ジョン・レノン生誕80年。彼はディープ・ステートに立ち向かった男だった。
<記事原文 寺島先生推薦>
John Lennon at 80: One Man Against the Deep State ‘Monster’
グローバル・リサーチ
2020年10月6日
ジョン・W・ホワイトヘッド
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>
2020年11月25日

「頭に置いておいて欲しいのは、既得権力というのは悪魔の別名でしかないということだ。悪魔は学生たちを全員殺すことや、革命が起こることなどを気に留めていない。悪魔は論理的に考えてはない。抑制が取れていないのだ」(ジョン・レノン(1969))
今から80年前の1940年10月9日に生を受けたジョン・レノンは、天才的な音楽家であり、大衆文化の象徴的存在だった。レノンはまた、平和を求めて声をあげる抗議者であり、反戦活動家でもあった。そして、ディープ・ステートが処刑しようと長年にわたり執拗に追いかけていた人物だった。それは、レノンが権威に対して異を唱えようとしていたからだ。
ジュリアン・アサンジ。エドワード・スノーデン。チェルシー・マニング。この人たちは、政府による戦争犯罪や米国国家安全保障局の調査権力乱用に対して警鐘を鳴らしたという理由で激しく批判された人たちだ。しかし、この人たちが現れるずっと以前に、レノンは攻撃の的にされていた。その理由は、政府が戦争を熱望しているという真実を権力者に対してはばからずに語っていたからだ。そのため、レノンの電話は盗聴され、レノンの活動やレノンの人とのつながりに関する情報が不法に集められていた。
少なくともある一定の期間、レノンは米国政府にとっての最大の敵であった。
レノンが暗殺されて何年もたってから、FBIがレノンについての281ページに及ぶ調査文書を集めていたことが明らかになった。その文書の中には、レノンが作った歌の歌詞までが入っていた。当時のFBI長官J.エドガー・フーバーは工作員にレノンの行動を諜報させていた。様々な命令文書も残っている。その文書には政府の工作員によって、麻薬所持を理由にレノンを起訴しようという企みも含まれていた。「レノンに関するFBIの資料を読めば、まるで妄想に取りつかれたいい子ぶりっこが話しているように聞こえる」。調査したジョナサン・クリエルは、こんな感想を残した。

ニューヨーク・タイムズの記事にあるように、「諜報機関が米国内の人物を調査することに関して、批判を受けているのは、諜報機関が、対象となる人物の個人として尊重されるべき分野に踏み込んでいること」についてだ。この記事が大いに注目していたのは、既得権力をもつものたちが権力にしがみつくために、政府の調査機関をいとも簡単に利用しているということだ。「米国対ジョン・レノン」という構図は、一人の人物が攻撃を受けたというとらえ方だけではなく、民主主義が台無しにされているというとらえ方をしないといけない。
現在のわれわれは政府に対して多くの不満を持っている。具体的には調査、軍国主義、政治腐敗、攻撃、警察のSWAT部隊、刑務所国家、スパイ行為、人権侵害問題などに対してだ。しかし、このような問題はすでにレノンの生きていた時代からあったのだ。だからこそ、レノンがあの時代に、社会正義や平和や大衆による革命という考え方の基礎を築くことができたのだ。
これらすべての理由のために、米国政府はレノンを追いかけ回していた。そして、レノンが早くからわかっていたのは、ロック音楽は政権を終わらせる力があるということだ。それは、ロック音楽は心に響くメッセージを伝えることができるからだ。そしてより重要なことは、レノンが音楽は民衆を動かし、変化を起こす力があるということを見抜いていたことだ。レノンは、民衆がもつ力を信じていた。残念ながら、レノンは以下のことを認識していた。「政府がもつそもそもの問題というのは、政府は市民の代表という役割を果たしていないということだ。政府がやっているのは市民を抑え込むことだ」。
マーティン・ルースはタイム誌にこんなことを書いた。「ジョン・レノンは神ではなかった。しかし、彼は同時代の人々から愛と崇拝を得ていた。そして、彼が創作したものは人々を魅了し、人々を導くものだった。レノンに対する共感が深まっていったのは、当時レノンが、自分の名声を訴訟事件の解決に利用したからだ。レノンは、自分の富や権力を増やすことよりも、訴訟の方を優先したのだ」。
一例をあげると、1971年12月のミシガン州アナーバー市でのコンサートで、レノンはステージからいつもの挑みかかるような口調で「ジョン・ シンクレア」という歌を大声で歌った。この歌は、たった2本のマリファナの入った煙草を所持していたために10年の刑を受けた人物について、レノンが書いた歌だった。レノンが行動を呼びかけた数日後、ミシガン州高等裁判所はシンクレアの釈放を命じた。
当時のレノンが知らなかったのは、政府当局が元ビートルズのメンバーのレノンをしっかりマークし続けていたことだ。政府当局は彼を「ミスター・レノン」と呼んでいた。信じられないような話だが、FBIの工作員はアナーバー市でのコンサート時に観衆に交じりこんでいたのだ。「レノンの新曲に対して、1万5千人の聴衆がどんな反応を示したかのすべての情報をメモしていた」。
妄想に憑りつかれた米国政府はレノンを探っていた。
「Power to the People」というシングル曲が発表された時1971年の3月までには、レノンの立ち位置は、はっきりとした。同年ニューヨーク市に移住したレノンは、米国政府に対する政治運動に参加する準備ができていた。当時の米国政府はベトナムでの戦争にカネを出していた「怪物」だった。
レノンの「Sometime in New York City」というアルバムでは、反米国政府というはっきりとしたメッセージがすべての曲に込められていた。そのジャケットはリチャード・ニクソン大統領と中国の毛沢東主席が裸で踊っている写真だった。しかしこのアルバムの発表は、以後訪れる戦いの緒が落とされたに過ぎなかった
米国当局とレノンとの戦いが本格的に始まったのは1972年のことで、それはある噂がひろまったあとのことだ。その噂とは、レノンが米国でのコンサートツアーを開始する計画をたてていたのだが、そのツアーはレノンがロック音楽と組織的な反戦活動や有権者登録運動とを結びつけるために行うという噂だった。レノンが1100万人の新しい有権者(1972年は18歳選挙権が認められた後の最初の選挙の年だった)に与える影響を恐れたニクソンは、もとビートルズのレノンに英国へ強制送還させる命令を下した。それは「レノンが平和運動について発言することを阻止するため」だった。
そしてここで再び登場するのがFBIだ。FBIは活動家や政治家や文化人たちを迫害し、起訴し、攻撃してきた長い歴史を持っている。文化人の中でもっとも著名なのは以下のような有名人たちだ。フォークシンガーのピート・シーガー。画家のパブロ・ピカソ。喜劇役者で映画制作者のチャーリー・チャップリン。コメディアンのレニー・ブルース。そして詩人のアレン・ギンスバーグだ。
中でもFBIからもっとも密接な監視を受けたのはマーティン・ルーサー・キング・ジュニアだろう。彼は、FBIから「この国で最も危険で最も影響力を持つ黒人の指導者」であると目されていた。自宅や事務所に電気型や虫型の盗聴器を設置されて、キングはFBIから常に監視状態に置かれていた。そしてその目的はキングを「無力化する」ことだった。キングはFBIから、自殺するか、個人情報を世間にばらされるか、どちらか選ぶよう勧める手紙を受け取っていた。FBIはキングのことをずっと追跡し続けていた。1968年にキングがホローポイント弾で頭を撃たれて倒れるまで。

私たちが知っている範囲では、レノンは自殺するよう脅された手紙を受け取ってはいなかった。しかし、米国政府により4年間にわたる迫害と調査の対象となっていた。(その筆頭はFBI長官J. エドガー・フーバーだった)。リチャード・ニクソン大統領の企みは、レノンを「無力化」し、英国に強制送還することだった。ニューヨーク・タイムズ紙でアダム・コーヘンが記事で指摘していた通り、「FBIによるレノンの調査を振り返ると、国内でのスパイ行為がどれだけたやすく、正当な法執行機関から逃れられるがわかる。さらに驚くべきことに、いや、不安にさせられることになるといった方が近いかもしれないが、FBIによる調査行為が選挙と密接に結びつけられていることだ」。
FBIがつかんでいたレノンの情報が示すとおり、反戦活動家であったレノンに対するFBIの調査についてのメモや報告は、フーバーやニクソンのいたホワイトハウスや様々な上院議員たちやFBIや米国入国管理所の間を行き来していた。
ニクソンによるレノンの追跡は執拗で、しかも大部分は誤解に基づくものだった。ニクソンは、レノンと仲間たちは1972年の民主党全国党大会を阻止する計画を立てていると考えていた。しかし、政府の被害妄想はお門違いだった。
政府の監視リストに載せられている左派の活動家たちは、ニクソン政権を引きずり下ろすという共通の利害関係をもって、ニューヨークのレノンのアパートに集まっていた。しかし、左派活動家たちが暴動を起こす計画があると表明したとき、レノンはその話には乗らなかった。レノンは、1980年のインタビューでその事件についてこう話している。「私たちはこう言った。その話には乗らない、と。暴力が生まれるような状況に子供たちを巻き込むつもりはない。そんな状況で何を転覆できるというのか?何を手にするというのか?すべて幻に基づくものだった。暴力を使えば、現状を変えられて、共産主義や愚か者たちによる右派政権や愚か者たちによる左派政権が手に入るという幻だ。奴らはみんな愚か者だ」。
レノンは「愚か者たち」の計画には加わらなかったという事実にも関わらず、政府はレノンを強制送還させようという手を緩めなかった。負けじとレノンも抵抗することを決意し、腰を据えて反撃した。レノンが国外追放の命令を受ける度に、レノンの弁護士は訴えを起こすことでその命令の執行を遅延させていた。1976年になって、ついにレノンは米国に滞在するという闘争に勝利することができた。そしてついにグリーンカードを手にすることができた。レノンは後にこう述懐している。「僕はこの国に愛着を感じている。ここは活動のある場所だ。今からヨーコと家に帰って、ティーバッグを開けて、お互いの顔を見つめ合うよ」。
しかし、レノンの休息の時は長くは続かなかった。1980年までには、レノンは新しいアルバムを出し、再び政治的な活動を始める計画を立てていた。
以前の熱情が戻り、再び「問題児」となる準備が整っていた。1980年12月8日、生涯最後となったインタビューにおいて、レノンは感慨深げにこう語っていた。「世界は大きく変わりつつある。そして僕たちは未知の世界へ進もうとしている。しかし未だに僕たちがいるのはこの世界だ。でもそこに命がある限り、希望は存在する」。
だが、ディープ・ステートは、厄介者たちを処理する手管を持っている。残念なことだが。1980年12月8日、マーク・ディビッド・チャップマンが影に潜み待ち構えていたのは、ニューヨークの自宅アパートに戻ってくるレノンのことだった。レノンが車から降りて、外に集まっていたファンたちに挨拶しようとした時、チャップマンは薄気味悪い声で、FBIがレノンのことを呼ぶ呼び方で、こう叫んだ。「ミスター・レノン!」
レノンが振り返ると、銃弾があびせられた。その銃弾は、両手で銃を抱えていたチャップマンの38口径のピストルから放れたものだった。それが、レノンの背中と左腕を直撃した。レノンはよろめき、前のめりになり、血を口と胸から吹き出し、地面に倒れた。
ジョン・レノンの死が宣告されたのは、病院についてすぐだった。ついにレノンは「無力化」された。
ジョン・レノンやマーティン・ルーサー・キング・ジュニアやジョン・F・ケネディやマルコムXやロバート・ケネディなどの人物たちを無力化したやつらが誤解しているのは、銃弾や狂人を利用すれば社会運動は抹殺できると信じていることだ。

ありがたいことに、レノンの遺志は、彼が残した言葉や音楽、さらには彼が権威を恐れず真実を語ろうとしていたその努力の中に生き続けている。その思いを共有するオノ・ヨーコは、2014年に書いた手紙の中でこう綴っている。その手紙は、チャップマンを保釈するかどうかについての決断を当局に書いたものだった。「心底慎ましやかな人物(ジョン・レノンのこと)は、彼の言葉と音楽により、世界中に光と希望を運んでくれました。ジョンは世界に向けてよい力を生む源になろうとしてきたし、実際そうでした。ジョンがくれたのは勇気と何かを創り出す力と夢でした。そしてジョンはそれらを人種や宗教や性別など関係なく、みんなに与えてくれました」。
悲しいことだが、レノンが私たちとともに歩んでくれていた時代と比べて、状況がよくなったとは言えない。
平和はまだ手が届かないところにある。活動家や権力者の間違いを正すものたちは、政治権力に異を唱えていることを理由に起訴され続けている。軍国主義が幅をきかせるようになり、警察官が軍隊のような格好をしている。戦争マシンのような政府のせいで世界中の無垢な人々は、大きな被害を受け続けている。
ジョン・レノンとともに平和な世界を「イマジン」する人々にとって、その夢を共有することは、警察国家と化した米国という現実において、困難になりつつある。
今のところ、拙著「戦場としての米国:米国民に対する戦争」で指摘したとおり、声をあげようとするものたちは、過激派や問題児やテロリストや愚か者や精神病患者と見なされている。そして、当局により調査を受けたり、検閲をうけたり、拘留されたりする。さらには、軍隊のようになってしまった警官により自宅で銃撃されたり殺されたりもする。
レノンは1968年のインタビューでこう語っていた。
「僕には、社会はすべて、頭がおかしい人々によって、頭がおかしい目的に向かって運営されているように思える。そう、危険なほどに狂った人々が、危険なほどに狂った手段で僕たちを支配しているように、ね。だれかにレポートをまとめてもらいたいね。僕たちの政府や米国政府、ロシア政府、中国政府・・・についてのレポートさ。やつらが実際何をやろうとしているのか、彼らは自分たちが何をしていると考えているのか。そんなレポートがあれば、僕は奴らの考えがわかってうれしくなるだろうね。本当にみんな狂っている。でもこんなことを言うと、僕は片付けられるかもしれない。これこそ、狂っている証拠だね」。
さて、答えは何だろう?
レノンはたくさんのヒントを残してくれている。
「テレビをもう一台買うことをあきらめて、その代わりに平和を要求すれば、平和が訪れるだろう」
「戦争は終わる。君たちが望めば」。
「自分自身の夢を産みだそう。どんなことでもできるさ。でも、その夢をあの指導者たちにゆだねてはいけない。自分の力で実現しないといけない。いままでの偉大な先人たちが、この世が始まって以来ずっと言い続けてきたことだ。先人たちは様々な書物で、道を示してくれるし、道しるべも残してくれている。でも「こうしろ」という指示はほとんど書いてくれていないんだ。そんな書物は聖なる書とよばれ、崇拝されているんだけれどね。そしてこれらの書物が崇拝されている理由は、カバーのせいで、中身のせいじゃないんだ。でも実は、先人たちが出してくれている指示は書物の中に全部書かれているんだ。今までずっとそうだったし、これからもきっとそうだ。太陽の下、何一つ目新しいことなどない。すべての道はローマに通じる。だれかが君にくれるわけではない。僕は君の目を覚ますことはできない。自分で目覚めるしかない。僕は君を癒やせない。自分を癒やせるのは自分しかない」。
「平和というのは望むものではない。君が作りあげるものであり、君が行うものであり、君自身でもある。そして君がみんなに贈るものだ」。
「平和が欲しいのなら、暴力で手に入れることはできない。」
そして私が何より一番気に入っているレノンからの助言は以下のことばだ。
「革命が欲しいのかい?じゃあすぐに取り組もう。まずは一歩踏み出して町に出よう。そしてみんなに力を与える歌を歌おう」。
- 関連記事
-
- グローバリゼーションは終焉し、2023年のダボス会議はその葬儀となる、と有識者たちは見ている。 (2023/02/08)
- 売春斡旋業者はダボス会議に向けた予約であふれている。(オーストリアでの報道) (2023/02/03)
- 主流メディアの沈黙――ケネディ暗殺資料の公開期限迫る (2021/11/01)
- ジョン・レノン生誕80年。彼はディープ・ステートに立ち向かった男だった。 (2020/11/23)
スポンサーサイト