり、これがインドネシアでの彼の究極の目的でした。彼の反スカルノ戦略は、ジョン・F・ケネディが大統領に選ばれる 3 年以上前から始まっており、ケネディの親スカルノ路線と対立するようになりました。ケネディのインドネシア戦略は、インドネシアと友好関係を結び、冷戦時代の同盟国にすることを前提としており、インドネシアを起点としてラオスや深刻化する南北ベトナム問題に対処することが彼の東南アジア政策の前提となっていました。1961 年、ダレスは自分が主導したインドネシアを中心とした裏工作の深さと巧妙さをケネディに明かしませんでしたし、 ケネディもダレスの戦略がどれほどの規模か、どれほど巧妙に行われていたか、分かっていませんでした。

アレン・ダレスのインドネシア戦略というのはインドネシアの石油と豊富な鉱物資源だけが目的だったのですか?


 1960年代初頭の冷戦は、ワシントンが中ソ陣営に対抗する中で激化していました。モスクワと北京の間に楔を打ち込むことが1958年のロックフェラー兄弟会議における決議事項のひとつでした。この会議には中央情報局長官のアレン・ウェルシュ・ダレスや彼とは戦後ベルリン以来つながりのあったヘンリー・キッシンジャーらが参加していました。キッシンジャーが考える「限定的核戦争」は会議で注目の的になっていました。1960 年代初頭に、モスクワと北京の間でイデオロギー的な分裂が確認されたとき、ダレス長官はこの情報を非常に重要と考えていたため、 体調不安定だった現職大統領アイゼンハワーにも、ジョン・フォスター・ダレスから引き継ぎ1959 年に国務長官に就任したクリスチャン・ハーターも知らせませんでした(ジョン・フォスターは癌で亡くなる前、弟のアレンが生涯の野望としていた国務長官を特権的に継承することは認めませんでした)。

 また、アレン・ダレスは新大統領ジョン・F・ケネディにも、中ソ分裂が現実のものであることを伝えませんでした。1961年大統領職に就いた1年目、ケネディはあっと言う間にダレスの宿敵となりました。2年目、ダレスはもはや中央情報局長官ではありませんでしたが、相変わらず強い権力を持っていました。そんな時、冷戦はキューバ・ミサイル危機で頂点に達しました。ケネディの大統領就任 3 年目、ダレスは、それまで暖めていたインドネシア戦略を実行する腹積もりでした。その戦略とは具体的には「米国によるニューギニアの主権問題への介入を正当化する」ことでした。つまり、インドネシアに軍的援助を大量に投入し、インドネシアを親西側にするという作戦でした。いっぽう、ケネディは、1958 年からダレスが権力掌握に備えて米軍基地で訓練していたインドネシアの陸軍将校を使うことを考えていたのです。しかしケネディの意図は、この軍隊を大規模な市民支援プログラムに利用するというものであり、それはダレスの意図とは真逆でした。しかし、最も重要な違いは、ケネディはスカルノに大統領を続けさせようとしていたのに対し、ダレスの戦略ではスカルノは最大の敵だったということでした。スカルノの急進的なナショナリズムの支援を受け、インドネシア共産党(以降PKI)は何百万人もの党員を集めていました。人々が共産党を支持したのは、共産党であれば、貧困からぬけだし、米を栽培するための小さな私有地を所有できる社会を作ってくれるという期待を持っていたからです。

そう言えば、こんなにも不誠実な行動をしてきたダレスはまた、ソビエトがピッグス湾侵攻の日を1週間以上前に知っていて、それをカストロに知らせていたことをCIAが知っていたことをケネディに知らせませんでした。つまり、ダレスは侵攻が失敗することを分かっていながら、とにかく侵攻を進めたのです。 そしてケネディを非難したのです。彼は信じられないほど狡猾な人間でした。

 かつて英国の諜報機関のトップであった人物が、アレン・ダレスを「史上最強の情報部員」と評したことがあります。このコメントは 1940 年代の彼の活動に言及したものですが、彼のインドネシア戦略を見れば確かにその褒め言葉は当たっています。ダレスは日本がインドネシアを戦時占領する前に、オランダ領ニューギニアには空前の鉱物資源と石油があることを知るようになりました。ニューギニアの山中で、ロックフェラー会社の一つが世界最大の金の天然鉱脈を発見しました。これに加えて、記録的な量で発見された原油は硫黄を含んでいませんでした(つまり、石油精錬は必要ないのです)。

 しかし、これらの天然資源の支配権を得るためには、まずオランダの植民地行政を排除しなければなりません。1949年にオランダ領東インド諸島でのオランダ植民地支配が終了したとき、オランダはニューギニアを手放さず、さらに12年間そこに居座りました。ダレスは、1962年、ケネディのパプア民衆に対する統治国をオランダにするか、インドネシアにするかの選択に力を貸しました。ダレスは後者を選びました。国連オプションが起こらないようにしたのです。国連オプションというのは、1961年にケネディと国連事務総長のダグ・ハマーショルドの間で秘密裏に議論されたものです。ケネディは国連による介入に賛成でした。そうすれば、インドネシア(東南アジアにおける冷戦時代の必要な同盟国)にするか、オランダ(NATOの同盟国であった)にするか、の選択は必要なくなるからです。ハマーショルドの意向としては、オランダとインドネシアの両方の主権主張を否定し、代わりにパプアの人々に独立を与えるつもりでした。

パプア独立という考え自体ダレスの怒りを買ったでしょうね。

 「介入のインキュバス」という言い方は、アレン・ダレスが何故、どのようにダグ・ハマーショルドのやり方を止めたかを示しています。ハマーショルドは国連を利用してニューギニアの主権論争に終止符を打とうとしていました。ダレスの介入とハマーショルドの死は、ダラスでケネディの身に起こった悲劇とゾッとするほど符合しています。ケネディは、そのため、やろうとしていたジャカルタ訪問ができなくなりました。 ケネディのジャカルタ訪問は、ディーン・ラスクが手書きの手紙で私に説明してくれたように、マレーシアとの対立を停止させるためのものであり、そうなればスカルノの「終身大統領」としての地位は確実に強化されたでしょう。ケネディが考えていたジャカルタ訪問は、ダレスのインドネシア戦略の死を意味していました。

 西ニューギニア(西パプア)の山中にある広大な金と銅の鉱床がずっとスカルノ大統領の管理下にあったならば、それらは主にインドネシア国民の利益のために使われていたでしょう。インドネシアがスハルト将軍の支配下に入ると、逆のことが起こりました。実際、ロックフェラー企業であるフリーポート・インドネシアとの契約が調印されたジャカルタのビルの外では、陸軍の戦車が街をパトロールする音が聞こえました。スマトラ島やインドネシアの他の地域の膨大な石油資源も搾取されました。ダレスの側近の2人は後にこの天然資源の大鉱脈から恩恵を受けています。統合参謀本部のアーレイ・バーク提督とキッシンジャーはフリーポート・インドネシアの取締役になりました。数年前、金の価格が最高値を示していた頃、フリーポートの採掘事業の規模は、その年間の売上高で測ることができました。ほぼ200億ドルです。

ケネディのインドネシア戦略は機能したと思われますか?

  ケネディのインドネシア戦略はやればうまくいったでしょう。それがアレン・ダレスに突きつけられた問題だったのです。(インドネシアと)マレーシアの対立を止めることで、彼がノーベル平和賞にノミネートされる可能性は極めて高かったと思います。ケネディがインドネシア戦略を確実に為し遂げる意図がなかった、つまり、この対立を止め、インドネシアへの米国支援の再開を議会に認めてもらう目的でジャカルタを訪問する準備ができていなかったとは考えにくいでしょう。そうでないと、1964 年の大統領選挙で勝利することは見通せなかったはずだからです。東南アジアにおける彼の主要な外交政策は失敗とみなされたでしょうから、彼にはほかに選択肢がありませんでした。

  反ケネディ派の人々が、「ケネディのインドネシア戦略は個人的な政治的野心に駆られたものだ」として、ケネディを中傷することは簡単でした。何故なら、ケネディは、スカルノ大統領を支持していたことだからです。スカルノ大統領は米国の新聞で散々に言われていましたから。ですので、ケネディがスカルノを支持することは政治的な危険を孕むと見られていました。スカルノは 1920 年代までの政治キャリア全体を通じてナショナリズムを推進していました。一部のグループからは共産主義者、あるいは共産主義シンパの烙印を押されていました。ケネディ本人もこの問題に関しては一部の過激なメディアから共産主義者のラベルを貼られました。自分のインドネシア戦略に関して統合参謀本部の人間から十分な支持を受けようとしたダレスからは、ケネディの個人的な野心は、インドネシアの共産党である PKI に対抗する政治的手段としてインドネシア軍を使用する戦略を混乱させ、国益を損ねるものだと映りました。モスクワと北京はともに PKI に影響力を与えようと躍起になっていました。マレーシアとの対立について、北京はPKI の役割を推進しようとし、逆にモスクワはPKIが関わらないように、と動きました。モスクワが選んだのは、PKIの議席数の優位が見込まれるような選挙を行うことでした。両者の対立は激しく、イデオロギー的な対立はますます明らかになりました。ケネディがジャカルタを訪問すれば、中ソ紛争を公然と敵対関係に追い込むための楔として PKI を利用する機会は閉ざされたでしょう。

 1965 年後半から 66 年にかけて、スハルト将軍派の将校達の命令で、PKI が壊滅させられた後、中ソ国境で戦車戦という形で、公然とした敵対関係が勃発しました。もしケネディがジャカルタ訪問を進め、インドネシア戦略が成功していたら、推測の域を出ませんが、こんなあからさまな中ソ対立は起きたでしょうか?1965 年のインドネシアでの悲劇的な出来事は起きたでしょうか?あるいは、毒キノコのようなスハルト将軍は、また違った形で登場したのでしょうか?

インドネシア問題があったからダレスはJFKを暗殺したのだ、と結論づけるかどうかについてあなたは何も言っていません。このことについてのあなたはどういう立場を取りますか?

  フレッチャー・プロティ大佐のYoutubeでの50分のインタビューを見たことがありますか? そこで彼は彼のCIAの元上司であるアレン・ダレスが、長官としての最後の数年で、組織的に暗殺を行ったと言っています。そのやり方はあまりにも整然として冷酷だったのでプロティはCIAを「殺人会社」と呼んだほどでした。

見ました。プロティの洞察はすこぶる有益なものでした。

 
 例えば、1961年にコンゴで国連事務総長のダグ・ハマーショルド氏が死亡した飛行機事故を例に挙げてみましょう。昨年2015年、国連の調査により、最終的に彼の死は政治的な暗殺であると判断されました。この調査で重要な役割を果たしたのは、1990年代後半に「真実と和解委員会」でデズモンド・ツツ大司教が発掘した文書(南アフリカの諜報機関による10通の手紙)でした。アレン・ダレスの名前は、この飛行機事故に直接結びついていました。

 『介入のインキュバス』に収録したハマーショルドの右腕ジョージ・アイヴァン・スミスへの私のインタビューでは、ハマーショルドの悲劇的な死へのアレン・ダレスの関与について、コンゴではなくインドネシアが動機だったということを紹介しました。

そのインタビューについてお話しいただけませんか?あなたが書かれたハマーショルドの暗殺、JFK、そしてインドネシアは新しい観点ですし、とても重要です。
 


 ジョージ・アイヴァン・スミスの説明では、ハマーショルドはコンゴから戻ったら、国連総会で歴史的な発表をしようと計画していました。しかしそれは実現しませんでした。彼が発表しようとしたのは、西ニューギニアの主権をめぐるインドネシアとオランダの間の長期にわたる紛争に国連が介入することでした。もしハマーショルドがこれを行っていたら、アレン・ダレスの「インドネシア戦略」は完璧に台無しになっていたでしょう。独立を認められた後のコンゴ初代大統領については、すでにCIAにより暗殺されていたので重要な案件ではなかったのです。ハマーショルドの死に関しては、1975年にアメリカ上院が調査し、アレン・ダレスがこの暗殺を扇動することに直接関与していたことをはっきりさせました。

 ジョージ・アイヴァン・スミスが私に話してくれた内容と、ツツ司教からの証拠とを考え合わせると、アレン・ダレスがハマーショルドの死に関与した動機はコンゴではなくインドネシアが問題の中心だったことが分かりました。

 私が言いたいのは、1961 年にハマーショルドが知らず知らずのうちにダレス戦略を脅し、1963 年にはケネディもまたダレス戦略を脅したということであり、ダレスが何を計画していたのか、またその計画の中で何年にもわたって行われてきた隠密の陰謀を十分に認識していなかったということです。これがアレン・ダレスの「インドネシア戦略」と私が呼ぶものです。1963年までに、オランダ領ニューギニアとそこにある未発表の天然資源の大鉱脈がスカルノ支配するインドネシアに所属したことに関して、ダレスの戦略にはいくつかの段階があったことを再確認したいと思います。

1)ダレス戦略にはインドネシア、つまりインドネシア共産党(PKI)を、「モスクワと北京」の間の溝を広げるための「楔」として利用する作戦がありました。

2)1958 年にダレスが始めたインドネシアへの介入は、インドネシア陸軍将校の 3 分の 2 を米国で本格的に訓練し、政権転覆に備えることでした(実際の政権転覆が起きたのは1965 年でした)。

3) 西ニューギニアにある世界最大の金(と銅)の一次鉱床と、硫黄を含まない世界で最も純度の高い石油の採掘は、ロックフェラー関連企業(1920年代からダレスと繋がっていました)を勢いづかせました。

 ですから、あなたの質問への答えは「イエス」です。(ダレスにとって)インドネシアは冷戦の面では計り知れない利益をもたらし、(インドネシアで政権転覆が起こった時には)金、銅、石油の面では計り知れない利益をもたらしました。 (西ニューギニアには世界最大級の埋蔵量を持つ天然ガス資源があります。)

 ハマーショルドもケネディも、どれほど膨大な金が絡むのかを分かっていなかったし、ダレスがどれほど冷酷なことをしでかすかについても詳しいことは何も分かりませんでした。上述したインドネシアの状況が、最初は1961 年、そして次に1963年の殺人の動機を与えました。最初はハマーショルド、そして次はケネディでした。

ケネディとハマーショルドといえば、高尚な知性と精神性が結びついた存在と私は考えることが多いのです。ダレスはその二人を殺したということですか?


 公式な記録によると外国の指導者が何をするかを正確に予測したり、ダレス自身のプロジェクトの結果を予測したりする際に、その成否の可能性を中央情報局長官ダレスはよくギャンブルの比喩を使って判断していました。 例えば、成功の可能性は「丁か半か」、といった具合です。1961 年のハマーショルド飛行機事故のため、国連総会は5年前にダレスが仕掛けたインドネシア戦略に干渉できなくなりました。政権転覆に向け否応なく事態が進行したのです。中ソ間の溝を確認できる証拠が山のように出てきて、1963年までにこの戦略を是が非でも成功させることが必要になりました。1963 年にケネディが提案したジャカルタ訪問は、政権転覆後に入手可能になるであろうインドネシアの大量の天然資源に関する長年の諜報活動を台無しにする恐れがある一方で、 ダレスの冷戦工作を脅かすものでもありました。もしケネディがそのまま進んでいたら、インドネシアを中ソ分裂の楔として利用するという当時のダレスの戦略は台無しにされていたでしょう。(インドネシアと)マレーシアの対立は、インドネシア経済に悲鳴を上げさせるようなインフレに追い込むことで、ダレスにとっては2つの意味で機能していました。つまり、①スカルノ退陣に追い込めること、②同時に、中ソ間の亀裂と対抗心を高める、ことです。そのようなものとして、ケネディのジャカルタ訪問は国益に反していると考え、統合参謀本部にとっては、こちらの方がはるかに重要な意味合いがあったのです。ダレスにとってケネディの動きを止めることは急務でした。すでにハマーショルドは排除してあったので、ダレスの選択肢は、彼お得意の無神経な比喩に倣えば、あとは「一か八か」でした。

ここから一気に1965~66年に飛んでみませんか?この時期に政権転覆があり、例の虐殺が始まりました。将軍達の殺害、その非難先、スハルトとCIAの繋がり、などについてお話しいただけませんか?このことについては詳細に調べていらっしゃいますよね

 陸軍の将軍達を殺害すること(拉致してクーデターの噂を説明させるためにスカルノの下に連行するのではなく)は「9月30日事件」の計画には入っていませんでした。この運動の鍵となる人物であったアブドゥル・ラティエフ大佐はそう言っています。将軍達を殺したことが全てを変えました。インドネシアの歴史が変わり、スハルト将軍が政権を取り、大混乱となり、20世紀最大級の大量殺人事件を引き起こすことになりました。DNアディット(インドネシア共産党議長)の指導下にあったインドネシア共産党(PKI)は、中ソ圏外では最大の共産党であり、それが壊滅したことは冷戦のひとつ転換点になりました。6年前にそのことが確認され、CIAが詳細に監視していたモスクワと北京の間の深刻な不和は、このPKIの運命によって輪を掛けることになりました。かつては一枚岩の共産主義圏と言われていたものが、今ではモスクワと北京がお互いに非難と罵声を浴びせ合い、すぐに公然とした敵対関係(例えば、ウスリー川での戦車戦など)に発展しました。1970年代初頭には、ソビエト連邦からの核攻撃を想定して、北京の人々は、地下シェルターへの大量避難を含む避難訓練を受けさせられるくらいでした。

訳注 9月30日事件とは、1965年9月30日に起こった、大統領親衛隊第一大隊長であったウントンらが「インドネシア革命評議会」を名乗り、スカルノ大統領に対するクーデターを計画しているとされた6名の陸軍将軍を殺害したクーデターのこと。このクーデター後、スカルノ大統領はクーデターを支持していたとされ失脚し、スハルト政権が発足。またこのクーデターに加担したとしてインドネシア共産党の多くの人々が虐殺された。

ラティエフとはお話ししていますよね。彼は何を言っていました?

 ラティエフ大佐とのインタビューは、スハルトが辞任した数日後のチピナン刑務所で行われました。私がジャカルタに到着したのは、暴動と放火が始まった直後の1998年5月でした。私は空港が閉鎖される前に空港から出た最後の人間でした。それから国会の建物を占拠している60,000人のインドネシアの学生達に食糧を供給する活動に加わるようになりました。主に学生達の抗議活動が功を奏し、スハルトは辞任せざるを得なくなりました(最終通告は米国の国務長官マドレーヌ・オルブライトが突きつけた「ノー!」でしたが)。そして服役中の人たち(その中には30年間服役していたラティエフもいました)に食事を運んでいた学生の一人が、私がチピナン刑務所に入る手助けをしてくれました。

 「9月30日事件」の主要な軍人は、ラティエフ、ウントン、スパルジョの3人でした。ラティエフはジャカルタ軍司令部の司令官でした。6人の将軍を拉致する計画には、彼を味方につけることが不可欠でした。「将軍たちを殺す計画はなかったし、誰かを殺す計画もありませんでした」とラティエフは何度も私に言いました。運動の頭目とされていたのは宮殿警備隊長のウントン中佐でした。しかし階級が一番上だったのはマレーシアとの対立のためカリマンタンのポンティアックに駐留していたスパルジョ准将でした。彼はスハルト将軍(マレーシアとの対決キャンペーンを張っていました)からジャカルタに招かれていましたが、彼が到着して最初に訪問したのは、運動の実際の指導者であるスジャム(フルネーム:カマルザマン)でした。スパルジョのこの訪問は、拉致が始まるわずか2日前のことでした。スパルジョの「准将」という位階は「9月30日事件」に対する社会的評価を高めました。そしてスカルノ大統領に対するクーデターを計画していると非難された「将軍評議会」に叛旗を翻す計画に彼は暗黙の了解を与えたのでした。彼はこの運動には一貫した戦略や軍事計画がないことが分かりましたが、このような緊急の脅威には即座に対応する必要があったため、進んでこの運動の前進を許しました。その代償として彼は人生を棒に振ることになりました。

 ジョン・ルーサの著書『大量殺人の口実』では、スジャムがこの運動のリーダーであったとはっきり述べられています。ルーサは、PKI内の秘密組織「特別局」に関して、スジャムがどんな役割をしていたか説明してくれています。その「特別局」とは、アイディットが1964年後半に始めた部局であり、その目的は、軍隊内でPKIをずっと支持してくれる可能性のある人物と友人関係を結ぶことでした。1950年代の初めから、アイディットはスジャムがある問題について政治的に対立する両陣営と関わりをもつ能力を持っていることを知っており、正式な軍事訓練を受けていないにもかかわらず、彼がそういった仕事に適した人物だと考えていました。 どうやらアイディットが知らなかったのは、1945-49年オランダからのインドネシア独立闘争の際に、スハルトと密接に接触していたスジャムに軍事的経験があったことです。また、アイディットが理解していなかったのは、彼がスジャムとつながりを持つ以前に、スジャムがスハルトと軍事的な結びつきを持っていたことの意味です。これがアイディットにとっては深刻な問題になったのでした。アイディットは、「特別局」でスジャムを指揮下においていたつもりだったのでしょうが、実はスジャムにとっては、スハルトとの結びつきがもっとも重要なことだったからです。

 スハルトはこのグループを支援していたのですか?


 「9月30日事件」のメンバーの間では、スハルトがこの事件をとりたてて支持していたことに何の疑問もありませんでしたが、スハルトとスジャムが一体となって活動していた可能性があることは、メンバーには思いもつかないことでした。

それなら、なぜ彼らはスハルトを信頼したのですか?

 将軍たちが拉致された運命的な夜の前に、なぜこの運動はスハルトをこれほどまでに信頼していたのかとラティエフに尋ねると、彼は次のように答えました。「彼は私たちの仲間だったのです」・・・ラティエフとスハルトは親友でした。彼らには家族のつながりがあり、二人の軍事的なつながりは1945年から1949年に至る独立闘争にまで遡ります。そこでラティエフはスジャムと初めて短時間会っています。しかしこの「スハルト-スジャム」ラインが「9月30日事件」にまで至り、スジャムがこの事件で役割を果たすことになったことを、ラティエフが知ることはありませんでした。ラティエフによると、彼が刑務所に入れられた時、膝に撃たれた銃弾は治療されずに放置され、銃剣でも刺されたと言います。 彼は最初、刑務所の中で食べ物がなく、お腹が空いたのでネズミを捕まえて食べたと言っていました。

 振り返ってみると、ラティエフの証言があれば、法廷での審理など意味がなかったのです。その証言とは、「ラティエフは拉致の数日前にスハルトの家を訪れ、スハルトに将軍拉致計画を説明していた」という証言です。そんな作戦を実行しようということがスハルトの耳に入っていたとしたら、インドネシアの戦略司令部(コストラッド)が、即座に踏み潰したでしょう。しかしそうはなりませんでした。スハルト自身が、コストラッドというエリート部隊の司令官であったからです。スハルトはインドネシアの究極の国益のためにこの情報を他へ洩らさなかったという議論があるかもしれません。それでも彼には将軍達の死に責任があります。なぜならそれを契機に彼には大統領職への道が開けたからですし、それはスハルトにとって究極の利益となりました。10月1日の朝、ジャカルタの中心地であるムルデカ広場を「9月30日事件」の部隊が占拠しました。最初のラジオ放送があった後も、スハルトが司令官であるコストラッド本部に部隊が踏み込むことはありませんでした。その事実は、スハルトと「9月30日事件」が同盟関係にあったと言っていることになります。広場の片側には米国大使館、もう一つの片側にはコストラッド本部、そしてそれらに面してラジオ局があります。このラジオ局から午前7時15分「9月30日事件」は最初の声明を発表しました。何人もの将軍が逮捕されたこと、そしてインドネシア革命評議会がジャカルタに設立されるだろう、というのがその声明の内容です。この10分間の放送で、運動の指導者としてウントンの名前があげられました。

 私がインタビューした別の人物、インドネシア空軍情報将校のヘル・アトモジョ中佐はこの運動への関与を告発され、17年間服役しました。彼の証言によれば、最初のラジオ声明はスジャムが原稿を書き、ウントンがチェックして認可しました。他方、丁度正午過ぎに発表された2 回目のラジオ声明は全部スジャムが書いた、とのことです。この2回目のラジオ声明は、階級と権力の劇的な再構築を試みるよう訴える内容でした。(ただし、1回目も2回目も、スカルノを最高指揮官とするという内容はずっと変わりませんでした)。この2回目のラジオ放送のせいで、この事件は、「クーデター」を企てた事件だった、とのレッテルを貼られることになりました。後になって初めてラティエフは、自分が支持していた運動が実は政治的に動機づけられた、つまり、言ってみれば、スジャムという人間の存在に感染させられたものであったことに気がついたのです。

 ラティエフの弁明では、9月30日の数日前にスハルトの家を訪問して計画の概要を説明しただけでなく、スハルトが息子を病院に見舞っていた9月30日の夜に再び話をしたとのことでした。裁判所は、このラティエフの驚くべき情報を事件とは無関係であるとして却下しました。さらに法廷証言には出てこなかったある事実がありました。それは、「拉致作戦が10月1日の早朝に行われる」という話を9月30日にラティエフから聞いたのち、スハルトはジャカルタのチェンパカプティにあるスパルジョ准将の公邸を秘密裏に訪問していたという事実です。この深夜の秘密訪問はアトモジョ中佐が目撃しており、中佐はメモを取っていましたが、その後数年間の恐怖政治の間はもちろん、それ以降のスハルト政権中もずっと、そのことに触れられることはありませんでした。スハルトが辞任する 2 年以上前に、インドネシアの非常に高位の将校が、著名な政治家とともに、スハルトがスパルジョの住居を訪問したことを私に知らせてくれました。スハルトは将軍たちを拉致する計画を知っていただけでなく、このグループの一員として受け入れられていたのです。

いつ、どのようにしてスハルトはPKI党員大虐殺の口実となる将軍達の拉致と殺害を操ったのですか?

 
 J.メルヴィンが2014年6月に書き上げた注目すべき博士論文「大量殺人のメカニズム」には、1965年10月1日の朝、スハルトがいかにして遠く離れたスマトラ島北部でPKIの逮捕と処分を開始する命令を出していたかが書かれています。 PKIの仕業かもしれないと言われる前から、 実際、将軍たちの運命が拉致ではなく殺されることが知られてもいないのに、スハルトは将軍たちの死を PKI のせいにしていたのです。スハルトは PKI に対する報復命令を出しました。スハルトのこのおぞましい準備作業がよりよく知られるようになるとき(そしてジョン・ルーサはまもなく、この重要な情報を盛り込んだ別の本を出版すると思う)、将軍たちの死でスハルトが果たした役割は、「ルビコンを越える」ことだったと見られるでしょう。おっと、この場合は血の川ということになりますね。

 スハルトの諜報部員アリ・ムルトポは後に、拉致と殺人に関与した部隊を輸送していたトラックの運転手二人を追跡しました。ムルトポは約1週間後にこの二人の運転手を殺害しました。おそらく二人はスハルトとスジャムを何らかの形で結びつける情報を持っていたか、あるいは将軍達の死に直接関連する情報を持っていたからでしょう。

  スジャムは法廷で将軍たちの死に対する自分の責任を認めました。拉致の間、土壇場での命令は「生死を問わない」であり、拉致から生き残った者は後に頭部に銃弾を撃ち込まれ処刑されました。しかし、スジャムは、これらはすべてアイディットの指示によるものだと主張し、PKIに責任があるとの主張の正当性を裏付けました。

 周陶沫は、彼女の論文「中国と九月三十日事件」(『インドネシア』98,2014 年 10 月号)の中で、毛沢東とアイディットの間で行われた議論の記録が、6 人の将軍が殺された運命的な夜にジャカルタで行われたことと驚くほど似ている、書いています。インドネシアの用語では「九月三十日事件」は「G30S」と呼ばれています。 しかし、この記録は、9月30日の夜に起きた殺人事件に関して、歴史的に間違った記載になっています。この記録をもとに「G30S」を振り返ると、アイディットがこの事件に加担していたと読み込むことは可能で、作戦を拉致から殺害に変更しているところなどはあまりにも手際が良すぎると思えるほどです。周陶沫は、「中国の指導者たちは、反共産主義者を掲げる軍の将軍たちが権力を掌握するための動きを止めようとするPKI の計画を知っていた」と述べていますが、(ラティエフ氏の説明の通り)殺人は計画には入っていませんでした。ですから拉致以上の意図がアイディットにはあったとすることは、毛沢東とアイディットの議論の記録に当初の意図以上のことを読み込んでしまうことになるでしょう。「G30S」という言葉を次のようにまとめの言葉として使うことにより、周陶沫は殺人が計画に入っていたことを言おうとしているのです:「最近の調査では、PKI内のアイディットは含むが他の政治局員や一般党員は入らない秘密グループが『G30S』を計画していたことが分かっている。」そして別の箇所では「PKI内の秘密グループが独自に計画を立て、それをアイディットは事前に中国のトップリーダーと共有していた。」との記述があります。

 もしアイディットがあの夜の出来事に関して、将軍たちの誘拐ではなく、殺害の責任を問われるとすれば、そしてスジャムがアイディットの命令で行動していたとすれば、スハルトが運動を支持していたと考えられていたのですから、G30S部隊がコストラッド本部を占拠しなかったのは、アイディットの命令であったということになるでしょう。

 アイディットはいかなる名前も口にしてはいませんが、もし彼が毛沢東に名前をいっていたのであるとすれば、それは最高位の将校(つまりスパルジョなんかではなくスハルトです)の名前だったでしょう:論文によれば、アイディットは毛沢東にこう語ったとされています。「我々は軍事委員会を設立する予定です。・・・この軍事委員会のトップは我々の党の地下組織のメンバーになるでしょう」。スハルトの二枚舌は、スジャムと同様、インドネシアの歴史の中でずっと以前にまで遡ります。1948年スハルトは、ナスティオン将軍(訳注:インドネシアのスハルト政権下の陸軍大将)に使者として派遣され、共産主義者の指導の下で、オランダとの交渉に全く乗り気でなくなっているマディウン(訳注:ジャワ島にある都市)の運動の軍事力と政治的統一性を調査しました。「あなたは自分の家に入ってきた泥棒(訳注:オランダのこと)と交渉しますか?」というのが当時よく行われていた民衆を煽るような質問の一つでした。スハルトはマディウンの左派強硬派グループを支援していたのです。それでPKIに受け入れられました。親左派の姿勢を強く打ち出したからです。マディウンの軍司令官スマルソノ(現在96歳。3ヶ月前に話を聞いた時はシドニー在住)によると、スハルトがマディウンにいたときにPKIに受け入れられたのは、彼が親左派の姿勢を強く持っていたからだとのことです。戦後間もない頃は若き左翼人であり、1950 年代初頭に PKI のトップになったばかりだったアイディットが、1965 年にジャカルタのコストラッド司令官だったスハルトが差し出したとされる友好の手を快く受け入れたのは、おそらくこういった事情があったからでしょう。

スハルトの腹黒さは息をのむほどです。

 ナスティオン将軍は、独立闘争の時代から1965年までの20年間、そしてスハルトが大統領になった後の30年間、スハルトと親交がありました(ナスティオンは、スハルトが辞任した2年後に亡くなりました。1918-2000)。1983年から1996年までの間、私は何度もナスティオンを訪ね、インドネシアの歴史の様々な側面について語り合いました。 私たちが話した場所の隣の壁に掛けられていたのは、65年9月30日の夜、軍隊が彼を拉致しに来たときに誤って撃たれた彼の幼い娘の絵でした。彼を拉致することは失敗しました。彼はフェンスを乗り越えて家の隣にあった大使館に逃げ込んだのです。その騒ぎで娘が殺され、彼の副官であるテンデアン中尉も殺されました。 彼の妻は娘が死んだのはスハルトのせいだといつも非難していたことを、言葉少なに私に話してくれました。彼女は死ぬまで、つまりジャカルタに住んでから30年間、スハルトとは一度も口をききませんでした。

 スハルトは、「9月30日事件」が何をしようとしていたのか、事前には何も知らなかったとずっと主張してきました。実際、スハルト自身が導入した三段階の責任分担システムによると、(関与を)完全に否定しきれなければ、スハルト自身「事前知識」があったことになり、死刑に処せられるカテゴリー1に入ることになります。

スハルトとCIA、そして「9月30日事件」との接点は何だったのですか?

 私がナスティオンに G30S における CIA の役割について尋ねると、スジャムとスハルトはバンドン(SESKOADと呼ばれるインドネシア陸軍の将校訓練学校があります)で、その学校の司令官を訪問しているところを目撃されているとのことです。その司令官の名前はスワルト大佐であり、彼は CIA と密接に連携していました。これをナスティオンは強調していました。またこの事実は当時の学者たちに広く知られていました。私にとってスワルト大佐は興味深い人物でした。彼が木製の義足をしているという事実とは全く別の理由からです。つまり彼のアメリカ人の友人はアレン・ダレスの側近として知られるガイ・ポーカーであったからなのです。私がポーカーに、スハルトとは大統領になる前に会ったことがあるかと尋ねたところ、会ったことはないと答えました。しかし、ポーカーは、アレン・ホワイティング(ランド研究所でのかつての友人で後に国務省参事官となる)が、モスクワと北京の間に生じ始めた分裂を明確に指摘した最初の人物であるとコメントしました。1963 年になっても、この分裂を本物と解釈した人はまだそれほど多くはありませんでした。マーシャル・グリーン大使はその少数者のひとりでした(ハロルドP.フォード:「'中ソ分裂を呼び出す」 CSI、98-99冬季号の脚注65を参照)。「9月30日事件」のわずか数カ月前の 1965 年にジャカルタに到着したグリーンは、インドネシア軍に対して、 PKIの大虐殺を調整するために、トップレベルの通信機器を受け取るように手配しました。また、彼が何千人もの名前を提供したのはグリーンの冷戦への背筋が凍るような貢献でした。それは、事実上、PKIメンバーを殺害することでした。

 ナスティオン自身が持つ諜報関係のグループから、バンドンでスハルトとスジャムは会っているとの目撃情報が出されたのでしょう。この情報が正しく、ポーカーはスハルトと大統領以前に会っていないとの証言も正しいと仮定すると、スハルトとスジャムの二人はスワルトを含め一つの部屋で話をしていた可能性があります。その時ポーカーは隣の部屋にいたというのです。もちろんこんな可能性はほぼゼロです。スワルトはスハルトがSESKOADに入校した時の元教官でした。スハルトがオランダ領ニューギニアからオランダを追放する作戦の指揮官に任命される少し前のことです。(現在インドネシアの州となっているこの西パプアは、1962年のニューヨーク協定締結以来インドネシア陸軍が実質的に管理しています。この協定を取りまとめたのがアレン・ダレスの長年の友人エルスワース・バンカーでした)

 ラティエフ大佐とのインタビューの結果明らかになったことを指摘しておきます。スジャムの法廷証言を調べてみると、彼が提供したいくつかの詳細な事実は、1965年9月30日以前にスジャムに会ったことがないというラティエフの供述と矛盾しており、注意を払うに値します。ラティエフはチピナン刑務所で私に対して頑強に「スジャムには会っていない」と述べていました。 しかし、スジャムが法廷で証言しているのは、アイディットと彼が PKI の立場に同調している可能性のある陸軍の人物を確認したり、特定したりするために特別支局を設立し、そのために数回の会合を持ったということです。 スジャムは、ラティエフとウントンとは何度か会議を開いたと主張し、その会議の目的は、スカルノ大統領に反対する動きを計画していた、いわゆる将軍評議会への対抗措置を計画することだったと主張しています。 ラティエフが 9 月 30 日以前にスジャムと会ったことがないのであれば、これは明らかに間違いです。そうですね、「ラティエフの言っていることが間違いなんでしょう」とあっさり言うよりも、別の見方はこんな疑問を持つことです:「どうしてスハルトは運動の中心人物であるスパルジョ、スジャム、 ウントン、そしてラティフの 4 人と親しかったのか?」(ウントンはスハルトを指揮官として 1962 年のオランダ追放ニューギニア作戦に従軍していました)。同時にこんな可能性はないのでしょうか?つまり、スハルトが、ウントンとラティエフとの長年の友好関係と、彼らの政治的シンパシーがどこにあるのかという内部の知識を利用して、(彼の特別局の仕事の一環として)スジャムにウントンに接近することを実際提案した可能性です。そしてウントンがラティフに接近するのです。もしそうだとすれば、ラティエフは G30S の数日前にスハルトの家を訪問して、運動が意図した行動をスハルトに伝えていたことになります。その時点でスハルトは事実が分かったのです。このことが、スハルトの役割は支援的なものであり、スジャムとスハルトの間には何のつながりもないというラティフの認識を強め、このことが理由となってスハルトはラティエフを処刑せず、運動の他のメンバーは処刑したということです。

ということは、あなたの結論はスハルトが、CIAと一体となって、全ての流れを操っていたということですか?

 だんだん、事件から数年後にさらなる証拠がまとめられるにつれ分かってきたことは、スハルトが網目の中心で戦略司令部コストラド司令官という姿を取っていたということです。スハルトは、9月30日の夜に発生した事件を利用してPKIを攻撃する計画を、事件が発生する前から立てていました。 そして、スジャムを通して、拉致事件(ラティエフ、ウントン、スパルジョが計画した)を将軍達の殺害へと確実に変更することは可能でした。

そんな事情でスハルトが権力を握り、虐殺が起こり、そして西パプアはアメリカの巨大採掘企業フリーポート・マクモランの搾取、となります。年月がこんな風に流れてきた後で、西パプアが独立する可能性はあるのですか?


 ニューギニアの西半分、現在はパプア州と西パプア州と呼ばれるインドネシアの2つの州でパプア人が直面している主な問題は、すべてインドネシア軍がずっと駐留していることから発生しています。各州にはパプア人の地域代表とパプア人の知事がいますが、1962年12月に初めてパプアに上陸して以来、インドネシア軍が日常生活を支配しています。

 1962年にオランダの植民地権力を追い出し、インドネシアの支配は軍事占領という形になりました。占領は、ちょっと見れば、スハルト時代ほどあからさまではありませんが、占領、搾取および殲滅の考え方は、今日まで消えているわけではありません。

 私は「殲滅」という言葉を単なる記述用語として使っているわけではありません。もちろん「ジェノサイド」というのは忌まわしい言葉です。パプア(今日の西パプア)を訪れた人たちには、都市部のパプア人が自由に暮らしているように見えますし、郡部の人々は短期間のオランダ統治時代以前と同じような村に今でも住んでいます。ええ、いい変化もありました。しかし、乳児死亡率や他の重要な生活指標では、パプア先住民のQOL(生活の質指標)は、アフリカの最貧国よりも悪い統計もあります。まさにこれこそパプアの人々の怒りを買っているところです。彼らのHIVエイズの感染率は全国平均の20倍であり、それに対するジャカルタからの通常の応答は、パプア人は原始的であり、彼らの性行為の仕方がショッキングな統計につながっている、というものです。しかし、事実はこうです。(この問題を調査した軍医に直接インタビューした経験を元にした話です)。インドネシア軍には、(パプアでの軍の様々なビジネス上の利益の一部として)パプアに売春婦を連れてきた責任、そしてスラバヤ(訳注:ジャワ島にある港湾都市)から連れてきたこれたこれらすべての売春婦がHIVに感染していることを知った上でそうしたことに責任があります。この軍医は実際にこれらの売春婦と面談をしており、彼女たちは「HIVに感染していたから選ばれてパプアに来た」と言っていたそうです。

北アメリカの先住民を殲滅したやり方は、天然痘やアルコールでしたよね。

 
 インドネシア軍は、メタノールの毒性で悪名高い生酒の独自ブランドの製造までやっています。ナビレ(訳注:ニューギニア西端にあるパプア州の都市)で、ある朝道を歩いていたら、パプア人の死体に出くわしたのを覚えています。安いアルコールを飲んだことが死因だとのことでした。それは何年も前からどこでも売られているのですが、現在パプアの知事はアルコール全面禁止の政策を打ち出しています。この政策は、よかれと思う気持ちからだったのかもしれませんが、それは密輸が我が物顔に横行する闇市場を栄えさせることになるでしょう。そしてその闇市場を統制するのは軍です。伐採一時停止は繰り返し宣言されても、実際は丸太は中国や他の場所に販売され、パプア/西パプアの両州の軍隊のために何億ドルものお金を得るビジネスになっています。しかし、こうなってはもう生態系の消滅なんかではすみません。

あなたはどんな意味で「ジェノサイド」という言葉を使ったのですか?

 ジェノサイドの問題に戻りましょう。アメリカの下院議員エニ・ファレオマヴェガは、1977年に高地で起きた虐殺、つまり大量殺戮についてもっと詳しく知りたいと私に尋ねてきたことがあります。インドネシア軍は、ベトナムで使用されたブロンコOV10戦闘機・爆撃機を4機使い、高地で4ヶ月間ノンストップ機銃掃射や爆撃を行いました。畑でサツマイモの栽培に人々が精を出す谷間を、何世代にもわたってそこにあった村々を次から次へと、(オランダに代わって)インドネシアの政府という新しいボスが突然襲ったのです。高地の町ワメナのオランダ人医師は、翌年、病院を訪れた未亡人の数に注目し、死者数を2万人以上と計算しました。私は、この大規模な殺戮が行われた地域にいたキリスト教の宣教師達にも会ったことがあります。ある女性は、その恐怖があまりにもひどく、生涯続く心の傷を負ってしまいました。1978年に初めてジャヤプラを訪れたとき、ある夜、12歳くらいの少年が建物の下から出てきて私に泣きついたことがありました。「母が殺される、父が殺される、今度、あいつらは私を殺すんだ」。彼が何を言っているのか全く分かりませんでした。後になって初めて、高地で何が起こったのかを私は知りました。この子どもは何週間も歩いて高地から逃げてきたのです。

 このオランダ人医師はまた、4人の私服のアメリカ人が、このノンストップ爆撃と機銃掃射に関与したインドネシア人パイロットのアドバイザーとして行動していたことも指摘しています。彼らがパイロット達に与えていた助言は、バリエム谷の中心部の先に新たな目標を探し出すためのより良い角度とアプローチを得るための最善の方法についてでした。この周辺地域は飛行機で行けば数分です。道路輸送で何時間もかかる場所でした。この肥沃な地域は、全体の領土の中で最も人口密度が高く、パプアの人々の共同社会はそこに何世紀にもわたって生活の場としてありました。ここは、リチャード・アーチボルド(戦前のスタンダード・オイルの元CEO)が巨大な飛行艇で上陸した場所です。彼はこの場所を「シャングリラ(理想郷)」と呼びました。というのは、パプアの人々はとても平和的な生活を送っていたからです。男、女、子供たちは午後2時まで畑で働き、男たちは子供たちを川で洗ってから、学校の授業を受けさせ、女たちは村に戻って夕飯の準備をします。

「シャングリラ」の人々のどれくらいがこのジェノサイドで殺害されたかの数値はありますか?

 パプアのような土地は、険しい地形と人里離れた土地のため、正確な人口情報を得ることは常に大きな困難を伴います。かつてインドネシア軍の弾圧によるパプア人死者数として10万人という数字が、長年、たいした根拠もなく語られてきましたが、この数字が選ばれた理由はこの数字を喧伝する人権団体が、行方不明者や死亡者の名前や住所としてこの数値を持っていた、というだけです。これには、ヘリコプターから海に落とされたり、便壺に死ぬまで頭を押し込まれたことが分かっている人達も入っています。20年前、私はパプアの著名な活動家たちとまさにこの問題について話し合いました。そして分かりました。彼らは実際の数字がもっともっと多いことを知っていましたが、10万人という数字を主張する目的は、正確な数字を出す方法がなく、議論のしようがなかったからです。ですので、その総数を把握するために、オランダ人が出て行く前に行われた最後の国勢調査で得られた人口数を確認し、オーストラリアの旧植民地支配下にありながら似た文化を持つパプア人が住むニューギニア東部の統計と比較してみました。東パプアと西パプアの境界線は、単純に東経141度というラインです。西半分はオランダ領、東半分はイギリス領、そしてドイツ領と合意されました。(第一次世界大戦後はオーストラリアの支配下に入りました)

 そこで、オランダ領ニューギニアでは 1960 年に国勢調査が行われ、パプアニューギニア(PNG)と呼ばれる東半分もオーストラリア政府が1960年に国勢調査を行いました。パプアニューギニアの人口は常に西半分の人口を上回っていました。しかし決定的に重要なのは人口増加率でした。それが同じパプア文化である西半分の地域との比較の基礎となるからです。そこで、1960年から2002年までのパプアニューギニアの人口増加率を計算しました。それから私はこの増加率を1960年にオランダが行った国勢調査に適用しました。2002年における西半分の人口推定値、あるいは本当はどうあるべきだったのかの推定値を計算するためでした。

 40年間のインドネシア軍の支配下において、パプアの人口が130万人も不足しているという打ち消しようもない食い違いが出てきました。もちろん、インドネシア軍統治の恐怖が顕在化してからの西から東へのパプア人の流出もこの大まかな計算に含まれていますが、膨大な数のパプア人が行方不明になったことは間違いありません。このインドネシア領西ニューギニアの人口不足は、まだパプア人と非パプア人の差異が国勢調査の特徴的な問題であった頃に算出されたものです。現在では、この人口不足はジャワ島やスラウェシ島を中心とした他のインドネシアの島々からパプアに来る人々によって十分すぎるほど埋められています。このようなパプアの外から来た人たちは「トランスマイグラント(移住者)」と呼ばれ、その流れは制限されていないため、パプア人は自分たちの土地で少数派となっています。軍の占領下にあった40年間で行方不明になったパプア人130万人という数字は、第一次世界大戦時にトルコで起きたアルメニア人大量虐殺の際によく引用される数字に匹敵するものであり、それはトルコ政府が決して認めていない出来事です。パプア人130万人という推定値と、この数字に到達するために使用した方法は、2005年にマクミラン社から出版されたジェノサイド百科事典のために私が書いた記事の中にあります。パプアの、これらの人々のほとんどは病死だったのしょうけれど、この人口消失におけるインドネシアの役割はこういったことからも窺われます。今日でも、いくつかの遠隔地では、孤立した地域に住んでいるパプア人が、皆無ではないにしても、医師に診てもらうことはほとんどありません。

 このことを確認するために現地に行かれたことは?

 1983年、私はロンドンに拠点がある「反奴隷インターナショナル」から派遣されてこの地を訪問しました。西ニューギニア(当時はイリアン・ジャヤと呼ばれていました)の南部海岸線に沿ってアスマット地域で活動するアメリカ人司教が発表した数字について報告するためでした。この司教は5歳以下のパプアの子ども1、000人の内600人がこの地域で死んでいると主張していました。私が行ったのはその数値が本当かどうかを確かめるためでした。そして、本当であることが確かめられました。

 この地域における語られることのない悲劇は、オランダ時代に編纂された医療報告書を読めばよく分かります。その報告書には、医学的事象は一件しか記述されていませんでした。それは、足にできる感染症についてでした。それ以外、この地域には病気がないという記述でした。

  パプアの人々への接近が始まったのは、1962年8月のニューヨーク協定からです。アメリカの巨大採掘企業フリーポートは、ほぼすぐに豊富な鉱物資源へ参入しました。その後1977年にインドネシア軍は、先住民族のパプアの高地へ侵入したのです。文化的な用語では、これらの2つ動きはお互い相反するものであり、その結果は壊滅的でした:パプアはスハルト時代に膨大な人口減を招きました。それから20年後のパプア人の生活条件は悲惨な状態のままです。外国人がこの地域に入ることは、以前ほどの難しさはありません。しかし一部のジャーナリストは制限リストにその名前が載せられています。パプアではデジタル時代が始まり、パプア人は自分たちの窮状を世界に伝えようとの決意を固めています。インドネシアの民族主義者がオランダの植民地時代の権力から自分自身を解放するために世界に情報を発信したように、パプア人はインドネシア軍の鉄の支配から解放されることを期待して同じことをやっています。

ジャカルタ政府の立場はどうなっていますか?

  ジャカルタ政府は、パプア人と交渉するという途方もない仕事(おそらく南アフリカの「真実と和解委員会(訳注:過去に行われた深刻な人権侵害によって生じる軋轢を解決するために置かれている委員会のこと」に似たプロセス)に直面しています。その後で何らか事態の進展が可能になります。主要な問題は、パプア-ジャカルタ関係を数十年にわたって観察した人間の観点から言えば、インドネシア政府はインドネシア軍隊がやったことは認めたがらないことです。スハルト時代しかり、今日のパプア/西パプアしかりです。パプアでの軍隊の残虐行為という点に関してはインドネシア政府が言っていることと実際に起こっていることとの間には、行政上の溝が越えがたくあるようです。この溝は、一見減少しているようですが、まだ議論の余地が残されています。スハルト時代には、軍隊は全く冷酷だったが、スハルト後の時代には変わったと言われています。この変化は、インドネシア政府の発表と(現在)軍隊と警察の下で生活しているパプアの人々の現実との乖離によって測定することができます。スハルト時代以降は、もちろん、警察がより表立った役割を持っています。しかし、このことはしばしば軍隊と警察との激しい銃撃戦を引き起こします。それはインドネシアのこの遠隔地の片隅における軍隊、警察双方の利権を巡ってのことなのです。

 2016年前半、何千人ものパプア人が街頭で平和的にデモを行い、自分たちの人権や文化、生活への懸念を声にしようとして逮捕されました。

 軍隊と警察は、ごく一部の例外を除いて、インドネシアの司法手続きで処罰されることはありません。例えば、半年前、パプア高地の辺境の地に住む2人の少年が、通りすがりの車に豚を殺されたという話を聞きました。豚は貴重な商品であり、完全に成長したものはオーストラリアへ持ち込めば2~3倍の価値があります。それは豚が彼らの文化にとても溶け込んでいるからです。・・・多くのお祝い事、例えば結婚式などがあれば隣近所のために一頭ないし数頭の豚を焼き上げます。豚は大事な栄養源というばかりでなく、文化的な絆にもなっています。そのため、2人の少年は道路で車を止めてドライバーに、失った豚の補償としてお金を払うように頼みました。50,000ルピアは5ドルに当たるでしょう。2人の警察官が調査のために車でやってきました。警官の車の窓が開き、少年たちがお金を要求しようとすると、警察は何も言わず少年二人を射殺しました。パプアの生活は、パプア人にとっては、安全とはほど遠いものです。

ポールグレイン教授、インドネシア-アメリカの憂慮すべき歴史についての授業をありがとうござました。

Interviewed by Edward Curtin

 

Still Uninvestigated After 50 Years: Did the U.S. Help Incite the 1965 Indonesia Massacre?

 

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