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駐仏中国大使ルー・シェイ、西側が震え上がるいくつかの事実を述べる―クリミア、ウクライナ、バルト三国の独立に関して

<記事原文 寺島先生推薦>
Lu Shaye States Some Facts: The West Trembles
ルー・シェイ、いくつかの事実を述べる:西側は震え上がる。
筆者:クリストファー・ブラック(Christopher Black)
https://journal-neo.org/author/christopher-black/
出典:INTERNATIONALIST 360°  2023年5月5日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2023年5月13日


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 駐仏中国大使のルー・シェイ氏は、フランスのテレビニュースチャンネルLCIのジャーナリストと世界と中国情勢について長時間、広範囲に及ぶインタビューを行った際、クリミアはウクライナの一部であるかどうかという質問に対して、「それは歴史をどう見るかによる」「クリミアは長い間ロシアで、ソ連時代にウクライナに与えられただけ」と述べている。

 そして、こう付け加えた、

 「これらの旧ソ連諸国でさえ、主権国家としての地位を具体化するための国際協定がなかったため、国際法上有効な地位を有していない」。

 この2つの発言は、欧米、特にバルト三国やウクライナで怒りの反応を引き起こし、彼の発言を非難する声明や、彼の解任を求める声が上がった。

 しかし、このような騒動の中で、西側のメディアや権力の中枢には誰も、彼の発言は正しいのか、という問いを投げかけようとする者はいなかった。彼の発言は正しいのだろうか。答えはイエスであり、西側諸国の怒りは、ヨーロッパのソ連崩壊後の秩序全体が砂の基礎の上に築かれているという認識によるものである。

 このことと、その結果を理解するためには、1991年のソ連における反革命とソ連解体時の出来事を検証する必要がある。

 ソ連の反革命とソ連邦の崩壊の歴史は長く複雑であり、このような短い論考で要約するのは難しい。しかし、ルー大使が提起した問題の核心に迫るためには、1977年のソ連憲法を検証することで、この複雑な網を突き破ることができる。

 憲法の第1条には、次のように書かれている、

「ソビエト社会主義共和国連邦は、全人民の社会主義国家であり、国内のすべての国家と民族の労働者、農民、知識人の意思と利益を表現する」。

 第72条にはこう書かれている、

「各連邦共和国は、ソビエト連邦から自由に分離独立する権利を保持する」。

 しかし、この点に関して重要なことは、第74条と第75条がソ連最高会議の優越性を確認しており、構成共和国の法律とソ連最高会議の法律との間に矛盾があった場合には、ソ連最高会議の法律が優先されたことである。

 第74条にはこうある、

「第74条 ソビエト連邦の法律は、すべての連邦共和国において同一の効力を有する。連邦共和国の法律と全ソ連の法律との間に相違がある場合には、ソ連の法律が優先される」。

 第75条には、次のように書かれている、

「第75条 ソビエト社会主義共和国連邦の領土は、単一であり、連邦共和国の領土を構成している。ソビエト社会主義共和国の主権は、その領土全体に及ぶ」。

 第72条は、共和国が分離独立するための手続きを定めていなかったが、1990年4月3日、ソ連最高会議は、共和国が分離独立するための手続きを規定する法律を採択し、その溝を埋めた」。

 本質的には、1990年にソ連最高会議で採択された分離独立法は、分離を望む共和国での国民投票の実施を要求し、有効な投票権を持つ共和国住民の2/3の賛成票を必要とした。その後、国民投票の結果をソ連最高会議に提出して承認を得る必要があり、その後、分離から生じるすべての問題とその対処方法を解決するための様々な手続きが実施された。

 最高会議が承認すると、国の最高議会である人民代議員会でも承認されなければならない。

 また、分離独立法では、モスクワの人民代議員会の承認を得て、財産などの問題を解決するための5年間の移行期間と、独立に反対して離脱を希望する人たちの再定住費用の分離独立国側への支払いも義務付けられた。

 分離独立の際に決定されるべき主要な問題の一つは、ソ連に残ることに投票した少数民族に属する人々の権利であり、彼ら自身がソ連内に留まるため、あるいは補償を得て離脱するために、今度は分離共和国から離脱する権利であった。

 バルト三国にはロシア人が相当数住んでおり、またウクライナの場合はロシア人が多数住んでいたため、この点は大きなポイントであった。ウクライナの東部では、過去も現在も国民の大半がロシア人である。

 1990年改正案は長いので、ここでは本文に含めないが、特に1990年以降のウクライナでの出来事を考慮すると、詳細に検討する価値があるため、読者はここで確認することができる。

 この点では、次のような第3条に注目しなければならない、

第3条

「自治共和国、自治州、自治管区を構造内に含む連邦共和国では、住民投票は自治組織ごとに別々に行われる。自治共和国と自治組織の国民は、ソ連内に留まるか、あるいは分離する連邦共和国内に留まるかどうかの問題を独自に決定する権利を保持し、また、自らの国家法的地位の問題を提起する問題もまた提起することができる」。

 この規定は、クリミアがウクライナの一部になるかどうかを決める際には重要な要素となる。なぜなら、クリミアは自治州であり、それゆえ、クリミアの人々は、分離するウクライナに参加するか、あるいはそのままソ連に留まるかを、独立して、住民投票を行う権利を持っていたからだ。しかし、クリミア州の市民には、そのような住民投票は許可されることはなかった。キエフがそれを許可しなかった理由は理解できる。なぜなら、もし許可されたのなら、2014年の住民投票で証明されたように、クリミア人の大多数はウクライナではなくソ連邦に残ることに投票することになっただろうから。

 しかしこの時期、西側の工作員は現在のようにバルト三国やウクライナで活発に活動しており、リトアニア人、エストニア人、ラトビア人の反革命分子は、自分たちの共和国は自発的にソ連に加わったのではなく、1940年6月にソ連に強制的に併合されたのだから、分離に関するソ連の新法は自分たちには適用されないと主張した。

 エストニアは1721年から1920年までの300年間、ロシアの一部であったことに注目しなければならない。この期間、エストニアは第一次世界大戦とロシア革命を利用してロシア帝国から離脱しようとした2年間の紛争の後、ボルシェビキが独立を認めた。ただ、これは、1940年、ドイツの脅威から自国を守るためにソ連がエストニアを再占領し、エストニアでは親共産党政権が誕生してソ連への加盟を要請したため、この独立は短期間で終わることになった。1940年からエストニアはソ連の一部となり、構成共和国としてソ連の法律に従うことになった。

 リトアニアもエストニアと同じ立場をとっていたが、当時、ゴルバチョフの報道官だったアルカディ・A・マスレンニコフは、リトアニアの現在の法的地位について問われ、バルト共和国には例外がないことを示唆した。

 「リトアニアはソビエト連邦の一部であり、共和国の国家構造に関するすべての問題とソビエト連邦へ入るかそこから出るかの問題は、たとえその根拠が誰かの意に沿わないものであっても、憲法上の根拠に基づいてのみ解決することができる」。

 ラトビアも似たようなもので、ポーランド、ドイツ、スウェーデン、ロシアの支配下に置かれた時期がある。しかし、1795年からはロシア帝国の一部となった。第一次世界大戦とロシア革命の間に、ラトビアも微妙な独立を果たしたが、これはドイツがポーランドに侵攻したことで終わった。そのときラトビアは、1940年8月5日に政権を握った新人民会議の要請で、ソ連への加盟を求め、これも認められた。

 ところが1988年から90年にかけて、バルト三国は、西側諸国とその情報機関の後押しと支援を受けて、自分たちが拘束されているソ連憲法の遵守を拒否し始め、一連の違法な措置の後、1991年にソ連からの独立を宣言した。それは、モスクワの反革命勢力に対する共産主義勢力とその一味によるクーデターが失敗した後のことだった。

 しかし、彼らの行動は、彼らが統治し服従していた憲法の下で違法であっただけではない。 彼らはソビエト連邦の大多数の市民の意思に反していた。なぜなら、1991年にもう一つの重要な進展があったことにも留意しなければならないからだ。この年、ソ連全土で国民投票が行われた。それを拒否したいくつかの共和国はあったが、そこで提起された問題は、ソ連を創設した1922年の条約に代わる、共和国間の新しい連合条約を承認するかどうかであった。多くの有権者に投げかけられた質問は次のようなものだった:

 「いかなる民族の個人の権利と自由も完全に保証される、平等な主権共和国の新たな連邦としてのソビエト社会主義共和国連邦の維持が必要だと思いますか?」

 投票率は80%で、そのうちの80%が連邦維持に投票した。

 国民統合の国民投票を拒否した政府の中には、バルト三国の他、グルジアのように国民に投票を認めない国も少数あった。その国々では、実は、ソ連の国民投票に対抗して、数日前に独自の国民投票を実施し、独立を支持する結果を出していた。しかし、これらの国民投票は1977年憲法の下では違法であり、分離独立のための国民投票はソビエト最高会議の承認を得なければならなかった。また、西側の独立勢力や権力者からのあからさまな圧力により、投票の有効性が疑われることもあった。バルト三国は、合法的に行動すれば、ソ連全土で実施された国民投票でソ連邦の維持が決定され、独立するためには、再度国民投票による分離独立が必要となることを知っていた。だから、そのような危険は冒したくなかったのだ。

 ウクライナに関しては、71%以上の人がソ連邦に残ることを支持した。クリミアやドンバスではその支持はもっと高かったと思われるが、数値は不明である。

 ウクライナでは、市民は次のような質問をされた、

 「ウクライナはソビエト主権国家連合の一部であるべきだ」という意見に賛成ですか?

 投票結果は88.7パーセントが賛成であった。

 この国民投票と同時に、ソビエト連邦に代わって、すべての共和国が属する独立国家共同体に関する新しい条約が作成されたため、事態はさらに複雑化した。しかし、1990年8月20日に予定されていたロシア共和国の調印式は、その前日にモスクワでソ連をそのまま維持しようとする者たちによるクーデターが発生したため、結局行われることはなかった。これにより、ソ連は無傷のままだった。

 最後の違法行為は、1991年12月8日、この出来事が起こった場所から取られた名前であるベロスフシャ協定と呼ばれるものに調印したことである。ロシア、ウクライナ、ベラルーシの各共和国の指導者、すなわち、ロシアはボリス・エリツィン、ウクライナはレオニード・クラフチュク、ベラルーシはスタニスラス・シュシュケビッチが、ソ連憲法に違反して、ソ連を解体して独立国家共同体を設立するという法令を単独で決定した。ソ連国民の大多数の意思に反するこの行為は、ソ連を救おうとする者たちによるクーデターが失敗したという口実で行われた。

 言い換えれば、彼らは、国民の意思表示に反し、ソ連共和国の大多数の意思に反し、憲法に反し、勝手に行動したのだ。それは、西側とソ連国内の西側資産以外の誰の利益にもならないように思える。

 ミハイル・ゴルバチョフは2000年の回顧録の中で、次のように述べている、

 「多国籍国家の運命は、3つの共和国の指導者の意思で決めることはできない。この問題は、すべての主権国家が参加し、すべての国民の意思を考慮した上で、憲法上の手段によってのみ決定されるべきである。連邦全体の法規範が効力を失うという記述も違法かつ危険であり、社会の混乱と無秩序を悪化させるだけである。この文書が急遽作成されたことも、深刻な懸念材料だ。この文書は、住民の間でも、署名された共和国のソビエト最高会議でも議論されていない。さらに悪いことには、ソ連国務院が起草した主権国家連合条約の草案が、各共和国の議会で議論されているときに、この文書が現れたことだ。

 しかし、エリツィン、クラフチュク、シュシケビッチによる違法行為を克服するための代替案がないように思われたため、この既成事実化によって他の共和国もすぐに追随するようになった。

 クリミアに関しては、ウクライナのソビエト連邦からの分離独立は違法かつ無効であり、法的効力を持たないため、したがって国民国家としての地位は疑問であり、したがってクリミアに対する主張も疑問であると主張することができる。しかし、これで問題が終わったわけではない。クリミアはエカテリーナ2世の時代からロシアの一部であり、1954年にフルシチョフ首相がクリミアをウクライナ・ソビエト社会主義共和国に譲渡したのは、あくまで行政上の理由であり、それは、ウクライナがソ連邦内のソビエト共和国であり続けるという条件にすぎない。

 1954年の政令にはこう記されている、

 「経済の一体的性格、領土の近接性、クリミア州とウクライナ・ソビエト連邦の密接な経済的・文化的関係を考慮し、ソビエト連邦最高会議常任委員会は、次のように決議する:

 「クリミア州のロシア連邦からウクライナ・ソビエト連邦への移管に関するロシア連邦最高会議とウクライナ・ソビエト連邦最高会議の共同発表を承認すること」。

 現在、ロシアの法学者の中には、この行為は当時のソ連法では違法であったという立場をとる者もいる。 しかし、いずれにせよ、クリミアのウクライナへの移管は、ウクライナ・ソビエト連邦の一部としてソ連に残ることが明確な条件であり、主に当時の管理のしやすさのために行われたことは事実である。クリミアは、ウクライナがソ連から離脱することを選択した場合に、永久的に贈与されることを意図したものではなかった。クリミア人がウクライナとソビエト連邦のどちらに留まることを望んでいるかという問題についてのクリミアでの住民投票の実施をウクライナが拒否したこと、ウクライナのソビエト連邦からの違法な分離独立、クリミアはソビエト連邦から離れた場合ウクライナの支配下に置かれることを意図していなかったという事実と合わせて、クリミアに対してウクライナは何ら正当な主張を持っていないということができる。

 したがって、ルー大使の発言は完全に正しく、旧ソビエト連邦の共和国の法的地位全体が問題であり、実際、ソビエト連邦の解体自体がソ連法上違法であり、法的には行われなかったのだから、1977年憲法によればソ連はまだ存在していると指摘したのである。ロシアではよく「ソ連を懐かしまない者には心がないが、ソ連を再建しようとする者には頭がない」と言われることがある。しかし、ソ連がきちんと解体されたことはない、と答えることもできる。

 しかし、歴史は進み、事実上、これらの国家は現在存在し、内部的にも外部的にも承認され、法、協定、条約の組織を構築し、現状を固める関係を確立することで、その存在を固めてきた。しかし、それは砂の上に築かれたとみなすことができる現状であり、1991年以来、いくつかの旧ソ連諸国で目撃されてきたように、違法性は常に結果をもたらすからである。

 ルー大使のパリでの発言に対する欧米の怒りは、欧米自身の不安と弱さを反映している。彼らは彼が正しいことを知っている。彼らの怒りと反応は、彼の発言を闇に葬り去ろうとするものであり、検証や考察をすることはできない。ルー大使は事実を述べたが、その事実は彼らを震え上がらせた。なぜなら、自分たちが建てた建物全体が崩れ落ちることを恐れているからだ。


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