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ワシントン・コネクションと第3世界のファシズム

ワシントン・コネクションと第3世界のファシズム

ノーム・チョムスキー&エドワード・S・ハーマン

2016.2.26


<新見コメント>

 今回のチョムスキー&ハーマンの翻訳は、元岐阜大学教授寺島隆吉先生の勧めで取り組むことになりました。1979 年に出版された同名の本の抜粋ですが、現在の世界を理解には今も有効で、見逃すことができない文章です。

 まずテロという言葉が頻繁にメディアで出てきますが、それはもう一つの大きな国家テロを覆い隠す役割を果たしているという分析は、極めて重要な指摘です。

 そしてもう一つ、CIA が世界の政権転覆にどのように関わったか、その手法を7つに分けて書かれています。

 1.政治指導者の暗殺
 2.テロリスト、傭兵、軍閥を用いた政権転 覆
 3.外国政治家への政治的収賄と資金提供
 4.プロパガンダ
 5.デモを組織しそ れに資金援助する
 6.敵対組織や政党に潜入する
 7.情報を集め、政権転覆に利用する

 これらの手法が現代の政権転覆にどのように使われているか具体的に書かれていて非常に参考になります。

 私がチョムスキーの翻訳に挑戦することは無謀なのですが、なぜ無謀であるかという理由を寺島先生は「これはインタビューと違って書き言葉だ。チョムスキーの書き言葉は一段と抽象度が高く難しい」と言ってみえました。私はインタビュー記事は時々読んだことがあったのですが、書き言葉はほとんど経験がありません。一文が数行にわたる英文を日本語にすることはとても大変な仕事でした。まだ所々意味の通らないところがあると思いま すが、現在の段階で投稿します。ご容赦下さい。

 なお訳注が本文の倍以上ありますが、私はこれだけのことを調べないと内容を理解することができませんでした。みなさまには、必要な部分だけ参考にして読んで頂ければいいかと思います。

編集者序文

現在の共和党候補達は、ドナルド・トランプに導かれて「アメリカよ、再び偉大であれ」というスローガンを押し進めている。アメリカがいつ偉大であったのか、そして「偉大」という言葉は、帝国の偉大さなのか、それとも民主主義の偉大さなのかをいぶかるものがいるかも知れない。そこで現在の共和党候補者達には、レーガンが大統領であったときアメリカは偉大であったことになる。本当にそうだろうか。2015年2月Zマガジンに掲載されたノーム・チョムスキーのレーガン政権に関する報告記事を見てみよう。これはThe Washington Connection and Third World Fascismからの抜粋で、その中でこの「偉大さ」というものの証拠を見てみよう。

ロナルド・レーガンは現代の大犯罪者の一人

未来にも衝撃を与えた驚くべきプロパガンダの成功例は、大殺人者であり、大拷問者であるロナルド・レーガン崇拝だ。彼は現代の大罪人の一人で、世界で最も残忍な殺人者であり、テロリストを好む本能を確かに持っていた。彼はラテンアメリカにおける最も熱心な殺人者達から、150万人を殺したとされる南アフリカの人種差別主義者までを支援してきた。彼ら人種差別主義者達は、マンデラのアフリカ民族会議<訳注1>から攻撃を受けたとき、アメリカによって支援されねばならなかった。アフリカ民族会議は世界で悪名高い「テロリスト」グループの一つとして、レーガン主義者が1988年に認定し、その後も一貫してそうであった。

「当然、レーガンの残忍な記録は、金日成をも感動させた神秘的な装置が不利にならないようにすぐさま消去された。その他の功績の中で、彼は自由市場の使徒として聖別された。実際には、彼は戦後の他の全大統領より保護主義的障壁を設け、そして経済的介入を大量に行ったのだ。彼は法と秩序の偉大な保護者であった。彼は労働法を実施しないと実業界に告げた。だから組合組織者の違法な首切りは、彼の政権下では3倍になった。彼の労働者階級への憎しみは度を超していて、"お金持ちの黒人女性が生活保護手当を受け取るためにリムジンを運転していた"などと言って軽蔑していた。」

「その結果は、私達が住む知的、道徳的文化について極めて多くのことを教えてくれた。オバマ大統領にとっては、この奇怪な生物は変形可能な人物であった。」

ワシントン・コネクション:事実対信念

二つの関連する巻からなるこの研究は、アメリカと第三世界の関係を扱っている。それは二つのこと、つまり事実と信念に焦点を当てている。基本的事実は、アメリカが支援と保護の名の下に、属国を新植民地システムに組織したということだ。新植民地システムは主にテロや、小さな地元企業や、外国企業や、軍事エリートの利益に供することによって治められていた。基本的な信念又はイデオロギー的仮面は、アメリカが世界中で民主主義や人権を促進するのに貢献しているということである。時折この目的の追求を誤るのだが。

1960年以来、18カ国以上のラテン・アメリカ体制は軍事的乗っ取りにさらされてきた<訳注2>。それは欧米では無視されてきた「ドミノ効果」である。アメリカの影響はこの過程で重要であった。ある場合には意図的な政権転覆によってであり、または直接的な侵略であったりするが、どちらの場合も重要なのが、実質的な経済的、軍事的浸透であり超大国の介入である。 現象それ自体は新しくもなく、ラテンアメリカに限定されることでもない。ガテマラ民主主義は、1954年拷問と抑圧の体制に味方したCIAによって転覆されたが<訳注3>、これは1年前のイランの政権転覆<訳注4>や、フィリピンの場合<訳注5>と一致する。フィリピンは世紀の変わり目にアメリカによって支配され、短命な民主的外観は何の抵抗もなく今はアメリカによって奪い取られた。そしてマルコスの軍事政権への経済的・軍事的援助の著しい増加は、見慣れた伝統的パターンを反映しているだけでなく、承認と支援による支配という現実の説得力ある証拠となっている。

拷問を組織的に使用するアメリカ属国の醜い傾向は、構造的にアメリカ企業利益とつながっていて、企業活動の自由を妨害する可能性のある組合や改革主義者のたぐいに対する弾圧を助長している。物質的利益を証明するものは、アメリカの銀行家や企業家が一貫して新しい属国ファシスト秩序が「安定していること」を歓迎していたことだ。その属国政府は、反対派や僧侶、労働運動の指導者、農民組織者または秩序を脅かす他の者たちを残酷に扱っていた。そしてとどのつまり、大多数の国民は無関心であるのに、大きな外国の利益にはほとんど迎合しているということである。それ故、重要なことは、属国の拷問者たちは、IBMやシティ・バンクやアリス・チャルマーズやアメリカ政府の要員であり、選別や計画に従って機能する組織の中で、あてがわれた役割を果たしている。

第三世界のファシズム帝国の拡大と巨大な領域では、政治的暗殺集団、拷問、抑圧が完備していて、事実と信念の隔たりが大きくなった。それ故、報道や学校や大学などのイデオロギー機関は、大きな難問に直面している。その難問とは、増大するファシストの暴漢を、我々の補助金や積極的支援に値する立派な「指導者」に変える難しい仕事であると考えられる。同時に重要なのは、国際的マフィアを支援するこの状況で、またインドシナ農業社会に長期にわたって残忍な攻撃を加えた直後の状況で、アメリカを他国の人権記録を判断し評価するのにふさわしい国であるということである。それにもかかわらずこれらの難しいはずの仕事は際だった困難もなく達成された。そして不信感は、歴史を書き換える非常に効果的なシステムによってうまく取り繕われた。たとえば現在の「情報」を選び、加工し、新たにつくり出すことによって取り繕われたのだ。

我々の調査から出てきた現実は、我々にはとてもおぞましいもののように思われる。事実のレベルでも欧米のイデオロギー機関の能力に関しても、経済的・政治的制度を支配する人々の利益になるように事実をゆがめ、不明瞭にし、解釈し直している。しかしこのイデオロギー機関が全能でないのは、インドシナにおけるアメリカの戦争中の経験から、何百万の人々が学んだからだ。1965年まで、インドシナへの米軍介入に根本的反対を耳にすることはすでに当時よく知られていたが、実質的に反対することは不可能であった。「ラディカルな反対」という言葉で、私達の米軍の軍事介入反対は、国家的コストや利益の評価からではなく、アメリカが目的遂行のために軍隊や暴力を行使する権利を持たないという観点での「ラディカルな反対」を意味する。

後に、様々な聞き取りが可能になったのは、一部は平和運動に関連した組織や出版物を通してであり、一部は大規模になった平和運動のニュース価値が高まったためである。「自由報道」は、戦争中の運動に直接触れることはほぼなかった。平和運動はまた国家が積極的に敵対行為をしてくるので、その妨害を克服しなければならなかった。今ではよく知られていることだが、アメリカ政府は1960年代の大衆運動を攻撃し、破壊するために国家政治警察を動員した。それにもかかわらず、大衆運動はどんどん大きくなり、権力中枢で究極的にとられた決定に影響を与えたことは疑うべくもない。しかし効果的に国内権力構造を変えることはなかった。

一般敵には、国内における自由は人間的だが、道義的国際行動は歴史的証拠によっても理性によっても支持されないと考えられている。アメリカは、世界各地の自分の勢力範囲で抑圧的なテロリスト体制を強いてきた長い歴史を持っている。たとえばカリブ海諸国や中央アメリカの砂糖や「バナナ共和国」で抑圧的体制が実施された<訳注6>。これがイデオロギー的対立がひどくないにもかかわらず起こったのは、これらの発展が強力な支配的利益、つまりアメリカ国内の国や私企業に役立ったからである。

自由、侵略、人権

ベトナム戦争の経験は、国家暴力を押さえるために、自由と異議申し立ての重要性を証明するものだとよく言われる。この評価は事実の重大な読み誤りをしている。平和運動の直接行動は、アメリカ国内の平等、自由、社会変革のための大衆運動に貢献することから大きくなり、アメリカの侵略の国内の犠牲者問題を提起することに成功した。それ故ある程度、攻撃の規模や過酷さを制限することに役立った。そして勝負は割に合わないという最終決定に寄与した。もちろん確かにそうだが、主に現存の組織の枠組みからは別の方法を採用することによって可能となったのだ。そして国家権力や私企業の利益を保護し、増大させる現存の制度に反撃するためには、広範な教育的な努力が必要であった。

既成の「自由」機関は戦争を支持した。大部分が熱烈にかつ無批判に、ときどき小さな条件付きの留保をつけながら。費用便益以外の理由に基づいた原則的な反対は、主要な制度構造の外で機能した。平和運動は欧米エリートを驚かせた。1960年代の大部分の人々が政治化したことに対するアメリカ(実際は自由世界)指導者の反応は、「民主主義」や「民主化過程」における大衆の役割の概念を明かにしてくれた。三極委員会<訳注7>は産業民主主義の支配的グループのよりリベラルな部分を代表しているが、1975年に「民主主義の危機」と題する研究を発表した。それは意思決定における大衆参加を民主主義の危機と解釈し、もしエリート支配が大衆の要求によって妨げられるなら、阻止しなければならないものと考えられている。もし「民主主義」がリベラルな不慮の出来事と解釈されて、「民主主義」が機能し続け、生きながらえることが許されるなら、人々は無関心や体制順応主義になっていなければない。自由とベトナム戦争の経験とを結びつける最も重要な事実は、アメリカが自由な制度をもっているにもかかわらず、20年以上にわたって力と政権転覆によってベトナムを支配しようとしてきたことだ。ベトナム戦争は国連憲章や、1954年のジュネーブ協定や、ニュルンベルグ協定や、ハーグ協定や、1925年のジュネーブ協定や、最終的には1973年のパリ協定に違反して行われてきた。ほとんど10年間インドシナの農民達は進化する軍事技術による動物実験の対象となってきた。その軍事技術にはクラスター爆弾や洞窟をも貫通するロケットがあり、洞窟には集中砲火を逃れるために隠れていた人民がいた。悪魔のような一連の対人兵器、長く違法な「ダムダム弾」の新型兵器は、より地味な兵器として採用されていた。

人々が都会のスラムに追いやられたのは、爆撃や大砲やしばしば大量殺人となる地上攻撃によってであり、抵抗運動が根づいていた社会構造を破壊しようとする試みを拡大させたからである。ラオスやカンボジアの無防備な農民社会は「秘密裏に」残虐な爆撃を受けた。「秘密裏」とはマス・メディアは十分な証拠を持っているのに事実を公表することを拒んだからだ。自由は、この拡大する残虐性のみならず、自由であるという恐怖から隷従を守るように明らかに計画された介入とも一致していた(例えば、1965年のドミニカ共和国の侵略(訳注8)))。そして民主主義を全体主義体制に置き換えるためである(例えば、1954年のグァテマラの公然とした政権転覆<訳注3>、また1964年ブラジル<訳注9>と1973年チリのさらに秘密裏の政権転覆<訳注10>)。1965年~1966年のインドネシア<訳注11>のように、自由機関は「自由」の名の下に大虐殺を受け入れ、実に密かに政権転覆を承認市得たのであった。つまりアメリカのリベラルにとってはアメリカのベトナム介入が先見の明の証として受け取られていた。アメリカ属国によってなされた自国民に対する大虐殺(たとえば東チモールにおけるインドネシアの虐殺<訳注12>)は、アメリカも人々を鎮圧することを望んだが、自由と共存できることを示し、いつも偽装され、あるいは自由報道によって無視された。

アメリカの国内の自由に対する指導者の態度がどんなものであれ、先に述べられたように、これはかなり曖昧なものであるが、第3世界諸国に対する一貫した政策は、他で詳細に記述され、明らかになっている。つまり民主主義や人権に対する関わりと言われるものは単なる言葉の問題で、実際の政策とは全く反対であるということだ。実際の原則は経済的自由であったし、今もそうである。アメリカにとって自由とは、投資の自由であり販売の自由であり、本国に利益を送還する自由を意味している。そしてその二つの基本的必須条件は、好ましい投資環境であり、そのための特殊な形での安定性である。これらの主要な価値が、手に負えない学生反乱や、民主化の進行や、農民組織者や、自由報道や、自由労働組合によって妨害されるので、「経済的自由」にはしばしば政治的隷属が必要とされる。

個人の権利に対する尊重は欧米の基本的価値の一つとされているが、第三世界に当てはめられる運営手順にはほとんどその余地がなかった。好ましい投資環境や安定性は、しばしば抑圧を必要としているので、アメリカは尋問や拷問のための道具や訓練を採用し、過去10年間に拷問の広範な拡大に関わっている。

アメリカ国内でも、情報機関は「拷問キャンプを運営」していた。同様にブラジルの提携者は「グリーン・ベレーに倣ったキャンプ」を設置した。そしてアメリカのアドバイザーは、訓練や資材を供給するだけでは満足せず、みずから積極的に拷問を行っていたという証拠がある。ベトナム戦争中にアメリカは大量の改良ナパーム弾や燐爆弾や殺傷用破片爆弾や他の広範な対人兵器を使用して、一般市民に破壊的な結果をもたらした。人体や精神に大きな苦痛を与える兵器と「尋問」方法の着実な開発と、アメリカの勢力範囲の至る所で対ゲリラ戦争や安定化工作にこの技術の使用を拡大したことによって、「個人の尊厳」が欧米においては、少なくともエリート集団以外の所ではほとんど主要な価値ではないことのさらなる証拠である。

治安体制の要求

アメリカが第三世界の警察力や軍事体制を強化して、抑圧的な体制を敷くお馴染みの「傾向」を正当化するのは、「治安体制」の要求である。これはすばらしく弾力性のある概念であり、ネオファシスト支援と同様に無制限の武器支出を可能にするありがたい概念である。我々が治安体制を理由に南ベトナムの解放戦線を抑圧するべきだと言われるとき、これは明らかに解放戦線派の成功がアメリカの利益にとって不利であり、必ずしも軍事利益に不利ということではない。大国やその属国政府にとって「治安体制」は、支配された安全な国家で多くの不安全性と一致することがありうる。アメリカでは安全の概念は「全てを包含」していて、厳密に軍事と同様に経済的、政治的支配を含んでいる。これは超大国とプロパガンダの片割れが、その属国を押さえ込むためには、介入することが自然権だと考えていることから来ている。それは自己正当化を強化するPRの大きな利点でもある。だれが自国の治安体制を守る哀れな巨人の試みに反対できようか。

テロの意味的操作

民主国家の民衆を脅し、操縦するのに使われる多くのシンボルの中で、「テロ」や「テロリズム」ほど重要なものはない。これらの用語は、一般に個人や周辺グループによる暴力の使用に限定されてきた。公式の暴力は、スケールにおいても破壊力においても遥かに巨大であるのに、まったく異なったカテゴリーに置かれている。この使用法は、正義とか因果関係とか虐待された数とかとは無関係である。実際の因果関係がどんなものであれ、制度的暴力は防衛的で、挑発されたもの(「報復」とか「防衛行動」など)として描かれるが、虐待を積極的に推し進めた原因としては描かれない。同様に、典型的に無視されるのは、アメリカの権力が支援し、押しつけた抑圧的社会構造に特有の長期にわたる巨大な暴力である。最近の数十年の制度的暴力によって苦しめられ、殺された数は、小売りのテロに比べて大規模で、非公式のテロの犠牲を遥かに超えるもので、何千人という規模になる。しかしこれは「テロ」とは言われないのである。

これらの用語的からくりは重要な機能を果たしている。それらを「反動的」と解釈することによって、(敵意に満ちた)国家当局のさらにより拡大した暴力を正当化するのに役立っている。そしてそれを「テロリズム」の概念から取り外すことによって、制度的暴力の方法や規模の情報を隠蔽することをそれとなく是認する。だからその言葉の用語法は、大規模なテロの弁護論としてうまく意図されている。

この言葉の用語法はまた、皆殺しされても問題にもならない理不尽な悪というの言外の意味を含んでいる。例えば現在、ニューヨーク・タイムズは「冷血で神秘的な」カルロス<訳注13>に言及している。一方、南アフリカ政府は、1978年5月4日ナミビアのカシンガ難民キャンプを襲撃<訳注14>したが、バーダー・マイホフ団のカルロスの犠牲者よりはるかに大勢(600人以上)を抹殺した。そしてイタリアの赤い旅団<訳注15>などは、それほど不快な言葉では語られていない。小売りのテロは、メディアによって伝えられる現在の写真の中では「我々の時代の犯罪」であるが、仲間内の政府のことは、「テロ」と勇敢にも対決していて、大衆に安心を与える保護者として描かれる。

限定されたテロの概念は、本質的問題から注意をそらす避雷針としても役立つし、政府の行動に大きな自由を与える感覚や気分をつくり出すのに役立つ。ベトナム戦争中に学生はテロリストであり、政府とマスメディアは彼らの恐ろしい破壊行動(一人が殺され、多くの窓が壊された)に大きな注目(そして大きな怒り)を与えるのに腐心した。仕掛けは反戦運動を暴力的で、破壊的なものとして信頼をなくすために効果的に使われた。もちろん政府扇動家による運動への潜入活動によって行われたことだ。そしてそれはさらに大規模な公式暴力から注意をそらすのに役立った。本国はもちろん、ベトナムでも、ドミニカ共和国でも他のどこでも制度的暴力から注意をそらした。謀略は今では重大な問題にならないほど証明されている事実なのに、驚くほど成功した。しかしそれが反戦運動を破壊することに成功しなかった。敵ベトナム人のテロは、世論を動員するのに効果的に使われた。もし事実が明らかになれば、これも自由の名の下での洗脳する力の大きな証拠となるものである。

ベトナム戦争はアメリカの政治体制によってほとんど痕跡をとどめぬほどよく考えられてきた。本質的に、同じ人々が国事を管理し、マスメディアに独占的に接触していた。戦争の評論家は堕落し、沈黙を強いられた。そしてメディアは、ベトナム侵略について卑劣な詳細を膨大に積み上げることが許されなかった。それはアメリカの善意や、海外から民主主義を追求するという神話を妨害するからだ。この神話は、過去数十年以上にわたって第三世界の「ブラジル化」が加速される局面でさえ妨害されなかった。非常に頻繁にアメリカの積極的な支援で、民主的政府の頻繁な置き換えや、広範に弾圧を増大させ、肉体的拷問や投獄や政治的暗殺集団や不可思議な「失踪」が、アメリカの勢力圏の至る所で起こっていた。

CIAの政権転覆活動の広がりと種類

CIAの不安定化工作は多くの形をとるが、ここではそのほんの少しだけを取り上げる。

最初に取り上げるのは、政治指導者の紛れもない暗殺であり、ルムンバ(従順なモブツとの交代)とか、チリのシャイナー将軍とか、カストロ暗殺の数多くの試みのような例がある。

二番目に、これもよく知られたことだが、テロリストや外国人傭兵または(普通は)国内の軍事派閥を用いて気に入らない政府を崩壊させたり、転覆させる直接的な陰謀である。CIAがしっかり関わったより目立って、よく知られた成功例の中に、ベルギー領コンゴ、チリ、ギリシャ、ガテマラ、インドネシア、1961年のPIGS湾事件がある。ラオスの場合CIAは地元の社会革命を破壊しようと山岳民族の傭兵部隊を実際に組織し、指揮をした。皮肉にも傭兵部隊の大部分が殺され、もはや必要なくなったとき彼らを見捨てたのだ。この一般的なカテゴリーとして、テロリスト攻撃や農作物に毒を入れたりするような行動などを挙げることができる。たとえば、キューバ政権を転覆させ、キューバの経済発展を崩壊させようと、ケネディーとそれに続く政権下でCIAが行わったように。CIAが既存の政府の転覆(そして政治的暗殺の試み)に関わったケースの全体数は何百もしくは何千という数になる。

三番目が外国政治家への政治的収賄と資金提供である。ブラジルの場合、1964年前のCIAマネーの流入はとても巨大で、非常に多くの何百という政治家を巻き込み、それがスキャンダルや政府調査を引き起こした。しかしそれは都合よく1964年のクーデターで終結した。

四番目がプロパガンダである。それは広範な形をとることがありうる。しかしそれは必ず秘密裏に行われる(そしてそれ故その典拠に関してははっきりしない)。研究者や研究機関や出版社やジャーナリストには補助金がしばしば与えられる。それは規模としても範囲としても巨大である。ブラジルのクーデター前のように、1962年CIAは「過剰報道」を仕掛けた。つまり、毎週80のラジオ番組、300時間に及ぶラジオ・テレビCM放送、あらかじめ用意された社説や「情報」報道の洪水、大量の掲示板広告やパンフレットなどである。それは「何十人」ものジャーナリストに給料を払い、月刊誌を編集し、高級新聞を使って、それを無料で配布した。それはリオの夕刊紙「A Noite」の論説ページを賃借りさえした。そして膨大な保守的な本の発行を支援し、それを無料で配布した。それも出所を明らかにしないで行われた。

そのプロパガンダ攻勢の中でCIAは敵の信用を落とすように意図された捏造に長く携わってきた。例えばブラジルでは、改革を脅す農民指導者の地位を貶めるために、CIAはありもしない会合に彼が出席していたと公表し、共産主義者の脅威の存在を証明するために、クーデターのあとマルクス主義文学作品を印刷して配ったりした。チリでは、1973年にCIAは共産主義者が流血クーデターを計画していることを証明するための資料を偽造し配布したのだ。その資料には軍の高官を斬首したり、軍隊を脅し、挑発して政権を乗っ取り、大虐殺を推し進めるというでっちあげもあった。

五番目にCIAの不安定化工作のタイプは、デモを組織しそれに資金援助するというものである。それはブラジルやチリの両方の政権転覆過程で重要な役割を果たした。フィリップ・エイジーが彼の日記で述べたことは、「リオの部隊とそのより大きな駐屯地は、グーラート政権に対する都会の大デモに資金援助していたということだ。神、国家、自由という古いテーマがずっと効果的であるというを証明した」。同様の戦術はチリでCIAの政権転覆計画の一部として採用された。

六番目のCIAの戦術は、気に入らない組織や政治政党に潜入することだ。これは密告という価値を持っていて、当局の挑発者が混乱の種をまくこともある。ブラジルではこの種類の最も重要な試みが「自由労働発展のためのアメリカ研究所(AIFLD)」を通してAFL-CIO(アメリカ労働総同盟・産業別組合会議)との共同で実施された。それは反共産主義プロパガンダ宣伝を実行し、独立ブラジル労働組合を懸命に分裂させ、信用を落とすために入念に活動した。最後には高らかにクーデターを支持し、自由労働組合主義を決定的に消滅させた。

最後に、CIAは情報を集めるが、その情報は様々な方法で使われている。最も興味深いのは、立憲政府に対して右派の暴漢や陰謀者に情報を定期的に与えることだ。チリの軍隊には「敵のリスト」が与えられ、ブラジルの右翼にはクーデター前に絶えず情報が与えられていた。CIAの政治的取り組みと役割は、1974年以前には秘密情報員が南アフリカには配置されていなかったのに、1974年の前も後もCIAは南アフリカの秘密警察と緊密で「親密な」関係を保っていたということだ。CIAの不都合な民主主義に対する不安定化工作はありふれたことだ。しかしアパルトヘイトを終わらせようとするために、CIAの南アフリカ政権転覆を理解するにはたくましい想像力を必要とする。

テロの経済的役割

私達が見てきたことは、アメリカの援助、つまり投資環境と国家テロの間には、明白な関係があるということだ。さらなるおぞましい事実は、テロが偶然の副産物ではなく、投資環境と実利的な関係があるということだ。自国アメリカの経済成長のために海外ビジネスへの特別優遇税制措置や海外投資に頼るには、第三世界の民族独立運動の時代における民主主義秩序を求める環境の中では容易に達成することができない。そこには賃金統制や望ましい投資環境にふさわしい他の措置がどちらもない。これらの活動は人々の80%以上を意図的に周辺に追いやることを暗に意味していた。彼らを政治過程からも、法的に人権からも、そしてエリートの指導性の政策計画からも全面的に排除することによって周辺部に追いやった。つまり、アメリカの植民地世界の「新秩序」は、露骨で暴力的な階級戦争であり、国際化した軍事指導者や地元企業や多国籍企業(外国の付属物)と結合した利害を伴って行われる。そして「新秩序」は目的を達成するために国家を奪い、大多数の住民の組織的防衛を粉砕し、抵抗を受動的なものに抑えようとし、ファシストじみた経済政策や「発展」のための戦争の準備をすることだ。

ファシストじみた経済は、貿易や投資に門戸を開き、金融の引き締め、そして社会福祉予算の削減へを急激に進めることを意味している。つまり支配権力やその系列機関(IMFや世銀)の利益を求める経済政策のことだ。優先事項は、外国からの借り入れに利息を払わせることだ。それは輸出の増加や輸入の増加によって、また賃金の減少や深刻な失業の形をとって下層民に押しつけられる。理論的には「自由市場」への見返りがあるはずだが、それは選別されて行われる。独占資本や雇用組織や集団的活動に重大な管理は及ばないが、しかし賃金に対する管理は直接的に行われ、その上ストライキ禁止や、国家による組合の破壊という反労働者的手段を使って行われる。

自由体制下の洗脳

アメリカの後援や支援と、テロの使用や深刻な人権侵害の間には明確な関連があるにも関わらず、「ワシントン・コネクション」の本質と重要性は一般に西欧で無視されていて、アメリカは人権を守る前衛と見なされている。ある程度この信仰が基づいている、安易でなお広く行き渡っている仮定とは、海外で不正行為をするのは国内の抑圧や反対意見の制限をしている事実と密接に関係しているという仮定だ。しかし通り一片の歴史の調査でも明らかなように、アメリカの国内的自由は何十年以上にも及ぶ外国での搾取的非人間的行為とまったく共存している。西洋デモクラシーの源泉である古代アテネでさえ、軍事態勢(海軍艦隊)を発展させるために、アテネは安全で民主的だが、どうしようもないほど外に向かっては侵略的にした。これを背景にして、アテネの残酷な絶え間ない海軍の行動は、B.C.480年からB.C.404年までギリシャ世界全体を混乱に陥れたことも理解出来るようになる。17世紀から20世紀までの西欧の比較的リベラルで開かれた社会によって、インドや中国や東インド諸国やアフリカが残酷に略奪されたことは、国内的自由と長期の海外での残忍さが全く相互依存関係にあることを示している。

しかしさらに重要なのが、ワシントン・コネクションの規模や重要性を軽視していることが、「自由体制下の洗脳」というものの力を過小評価しているということである。体制の力、つまり体制内の主要な権力派閥や知識人やメディア報道陣が、自分自身の利益のために歴史の展望や現在の出来事を作り直し、具体化する能力は実に見事だ。奴隷制や人種差別制度が、自由の土地とか機会の平等のもとに正当化されるように(主に見ないことによって)、第三世界に国家テロを広げるワシントンコネクションは、ごまかしや言い逃れや熟考させないことによって、人権を熱望しているアメリカと両立している。あからさまな政府の検閲なしでこの結果を達成するのは、西欧流の才能である。

1945年以来、人権問題が起こった背景には、アメリカによる並ぶ者のない世界的な経済拡張と、「実質的にソ連や共産主義中国を包囲する3000以上の海外軍事基地の存在と、他の諸国への介入がある。それらは数の上でも、規模でも、暴力でも世界規模で、無敵である。これらの発展を前にして、アメリカは、ただ他の拡大主義権力を抑えているだけだという神話が人々の心に、そしてヨーロッパのリベラル・グループの中にうまく浸透した。ベトナム戦争の初期の局面ではマスメディアよる全面的なプロパガンダ宣伝によって、中国人は拡張主義者として確立し、一方アメリカは、共産主義のドミノを防ぎ自由を守るなどと言って、中国周辺の基地を使って、中国国境の遠い小さな国の全面破壊に専念し、蒋介石の台湾を支援し、中国の覇権主義に対応していた。滅多にアメリカは、メディアや主流学界で、邪魔になる人々を犠牲にして自身の帝国主義的経済利益を追求しているなどとは描かれない。その行為は政権転覆とかあからさまな侵略として描かれることもない。

この点に関する多くの政治的な評論の偽善と全くの愚かさは実に注目すべきである。愚かさの極限として、我々はウォール・ストリート・ジャーナルが「単純な神話」をあざ笑うのを見る。つまりその神話とは「インドシナの問題はアメリカ帝国主義とその軍産複合体のようなものから来ている」というものだ(1978年8月31日社説)。「アメリカ帝国主義」という言葉は、普通は厳しくタブーとされているが、これらの文脈では時おり許される。読者はそのような恐怖を引き起こす概念の重要な討論からは注意深く保護されている。我々がインドシナにいるのは、アメリカの物質的利益のためでなく、外交政策を「前進」させるためで、まさに我々がパラグアイのストエスネルやイランのシャーを援助し、支持する時のようにもっと高い理念のためである。そして、インドネシアにおけるアメリカの功績とか「社会工学」計画は、ほとんど現在の諸問題に責任がないことは、言うまでも無い。

これらの例が示すように自己欺瞞が極めて度外れた段階に達している。もしフィデル・カストロが1959年からアメリカの様々な大統領の暗殺計画を少なくとも8回は組織し、関わったと仮定しよう。それはニューヨークタイムズやCBS Newsやマスメディアが、カストロを一般に文明社会から隔離されねばならない国際的ギャングか暗殺者として描いたからだ。しかしアメリカがカストロ暗殺計画を何度も実行し、それに加わったことが明らかになったとき、それはただ「政府がすることの一つ」に過ぎないとされた。報道は、「世界の国々が、責任ある世界市民としてのアメリカの能力を評価しなければならない」という情報の根拠を全く示していない。クリスチャン・サイエンス・モニターの社説を言い換えると、それはアメリカの過去30年の記録をたどると、ベトナムの人権侵害を批判する資格があると厚かましくも主張する社説である。

Zネット

ノーム・チョムスキーは(これらの本の初版がSouth End Pressから出版された1979年に) MITの言語学教授であり、数多くの本の著者である。彼はアメリカの外交、経済政策の積極的な批評家である。エドワード・S・ハーマン(1979年に)はペンシルバニア大学のワートンスクールの財政学教授であり、そして広範囲に、かつ批判的に公共政策や国際問題や大手メディアに関して書いてきた。『ワシントンコネクションと激動の後』はアマゾンで入手可能である。


 

(訳注1)              (ウィキペディアより)

アフリカ民族会議(英語: African National Congress, ANC)は、南アフリカ共和国の政党である。議長(党首)は、ジェイコブ・ズマ(第13代)。

アパルトヘイトの期間は、獄中のネルソン・マンデラをシンボルに白人政権に対して果敢な闘争を繰り広げた。黒人の参加による民主的な全人種参加選挙による国会が召集された1994年5月以降、同国の与党である。ただしこの選挙で同党は黒人票の90%を獲得したと推定され圧倒的な強さを見せたが、単独で憲法を制定できる2/3には届かなかった。しかし大統領に選出されたマンデラは民族和解・協調を呼びかけ、アパルトヘイト体制下での白人・黒人との対立や格差の是正、黒人各部族間の対立の解消、経済制裁による経済不況からの回復に努めた。

なお同党は組織内に南アフリカ共産党を含むにもかかわらず、中道左派・社会民主主義政党の国際組織である社会主義インターナショナルに加盟している[2]。また同党の党名はインド国民会議(英: Indian National Congress)に範をとっている。


 

(訳注2)ラテン・アメリカの政権転覆活動   (櫻井ジャーナル   2017/07/29 22:57より)

「ブッシュJr政権の時代から政権転覆工作のターゲットになってきたベネズエラの現状にCIAは満足」

マイク・ポンペオCIA長官は7月20日、アスペン治安フォーラムでベネズエラの「移行」が期待できると語っている。その中でメキシコやコロンビアが協力しているかのようなことも口にしたが、両国は否定した。

ジョージ・W・ブッシュ政権が中東侵略に気をとられていた頃、ラテン・アメリカではアメリカから自立する動きが出ていた。アルゼンチン、ボリビア、ブラジル、エクアドル、ホンジュラス、ニカラグア、ベネズエラなどだが、その中でも産油国のベネズエラは中心的な存在だった。

ベネズエラを自立した国にしたのはウーゴ・チャベス。1999年に大統領へ就任、それに対してブッシュ・ジュニア政権はクーデター計画を始動させる。2002年のことだ。その黒幕と指摘されているのはイラン・コントラ事件でも登場するエリオット・エイブラムズ、キューバ系アメリカ人で1986年から89年にかけてベネズエラ駐在大使を務めたオットー・ライヒ、そしてジョン・ネグロポンテ国連大使だ。

ネグロポンテは1981年から85年まで、つまりCIAがニカラグアの反革命ゲリラを支援して政権転覆を目論んでいた時期に工作の拠点になっていたホンジュラス駐在大使を務め、2001年から04年にかけては国連大使、04年から05年まではイラク駐在大使。その後、国家情報長官や国務副長官に就任している。

2002年のクーデター計画は、事前にOPECの事務局長を務めていたベネズエラ人のアリ・ロドリゲスからチャベスへ知らされたため、失敗に終わるが、それで終わらなかった。例えば、WikiLeaksが公表したアメリカの外交文書によると、2006年にもクーデターが計画されている。「民主的機関」、つまりアメリカの支配システムに操られている機関を強化し、チャベスの政治的な拠点に潜入、チャベス派を分裂させ、それによってアメリカの重要なビジネスを保護し、チャベスを国際的に孤立させるとしている。チャベスは2013年3月、癌のため、58歳の若さで死亡した。

バラク・オバマが大統領に就任して間もない2009年6月、ネグロポンテが大使を務めたこともあるホンジュラスでマヌエル・セラヤ政権がクーデターで倒された。約100名の兵士が大統領官邸を襲い、セラヤ大統領を拉致してコスタ・リカへ連れ去ったのである。

アメリカ政府はホンジュラスのクーデター政権を容認しているが、当時、現地のアメリカ大使館は国務省に対し、クーデターは軍、最高裁、そして国会が仕組んだ陰謀であり、違法で憲法にも違反していると報告している。つまり、ヒラリー・クリントン国務長官も実態を知っていた。この正当性のない政権は翌2010年、最初の半年だけで約3000名を殺害したという報告がある。

クーデターを支援していたひとり、ミゲル・ファクセが麻薬取引が富の源泉であることもアメリカ側は認識していた。ちなみに、ミゲルの甥にあたるカルロス・フロレス・ファクセは1998年から2002年にかけてホンジュラスの大統領だった人物である。

クーデターの中心になったロメオ・バスケスが卒業したSOA(現在の名称はWHINSEC)はアメリカ支配層がラテン・アメリカ諸国の手先を育成するため、1946年にパナマで設立された施設。対反乱技術、狙撃訓練、ゲリラ戦、心理戦、軍事情報活動、尋問手法などの訓練を実施する。

1984年にSOAはパナマを追い出され、アメリカのジョージア州フォート・ベニングへ移動、2001年には「治安協力西半球研究所(WHISCまたはWHINSEC)」と名称を変更したが、行っていることは基本的の同じだと言われている。

ラテン・アメリカは15世紀からスペインやポルトガルに略奪されている。金や銀をはじめとする資源が豊富で、「十字軍」による略奪と並び、近代ヨーロッパの基盤を築く上で大きな役割を果たした。18世紀までにボリビアのポトシ銀山だけで15万トンが運び出されたとされているが、この数字は「少なくとも」である。

19世紀になるとアメリカの巨大資本がラテン・アメリカで大規模農業を展開、「バナナ共和国」と呼ばれるようになる。その巨大資本がラテン・アメリカからスペインを追い出す戦争の引き金になった出来事が1898年のメイン号爆沈事件。

アメリカの軍艦メイン号が停泊中に沈没したのだが、アメリカ側はこれをスペインの破壊工作だと主張、戦争を始めたのだ。その戦争で勝利したアメリカはフィリピンも手に入れることに成功、中国を侵略する橋頭堡にしている。

1900年の大統領選挙で再選されたウイリアム・マッキンリーが翌年に暗殺され、副大統領のセオドア・ルーズベルトが跡を継ぐ。その新大統領は「棍棒外交」を展開し、ベネズエラ、ドミニカ、キューバを次々と「保護国化」していった。こうした巨大資本の利権をまもるために海兵隊が使われている。

第2次世界大戦後、民主化の波がラテン・アメリカへも押し寄せるが、それをアメリカはクーデターなどで潰していく。例えば、1954年のグアテマラ、64年のボリビア、ブラジル、71年のボリビア、73年のチリなどだ。そして現在、自立の波を潰すため、ブラジル、アルゼンチン、ベネズエラなどでクーデターを進めている。


(訳注3-1)ガテマラ政変


PBSUCCESS作戦(英: Operation PBSUCCESS)とは、アメリカ合衆国・中央情報局(CIA)が1954年に行った、グアテマラのハコボ・アルベンス・グスマン(西: Jacobo Árbenz Guzmán)政権に対する転覆作戦である。この作戦が後のグアテマラ内戦に繋がった。「Operation PBSUCCESS」というのは、立案に当たってついたコードネームで、英語版ウィキペディアでは本項は「1954年グアテマラクーデター」となっている。

アルベンス政権の樹立[編集]

グアテマラでは独裁者ホルヘ・ウビコの専制政治が1944年に終わり、その後のフアン・ホセ・アレバロ(Juan José Arévalo)政権の下で、当時の他の中米諸国にはない「進歩的」な雰囲気が漂っていた。元グアテマラ軍の大佐だったハコボ・アルベンス・グスマンは進歩的な軍人、国防大臣としてこの改革を横から支えていた。

1950年10月に大統領選挙で勝利し、1951年にアレバロの後を継いで大統領に就任したアルベンスは、グアテマラ共和国において前任者が行っていたポプリスモ的な政策をさらに進め、封建的大地主による大土地所有を廃し、農業資本主義経済を確立するための農地改革などの社会主義的な改革を推し進めた上に、大衆に対する識字運動、および虐げられていたマヤ系インディオの権利回復運動などの活動を行っていた。

こうした政策は「グアテマラ革命」と呼ばれるほど急進的なもので、ホルヘ・ウビコの独裁の下で長年虐げられていたグアテマラ国民の心を掴み、1953年アルベンスの所属する革命行動党は任期中初の国会選挙で圧勝した。


アメリカの誤った政策①

1954年のグアテマラでの軍事クーデター

(チョムスキー、世界を語る から抜粋)

チョムスキー

  世界情勢の分析という点では、私とCIAだって同じですよ。

  根本的な価値観の相違が結論を変えるのであって、出来事の分析は同じなのです。

質問者 具体的に説明して下さい。

チョムスキー

  1954年のグアテマラのクーデターを例にとりましょう。

  このクーデターのために、グアテマラでは民主主義が終わり、40年に及ぶ恐怖政治  が始まったのです。

  CIAなどの情報機関は、クーデター前のグアテマラを次のように分析していました。

  「共産主義の影響があり、1944年のグアテマラ革命を思わせる。

  外国の経済的な利益を、特にユナイテッド・フルーツ社の利益を妨害している。

  (ユナイテッド・フルーツ社はアメリカの農業会社で、グアテマラの農業のかなりの  部分を支配していました。

  現在は、ユナイテッド・ブランズ社に改名している。)

  政府は労働者を組織し、農地改革(農地を大地主から農民に渡す政策)を実施している。

  この政策は、国民に支持されている。

  政府はプロパガンダを行っていて、『アメリカ帝国主義との対決』を打ち出している。

  大規模な社会改造計画は、中央アメリカ諸国に大きな反響を起こしている。」

  ここまでの分析は、皆が同じです。

  アメリカはこの情報を得て、「グアテマラは過激なナショナリズム一色だ。アメリカの利益を妨害している。グアテマラの民衆は知的レベルが低い。」と考えました。

  そして「ホンジュラスには、隣国グアテマラの支援がある」との報告をうけた時に、

  アイゼンハワー政権は「アメリカの国防は危機に瀕している」と考えました。

  そしてCIAに、グアテマラで軍事クーデターを起こさせたのです。

  (グアテマラやホンジュラスのような小国が、アメリカの国防を脅かすはずがありません。

  グアテマラでの社会改革は、別に悪いものではなく、アメリカ国民を脅かしているわけでもなかった。

  しかしアメリカは、そのようには分析・認識しなかったのです。)

(2014.5.23.)

(すばらしきアメリカ帝国 から抜粋)

質問者 グアテマラで民主的に選出されたハコボ・アルベンス大統領は、CIAのクーデター計画で1954年に追放されました。

  スティーブン・シュレジンジャーは、「CIAの歴史上、最も汚れたエピソードの1つ」と呼んでいます。

チョムスキー

  CIAは、いつも通りに行動しただけです。

  アルベンス政権の打倒は、アイゼンハワー大統領の命令でした。

  グアテマラの民主化を、アメリカは強く反対していました。

  グアテマラでは、1944年にホルヘ・ウビコ・カスタニエダの独裁政権が倒されて、

  民主的な政府が誕生しました。

  政府は初めて、政治に農民(一般大衆)を参加させました。

  グアテマラでは本物の民主主義が始まり、周りの国にも影響を及ぼす可能性が出てきます。

  アメリカはこれを、とてつもない罪だと考えたのです。

  アメリカが「攻撃するぞ」と脅したため、グアテマラはチェコスロバキアからの軍事援助を受け入れました。

  チェコの武器が流入している事を発見したアメリカは、勝ち誇ったようにこの事実を脅威として宣伝します。

  「グアテマラがチェコのライフルを手に入れてしまった以上、アメリカはどうやって存続できるのか?」

  これが、侵略の前提として利用されました。

  (そしてCIAはグアテマラでクーデターを起こさせて、アルベンス政権を倒した)

  国家統制的なレーガン政権は、1954年のグアテマラのクーデターと、1953年のイランのクーデターのついての文書を、機密解除となる30年が経ったのに公開しませんでした。

   (どちらのクーデターも、CIAが暗躍して起こしたものです)

質問者  ニューヨーク・タイムズ紙は、グアテマラのクーデターに一役買いましたね。

チョムスキー

  その通りです。

  ニューヨーク・タイムズは、CIAのクーデターを応援・賞賛しました。

 (2014.7.9.)

(訳注4)イラン政変 日経新聞 


CIA、53年のイラン政変を主導 米で関与認める公文書初公開 

 【ワシントン=共同】米シンクタンク、国家安全保障公文書館は19日、1953年にイランで起きたクーデターを、中央情報局(CIA)が主導したことを裏付ける公文書を公開した。米国と英国がモサデク政権の転覆を図ったことは広く知られているが、CIAが関与を公式に認めた初の文書としている。

 同公文書館が、機密解除されたCIAの文書を入手した。

 クーデター直後に作成されたとみられる文書には「工作の目的」として「合法的もしくは準合法的手段によってモサデク政権を崩壊させ、親西側の政権に替えること」と明記。石油国有化を宣言したモサデク首相(当時)の下、イランがソ連の影響下に入ることを危惧した冷戦期の米国が、露骨な介入をした当時の状況を伝えている。

 クーデターへの関与については、既にオバマ大統領やオルブライト元国務長官らも認めており、米国と敵対するイランにとっては対米批判の格好の材料となっている。

イランの53年政変はCIA主導、初の公式文書確認 米大学

2013.08.22 Thu posted at 18:12 JST

(CNN) 米ジョージ・ワシントン大学の国家安全保障公文書館は22日までに、イランのモハマド・モサデク政権が倒れた1953年のクーデターは米中央情報局(CIA)が主導したことを示す機密文書を公開した。

CIAがクーデターを仕掛けたことを明確に示す初の公式文書としている。文書は2011年に機密指定が解除され、同公文書館は情報公開法に基づき入手していた。この文書は1970年代半ばからのCIAのイラン介入の歴史の記述の中で見つかった。

文書を精査した公文書館の編集者によると、CIAはこの中でクーデターへの関与に詳しく言及。「モサデク首相率いる国民戦線内閣を打倒した軍事クーデターは米外交政策の一環としてCIAが率先して実行された」と明言。クーデターは米政府の最高レベルも承認したとしている。

クーデター画策はモサデク氏が1951年に首相に就任した直後から始められた。同氏は政権を握った後、即座に石油会社の国有化を図り、米国と英国は旧ソ連に利する動きとの警戒を強めた。米国は当時、石油政策や他の多くの問題についてイランと交渉していたが成果は得られず、イランは旧ソ連になびくとの危惧(きぐ)を深めていた。

CIAによるクーデター謀議は「TPAJAXプロジェクト」と暗号を持つ作戦で、モサデク政権の駆逐、当時のパーレビ国王の威信や権力基盤の強化をにらみ、ザヘディ将軍を首相にかつぐのが目的だった。

クーデターの準備には英国の秘密情報機関も加担し、プロパガンダ戦術で反モサデク首相の世論醸成を狙った。メディア、宣伝ビラや僧職者を通じ、モサデク政権の弱体化を狙ってあらゆる手段を講じたという。

クーデターは1953年8月19日、CIAと英情報機関が国王支持勢力を結集させ、大規模な反政府デモを実現させたことで成功。文書によると、イラン陸軍も国王支持に転じ、同日昼までには首都テヘランや他の州などで国王支持者が路上に集まり、陸軍部隊がこれに同調したことで大勢が決まった。19日夜にはモサデク政権の要人らは逃走もしくは監禁される事態となった。

CIAはまた、ザヘディ首相の権力基盤の強化などを狙い、首相就任の2日内に500万米ドルの資金援助を密かに行ったという。クーデター後、モサデク氏は死刑判決を受けたが、執行はされなかった。1967年にテヘランで死去している。

クーデターへの米政府の関与はこれまで再三取り沙汰されていた。オバマ大統領は2009年、エジプト・カイロでの演説で「冷戦のさなか、米国は民主的に選出されたイランの政権の転覆に関わった」と認めた。オルブライト元国務長官も2000年、米国のクーデターへの関与に言及していた。

クーデターは米国、イラン両国関係には今なお影を落としており、イランの政治家や宗教指導者は反米感情を煽る材料にも使っている。05年から今年まで大統領を務めたアフマディネジャド氏はクーデターでCIAが犯した犯罪への謝罪を米国に要求もしていた。

(訳注5)   http://www.y-history.net/appendix/wh0901-039.html (「世界史の窓」より)

フィリピン(4) 米西戦争とフィリピン=アメリカ戦争

19世紀末、ホセ=リサールに指導されたフィリピン民族運動が高揚、1896年にはフィリピン革命が勃発する。革命は失敗したが、1898年に米西戦争が起こったことを受けて、1899年1月フィリピン共和国は独立宣言を行う。米西戦争の結果、フィリピンを領有したアメリカはフィリピンの独立を認めず、同年、フィリピン=アメリカ戦争が起こる。1902年にフィリピン共和国は敗れて倒され、アメリカの植民地支配が開始される。

(訳注6-1)バナナ共和国   (ウィキペディアより)


バナナ共和国(英語:Banana republic)とは、バナナなどの第一次産品の輸出に頼り、主にアメリカ合衆国などの外国資本によってコントロールされる政情不安定な小国を指す政治学上の用語。

特に、大多数の貧困労働者層と政治・経済・軍部を包括する少数の支配者層という社会の階層化による格差を拡大させる。この政治経済学的な寡頭政治体制はその国の第一次産業を支配するため、その国の経済を搾取することになると指摘される。

概要

主に中南米の小国に対して使われることが多いが、広義には同様の状況にある他地域の国家に対して使うこともある。侮蔑的な色合いが濃い。典型的な国としては、ホンジュラスやグアテマラ、パナマなど。

歴史:アメリカ合衆国による支配

もともとこの言葉が生まれたのは、20世紀初頭の中米で、ユナイテッド・フルーツ社などのアメリカ合衆国の農業資本企業が広大なプランテーションを各国に建設し、その資金力で各国の政治を牛耳ったことに由来する。バナナの生産及び輸出には厳密な管理が必要だったため、各社は鉄道や港湾施設など、必要なインフラストラクチャーを自己資金で建設し、さらにバナナビジネスがうまく行くよう、各国の支配者層と結託して自らに有利な状況を維持させ続けた。 また、これらの国々の多くには他にめぼしい産業が育たなかったこともあり、外国の巨大企業に対抗できる勢力はほぼ存在せず、巨大企業、ひいてはそのバックにいるアメリカ合衆国の言いなりになる従属国化の道を歩むこととなった。

最初に「バナナ共和国」と呼ばれ、実際にそれらの企業の影響が最も大きかったホンジュラスでは、ユナイテッド・フルーツ社の経理部長から大統領になった人物もいる。

功罪

もともとバナナプランテーション自体はその作物育成上の観点から、中米各国の政治中心が置かれた山間部や高地ではなく、熱帯気候の海や大河に近い平野部に作られる。さらにバナナは傷みやすいため、農園の最寄の港から直接輸出されることが望まれる作物である。そのため、飛地経済を形成し、首都の人間からみた経済の成長や安定にあまり寄与せず、逆にスペイン統治時代からの中心地とは気候、風土の違う地方の経済的発展を促し、ひいては政治的発言権の増大へと繋がった。ただし、そういった地域では、首都周辺の政治勢力よりも先進国の農業企業が大きな力を持つに至り、搾取の代表例としてみなされることも多かった。

クーデター

冷戦下において、アメリカ合衆国政府やアメリカ企業は自らに不利な政権が出来た場合、時には武力に訴えることもあった。1954年のグアテマラのクーデター(PBSUCCESS作戦)は、農地解放を訴える容共的なハコボ・アルベンス・グスマン左翼政権に対し、ユナイテッド・フルーツ社(UFCO)とCIAが組んで起こしている。

(訳注6-2)

2007-10-10 BANANA REPUBLIC -バナナ共和国の真実‐CommentsAdd Star

sayakot2007-10-10 

国際政治の世界において、‘Banana Republic’は、バナナなどの一次産品の輸出に依存し、外資によってコントロールされる政情不安な国を指す。特にホンジュラスやグアテマラ、パナマなど中南米の小国に対して使われることが多いが、広義には同様の状況にある他地域の国家に対して使うこともある。 (Wikipediaより)

1900年代に始まる、アメリカの中米政策。米国のフルーツ会社による、広大なプランテーションの建設ラッシュと共に、地域のコミュニティの様相をガラリと変える開発は急速に進む。

鮮度が「命」のバナナビジネスには、生産・輸出の厳格な管理が求められる。アメリカ資本は、輸送用の鉄道や港湾施設といったインフラ建設にも次々と進出し、政治的にも、各国の支配者層(しばしば、大量の小作人を有する、大土地所有者)と結託し、この地域に頑強な基盤を築いた。特にユナイテッド・フルーツ(現チキータ)社では、その経理部長がホンジュラスの大統領になり、グアテマラでは1954年、CIAと結託し、当時の左翼政権を転覆させたといわれている。緊張の高まる冷戦構造の中で、独裁政権であろうと、軍事政権であろうと、親米的な体制維持に、なりふり構わず注力する姿勢は、表向きにはヨーロッパの帝国主義とは一線を画していたこの大国が、いかに実質的に中南米を「支配」していたかが分かる。

人々は構造的な貧困に苦しみ、米国が後ろ盾したゲリラ活動や内戦等でグアテマラでは20万人、ニカラグア・エルサルバドルでも十万人近い人々が犠牲になった。現在の政情不安も、以前癒えることのない様々な社会問題も、元を辿るとこの時代に戻ってくる。

 

(訳注7-1)


日米欧三極委員会(英: Trilateral Commission, 略称:TLC, )は、日本・北米・ヨーロッパなどからの参加者が会談する私的組織であり、民間における非営利の政策協議グループである。現在の正式な日本語名称は「三極委員会」。

1973年にデイビッド・ロックフェラー、ズビグネフ・ブレジンスキーらの働きにより、「日米欧委員会」として発足した。

日本・北米・ヨーロッパに設けられた三つの委員会によって総会が運営される。参加国は委員会の規定では「先進工業民主主義国」とされている。三極委員会の目的は、先進国共通の国内・国際問題等について共同研究及び討議を行い、政府及び民間の指導者に政策提言を行うことである。

欧州では90年代中頃に中欧諸国から、北米では2000年にメキシコから参加者があり、2000年以降にアジア太平洋地域の参加国が拡大されることから[6]、日本委員会はアジア太平洋委員会となった。それにともない日本語名称は「日米欧委員会」から「三極委員会」に改称された。

中国とインドは2010年の欧州会合から参加するとされているが、情勢によっては2009年の東京会合からとなる[8]。

(訳注7-2)

「日本を守るのに右も左もない」


日米欧三極委員会設立の目的について、無論直接には20世紀後半、急速な経済成長を遂げた日本の取り込みによる、資産の収奪が一つの目的にあり、事実三極委員会設立により構築されたそのネットワークを利用して、日米間の貿易不均衡交渉や、‘80年のプラザ合意以降の経済交渉、規制緩和などグローバル化交渉など通してロックフェラーは彼らの目論み通リにその目的を果してきたと思われる。特に2年前の郵政民営化の成立による外資による日本の資産収奪化は記憶に新しい。

しかしここではロックフェラーの国際戦略上のレベルで、日米欧三極委員会の設立動機について考えてみたい。

現在世界戦略を巡って金貸し同士が覇権を競いあっている。

本ブログの7月1日の記事でhongou氏がその対立構造を鮮明にされている。

 「ドル基軸通貨体制で儲けていたのはイギリスの金融資本では?」>イギリスは20世紀になると、「世界の工場」であることを止め、金融支配へ特化した。これが注目ポイントである。産業で儲けることから金融で儲けることに転換したということ。

つまり、アメリカドルの基軸通貨体制による一極支配で儲けてきたのは、専らロスチャイルドなどのイギリスの金融資本である。

片やアメリカ産業資本発の金融資本は大して儲からないどころか、一極支配が続く限り海外で儲けるしかない。だから、イギリスの金融資本の一極支配に対して反抗したのが多極派で、その代表格がロックフェラーである。<

いまでこそ、多極派と一極支配派という争点が明確になっているが、その対立構造は以前からあり、金融資本では後進であったロックフェラーなどの多極派が戦後に大きく仕掛けたのが1971年のドルショックだった。彼らがニクソン政権の黒幕になり、ドル-金の交換停止で、ドルを下落させることで、イギリス金融資本のドル支配に風穴を開けようとしたのが彼ら多極派の仕業であった。

またかれら国際金融資本家同士の調整を行なう機関として名前がよく知られているものとして、ビルダー会議やそれよりもっと古い機関として王室問題研究所や、CFR(外交問題評議会)などがあるが、

ロックフェラーが主催してきたと言われるCFRにしても、元々は国際金融では老舗であり、古くから一番力の強かったロスチャイルドなどのイギリス系国際金融の為に設立されたアメリカ支部という性格が強かった。

そこで産業資本発金融資本のロックフェラー一派の自在になる国際調整機関としての必要から、当時の産業経済新興国である日本を巻き込んで設立したのが日米欧三極委員会だ。

いわばロスチャイルドなどの一極支配派との、対抗の為の国際調整機関というのが最もその実像に近かったのではないか。設立したのがドルショックの2年後の1973年という時期も辻褄が合う。

但し現在は中国、インドやロシア、中近東、中南米などの経済新興国の台頭で、多極派にとってもその軸が変動するなかで、日米欧三極委員会の国際的存在価値は相対的に下がっており、前述した通リロックフェラー一派の日本資本の収奪システムとしてのみ機能しているのではないか。

(訳注8)                   (ウィキペディアより)

アメリカ軍によるドミニカ共和国占領 (1965-1966))は、ドミニカ内戦(英語版)中の1965年4月28日に、ドミニカ共和国首都のサントドミンゴにアメリカ海兵隊が入ることで始まった。翌日からアメリカ陸軍の第82空挺師団の大半やその上位にある第18空挺軍団が合流した。「パワーパック作戦」と呼ばれた。

1966年9月、アメリカ軍として最後まで残っていた第82空挺師団の第1旅団がドミニカ共和国から撤退し、占領は終わった。

なお、アメリカ軍によるドミニカ共和国占領は1916年に続いて2回目のことだった。この時は1924年までの長期だった。

背景[編集]

ドミニカで長く独裁を続けたラファエル・トルヒーヨが1961年に暗殺され、政治的に不安定な期間が続いた後、1962年12月に反トルヒーヨを掲げるドミニカ革命党(スペイン語版、英語版)の設立者フアン・ボッシュ(スペイン語版、英語版)が大統領に当選し、1963年2月に就任して、新憲法を施行した。

カトリック教会の聖職者は、新しい憲法の特に離婚を合法化した規定の世俗主義的性格に不満だった。聖職者達は、軍指導部や経済界のエリート達と共にこの共和国における共産主義者の影響力を恐れており、もう一つのキューバになる可能性を警告していた。この心配や政権に対する反対が1963年9月25日の軍事クーデターに繋がった。

このクーデターで事実上1962年の大統領選挙を否定し、「トリウンビラーテ」と呼ばれる文民臨時政府を樹立し、トルヒーヨ支持者の残党が支配した。トリウンビラーテ当初の首長はドナルド・レイド・カブラルだった。新しい指導者は憲法を廃止し、それが存在しなかったことを宣言した。トリウンビラーテ政権は軍内外の保守派と競合できる権限を樹立することはできなかった。その正当性についても大衆の大半を説得できなかった。その後の2年間はストライキや暴動が続いた。

一方、エリアス・ウェッシン(英語版)将軍は、約2,000名の高度に訓練された歩兵のエリート部隊である武装軍訓練センターを統括していた。サンイシドロ空軍基地に駐屯しており、正規陸軍部隊とは異なっていた。戦車、無反動ライフル銃と大砲を装備し、独自の攻撃機も持っていた。擬似的に独立した組織であり、元の独裁者の息子ラムフィス・トルヒーヨ(英語版)が設立し、政府を防御し、国軍や海軍、空軍を監視することが意図されていた。ウェッシンは、「共産主義の原理、マルクス・レーニン主義者、カストロ主義者その他何であれ、今は違法である」と述べていた[3]。

臨時政府の首長になったドナルド・レイド・カブラルは、軍の高級士官の特権を削ろうとしたこともあったので、その大半に不人気だった。カブラルは1965年春に政権を転覆させようとした士官の幾らかあるいは全てを疑っていた。レイド・カブラルとその政府に対する不満が広がり、ボッシュに対する忠誠心が続いていたこともあって、内戦に繋がっていった。クーデターを未然に防ぐために、1965年4月24日、レイド・カブラルはその陸軍参謀総長マルコス・リベラを派遣して陰謀に加担した4人の士官を解任しようとした。この4人は素直に従わなかったばかりか、サントドミンゴ北西の軍隊宿営地を掌握し、参謀総長を捕虜にした。      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E8%BB%8D%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E3%83%89%E3%83%9F%E3%83%8B%E3%82%AB%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD%E5%8D%A0%E9%A0%98_(1965%E5%B9%B4-1966%E5%B9%B4)

(訳注9)1964年ブラジル       <ブラジルの歴史より>

クアドロスの辞任で大統領に就任したもののクーデターで国を追われたジャンゴ・ゴラール

1955年の大統領選挙では、PSDとPTBの統一候補として擁立されたジュセリーノ・クビシェッキが当選した。1956年に就任したクビシェッキは「五十年の進歩を五年で」という標語を掲げて外国資本の流入を中核にした開発計画を推進し、外国企業への投資の便宜が図られた。さらに1957年に内陸部のゴイアス州に、新首都ブラジリアを建設した。1960年4月12日にブラジリアへの遷都がなされたが、反面このことによる対外債務の膨張と財政赤字の増大は後の悪性のハイパー・インフレの要因ともなった。

1960年の大統領選挙では国民民主同盟から都市中間層の支持を背景にジャニオ・クアドロスが勝利したものの、副大統領にはPSDとPTBの共通候補だったジョアン・ゴラールが選ばれた。翌1961年にクアドロスが大統領に就任するとクビシェッキの残したインフレの対応のために緊縮財政をとったが、これは国民の不満を招いた。クアドロスはクビシェッキ時代に、資本進出を通して更に緊密になったアメリカ合衆国との距離を置くために、ヨーロッパ諸国や東側諸国、そしてキューバ革命以来ラテンアメリカで孤立していたキューバとの関係を深め、ブラジリアに招かれたアルゼンチン出身のキューバの閣僚チェ・ゲバラには最高位の南十字星勲章が贈られた。しかし、クアドロスは同年8月25日に突如辞任し、副大統領だったゴラールが昇格した。

クアドロスが辞任したときゴラールは中華人民共和国を訪問していたが、軍部にとっては「ジャンゴ」と呼ばれて民衆から親しまれ、左翼的な傾向を持つゴラールの大統領就任は認められず、陸海空三軍は全力でゴラールの大統領就任を阻止しようとした。しかし、最終的には、ポルト・アレグレでのレオネル・ブリゾーラ州知事の蜂起によって軍部のクーデターは失敗し、大統領の権限を縮小する妥協により、1961年9月7日にゴラールは大統領に就任した。ゴラールは経済学者のセレソ・フルタードを経済企画相に登用し、フルタードは外資導入による経済成長と農地改革などの社会改革を両立する三カ年計画を立案したが、ゴラールの大統領就任後も前政権以来のインフレはますます進み、さらに国際収支の赤字が増大し、社会は大きく混乱した。保守派はゴラールの退陣を主張し、ゴラールの計画していた農地改革やその他の社会改革は一歩も進まなかった。

ブラジル・クーデターを起こしたカステロ・ブランコ将軍

政権掌握後は、親米反共の軍事独裁を実行した

ゴラールは国民投票に訴えようとしたが、1964年3月31日に保守派と結んだカステロ・ブランコ将軍は機先を制してクーデターを実施した。アメリカ海軍の空母を含む艦隊がリオデジャネイロ沖で演習を行い、いざとなれば介入する意向を示していた。左翼勢力からの反撃はほとんどなく、4月4日にゴラールはウルグアイに亡命した。

軍事独裁政権時代(1964年-1985年)[編集]

ブラジル・クーデターによってゴラール政権が崩壊し、4月15日にカステロ・ブランコ将軍が大統領に就任すると、外資導入を進める意図を持って1964年7月に「経済活動三カ年計画」を実施し、インフレ抑制のための緊縮財政や国営企業の民間への払い下げ、公務員の縮小、福祉予算の減少などを行ったが、この結果、国民資本の企業倒産が相次いだこともあり、それまでに比べて国民の窮乏化が進んだ。当初カステロ・ブランコは左翼を追放して軍部の作成した「国家安全保障ドクトリン」に基づく統治を行う以上の意向を持っていなかったが、相対的に窮乏化した国民の軍政への反対は根強く、1965年10月の地方選挙で反軍政派の社会民主党や労働党が圧勝すると、同月中にカステロ・ブランコは強硬路線に転換して戒厳令を敷き、国会や地方議会の解散や既存政党の解体再編成を行って11月中には国家革新同盟とブラジル民主運動の二党による翼賛体制が樹立された。また、外交面ではそれまでの第三世界外交が改められ、ブラジルは親西側諸国の一員として、南米における親米反共の砦となった。


(訳注10)1973年チリ           (ウィキペディアより)

チリ・クーデター(西: Golpe de Estado Chileno)は、1973年9月11日にチリの首都サンティアゴ・デ・チレで発生したクーデターのこと。世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権を、軍部が武力で覆した事件として有名である。

概要[編集]

東西冷戦の最中の1970年、サルバドール・アジェンデ博士を指導者とする社会主義政党の統一戦線である人民連合は自由選挙により政権を獲得し、アジェンデは大統領に就任した。なおこれは、南アメリカにおいて自由選挙で社会主義政党が選ばれた初めての例であった。

しかし、アジェンデ政権の行う社会主義的な政策に富裕層や軍部、さらにドミノ理論による南アメリカの左傾化を警戒するアメリカ合衆国は反発し、アメリカ政府に支援された反政府勢力による暗殺事件などが頻発した。そして、遂には1973年にアウグスト・ピノチェト将軍らの軍部が軍事クーデターを起こした。

首都のサンティアゴは瞬く間に制圧され、僅かな兵と共にモネダ宮殿に篭城したアジェンデは最後のラジオ演説を行った後、銃撃の末に自殺した。クーデター後にピノチェトは「アジェンデは自殺した」と公式に発言したが、実際にはモネダ宮殿ごと爆破されたため、当時は誰も遺体を確認できなかった。


(訳注11)9月30日事件              (ウィキペディアより)

通称9・30事件とは、1965年9月30日にインドネシアで発生した軍事クーデターである。

概要[編集]

クーデターを起こした国軍部隊は権力奪取に失敗しているので、正しくはクーデター未遂事件とするべきであるが、一般に未遂事件後のスハルト陸軍少将(当時)による首謀者・共産党勢力の掃討作戦に関連する一連の事象全体を指して「9月30日事件」と総称している。

事件の背景として、国軍と共産党の権力闘争、スカルノ大統領(当時)の経済政策の失敗にともなう国内混乱、マレーシアとの対立により国際連合脱退まで至った国際政治におけるインドネシアの孤立などがあった。この事件を契機として、東南アジア最大だったインドネシア共産党は壊滅し、初代大統領スカルノは失脚した。

9月30日事件の詳細な経緯については、スハルト政権崩壊後の今日においても、未だ多くの謎に包まれている。スカルノの排除を狙うスハルトが仕掛けたカウンター・クーデターであるという説、スカルノの左傾化と中華人民共和国への接近を警戒した米国CIAが背後にいたという説[1]、あるいはインドネシア共産党と親密であった中国共産党が関与していたという説など[2][3]、さまざまな陰謀説が主張されているが、いずれも推測の域を出ていない。


(訳注12)東チモールの虐殺        (Democracy Nowより)

1975年12月7日、スハルトは東ティモールに全面侵攻した。米国のフォード大統領とキッシンジャー国務長官がジャカルタを訪問した翌日のことだった。東ティモールは無線でオーストラリアに助けを求めたが無視された。また、当時東ティモールにいたオーストラリアのテレビ・クルーも状況をオーストラリアに訴えたが、黙殺され、侵攻してきたインドネシア軍により殺された。その後、1991年のサンタクルス虐殺が世界に報じられるまで、インドネシア軍が東ティモールで犯してきた虐殺(1981年9月のラクルタ虐殺、1983年8月のクララス虐殺など)も、飢餓作戦も、発がん性の高い強制避妊薬を少女たちに注射することによる民族抹殺政策も、西側メディアで報じられることはなかったし、米国がインドネシアにブロンコOV戦闘爆撃機を提供し続けたことも、英国がホーク戦闘機を売ったことも、オーストラリアがインドネシアと共同で東ティモールの油田を盗掘し始めたことも、西側メディアで報じられることはなかった。

サンタクルス虐殺後もインドネシアによる不法占領は続いた。東ティモールの住民投票が行われ、主権回復に向けて歩み出した1999年までに、虐殺や飢餓などで命を失った東ティモール人は20万人にのぼる。

***

このセグメントでは、サンタクルス虐殺事件のとき現場にいたエイミー・グッドマンとアラン・ネアン(ちなみにネアンはインドネシア軍の暴力からグッドマンを庇って、インドネシア軍兵士が持つ米国製の銃で頭を殴られ、負傷した)が製作した東ティモールのドキュメンタリー「大虐殺:東ティモールの物語」を紹介しつつ、やはり現場にいたマックス・スタールとともに、東ティモールで犯された虐殺、そして米国やオーストラリアの、インドネシアとの共謀関係を振り返る。

文:益岡賢(東京東チモール協会、チモール・ロロサエ情報ページを共同で運営)


 

(訳注13)カルロス (テロリスト)

イリイチ・ラミレス・サンチェス Ilich Ramírez Sánchez

通称:カルロス・ザ・ジャッカル (Carlos the Jackal)

生年:1949年10月12日

 

イリイチ・ラミレス・サンチェス(Ilich Ramírez Sánchez、1949年10月12日 - )はベネズエラ人の国際テロリスト。コードネームは、「カルロス」。通称、カルロス・ザ・ジャッカル。

 

1973年から1984年にかけて14件のテロ事件に関与し、世界中で83人を殺害、100人を負傷させ世界を暗躍して極左テログループを指揮、インターポール(国際刑事警察機構)から最重要指名手配をされていた。1994年に潜伏先で逮捕。あだ名の「ジャッカル」は、1971年に発表されたフレデリック・フォーサイスの小説『ジャッカルの日』に由来する

(ウィキペディアより)


(訳注14)ナミビア・カシンガの難民キャンプ虐殺

カシンガの日(ナミビア) ……ナミビア独立戦争中の1978(昭和53)年のこの日、ナミビア・カシンガの難民キャンプを南アフリカ軍が攻撃し、600 人以上が虐殺された。

(訳注15-1) 赤い旅団        (「マスコミに載らない海外記事」ポール・クレイグ・ロバーツ                   "グラディオ作戦を思い出させるニース事件"より)

グラディオというのは、第二次世界大戦後、赤軍が西ヨーロッパを蹂躙するのではないかという恐怖から、アメリカがたちあげた秘密NATO作戦の暗号名だ。本来、グラディオは、ソ連占領軍に対するゲリラ戦を遂行するための秘密の武器の隠し場所と組織とで構成されていた。

ソ連侵略の代わりにあらわれた脅威は、フランス、そして特にイタリアの共産党の人気だった。共産党が政権を構成するのに十分な票を得て、そうした共産党政権がモスクワと提携してワシントンの西ヨーロッパ帝国が破壊されてしまうのではないかとアメリカ政府は恐れたのだ。

その結果、グラディオは、ヨーロッパの共産党に向けられた。イタリア諜報機関が、CIAと共に、285人が殺害され、四肢を失ったり、他の負傷をしたりしたボローニャ駅のようなイタリア公共施設爆破を開始した。

1984年の1980年ボローニャ駅爆破裁判の際、グラディオ工作員ヴィンチェンツォ・ヴィンチグエッラが、グラディオの存在を初めて暴露した。ボローニャ爆破について問われて、ヴィンチグエラはこう述べた。

“イタリアには、国軍と並行する、民間人と軍人で構成されている秘密の軍隊が、対ソ連能力、つまりイタリア領土で、対ロシア軍抵抗運動を組織するための実力を持ったものが存在している…秘密組織で、通信、兵器や爆薬、それを使用するよう訓練された人々のネットワークを有する超組織で…超組織の対象であるソ連による軍事侵略は起こらない可能性があったため、NATOに成り代わって、イタリアの政治的バランスが左寄りになるのを防ぐという仕事を引き受けた。連中は、これを公式の特殊部隊や政治勢力や軍隊の支援を得て実行した。” https://en.wikipedia.org/wiki/Vincenzo_Vinciguerra

6年後の、1990年になって、ようやくイタリア首相のジュリオ・アンドレオッティが、公式にグラディオの存在を認めた。

1970年代前半には、イタリア人将軍のジェラルド・セラヴァリエが、イタリアのグラディオ作戦参加を指揮していた。Wikipediaには、立案、調整の責任者たちは“イギリス、フランス、ドイツ、ベルギー、ルクセンブルク、オランダとイタリアの秘密組織の将校だった。この秘密組織の代表は、毎年、いずれかの首都で会合した… 残置部隊の会合には、CIA代表が必ず出席していた。”という彼の証言がある https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Gladio

1960年代から、1980年代中期まで、多数の民間人犠牲者を生み出した多くの爆破事件があった。 ヴィンチグエッラはこう語っていた。

“国を頼らせ、政府を頼らせ、治安を良くして欲しいと、イタリア国民に思わせるよう無理やり仕向ける目的のためだけに、一般市民、女性、子ども、政治的な舞台とは無関係な無辜の人々を攻撃する。これがあらゆる爆破の背後にある政治論理だ。国は自らを有罪にすることはできないので、連中は処罰されないままだ。” https://www.youtube.com/watch?v=vaMUbCpaRyc

爆破事件は、ヨーロッパの共産党の信頼を損なうのに役立つ、実存していたのか、デッチアゲの諜報工作用隠れ蓑かわからない共産主義テロ集団である、赤色旅団やバーダー・マインホフなどの集団のせいにされた。

1984年、 フェリーチェ・カッソン裁判官が、12年も昔のイタリア、ペテアノでの自動車爆破訴訟を再開した。裁判官は、事件は改竄されて、赤色旅団に罪をなすりつけたが、実際は、軍の特殊機関、国防情報庁(SID)が、グラディオによって作られたか、取り込まれた右翼団体のOrdine Nuovoと協力して実行したものだったのを発見した。捜査を改竄した警察幹部は懲役を課せられた。カッソン裁判官の捜査は、ペテアノ爆破事件は、ミラノのフォンターナ広場爆破、16が死亡し、80人が負傷した、1980年の、85人が死亡し、200人が負傷したボローニャ駅爆破を含め、グラディオが実行した一連の爆破の一環だったと結論づけた。

イタリアでの暴露に基づき、ベルギーとスイスの政府は、自国におけるグラディオ作戦の調査を行った。アメリカ政府は、爆破へのいかなる関与も否定した。だが、カッソン裁判官による、イタリア軍秘密機関の保存記録の調査で、グラディオ・ネットワークの存在と、NATOとアメリカ合州国とのつながりの証拠があらわれた。https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Gladio

民主主義が金権政治へと堕落してしまった欧米の人々は、政府が自国民を殺害するとは決して考えないよう、吹き込まれてしまっている。彼らは明らかにグラディオ作戦について、学ぶ必要がある。

グラディオ作戦は今でも健在なのだろうか? 現代のテロ事件は、共産主義者ではなく、イスラム教徒のせいにされる。フランスとベルギーでのテロ攻撃が、グラディオ作戦だという可能性はあるだろうか?


(参考資料)アメリカの軍事行動         <Yahoo知恵袋より>

アメリカは平均すると4年半に一度のペースで軍事行動を起こし、戦争を繰り返しています。

簡単にまとめてみます。

1898年 キューバに侵攻

1899年~1902年までフィリピンと戦った。

1900年 中国に出兵

1906年 再びキューバに侵攻

1910年、1912年にはニカラグアに侵攻

1914年 メキシコ侵攻

1915年 ハイチに侵攻

1916年 ドミニカ共和国を占領

1917年 再びメキシコに侵攻

1917年~1918年まで第一次世界大戦に参加

1927年には再びニカラグアに侵攻

1941年~1945年まで第二次世界大戦を戦った

1950年~1953年まで朝鮮戦争に参加

1958年 レバノンに出兵

1963年~1973年の10年間、ベトナムの内戦に加わった。

1965年 ドミニカ共和国を侵略

1983年 グレナダを占領

1989年 パナマのノリエガ大統領を攻撃した。

1991年 第一回湾岸戦争が始まった。

1992年 ソマリアで戦闘を行った。

1994年には再びハイチを侵略した。

1995年にはボスニアを攻撃し、占領した。

1999年 コソボを攻撃

そして2001年から現在に至るまでイラクとアフガニスタンで軍事行動を続けています。

その間にパキスタンを空爆したりもしています。

こうしたデータから見ると、アメリカは1776年の建国後の237年間のうち、112年間に52回、戦争や軍事行動を行っています。

この112年間の半分に近い47%の時間、戦闘行為を続けていることになります。

アメリカは戦う民族のDNAが受け継がれているのです。



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