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自由と自治を求めた世界初のポスト植民地主義黒人国家の悲劇の歴史

<記事原文 寺島先生推薦>
The Tragic History of the World’s First Post-Colonial Black Nation’s Struggle for Freedom and Autonomy
筆者:K.D.ルイス(Lewis)
出典:INTERNATIONALIST 360° 2024年3月27日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年4月12日


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ジミー・"バーベキュー"・シェリジエとG9


虐殺者と間違われた革命家

ハイチ島の現在の国営ニュース報道では、元警察官だったジミー・シェリジエ(通称「バーベキュー」)をリーダーとする犯罪集団による密売や、強姦、そして人肉食などの凶悪な行為が蔓延していると報じられている。このように告発された暴力行為があるから、ハイチ最大の犯罪対策組織の指導者(ジミー・シェリジェ)に対して経済制裁をするし、ケニアおよびその他のECOWAS*軍を動員した米国の介入もあるのだ、という不注意な正当化が行なわれている。
*ECOWAS(Economic Community of West African States)西アフリカ諸国経済共同体

地元の暴力組織に対するシェリジエの抵抗組織(G-9として知られる)の行動をめぐるプロパガンダは、アメリカ軍産複合体の帝国主義的願望に隠れ蓑となる口実を提供してきた。ダン・コーエンの3部構成のドキュメンタリー『もうひとつの見方: ハイチの蜂起の内幕』は、貧困にあえぐデルマスという町のコミュニティ・リーダーであるシェリジエの姿を映し出している。彼が革命的抵抗の道に入ったきっかけは、デルマス6の自宅をギャングの暴力から守りたいという願望と、ハイチの司法・法執行システムの有効性に幻滅したことだった。彼は、ブルジョワ階級が警察や政府指導者と結託し、国の刑事司法制度から説明責任を回避していることに気づいたのだ。

シェリジエがハイチのUDMO警察部隊を辞職した後、2020年に形成されたG9は、国際的犯罪組織であると非難された。こうした非難を受けた後、G9はデルマスのさまざまな地域に対する警察主導の攻撃を受けた。彼らは、リュエル・マイヤール(Ruelle Maillart)のギャングを使って家屋を焼き払い、学校を取り壊すという行動をとった。G9に対抗するこれらのギャングは、ハイチの裕福な階級や米州機構(OAS)からの支援を受けていると言われている。このような虐殺について、合衆国支援のハイチ人権団体であるRNDDH*を含め、人権団体からの報告はない。
* RNDDH(Réseau National de Défense des Droits Humains)国家人権擁護ネットワーク

こういった行動へのシェリジエの反応は、デルマスの未被害地域内での避難所や食料の提供に加えて、貧しい武装ギャングや民兵の間で団結を呼びかけることであり、彼が言うハイチの富の85%を所有し、管理する上位5%のファミリーに抵抗することだった。ハイチ国内の、米国寄り指導層や暴力的なブルジョア派のギャング、西側メディア、そして、てぐすねひいて介入をしようとしている米国政府などからの敵意にもかかわらず、ジミー・シェリジエは、腐敗したブルジョア・システムに対する統一されたプロレタリア革命の未来構想を維持するとともに、特に米国のような西側大国からの干渉に立ち向かっている。

ハイチで起きていることは新しいことではない。実際、ハイチが誕生して以来、イスパニョーラ島として知られるこの島の西半分は、何十年にもわたって内憂外患に苦しんできた。しかし、この争いの解決は、ハイチのエリートではなく、特に欧米の超大国でもなく、ハイチの大衆からもたらされなければならない。この記事では、ハイチの経済的・社会的進歩を絶え間なく邪魔してきたヨーロッパやアメリカの介入と占領に対処してきたハイチの長い歴史を探求する。ハイチの混乱状態に関連してこの帝国主義の歴史を理解することは、他国の占領に反対する統一的な呼びかけと、シェリジエの構想に似た労働者階級中心の抵抗運動への統一的な支持を通じて、この国の自治を確実に守るために不可欠だからである。

西洋の窃盗によるハイチ独立後の不況

1804年1月1日、何世紀にもわたってヨーロッパ人が植民地主義入植活動をしてきた後、世界初の黒人独立国家が設立された。以前はサン・ドミングとして知られていたハイチは、13年間の反乱が革命に変わってから、植民地の抑圧者を打ち負かし、追放することに成功した。この新たに獲得した独立は記念碑的な勝利であったが、西洋帝国主義からはただちに反動があり、ハイチは、それ以降、いつ果てるともしれない悲惨な状態に置かれることになった。

独立からわずか20年後、ハイチは銃口を突きつけられ、かつての奴隷商人たちに独立の対価を支払うことを余儀なくされた。1922年にハイチ政府から最後の支払いを受けたフランスは、ハイチから(2022年の価値にすれば)5億6000万ドルを盗み出すことに成功した。この盗んだ金は、エッフェル塔のような驚異的な建造物の建設に使われただけでなく、フランスの銀行システムの構築にも使われ、クレディ・インダストリエール・エ・コマーシャル銀行(C.I.C.)に最大の利益をもたらした。ニューヨーク・タイムズ紙の「身代金」という記事は、この報復的なハイチ略奪が、210億ドル以上の損失(ハイチ国内に資金が残っていればだが)につながったことを説明している。植民地支配強国によるこの類を見ない行動は、ハイチの国家としての発展に多大な悪影響を及ぼしたが、それは始まりに過ぎなかった。

この強盗的所業とほぼ同時に、アメリカ合衆国は資源豊かだが経済的に破綻したハイチに目をつけた。まず、1868年、アンドリュー・ジョンソン大統領はヒスパニョーラ島全体を併合することを目指した。彼の後任であるユリシーズ・S・グラント大統領は、サントドミンゴ併合の積極的なPRをする委員会を後押しし、フレデリック・ダグラスを黒人支持の顔として利用した。併合に関する投票は米国上院で成立しなかったが、アメリカ合衆国はその後もハイチの事情に関与し続け、1915年にはハイチへ侵攻し、占領した。

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米国海兵隊、ポルトー・プランスに駐留。1915年

この占領は19年間続いた。その間、アメリカはハイチの国立銀行から50万ドル以上を盗み、その金をウォール街の様々な銀行に移した。シティグループはそのひとつ。この行為によって、アメリカはハイチ最大の金融機関を一方的に支配することになった。

企業の搾取と独裁者たち

1934年の善隣政策*によってアメリカ軍が島から完全に撤退した後、第二次世界大戦は欧米諸国がハイチの資源を開発する新たな機会となった。1941年、ハイチ政府は米国と共同でハイチ農業開発協会(SHADA)を設立した。
*善隣政策とは、フランクリン・ルーズベルトがアメリカ合衆国大統領在任時に行なった、ラテンアメリカ諸国に対する外交政策のことである。善隣外交とも言う。この政策が実施されたのはルーズベルト政権の時であるが、19世紀の政治家ヘンリー・クレイが既に「Good Neighbor」という用語を用いていた。(ウィキペディア)

この法人は、米国輸出入銀行(EXIM)が出資し、管理する農業法人であった。取締役会はハイチ代表3名とアメリカ代表3名で構成され、会社の主要幹部もアメリカ人であった。この構想は、戦時中のハイチの農業基盤経済を拡大し、ゴム生産に力を入れることを目的としていた。SHADA社が設立された結果、ハイチ政府はEXIM銀行に400万ドルの負債を負い、ハイチ製品の最大の輸入国はヨーロッパ(特にフランス)に代わってアメリカとカナダになり、ハイチの「農民階級」の農地はSHADA社に奪われた。

この時点から1980年代後半まで、ハイチはエセ人民主義者のフランソワ・デュバリエと、その息子のジャン=クロード・デュバリエの独裁的な支配を受けた。

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フランソワ “パパ・ドク” とジャン=クロード・“ベビー・ドク”・デュバリエ

デュバリエの治世は1957年、主にドミニカ共和国に端を発するムラート(白人と黒人の混血集団)の暴力への対応として始まった。フランソワ・"パパ・ドク"・デュバリエは、政権初期に黒人大衆が政治的・経済的に権力を握るという将来構想を表明した。一方、彼の行動は扇動政治家のそれであり、最終的に「ボギーメン(妖怪)」と呼ばれる腐敗した準軍事組織を設立し、地元住民を恐怖に陥れた。その後1964年、彼は自らを「終身支配者」と宣言した。

彼の指導の下、ハイチは観光客の減少、ドミニカ共和国との緊張の増大、そして彼の政権による厳しい弾圧に苦しんだ。19歳の息子、通称“ベビー・ドク”は、1971年、父の後を継いだ。 ジャン=クロード・デュバリエの統治法は国際的な尊敬されるイメージを確立することに焦点を当てていたが、父親の指導の名残があったので、1987年、独裁王朝を追放する大規模な蜂起が起こった。

裏切り者に阻まれた流血の政権交代

1991年の冬の終わり、ハイチの大衆に圧倒的に支持された社会・経済改革派のジャン=ベルトラン・アリスティドが、ハイチで初めて民主的に選出されて、大統領に就任した。しかし、この勝利は短命に終わった。

アリスティドが推し進めた野心的な改革には、軍隊に対する文民統制の拡大や長期政権最後の軍事指導者たちへの引退「奨励」、そして貧しい農民から土地を奪う腐敗した農村長制度の廃止などがあった。この改革は富裕層や元軍事当局への攻撃と受け止められ、選挙からわずか7か月後にアリスティドに対するクーデターが引き起こされた。クーデターは、ラウル・セドラス中将が指導者だった。彼は後に、アメリカ政府からの恩赦と、月額数千ドルの給与を受け、ハイチの隔離地に住むことになった。

このクーデターの後に起こったのは、軍事政権による労働者や農民、そして学生の様々な抵抗グループとアリスティドの支持者らに対する極端な暴力行為であった。ハイチの独立系ラジオ局を武力攻撃したり、ハイチ学生連盟 (FENEH) と関係がある150人の学生を大量に逮捕したりした。

ジョージ・H・W・ブッシュ政権下の米国諜報機関は、セドラス派とアリスティドとの交渉に便宜をはかったが、反面、アリスティドに対して人物破壊工作も行なった。その際(米国諜報機関は)アリスティドの支持者たちから出された1991年デュバリエ派が起こした反アリスティド・クーデターは人権侵害であるとの告発を非難することもした。

次のクリントン政権は前政権とは対照的に、アリスティドに対する厳しい態度を和らげた。実際、この政権は軍事的介入で、抑圧的なセドラス政権を追放する「民主主義維持作戦*」を展開した。しかし、この善意の行動は中央情報機関(CIA)の関与と矛盾する。なぜなら、CIAはセドラスがアリスティドを排除する手助けをし、セドラス大統領再任を押し進める組織FRAPH(「ハイチの発展と進歩のための戦線」)を操った体制の後ろ盾だったからだ。
*民主主義維持作戦(Operation Uphold Democracy)は、1991年のハイチのクーデターで選出されたジャン=ベルトラン・アリスティド大統領が打倒された後、ラウル・セドラスが主導し設置した軍事政権を排除することを目的とした多国籍軍事介入であった。この作戦は、1994年7月31日の国連安全保障理事会決議940によって事実上承認された。(ウィキペディア)

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左:FRAPHの民兵。右:CIA諜報員でFRAPHのリーダー、エマニュアル・コンスタント

「正義と説明責任センター」*によれば、FRAPHはハイチ軍(セドラス政権下)の暴力、テロ、抑圧行為に積極的に関与していた。そのリーダーであるエマニュエル "トト "コンスタントは、1993年にC.I.A.の諜報員であることが暴露された。それにもかかわらず、1994年のアメリカによる(再度の)ハイチ占領は、セドラスと彼の派閥を権力から「成功裏に」排除し、アリストティドの復帰への道を開くことになった。
*Center for Justice and Accountabilityは、カリフォルニア州サンフランシスコを拠点とする米国の非営利国際人権団体。1998年に設立されたCJAは、米国およびスペインの裁判所での個人の権利侵害者に対する訴訟における拷問およびその他の重大な人権侵害の生存者を代表している。

貪欲と植民地本能に潰された2回目の機会

アリスティド復帰は、帝国主義者が考えるようなアメリカの善意による行動ではなく、アリスティドが西側諸国の賛同を得られるような経済政策を展開することを条件とした取引行為であり、その条件のひとつがハイチの国有企業の完全民営化だった。アリスティドがこの条件に従わなかったのは、それはおそらく、この条件の性質上、主権国家ハイチにおけるアメリカの経済支配に大きな窓を開けることになるからだった。

西側の意志に従うことを拒否するこの行為は、アリストティドとラヴァッシュ党(アリストティド系の「進歩的」な党)が労働者階級からの圧倒的な支持を受けていたことと相まって、民主的に選出された大統領(アリストティド)を脅威に晒し、(敵の)標的にしてしまった。

アリスティドは、2度目の選挙に勝利した後、米国が支援するFRAPHと西側に好意的なハイチのエリートの残党からの反対に直面することになる。注目すべき野党指導者は、米国のパスポートを持つ工場経営者アンドレ・アペイドで、アリスティドと彼の政権は独裁主義であると中傷する「184人グループ」と呼ばれるギャングを率いていた。彼らと並んで、前述の暴力的で抑圧的なFRAPHは、アリスティド支持者を恐怖に陥れ、傷つけ、虐待する行為を続けた。

米国は、ハイチ問題への過去の干渉によって引き起こされる流血が避けられないことを察知し、それをテコに2004年にアリスティドを亡命させた。その後、アメリカ軍は再びハイチに進駐し、アリスティドに反対する暴力的な勢力を速やかに排除した。フランスの支援と国連の制裁により、ハイチ初の選挙で選ばれた大統領(アリスティド)は、最高裁判所のボニファス・アレクサンドル裁判長と交代した。彼は国連の傀儡政権の顔として振る舞った。この政権交代で、ラバシュ派が多数を占めていた指導部に、元デュバリエ派の閣僚が入ることになった。

自然災害の悪用

2010年に入ってわずか数週間でハイチを襲ったマグニチュード7.0の地震の惨状を多くの人はまだ忘れていないが、この自然災害に対する米国の対応の失敗によって引き起こされた惨状を多くの人は知らないかもしれない。当時のヒラリー・クリントン国務長官の監督の下、米国主導で行なわれた人道的対応というのは、非政府組織 (NGO) の場当たり的な管理と誤った監督だった。最も顕著な例は、赤十字の5億ドルの使途不明金である。

また、クリントンの実の娘が指摘したように、地域住民の自治に対する配慮もほとんどなかった。また、米軍が駐留しているのに治安が維持されなかったことも彼女は問題視した。クリントン夫妻のさらに悪質な行為は、「慈善的な」クリントン財団とクリントン・ブッシュ・ハイチ基金が、まるで「たかり」のような動きをしたことだ。この2つ財団は総額100億ドルの寄付の約束を受けている。

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カラコル工業団地の設立、従業員の日給は5ドル。

この資金を集めた後、ビル・クリントンはハイチ復興暫定委員会の共同議長に任命された。これによってクリントンは、両財団を通じて受け取った資金を直接管理することになった。しかしこれも、取るに足らない支援と、2012年にクリントン夫妻とファッション界の重鎮によって設立された3億ドルの衣料工業団地が失敗に終わったこと以外は、何も残らなかった。

操り人形と愛国者

この米国の大失敗で、米国はまんまとハイチを米国の言いなりにさせた。ハイチ救済を目指し、結局は失敗に終わった指導者は、マイケル・マルテリーとジョサバ・モイーズだった。マルテリーは、2005年にベネズエラの社会主義者ウゴ・チャベス大統領の下で始まったペトロカリベ協定*を通じて、ベネズエラから40億ドル以上の援助を横領したことで悪名高い。この盗んだ金は、彼の後継者であるモイーズを政権に押し上げるために利用されたと推測されている。
*ペトロカリベ協定・・・ベネズエラとカリブ海加盟国間の地域石油調達協定。この貿易組織は、ウゴ・チャベス大統領時代の2005年6月29日にベネズエラのプエルト・ラ・クルスで設立された。ベネズエラは加盟国に譲歩的な金融協定に基づいて石油供給を提供した。(ウィキペディア)

モイーズ政権下、ハイチの生活環境は悪化の一途をたどった。ペトロカリベ協定は2017年、他の誰あろう、トランプ政権下のアメリカによるベネズエラへの重い制裁により、事実上廃止された。ペトロカリベ協定の終了は、搾取される大衆にとって困難な局面となり、大規模な市民の混乱と、2021年のモイーズ暗殺につながった。

この暗殺事件により、現在、アリエル・アンリ首相がハイチの公式な国家元首として承認された。しかし、ハイチの労働者階級や事実上の指導者であるジミー・シェリジエは、この新首相と見解を共有していない。

ジミー・シェリジエはハイチの息子であり、犯罪と戦った経験があり、彼らに押しつけられた抑圧から苦しむすべての人々の結束を求める大きな思いやりの心を彼は持っている。この新しい家族を“G9”と呼ぶ。しかし、ハイチの社会的および政治的エリートと、ハイチのエリートと結びつく西側の外部機関は別だ。初の黒人独立国であるハイチが、自らの道を確立するための場所と礼儀を与えられる時が来たのだ。特にそれは国内の貧しい大衆が掲げた道なのだ。

ハイチの歴史は、西欧の排外主義がもたらした負の結果に満ちている。(ハイチは)フランスの植民地抑圧者に何百万ドルもの賠償金を支払うことから始まり、実質的に米国のお気に入りのおもちゃになった。過去の3人の指導者が米国によって恣意的に選ばれた。しかし、トゥーサン*がいた。アリスティドがいた。そのようにシェリジエとG 9には、ハイチの子供たちに利益をもたらすために、最終的に真の意図を持った国家を持つ機会に値する愛国精神がある。私たち帝国主義の中心にいる市民は、現在と将来の指導者たちにハイチから手を退くことを要求しなければならない。
*トゥーサン・・・フランソワ=ドミニク・トゥーサン・ルヴェルチュール(1743年 - 1803年4月7日)は、(フランス革命期の)ハイチの独立運動(ハイチ革命)指導者であり、ジャン=ジャック・デサリーヌ等とともにハイチ建国の父の一人と看做されている。(ウィキペディア)
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