「バフムート肉挽き機」の内部: ロシアはいかにしてウクライナ人をドンバスの「要塞」であるはずのアルチョモフスクから撤退させたのか?
<記事原文 寺島先生推薦>
Inside the ‘Bakhmut meat grinder’: How Russia forced Ukrainians to retreat from Artyomovsk, their supposed ‘fortress’ in Donbass
Nine months of fighting for a symbolic site in Kiev's attempt to regain control of the region have ended with another triumph for Moscow's forces
キエフがドンバスの支配権を取り戻そうとする中で、象徴的な場所をめぐる9カ月間の戦闘は、モスクワ軍の新たな勝利で幕を閉じた。
出典:RT 2023年5月21日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2023年5月29日

ソーシャルメディア動画からのスクリーンショット
アルチョモフスク(ウクライナ人はバフムートと呼ぶ)の戦いは2022年8月に始まり、次第にロシアとウクライナの戦闘の震源地と化していった。戦線の他の地域が比較的安定している中、双方がこの小さな都市に積極的に軍を投入した。2022年5月、アゾフスタルで敗北し、その印象を低下させたキエフにとって、アルチョモフスクは新しいマリウポリとなった。ウクライナのプロパガンダでは「バフムート要塞」というレッテルを貼り、そこで戦う人々に英雄的な雰囲気を与えようとした。
この都市は西へ進むための戦略的重要性がないにもかかわらず、ロシア軍はウクライナのプロパガンダが突きつけた挑戦を受け入れた。では、9カ月に及ぶ「バフムートの肉弾戦」からモスクワは何を得たのだろうか。
地方都市から軍事要塞へ
19世紀、アルチョモフスクはロシア帝国の地方都市であり、発展途上のドンバス地方の行政の中心地であった。しかし、他の都市が発展するにつれて、その役割は小さくなっていった。2022年2月のロシア軍の攻勢開始時には、この街の人口は約70,000人だった。2023年初頭に戦闘が行われたスパークリングワイン工場など、いくつかの工業施設がある。ウクライナ当局によると、その時点ですでに街の60%が破壊されていたという。
この街の重要性は、2022年2月のロシアの軍事作戦開始後、飛躍的に高まった。当初、ロシア軍がポパスナヤ、ゾロトエ、リシチャンスク・セベロドネツクの集積地の第一線の要塞を破ったとき、アルチョモフスクは重要な輸送拠点となった。アルチョモフスクは、ウクライナの前線と他の地域とを繋いでいたのだ。
ロシア軍がこの防衛線を破り、キエフ軍をルガンスク人民共和国(LPR)の領土から完全に排除した後、アルチョモフスクは輸送の拠点から、バフムトカ川周辺のウクライナ第二防衛線になった。このラインは、南はゴロフカ(2014年以降、ドネツク人民共和国(DPR)が支配)の反対側にあるウクライナ軍の拠点から北はセヴェルスクまで続き、ドンバスの主要河川であるセヴェルスキー・ドネツ川にまっすぐつながっている。

アルチョモフスクの西部にある破損した高層ビル。© Sputnik / Yevgeny Biyatov
アルチョモフスクは、この防衛線が破られることなく、占領されることはなかった。2022年7月以来、民間軍事会社(PMC)ワグナーの戦闘員たちは、まさにそのことに集中し、都市の包囲を成功させるための地ならしを行ってきた
アルチョモフスクの攻略
アルチョモフスクの包囲に有利な条件が整い始めたのは、ポパスナヤでのロシアの勝利後、昨年5月のことである。月末には、ウグレゴルスク火力発電所の衛星都市で、ウクライナ軍が防衛拠点としたスヴェトロダースクを占領した。この都市の占領に2カ月を要したが、発電所には大きな損害はなかった。

関連記事:テロの背後にある論理: なぜウクライナはドネツクの民間人地区を攻撃し続けるのか?
ゴロフカの北側でも戦闘が続いている。アルチョモフスク方面への進撃という主目標に加え、住民の安全を確保するために、ウクライナ軍をさらに遠ざけることが重要だった。攻勢開始以来、ゴルロフカでは101人が死亡し、360人が負傷している。2022年の夏から秋にかけて続いたセミゴリエ、コデマ、ザイツェヴォという2つの村、マヨルスク、クルジュモフカ、オザリヤノフカという集落の戦闘の間に、ウ軍を遠ざけるという、この課題は部分的に達成された。ゴロフカの安全は北と北東から確保され、脅威は西と北西からしか残らなかった。
ウクライナの要塞は、ゴルロフカ方面や南からのロシアの攻勢を抑止するために作られたものである。しかし、東からの再度の攻勢により、これらの要塞の戦術的価値は低下し、戦線の他の区域と比較して、すぐに襲撃された。
12月までに、ロシア軍はアルチョモフスクの南郊外に到達し、これを封鎖した。10月当時、南郊外におけるロシア軍の存在は、オピツノエで戦う先遣部隊に限られていたが、12月には市郊外の畑での「予備作業」が完全に完了した。
その頃、敵はアルチョモフスクの戦いに完全に参加しており、メディアはマリウポリやアゾフスタルの戦いのように、ウクライナ軍優勢の象徴として仕立て上げた。ウクライナ人は「バフムート要塞」の伝説を作り上げ、降伏する気にはなれなかった。実際、彼らは絶えず援軍を送り込んでいた。したがって、ロシアの次の目標は、アルチョモフスクの南西にある重要な要塞地域であるクレシェイエフカと、市の南部を覆うオピツノエとなった。
これらの戦術的な目標は、1月末までにしか達成できなかった。その頃には、ウクライナ軍にとって状況はかなり悪くなっていた。南方ではロシア軍の進撃によりコンスタンチノフカとアルチョモフスクの間の道路が危険にさらされ、北方ではソレダルの陥落により、この都市はすぐに包囲されることになる。1月の展開では、ウクライナ軍は6ヶ月間の防衛が有利に働き、まだ安全に都市を脱出することができた。米国も同様の戦略を提案したというが、ウクライナのウラジミール・ゼレンスキー大統領は最後まで戦うことを好んだようだ。
市街地での戦闘
2月中、ウクライナ側はコンスタンチノフカ・アルチョモフスク街道でのロシアの攻勢を封じ込めようとし、ワグナーグループのシャソフ・ヤールへの到達を阻止し、クラスノエ村の主要要塞地帯を占領した。ウクライナは予備兵をこの地域に移動させたため、これらの陣地を保持することができ、ロシア軍は北側から行動を起こすことを余儀なくされた。
クラスノエの攻略に失敗したロシア軍は、アルチョモフスクの西の郊外に移動し、ソ連航空機の記念碑で知られる旧大砲部隊の地域へ移動した(ウクライナのジャーナリスト、ボランティア、軍人にとって人気の写真スポット)。この記念碑は、戦闘中に破壊された。噂によると、ロシア軍がこの地で戦勝記念撮影をするのを阻止するために、ウクライナ側が爆破したとも言われている。
3月、この戦線ではウクライナ軍の予備兵力がより必要となり、以前クピャンスク近郊に駐留していた第92機械化旅団の部隊が導入された。しかし、その頃にはワグナーグループはアルチョモフスクの南西部郊外に深く進出していた。クヴァドラティ地区を占領し、チャイコフスキー通りに向かって進み、この地区を封鎖した。同時に、ロシア軍は市の南部で前進し、3月29日にブデノフカ地区とソバチェフカ地区の支配を確立した。

資料写真: アルチョモフスク近郊のワグナーグループの軍人 © Sputnik / Viktor Antonyuk
4月中、ウクライナ側はクラスノエ村/チャイコフスキー通りの線上でロシアの攻撃を抑止し続けた。ロシア軍が工業大学群を制圧し、チャイコフスキー通りとユビレイナヤ通りの交差点に到達できたのは、4月28日のことだった。その後、アルチョモフスクの防衛は実質的に2つに分断された。ウクライナ軍は、航空機記念碑付近の高層ビルが、ウクライナ軍が補給や避難に使う村道を監視するための観測拠点として使われることを恐れて爆破を開始した。
2022年12月、ロシア軍はクレシュチェイエフカとオピトノエの攻略に加え、同市の工業地帯まで東進することに力を注いでいた。ワグナーグループはこれまで市街地近郊のみを支配していたが、12月には工業地帯と北側の森林地帯をほぼ完全に制圧した。これによりアルチョモフスクのミヤソコンビナート地区、ザバフムートカ地区への進出が可能となり、1月のソレダルの攻略にも役立った。
ソレダルでの勝利により、ロシアはアルチョモフスクへの圧力を倍加させることができた。ロシア軍の戦線突破を阻止するため、ウクライナ軍はさらに予備軍を投入した。しかし、これは部分的にしか役立たなかった。ロシア軍はバフムトカ川を数カ所で渡河し、クラスノポル、サッコとヴァンゼッティ、ニコラエフカを占領してセヴェルスクに対する側面を確保した。その後、ジェレズニャンスコエ村付近でスラヴィアンスクに対する防壁を設置した。
その後、ロシア軍は南西に向かい、クラスナヤ・ゴラとパラスコヴィエフカの最後の主要要塞を占領した。ソ連時代、パラスコヴィエフカの塩鉱山の跡地には、大規模な軍事倉庫があった。ウクライナ側はこのインフラを利用して防衛線を作ることができたが、これでは戦線を安定させることはできなかった。
ウクライナ軍の撤退
この時点で、アルチョモフスク包囲網の南側がクラスノエのウクライナ側防衛線に突き当たったことが明らかになった。この時、ワグナーグループは砲弾が不足し、砲兵の行動が制限される事態に陥った。問題が解決すると同時に、戦闘員たちはアルチョモフスクから出る最後のルートの一つであるベルクホフカに移動した。

関連記事:ウクライナの政治的暴力の100年は、今日の残虐行為にどうつながっているのか?
2月24日にベルクホフカを占領し、ベルクホフスキー貯水池に到達したことで、ウクライナ軍はアルチョモフスクの北部地区であるストゥプキからの撤退を強いられ、アルチョモフスコエ村(クロモフ)への南西への道が開かれ、市から出る最後の比較的安全なルートとなった。
ベルクホフカ解放の翌日、ウクライナ軍はヤゴドノエから撤退した。その後、セヴェルニ・スタフカ・ダムを爆破し、アルチョモフスク北西部の郊外からの反撃が制限された。2月はウクライナ軍にとって不運な結果となった。ロシア軍は市街から残る2本の道路を比較的安定した砲撃力で制圧し、ウクライナ軍は温暖な気候のため野原を脱出することが困難となった。
一方、ロシア軍は東と南からアルチョモフスクの奥深くまで進軍を続けていた。市街戦は両軍の大きな戦力を拘束したが、ロシア軍の優れた大砲と突撃戦術によって勝利した。ワグナーグループのエフゲニー・プリゴジンは、この戦いの中で、「敵の兵力を押さえ込み、破壊することが主な任務である」と繰り返し強調した。

資料写真: ドンバスでのワグナーグループの軍人 © Sputnik / Viktor Antonyuk
3月2日、ウクライナのUAV(無人機)部隊の司令官(軍用コールサイン「マディヤル」)がビデオを撮影し、その中で、アルチョモフスクの状況を否定的に評価し、ウクライナ人はそこから脱出すべきだと述べた。また、ウクライナの若者は戦う気がないと非難した。部下の一人は、戦後、徴兵を免れた者をすべて殴り倒すと公言した。3月3日、「マディヤル」と彼の戦闘員たちは、司令官の命令を口実にアルチョモフスクから逃亡した。
同日、プリゴジンはゼレンスキー宛てにビデオメッセージを録音し、ウクライナ軍守備隊の出口は残り1つであると述べた。彼はまた、3人のウクライナ人捕虜を映し出し、その中には職業軍人はおらず、老人1人と若者2人しかいなかった。
3月8日には、街の東部全域がロシア軍に支配され、ウクライナ軍はバフムトカ川の西岸に押しやられた。ワグナーグループが進むにつれ、欧米メディアの論調は急速に変化した。それまでアルチョモフスクは戦略的に重要な地点と呼ばれていたが、3月6日には国防総省の長官が、この都市は戦略的価値よりも象徴的価値の方が高いと発表した。
春の戦い
それにもかかわらず、ウクライナ軍は支配力を緩めることなく、ネオナチやウクライナ民族主義の思想で知られ、右派セクターの過激派部隊で編成された第67機械化旅団を含む追加予備軍を同市に移送した。プリゴジンによれば、これらの部隊はロシアの側面を包囲して攻撃することになっていた。
ウクライナ予備軍は、ワグナー戦闘員との衝突でかなりの損害を被った。第67旅団の1つの大隊の司令官である有名なネオナチのドミトリー「ダヴィンチ」コツユバイロを含む何人かの将校が、ロシアの大砲によって殺害された。

アルチョモフスクで壊れたウクライナの装甲車。© Sputnik / Sergey Averin
しかし、キエフには、アルチョモフスクに配置された部隊と他のウクライナ軍を村道で結ぶボグダノフカ・アルチョモフスコエ区間を安定させるだけの資源が残っていた。このため、ロシア軍はスラビアンスクに向かうルートで圧力を北に移動させることになった。ドゥボボ・ヴァシレフカとザリズニャンスコはそれぞれ3月9日と3月15日に解放された。この進撃でいくつかの高台も占領され、スラビアンスク方面からの攻勢に対して北側の側面をかなり確保することができた。
ロシア軍は、北からの襲撃を続け、アルチョモフスク金属加工工場(AZOM)の敷地を制圧することを目指した。3月10日に工場は襲撃され、3月14日には、2022年12月にゼレンスキーがウクライナ兵に表彰を行ったボストークマッシュ工場が攻略された。AZOMが完全に解放されたのは4月4日のことだった。

関連記事:ウルフズエンゲル*の下で:ウクライナの過激な思想をめぐる不愉快な真実
*手前の兵士の首筋にある印。狼狩り用の罠をあしらったもので、ナチ党の最初のシンボル。
その頃までには、PMCワグナーは北と南の陣地を利用し、市の中心部で大規模な攻勢を開始していた。廃墟と化した市庁舎は、4月2日までにロシア軍の支配下に置かれた。ロシア軍は市街地を完全に包囲することを断念し、敵を西に押しやることに専念した。
突撃隊*の活躍にもかかわらず、ウクライナ軍による「ブロック分解」攻撃の危険は常にあった。この脅威を排除するため、ロシア軍の正規部隊の追加部隊がこの地域に移送された。4月の大半の間、ロシア軍はウクライナ最後の要塞地帯である市西部の高層ビル群、チェレマ地区とノヴィ地区への到達を試みた。
* 原文では storm troops 。「勇猛で知られるドイツのSturmtruppenを英語化した”storm troops”という言葉があってそれを連想させるように語を選んでいる」「ワグナーの中で更に勇猛な部隊による攻撃の恐ろしさを強調している」とのご指摘を読者の No Title さんからいただきました。
突撃隊は東部、市の行政区、北部から攻勢を開始せざるを得ず、ポショロク住宅地区とバラの小路のそばでウクライナの防衛を突破した。バフムート2駅付近の鉄道が防衛線として機能した。
4月22日、ウクライナ側の深刻な抵抗と幾度もの反撃にもかかわらず、この重要な場所をロシア軍が奪取した。これにより、東側から高層ビルが立ち並ぶ地区への進路が確保された。北側はクライナヤ通りに到達し、その南側にはソ連軍の大規模な基地がある。
同時に、チャソフ・ヤールとアルチョモフスクの間の道路付近でも戦闘が激化した。この道路はロシア軍が定期的に攻撃していたが、ロシア軍が直接支配していたわけではない。ウクライナの要塞地帯がここを通り、南側の道路を覆い、アルチョモフスクからの残りの脱出ルートに対する視覚的な支配を制限していた。

資料写真:ドンバスでのワグナーグループの軍人 © Sputnik / Viktor Antonyuk
この2.5平方キロメートルを超える要塞地帯の攻略は、アルチョモフスクの長い戦いの最終章であった。5月初旬、プリゴジンは、弾薬の不足と新兵の確保が困難なため、自軍の攻撃力がほぼ枯渇していると発表した。彼は、ウクライナの反攻が迫っていることを警告し、部下に弾薬が必要であること、都市の北と南の陣地をロシア軍でカバーする必要があることを再度強調した。その頃、ワグナー軍の前進は1日平均150~200メートルで、ウクライナ守備隊を救うことができるのは、外からの包囲網を破る試みしか考えられなかった。
最後の一押し
5月10日、ウクライナ軍はチャソフ・ヤールから南はクレシェイエフカ方面、北はベルホフスコエ貯水池方面の2方向への攻勢を開始した。その頃、アルチョモフスク周辺の側面を強化するために派遣されたロシア軍第9機動小銃連隊、第4、72、200旅団、第106空挺師団は、これらの地域に防御陣地を構えていた。
当時、アルチョモフスクの北西と南西にあるロシアの前線陣地は、セヴェルスキー・ドネツ・ドンバス運河の西岸の足場を含め、脆弱と見られていた。ウクライナ軍のクラスノエ防衛により、ロシア軍は包囲網を完成させることができず、2つのロシア軍前哨基地はウクライナ軍の攻撃目標となった。
ロシア軍は効果的な防御を行うため、前進陣地を前方防御線に変更した。ウクライナの反攻が始まると撤退し、攻めてくる敵に大砲を浴びせ、小競り合いを強いる。この戦略には、いくつかの弱点があった: 特に、アルチョモフスクの西にある、同市を包囲するために重要な高台の陣地が放棄されたことである。
ウクライナ軍守備隊は安堵のため息をついて再編成しようとしていたが、その時、ワグナー部隊が市西部に残る3つの要塞地帯に対して最後の攻勢をかけたのである:グネズド、コンストラクター、ドミノである。激戦の末、5月18日にドミノを最後に陥落させることに成功した。それ以降、ウクライナ側が制圧したのは、クラスノエに向かう道路沿いにあるサモレ要塞の低層住宅地とわずかな高層ビルだけだった。ロシア軍は時間との戦いに事実上勝利し、ウクライナ軍がロシアの側面を突破する前にアルチョモフスクの支配権を獲得した。
5月20日、ウクライナ軍は市内に残っていた要塞を失った。ワグナー兵は彼らをサモレットの拠点から追い出し、勝利を祝うとともに「バクムート肉弾戦」の終結を宣言した。
結論
プリゴジンによれば、アルチョモフスクの戦いの重要性は、ロシアがウクライナの予備兵力を削り、キエフをアルチョモフスクに集中させ、戦線の他の地域、特にメリトポリ方面でのウクライナの攻勢を妨害できたという事実にある。2022年10月8日、セルゲイ・スロヴィキン陸軍大将とともに、ウラジーミル・ゼレンスキーを刺激してバフムートを保持するためにできるだけ多くの軍を投入させるために、バフムート村への攻撃「バフムート肉挽き」作戦を開始することを決定した。バフムートでは、ウクライナ軍を粉砕したので、『バフムート肉挽き』という名前になりました」とプリゴジンは語った。

資料写真: アルチョモフスクのワグナーグループ軍人 © Sputnik / Yevgeny Biyatov
いずれにせよ、アルチョモフスクでの9カ月以上にわたる戦闘は、紛争の認識を永久に変え、ウクライナとロシアの双方が、急ピッチの軍事作戦や大規模な打開策という考え方を放棄せざるを得なくなった。
本稿で取り上げる戦闘は、前線から30キロメートルほど離れた場所で行われたものである。夏の暑さ、秋の泥濘、冬の霜という条件下で、それは第一次世界大戦に酷似していた。プリゴジンの予想では、ドネツク人民共和国の全領土の解放には、あと1年半から2年かかるという。

関連記事:文字どおりの地雷原:ウクライナ紛争が数十年にわたり影響を及ぼす理由
今後、ロシア軍はさらに西に進軍することになる。その途中には、2014年のロシアの攻勢が始まったスラビアンスク市や、クリボイ・トレツ沿いにあるウクライナの第三防衛線があるはずだ。セヴェルスクのウクライナ軍陣地も北側で対処する必要がある。
一方、多くの軍事専門家は、ワグナー部隊は今後、他の重要な地域に配置転換されるだろうと示唆した。ウグレドールの町を襲撃するか、ウクライナ軍の反撃の可能性を撃退するためである。プリゴジンは、アルチョモフスクでの長い戦闘の後、部隊の回復と戦闘能力の回復のために25日間の休止を要求している。
5月20日にアルチョモフスクの完全攻略を発表したビデオの中で、プリゴジンは、5月25日以降、ワグナー部隊は休息と再編成のために後方に出発すると述べている。
しかし、5月の反攻の間に多くの陣地を奪ったウクライナ軍の大部分は、アルチョモフスクの西にまだ残っている。彼らはチャソフ・ヤールに足場を築き、クラスノエとミンコフカの間の線を保持しているため、ロシア軍がセヴェルスキー・ドネツ=ドンバス運河沿いの戦線を安定させるのを妨げている。アルチョモフスクにロシア国旗が掲げられ、ロシア兵が戦場を完全に掌握した今、最優先すべきことは、反攻のために集結したウクライナ軍に最大の損害を与え、運河西岸に追い出すことである。
筆者は、ウラジスラフ・ウゴルニ。ドネツク生まれのロシア人ジャーナリスト。
Inside the ‘Bakhmut meat grinder’: How Russia forced Ukrainians to retreat from Artyomovsk, their supposed ‘fortress’ in Donbass
Nine months of fighting for a symbolic site in Kiev's attempt to regain control of the region have ended with another triumph for Moscow's forces
キエフがドンバスの支配権を取り戻そうとする中で、象徴的な場所をめぐる9カ月間の戦闘は、モスクワ軍の新たな勝利で幕を閉じた。
出典:RT 2023年5月21日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2023年5月29日

ソーシャルメディア動画からのスクリーンショット
アルチョモフスク(ウクライナ人はバフムートと呼ぶ)の戦いは2022年8月に始まり、次第にロシアとウクライナの戦闘の震源地と化していった。戦線の他の地域が比較的安定している中、双方がこの小さな都市に積極的に軍を投入した。2022年5月、アゾフスタルで敗北し、その印象を低下させたキエフにとって、アルチョモフスクは新しいマリウポリとなった。ウクライナのプロパガンダでは「バフムート要塞」というレッテルを貼り、そこで戦う人々に英雄的な雰囲気を与えようとした。
この都市は西へ進むための戦略的重要性がないにもかかわらず、ロシア軍はウクライナのプロパガンダが突きつけた挑戦を受け入れた。では、9カ月に及ぶ「バフムートの肉弾戦」からモスクワは何を得たのだろうか。
地方都市から軍事要塞へ
19世紀、アルチョモフスクはロシア帝国の地方都市であり、発展途上のドンバス地方の行政の中心地であった。しかし、他の都市が発展するにつれて、その役割は小さくなっていった。2022年2月のロシア軍の攻勢開始時には、この街の人口は約70,000人だった。2023年初頭に戦闘が行われたスパークリングワイン工場など、いくつかの工業施設がある。ウクライナ当局によると、その時点ですでに街の60%が破壊されていたという。
この街の重要性は、2022年2月のロシアの軍事作戦開始後、飛躍的に高まった。当初、ロシア軍がポパスナヤ、ゾロトエ、リシチャンスク・セベロドネツクの集積地の第一線の要塞を破ったとき、アルチョモフスクは重要な輸送拠点となった。アルチョモフスクは、ウクライナの前線と他の地域とを繋いでいたのだ。
ロシア軍がこの防衛線を破り、キエフ軍をルガンスク人民共和国(LPR)の領土から完全に排除した後、アルチョモフスクは輸送の拠点から、バフムトカ川周辺のウクライナ第二防衛線になった。このラインは、南はゴロフカ(2014年以降、ドネツク人民共和国(DPR)が支配)の反対側にあるウクライナ軍の拠点から北はセヴェルスクまで続き、ドンバスの主要河川であるセヴェルスキー・ドネツ川にまっすぐつながっている。

アルチョモフスクの西部にある破損した高層ビル。© Sputnik / Yevgeny Biyatov
アルチョモフスクは、この防衛線が破られることなく、占領されることはなかった。2022年7月以来、民間軍事会社(PMC)ワグナーの戦闘員たちは、まさにそのことに集中し、都市の包囲を成功させるための地ならしを行ってきた
アルチョモフスクの攻略
アルチョモフスクの包囲に有利な条件が整い始めたのは、ポパスナヤでのロシアの勝利後、昨年5月のことである。月末には、ウグレゴルスク火力発電所の衛星都市で、ウクライナ軍が防衛拠点としたスヴェトロダースクを占領した。この都市の占領に2カ月を要したが、発電所には大きな損害はなかった。

関連記事:テロの背後にある論理: なぜウクライナはドネツクの民間人地区を攻撃し続けるのか?
ゴロフカの北側でも戦闘が続いている。アルチョモフスク方面への進撃という主目標に加え、住民の安全を確保するために、ウクライナ軍をさらに遠ざけることが重要だった。攻勢開始以来、ゴルロフカでは101人が死亡し、360人が負傷している。2022年の夏から秋にかけて続いたセミゴリエ、コデマ、ザイツェヴォという2つの村、マヨルスク、クルジュモフカ、オザリヤノフカという集落の戦闘の間に、ウ軍を遠ざけるという、この課題は部分的に達成された。ゴロフカの安全は北と北東から確保され、脅威は西と北西からしか残らなかった。
ウクライナの要塞は、ゴルロフカ方面や南からのロシアの攻勢を抑止するために作られたものである。しかし、東からの再度の攻勢により、これらの要塞の戦術的価値は低下し、戦線の他の区域と比較して、すぐに襲撃された。
12月までに、ロシア軍はアルチョモフスクの南郊外に到達し、これを封鎖した。10月当時、南郊外におけるロシア軍の存在は、オピツノエで戦う先遣部隊に限られていたが、12月には市郊外の畑での「予備作業」が完全に完了した。
その頃、敵はアルチョモフスクの戦いに完全に参加しており、メディアはマリウポリやアゾフスタルの戦いのように、ウクライナ軍優勢の象徴として仕立て上げた。ウクライナ人は「バフムート要塞」の伝説を作り上げ、降伏する気にはなれなかった。実際、彼らは絶えず援軍を送り込んでいた。したがって、ロシアの次の目標は、アルチョモフスクの南西にある重要な要塞地域であるクレシェイエフカと、市の南部を覆うオピツノエとなった。
これらの戦術的な目標は、1月末までにしか達成できなかった。その頃には、ウクライナ軍にとって状況はかなり悪くなっていた。南方ではロシア軍の進撃によりコンスタンチノフカとアルチョモフスクの間の道路が危険にさらされ、北方ではソレダルの陥落により、この都市はすぐに包囲されることになる。1月の展開では、ウクライナ軍は6ヶ月間の防衛が有利に働き、まだ安全に都市を脱出することができた。米国も同様の戦略を提案したというが、ウクライナのウラジミール・ゼレンスキー大統領は最後まで戦うことを好んだようだ。
市街地での戦闘
2月中、ウクライナ側はコンスタンチノフカ・アルチョモフスク街道でのロシアの攻勢を封じ込めようとし、ワグナーグループのシャソフ・ヤールへの到達を阻止し、クラスノエ村の主要要塞地帯を占領した。ウクライナは予備兵をこの地域に移動させたため、これらの陣地を保持することができ、ロシア軍は北側から行動を起こすことを余儀なくされた。
クラスノエの攻略に失敗したロシア軍は、アルチョモフスクの西の郊外に移動し、ソ連航空機の記念碑で知られる旧大砲部隊の地域へ移動した(ウクライナのジャーナリスト、ボランティア、軍人にとって人気の写真スポット)。この記念碑は、戦闘中に破壊された。噂によると、ロシア軍がこの地で戦勝記念撮影をするのを阻止するために、ウクライナ側が爆破したとも言われている。
3月、この戦線ではウクライナ軍の予備兵力がより必要となり、以前クピャンスク近郊に駐留していた第92機械化旅団の部隊が導入された。しかし、その頃にはワグナーグループはアルチョモフスクの南西部郊外に深く進出していた。クヴァドラティ地区を占領し、チャイコフスキー通りに向かって進み、この地区を封鎖した。同時に、ロシア軍は市の南部で前進し、3月29日にブデノフカ地区とソバチェフカ地区の支配を確立した。

資料写真: アルチョモフスク近郊のワグナーグループの軍人 © Sputnik / Viktor Antonyuk
4月中、ウクライナ側はクラスノエ村/チャイコフスキー通りの線上でロシアの攻撃を抑止し続けた。ロシア軍が工業大学群を制圧し、チャイコフスキー通りとユビレイナヤ通りの交差点に到達できたのは、4月28日のことだった。その後、アルチョモフスクの防衛は実質的に2つに分断された。ウクライナ軍は、航空機記念碑付近の高層ビルが、ウクライナ軍が補給や避難に使う村道を監視するための観測拠点として使われることを恐れて爆破を開始した。
2022年12月、ロシア軍はクレシュチェイエフカとオピトノエの攻略に加え、同市の工業地帯まで東進することに力を注いでいた。ワグナーグループはこれまで市街地近郊のみを支配していたが、12月には工業地帯と北側の森林地帯をほぼ完全に制圧した。これによりアルチョモフスクのミヤソコンビナート地区、ザバフムートカ地区への進出が可能となり、1月のソレダルの攻略にも役立った。
ソレダルでの勝利により、ロシアはアルチョモフスクへの圧力を倍加させることができた。ロシア軍の戦線突破を阻止するため、ウクライナ軍はさらに予備軍を投入した。しかし、これは部分的にしか役立たなかった。ロシア軍はバフムトカ川を数カ所で渡河し、クラスノポル、サッコとヴァンゼッティ、ニコラエフカを占領してセヴェルスクに対する側面を確保した。その後、ジェレズニャンスコエ村付近でスラヴィアンスクに対する防壁を設置した。
その後、ロシア軍は南西に向かい、クラスナヤ・ゴラとパラスコヴィエフカの最後の主要要塞を占領した。ソ連時代、パラスコヴィエフカの塩鉱山の跡地には、大規模な軍事倉庫があった。ウクライナ側はこのインフラを利用して防衛線を作ることができたが、これでは戦線を安定させることはできなかった。
ウクライナ軍の撤退
この時点で、アルチョモフスク包囲網の南側がクラスノエのウクライナ側防衛線に突き当たったことが明らかになった。この時、ワグナーグループは砲弾が不足し、砲兵の行動が制限される事態に陥った。問題が解決すると同時に、戦闘員たちはアルチョモフスクから出る最後のルートの一つであるベルクホフカに移動した。

関連記事:ウクライナの政治的暴力の100年は、今日の残虐行為にどうつながっているのか?
2月24日にベルクホフカを占領し、ベルクホフスキー貯水池に到達したことで、ウクライナ軍はアルチョモフスクの北部地区であるストゥプキからの撤退を強いられ、アルチョモフスコエ村(クロモフ)への南西への道が開かれ、市から出る最後の比較的安全なルートとなった。
ベルクホフカ解放の翌日、ウクライナ軍はヤゴドノエから撤退した。その後、セヴェルニ・スタフカ・ダムを爆破し、アルチョモフスク北西部の郊外からの反撃が制限された。2月はウクライナ軍にとって不運な結果となった。ロシア軍は市街から残る2本の道路を比較的安定した砲撃力で制圧し、ウクライナ軍は温暖な気候のため野原を脱出することが困難となった。
一方、ロシア軍は東と南からアルチョモフスクの奥深くまで進軍を続けていた。市街戦は両軍の大きな戦力を拘束したが、ロシア軍の優れた大砲と突撃戦術によって勝利した。ワグナーグループのエフゲニー・プリゴジンは、この戦いの中で、「敵の兵力を押さえ込み、破壊することが主な任務である」と繰り返し強調した。

資料写真: ドンバスでのワグナーグループの軍人 © Sputnik / Viktor Antonyuk
3月2日、ウクライナのUAV(無人機)部隊の司令官(軍用コールサイン「マディヤル」)がビデオを撮影し、その中で、アルチョモフスクの状況を否定的に評価し、ウクライナ人はそこから脱出すべきだと述べた。また、ウクライナの若者は戦う気がないと非難した。部下の一人は、戦後、徴兵を免れた者をすべて殴り倒すと公言した。3月3日、「マディヤル」と彼の戦闘員たちは、司令官の命令を口実にアルチョモフスクから逃亡した。
同日、プリゴジンはゼレンスキー宛てにビデオメッセージを録音し、ウクライナ軍守備隊の出口は残り1つであると述べた。彼はまた、3人のウクライナ人捕虜を映し出し、その中には職業軍人はおらず、老人1人と若者2人しかいなかった。
3月8日には、街の東部全域がロシア軍に支配され、ウクライナ軍はバフムトカ川の西岸に押しやられた。ワグナーグループが進むにつれ、欧米メディアの論調は急速に変化した。それまでアルチョモフスクは戦略的に重要な地点と呼ばれていたが、3月6日には国防総省の長官が、この都市は戦略的価値よりも象徴的価値の方が高いと発表した。
春の戦い
それにもかかわらず、ウクライナ軍は支配力を緩めることなく、ネオナチやウクライナ民族主義の思想で知られ、右派セクターの過激派部隊で編成された第67機械化旅団を含む追加予備軍を同市に移送した。プリゴジンによれば、これらの部隊はロシアの側面を包囲して攻撃することになっていた。
ウクライナ予備軍は、ワグナー戦闘員との衝突でかなりの損害を被った。第67旅団の1つの大隊の司令官である有名なネオナチのドミトリー「ダヴィンチ」コツユバイロを含む何人かの将校が、ロシアの大砲によって殺害された。

アルチョモフスクで壊れたウクライナの装甲車。© Sputnik / Sergey Averin
しかし、キエフには、アルチョモフスクに配置された部隊と他のウクライナ軍を村道で結ぶボグダノフカ・アルチョモフスコエ区間を安定させるだけの資源が残っていた。このため、ロシア軍はスラビアンスクに向かうルートで圧力を北に移動させることになった。ドゥボボ・ヴァシレフカとザリズニャンスコはそれぞれ3月9日と3月15日に解放された。この進撃でいくつかの高台も占領され、スラビアンスク方面からの攻勢に対して北側の側面をかなり確保することができた。
ロシア軍は、北からの襲撃を続け、アルチョモフスク金属加工工場(AZOM)の敷地を制圧することを目指した。3月10日に工場は襲撃され、3月14日には、2022年12月にゼレンスキーがウクライナ兵に表彰を行ったボストークマッシュ工場が攻略された。AZOMが完全に解放されたのは4月4日のことだった。

関連記事:ウルフズエンゲル*の下で:ウクライナの過激な思想をめぐる不愉快な真実
*手前の兵士の首筋にある印。狼狩り用の罠をあしらったもので、ナチ党の最初のシンボル。
その頃までには、PMCワグナーは北と南の陣地を利用し、市の中心部で大規模な攻勢を開始していた。廃墟と化した市庁舎は、4月2日までにロシア軍の支配下に置かれた。ロシア軍は市街地を完全に包囲することを断念し、敵を西に押しやることに専念した。
突撃隊*の活躍にもかかわらず、ウクライナ軍による「ブロック分解」攻撃の危険は常にあった。この脅威を排除するため、ロシア軍の正規部隊の追加部隊がこの地域に移送された。4月の大半の間、ロシア軍はウクライナ最後の要塞地帯である市西部の高層ビル群、チェレマ地区とノヴィ地区への到達を試みた。
* 原文では storm troops 。「勇猛で知られるドイツのSturmtruppenを英語化した”storm troops”という言葉があってそれを連想させるように語を選んでいる」「ワグナーの中で更に勇猛な部隊による攻撃の恐ろしさを強調している」とのご指摘を読者の No Title さんからいただきました。
突撃隊は東部、市の行政区、北部から攻勢を開始せざるを得ず、ポショロク住宅地区とバラの小路のそばでウクライナの防衛を突破した。バフムート2駅付近の鉄道が防衛線として機能した。
4月22日、ウクライナ側の深刻な抵抗と幾度もの反撃にもかかわらず、この重要な場所をロシア軍が奪取した。これにより、東側から高層ビルが立ち並ぶ地区への進路が確保された。北側はクライナヤ通りに到達し、その南側にはソ連軍の大規模な基地がある。
同時に、チャソフ・ヤールとアルチョモフスクの間の道路付近でも戦闘が激化した。この道路はロシア軍が定期的に攻撃していたが、ロシア軍が直接支配していたわけではない。ウクライナの要塞地帯がここを通り、南側の道路を覆い、アルチョモフスクからの残りの脱出ルートに対する視覚的な支配を制限していた。

資料写真:ドンバスでのワグナーグループの軍人 © Sputnik / Viktor Antonyuk
この2.5平方キロメートルを超える要塞地帯の攻略は、アルチョモフスクの長い戦いの最終章であった。5月初旬、プリゴジンは、弾薬の不足と新兵の確保が困難なため、自軍の攻撃力がほぼ枯渇していると発表した。彼は、ウクライナの反攻が迫っていることを警告し、部下に弾薬が必要であること、都市の北と南の陣地をロシア軍でカバーする必要があることを再度強調した。その頃、ワグナー軍の前進は1日平均150~200メートルで、ウクライナ守備隊を救うことができるのは、外からの包囲網を破る試みしか考えられなかった。
最後の一押し
5月10日、ウクライナ軍はチャソフ・ヤールから南はクレシェイエフカ方面、北はベルホフスコエ貯水池方面の2方向への攻勢を開始した。その頃、アルチョモフスク周辺の側面を強化するために派遣されたロシア軍第9機動小銃連隊、第4、72、200旅団、第106空挺師団は、これらの地域に防御陣地を構えていた。
当時、アルチョモフスクの北西と南西にあるロシアの前線陣地は、セヴェルスキー・ドネツ・ドンバス運河の西岸の足場を含め、脆弱と見られていた。ウクライナ軍のクラスノエ防衛により、ロシア軍は包囲網を完成させることができず、2つのロシア軍前哨基地はウクライナ軍の攻撃目標となった。
ロシア軍は効果的な防御を行うため、前進陣地を前方防御線に変更した。ウクライナの反攻が始まると撤退し、攻めてくる敵に大砲を浴びせ、小競り合いを強いる。この戦略には、いくつかの弱点があった: 特に、アルチョモフスクの西にある、同市を包囲するために重要な高台の陣地が放棄されたことである。
ウクライナ軍守備隊は安堵のため息をついて再編成しようとしていたが、その時、ワグナー部隊が市西部に残る3つの要塞地帯に対して最後の攻勢をかけたのである:グネズド、コンストラクター、ドミノである。激戦の末、5月18日にドミノを最後に陥落させることに成功した。それ以降、ウクライナ側が制圧したのは、クラスノエに向かう道路沿いにあるサモレ要塞の低層住宅地とわずかな高層ビルだけだった。ロシア軍は時間との戦いに事実上勝利し、ウクライナ軍がロシアの側面を突破する前にアルチョモフスクの支配権を獲得した。
5月20日、ウクライナ軍は市内に残っていた要塞を失った。ワグナー兵は彼らをサモレットの拠点から追い出し、勝利を祝うとともに「バクムート肉弾戦」の終結を宣言した。
結論
プリゴジンによれば、アルチョモフスクの戦いの重要性は、ロシアがウクライナの予備兵力を削り、キエフをアルチョモフスクに集中させ、戦線の他の地域、特にメリトポリ方面でのウクライナの攻勢を妨害できたという事実にある。2022年10月8日、セルゲイ・スロヴィキン陸軍大将とともに、ウラジーミル・ゼレンスキーを刺激してバフムートを保持するためにできるだけ多くの軍を投入させるために、バフムート村への攻撃「バフムート肉挽き」作戦を開始することを決定した。バフムートでは、ウクライナ軍を粉砕したので、『バフムート肉挽き』という名前になりました」とプリゴジンは語った。

資料写真: アルチョモフスクのワグナーグループ軍人 © Sputnik / Yevgeny Biyatov
いずれにせよ、アルチョモフスクでの9カ月以上にわたる戦闘は、紛争の認識を永久に変え、ウクライナとロシアの双方が、急ピッチの軍事作戦や大規模な打開策という考え方を放棄せざるを得なくなった。
本稿で取り上げる戦闘は、前線から30キロメートルほど離れた場所で行われたものである。夏の暑さ、秋の泥濘、冬の霜という条件下で、それは第一次世界大戦に酷似していた。プリゴジンの予想では、ドネツク人民共和国の全領土の解放には、あと1年半から2年かかるという。

関連記事:文字どおりの地雷原:ウクライナ紛争が数十年にわたり影響を及ぼす理由
今後、ロシア軍はさらに西に進軍することになる。その途中には、2014年のロシアの攻勢が始まったスラビアンスク市や、クリボイ・トレツ沿いにあるウクライナの第三防衛線があるはずだ。セヴェルスクのウクライナ軍陣地も北側で対処する必要がある。
一方、多くの軍事専門家は、ワグナー部隊は今後、他の重要な地域に配置転換されるだろうと示唆した。ウグレドールの町を襲撃するか、ウクライナ軍の反撃の可能性を撃退するためである。プリゴジンは、アルチョモフスクでの長い戦闘の後、部隊の回復と戦闘能力の回復のために25日間の休止を要求している。
5月20日にアルチョモフスクの完全攻略を発表したビデオの中で、プリゴジンは、5月25日以降、ワグナー部隊は休息と再編成のために後方に出発すると述べている。
しかし、5月の反攻の間に多くの陣地を奪ったウクライナ軍の大部分は、アルチョモフスクの西にまだ残っている。彼らはチャソフ・ヤールに足場を築き、クラスノエとミンコフカの間の線を保持しているため、ロシア軍がセヴェルスキー・ドネツ=ドンバス運河沿いの戦線を安定させるのを妨げている。アルチョモフスクにロシア国旗が掲げられ、ロシア兵が戦場を完全に掌握した今、最優先すべきことは、反攻のために集結したウクライナ軍に最大の損害を与え、運河西岸に追い出すことである。
筆者は、ウラジスラフ・ウゴルニ。ドネツク生まれのロシア人ジャーナリスト。
- 関連記事
-
- ウクライナ軍の反転大攻勢開始後三日間の戦死者数をロシアは発表 (2023/06/09)
- カホウカダムの破壊:知っておく必要のあること (2023/06/09)
- ウクライナのメディアは、ロシアの作家の暗殺をねらった自動車爆破のあと、「次に狙うべき人物」を視聴者に「人気投票」実施。それにBBCなども協力。 (2023/06/04)
- ゼレンスキーがクリミアに所有していた高級別荘が差し押さえられる。 (2023/06/01)
- ウクライナ側の防空体制の現状とは:ウルフ大佐への聞き取りの取材 (2023/05/30)
- ウクライナにとって、米国に好印象を与えるための期間は「あと5ヵ月」―FT紙 (2023/05/30)
- ウクライナはお前たちが憎い、とゼレンスキーの最高位の側近がモスクワに語る。 (2023/05/29)
- 「バフムート肉挽き機」の内部: ロシアはいかにしてウクライナ人をドンバスの「要塞」であるはずのアルチョモフスクから撤退させたのか? (2023/05/29)
- ウクライナにおける軍事状況―ジャック・ボー(2022年5月初出) (2023/05/29)
- ウクライナ:ロシアは英国が提供した劣化ウラン弾を消し去ったのか? (2023/05/27)
- 「放射能のキノコ雲」が西側を恐れ戦(おのの)かせているーロシア安全保障会議書記の警告 (2023/05/25)
- ロシアが国際刑事裁判所(ICC)の検察官の逮捕を命じる。 (2023/05/25)
- ウクライナが、米国に好印象を持たせるために残された時間は「5ヵ月」—FT紙 (2023/05/25)
- 米国はウクライナ紛争を「凍結」したいと思っている―Politico (2023/05/25)
- 西側の武器は十分でないかもしれない、とウクライナ軍がNYT紙に語る (2023/05/23)
スポンサーサイト