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スフミは永遠に失われるのか? ジョージアの若者達よ、目を覚ませ。

<記事原文 寺島先生推薦>

Farewell, Sukhumi
Georgian protesters unwittingly imperil their nation's survival

さらば、スフミ
ジョージアのデモ隊は、知らず知らずのうちに国家の存続を危うくしている。

筆者:スコット・リター(Scott RITTER)

出典:ScottRitterExtra.com

2023年3月13日

<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>

2023年4月20日

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ジョージア人、外国人代理人登録法案に抗議(2023年3月)


 「ソクミ!」「ソクミ!」「 ソクミ!」

 ジョージアの首都トビリシの国会議事堂前のルスタベリ広場に集まったジョージアの若者たちの群衆から、その叫び声が響き渡る。スフミ(ソクミはジョージア語の発音)はアブハジア共和国の首都で、1年にわたる戦争の末にジョージアから分離した地域である。その戦争では双方で数千人の死者を出し、数十万人のジョージア人が家を失っている。

 「ソクミ!」「ソクミ!」「 ソクミ!」

 この言葉は、他のアメリカ人よりも私の心に響いた。私の妻はソクミで生まれ育った。1991年の夏、私は妻に結婚を申し込むためにソクミを訪れ、成功した。

 スフミは、妻の両親が出会い、結婚し、一緒に人生を歩んできた場所であり、家族を育てながら地元の大学で教える仕事を続けてきた場所だった。

 妻の父、ビジナは、スフミの亜熱帯農学研究所の他の男性教員とともに、62歳でジョージア軍に徴兵され、都市から南に向かう戦略的橋の警備を任務とする部隊に所属した。彼は、仲間とともに橋を守り抜いたが、そのときに大砲攻撃で耳が聞こえなくなり、最後には空爆で背中に傷を負った。

 1993年9月下旬、ビジナはジョージア防衛軍から街を奪取したアブハジア反乱軍の殺人的な怒りから逃れるために、難民の最後の一波が橋を開けるのを、負傷していたにもかかわらず、仲間の学者たちを助けて最後まで橋を守り抜いた。彼は弾薬を使い果たした後になってやっと自分の持ち場から退き、残骸のような人々の列に加わった。そして山々を越えて安全な場所へと逃げる長い道のりを歩いた。

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1993年9月27日、アブハジア軍に降伏したジョージア軍と、同日中に処刑された後の彼らの遺体。

 妻の実家は、殺されたり、命からがら逃げ出したりした何十万人もの人たちとともに、戦勝国のアブハジア軍に占領されてしまった。

 ビジナは、戦時中の体験をほとんど語らなかった。一度だけ、スフミ撤退時のことを話してもらったことがある。女や子供たちが夜着のまま逃げ惑い、避難した山々を覆う新雪の中で命を落としたことだった。

 ビジナは、凍えた母親が子供を抱きしめて、すでに命のない体に温もりを与えようと必死になっている姿に出くわしたこと、孤児になったばかりの幼児を腕に抱えていたこと、そして、一人では抱えきれないほどの数の幼児に出くわしたことを話した。ある人を救うためには、ある人を為す術なく運命に任せなければならないという、言葉では語れない苦痛を彼の目の中に見たことは当時も今も私を苦しめる。

 彼が孫娘たちを抱きしめたのには理由がある...。

 「ソクミ!」「ソクミ!」「ソクミ!」

 この言葉を唱えた人たち以上に、私はあの街、そしてアブハジア全体が失われたことによる苦しみを知っている。なぜなら、何十年もの間、戻ることを許さない敵によって、妻の家族が自分たちの人生のために働いてきたものが見捨てられたという事実を知り、苦しんでいるのを見てきたからだ。ビジナとその妻ラマラは、自分たちの祖国アブハジアから何千マイルも離れた場所で亡くなり、自分たちを受け入れてくれたことに感謝しながらも、祖国ではない、そして決してそうはなれない国の異国ジョージアの土の下に埋葬されることを宣告された。

 「ソクミ!」「ソクミ!」「ソクミ!」

 この怒れるジョージア人の若者たちが、政府に対して「征服されていない」ジョージアを自国の支配下に戻すよう行動を起こすよう要求しているのを見て、私の目の前で展開されている光景は何かおかしいと思った。彼らの感情が混ぜ合わされたスープには見えない成分があったからだ。そして、その成分は私の国であるアメリカ合衆国であった。



 国会議事堂の前で怒れるジョージアの若者たちを集めたデモは、スフミの解放に関する行動の呼びかけから始まったのではなく、外国から20%以上の資金を得ているメディアや非政府組織に対して、外国の影響力を持つ代理人としての登録を義務付けるという法律案に抗議するためだった。この法律は、1938年に制定された米国の外国代理人登録法(FARA)をモデルとしており、外国政府や政治団体のために米国内でロビー活動を行う場合には、その旨を公表することを義務付けている。

 この法律が成立すれば、ジョージアのNATOやEUへの加盟という目標が妨げられることになると、この法律の批判者たちは断言した。

 外国人工作員法案の現実的な結果は、ジョージアの政治と統治が外国の資金と影響力でどの程度蹂躙されているかを明らかにすることであった。しかし、脅威はロシアからではなく、むしろアメリカからだった。アメリカは、国際開発庁(USAID)を通じて毎年送られてくる4000万ドルの援助金を使って、ジョージアの現政権を、ジョージアではなくアメリカの目標や目的(ロシアに対する「第二戦線」の確立を含む)に従順な政府に置き換えるための「ソフトクーデター」なるものを行っているのである。

 USAIDの監督責任者であるサマンサ・パワーによれば、これらすべては「表現の自由、報道の自由、欧州大西洋統合への道を持つ国」を作るために行われるものだという。

 しかし、彼女が本当に言いたいのは、反対意見を「偽情報」として弾圧し、メディアを国家主導のプロパガンダとして利用し、ジョージアが米国主導のNATO勢力圏に吸収されるのを邪魔するような政治家や政党を権力から排除する国である。

 ジョージアの首相であるイラクリ・ガリバシヴィリは、ロシアとの戦争の拡大を望んでおらず、特にジョージアを紛争に巻き込むような戦争は望んでいない。

 そのため、サマンサ・パワーとUSAIDの手下たちは、ジョージアの首相を解任し、アメリカが支援するジョージアの大統領、サロメ・ズラビシヴィリと同じ親米派から作られた反ロシア(つまり戦争推進)指導者に交代させる必要があると考えている。

 これを達成するために、USAIDは、草の根段階の「多様性」に力を与え、「偽情報に対する社会の耐性」を築くという名目で反対意見を抑圧し、選挙過程を掌握することによって、ジョージアの社会と政治を「下意上達」で変革することを目的とした事業計画に資金を提供し、地方選挙、ひいては全国選挙で米国の支配する「多様性」運動が優位に立てるようにするのだ。

 ジョージアの外国人工作員法案は、これらのUSAIDが資金提供した事業計画や、その他の関連する米国やEUが資金提供した活動が、ジョージア社会にどの程度浸透しているかを暴露することになっただろう。そのため、米国は有償の活動家を動員して街頭に立ち、ジョージアの首相に公共の安全のためにこの法案を撤回するよう迫った。

 元最高裁判事のルイス・ブランデイスは、「日光は最高の消毒剤であると言われている」という有名な言葉を残しているが、これは、民主主義は完全な透明性のある雰囲気の中で繁栄することを意味している。

 サマンサ・パワーとUSAIDが、自分たちの活動がジョージアの主権をどれほど堕落させたかについて、日光が当たることを望まないという事実は、アメリカが資金提供する「ソフトパワー」という病気が、ジョージアの国家にどれほど感染したかを証明するものである。

 ジョージア国民は、アメリカ病感染に対する抗体を作っていると思われる。というのも、ジョージア国民は、2008年8月、短時間ではあるがロシアとの激しい戦争を経験したからだ。この戦争は、NATO加盟の前提条件としてロシアと軍事的に対決せよというアメリカの呼びかけにより始められたものであった。ロシアと対決せよという司令は、2008年7月9日にライス国務長官(当時)がジョージアを訪問した際に、サーカシュヴィリ前大統領に伝えられたものである。この訪問の目的は、ジョージアのNATO加盟の見通しについて話し合うことであったが、その際、米国の上級外交官は、ジョージアの「領土保全」を支持することを公言した。

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詳しくはこちらをご覧ください。

 2008年7月のライス長官の訪問まで、サアカシュヴィリはロシアのメドベージェフ大統領と定期的に会談し、アブハジアと南オセチアの分離独立地域をジョージアの主権に戻すという問題について、交渉による解決の可能性を話し合っていた。ところが彼はライスとの会談の直後、メドベージェフとの連絡をすべて打ち切った。

 ライスがサアカシュヴィリにロシアとの軍事衝突をどの程度促したかは、議論の余地がある。米国務省は、ライスがサアカシュヴィリに対して、ロシアに対して早まった行動を取らないように注意したと主張し、この、ジョージア元大統領は、ライスが行動を起こす許可を与えたと主張している。

 しかし、8月7日の朝、サアカシュヴィリがジョージア軍を南オセチアに投入したとき、アメリカはライスの指示を軍事力で裏付けることはしなかった。ジョージア軍の侵攻とロシアの反応の後、ホワイトハウスの状況報告室で開かれた緊急会議では、ジョージア軍の支援活動を行うよう米軍に求める参加者もいた。具体的には、南オセチアと北オセチアをつなぐロキ・トンネルの爆撃することなどだ。このトンネルを通じて、ロシアは反撃を支援するための兵員と物資を送っていたのだ。しかし、当時のスティーブ・ハドリー国家安全保障顧問は「我々はジョージアを巡ってロシアと戦争する準備ができているか」という直截な質問で部屋を沈黙させている。

 その答えは「No」だった。

 ジョージアにとってこれは飲み込み難い苦い薬だった。すでにジョージア側は、9-11後のイラクやアフガニスタンの戦争でアメリカを支援し、アメリカへの忠誠のための血の代償として、35人の死者と300人の負傷者を出していたからだ。

 これに今、180人の死亡した兵士とさらに1,174人の負傷者を加えなければならなくなったのだ。ロシア軍は、ジョージア側をたった5日間で敗北させ、即座にジョージア人を南オセチアからジョージア本土に押し込み、首都トビリシのすぐ外で停止した。

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トビリシへの道を行くロシア軍戦車(2008年8月)


 アメリカには、自国の目的のためにジョージア人を死なせる心づもりが十分ある。ジョージアから見れば何の脅威にもならないはるか遠くの大地で死のうが、アメリカの地政学的野心を追求するためにジョージアの土地で死のうが、そんなことはお構い無しだ。

 しかし、ジョージアを守るために、アメリカ人の命を一人でも犠牲にするつもりは微塵もない。

 サマンサ・パワーやコンドリーザ・ライスのようなアメリカの高官たちの頭の中では、ジョージアはアメリカの主人の言いなりになるためだけに存在しているのだ、ということだ。

 ジョージアの若者たちは、トビリシのルスタベリ広場で夕暮れ時に「ソクミ!」「ソクミ!」「ソクミ!」と叫んでいるが、彼らは自分たちとアメリカ人の間にある種の友愛の絆が存在するという誤解の下で頑張っているのだ。

 彼らは、これ以上ないほど間違っている。

 アメリカ人がジョージアとジョージアの文化について知っている範囲では、かれらの「知識」はジョージア料理と踊りの表面的理解に限られている。それは、私が「5つのK」と呼んでいるものに要約できる。Khinkali(ヒンカリ)、Khachapouri(ハチャプーリ)、Khvanchkara(フヴァンチカラ)、Kartuli(カルトゥーリ)、Khoroumi(ホロウミ)である。

 ヒンカリ(ジョージア風餃子)は、ロシアやジョージアのレストランの主食で、ねじった生地にひき肉(伝統的には羊肉だが、牛や豚も混じる)、タマネギ、チリペッパー、塩、クミンを詰めて作る人気の前菜である。火を通していない肉を生地に包んでから煮るため、煮ると香ばしい出汁が出る。ヒンカリの愛好家は、生地からスープを上手に吸い取る方法を心得ていて、中のスープがバラバラにならないように食べ、ねじれた結び目を皿に残すことで、正しい食し方を征服できた証としている。(そこだけは食べることができないからだ*)。
*ねじれた結び目は厚くて火が通っていないことが多い。

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キンカリー(左)とアジャリアン・ハチャプーリ(右)

 ハチャプーリとは、ジョージアの美味しいチーズパンのことで、ジョージアのどこで作られているかによって、様々な種類がある。アジャリアン・ハチャプーリは、厚い舟形のパンにチーズを挟み、その上に卵を乗せたもので、とても人気がある。妻の実家では、イメルリ・ハチャプリという、2枚の薄い生地の間にチーズを挟み、ピザのような皮の中にバターとチーズの風味を閉じ込めた、食べると旨味が溢れ出すようなピザにこだわる。このように、さまざまな変化形がある。

 そして、ヒンカリとハチャプリというジョージアの高級料理を洗い流すには、ジョージアの半甘口の赤ワイン、フヴァンチカラの瓶が最適だ。ワイン製造所のある村にちなんで名付けられたフヴァンチカラ・ワインは、1880年代にジョージアの貴族だったドミトリー・キピアニが完成させた製法に由来する。彼は1907年に、当時「キピアニ・ワイン」と呼ばれていたワインをヨーロッパのワイン祭りに出品し、金賞を獲得した。1927年、キピアニのワイナリーは新しい経営者に引き継がれた(当時はソ連時代で、貴族は公然と嫌われる時代だった)。新しいワイン製造所は「フヴァンチカラ社」と名付けられ、キピアニの伝統を受け継ぎ、名前以外はすべて前任者のものと同じワインを生産した。

 キピアニ・ワインは、若いゼミ生から革命家に転身したイオゼブ・ジュガシヴィリ(後にヨシフ・スターリンの名でよく知られている)の目に留まり、フヴァンチカラとして再登場すると、スターリン(それから3年後にはソ連指導者になっていた)はお気に入りのワインとして、あらゆる食事や行事にこのワインを提供した。現在、フヴァンチカラは、受賞歴のあるワインとしてよりも、かつてこのワインを飲んだ人物の名声によって知られている。

 ジョージア国立バレエ団(旧ジョージア国立舞踊団、1945年にイリコ・スキシヴィリとニノ・ラミシヴィリによって結成された)は、ジョージアの伝統的な舞踊を世界に輸出する主要な輸出者として機能している。公演に参加するほとんどのジョージア人以外の人々の心の中で、特に2つのダンスが際立っている。まず、伝統的なジョージアの結婚式の踊りは、カルトゥーリという名で知られている。ジョージアの女性と男性それぞれを特徴づける優雅さと騎士道の組み合わせが公演全体を通して表現され、演技者は舞台を滑るように移動し、見る人すべてを魅了する。

 しかし、最も魅了されるのは、ジョージアの武術の伝統から生まれた伝統的な踊りであるホロウミ・ホロウミ、とりわけ、劇的な締めくくりの剣の踊りである。また、グルジア国家の悲惨な現実を読み解くことができるのも、ホロウミの起源からである。

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ジョージア国立バレエ団による「ホロウミ」公演

 ホロウミは、アナトリア北東部に位置する紀元前8世紀の部族連合であるディアオクと、ギリシャ神話でジェイソンとアルゴノーツが目ざした場所として知られ、メデアとゴールデン・フリース(金羊毛)の故郷であるコルキスの歴史に由来している。古代ディアオクは現在のアルメニアの前身であるウラル人に敗れ、コルキスはペルシャ人、アルメニア人、ローマ人の相次ぐ侵略に屈している。

 歴史は、古代グルジア(ジョージア)人に、ホロウミの決定的な瞬間となった勝利の剣の踊りを踊る機会を多く与えなかったというのが現実である。

 興味深いのは、ジョージア国立バレエ団で人気のあるホロウミの形が、アジャリア、ラズ、グリアで人気のある踊りから引き出された融合物であることだ。

 アジャリアは、トルコと国境を接するジョージアのイスラム教徒が多い地域で、黒海沿岸のジョージアの主要な港町であるバトゥミがあるところだ。かつてオスマン帝国領であったアジャリアは、1876年から1878年のトルコとの戦争の後、ロシアに奪われ、1918年にオスマン帝国に奪還され(その後1921年にトルコに奪還)、その後、カルス条約によりグルジア(ジョージア)・ソビエト社会主義共和国に編入されたが、その第6条には、トルコがアジャリアの自治を保証することが書かれている(現代のジョージア民族主義者はこのことを心に留めておくべきだ)。

 ラズ族は、コルキスに起源を持ち、現在のトルコのトラブゾン地方に定住したジョージア系民族で構成されている。ビザンティンの下で適度な自治権を与えられたラズ族は、最終的に断続的に続いていたジョージアの公国や王国に吸収され、その間にジョージアの文化的特異性を刷り込まれたが、それは17世紀にオスマン帝国に占領される前のことである。その後200年間、ラズ族はオスマン帝国の支配に抵抗し、ジョージアの遺産を守るために戦い、19世紀半ばにようやく鎮圧された。現在、ラズ族は主にトルコに居住しており、彼らの言語と文化的独自性は、絶滅の危機に瀕している。

 アジャリアの北には、ジョージアのグリア地方があり、何世紀にもわたって、多くの試練と困難があったことが知られている。17世紀には、グリアの王子たちは、オスマントルコの主人に56人の若い女の子と男の子を毎年貢ぐことを余儀なくされた。そして、1876年から1878年にかけてのロシアとオスマントルコの戦争では、グリアは最前線として機能し、廃墟と化した。グリアは、ジョージア全土の中で最も民族的に均質な地域とされ、強い民族意識につながったが、それが破滅的な結果を招いた。

 グリアの農民は、1902年にロシアの貴族に対して反乱を起こし、1905年にも反乱を起こしたが、ツァーリによって派遣されたコサックによって虐殺され、屈服させられた。1918年から1921年まで、グリアは再び主導的な役割を果たし、短命であったグルジア民主共和国の創設に貢献したが、赤軍によって粉砕され、グルジア・ソビエト社会主義共和国へと変貌した。

 グリア人は、北に2つの他のグルジア民族であるスヴァン族とミングレリア族に隣接している。スヴァン族は、ジョージア北部の山岳地帯に定住し、ミングレリア族は、グリア北部の谷と平野を占領している。スヴァネッティとミングレリアは、グリアと同様に、グルジア民族主義の温床と考えられている。1989年の夏、ゼモ・スヴァネティの山岳地帯から上半身裸で現れ、少数民族アブハジア人の不安を抑え込むためにスフミに向かって行進したのがスヴァン人だったことはよく知られている。

 そして、ジョージア民族主義の父と言われ、1991年のソ連からの独立後、ジョージアの初代大統領を務めたのが、ミングレリア人の学者、ズヴィアド・ガムサフルディアである。ソビエト連邦崩壊後、ジョージアの主権と領土保全のために南オセチアの独立を暴力的に抑圧しようとしたのは、ガムサフルディアの指導下であり、2008年にジョージアがロシアと短期間で悲劇的な戦争をするきっかけとなった。

 今日、トビリシには若いジョージア人の群衆が集まり、「ソクミ」「ソクミ」「ソクミ」と叫んでいるが、その行動は、ジョージア政府が武力でアブハジアを奪還し、それによってロシアとの第二戦線を開くというNATO主導の大きな目的を達成するように誘うものだ。しかし、歴史を見てみると、それは彼らがグルジアの民族主義的軍事力に対する懐古に浸りすぎないように、すべてが見かけどおりになるとは限らないことをはっきりと思い出させてくれる。

 1993年9月、スフミの命運がかかっていたとき、ジョージアのアブハジアへの援軍を運ぶ列車を封鎖して武装解除し、スフミ守備隊と彼らが守る民間人を敗北に追い込んだのは、ガムサフルディア派のロティ・コバリアが率いるミングレリア民兵である。

 1993年10月、スフミの陥落後、命からがら逃げていた何万人ものジョージア難民は、ゼモ・スヴァネティの山々を進まければならなかった。そこでは、かつてのスヴァン同盟者の武装ギャングが道路封鎖を行い、ジョージア人が必死で何とか持ってきたあらゆる財産を奪い、雪に覆われたコドリ峡谷へと彼らを送り出し、多くの女性、子供、高齢者が寒さや飢餓のために命を落とした。

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アブハジア軍から逃れ、山を越えるスフミのジョージア人難民(1993年10月)

 私の妻が生まれ育ったアブハジアの首都スフミは、もはやジョージアの支配下にはない。そう、ロシア、チェチェン人、アルメニア人、その他の北コーカサス民族の支援を受けたアブハジア民兵が、何千人ものジョージア市民の虐殺と、私の妻やその弟、両親を含む20万人以上の民族浄化につながる攻撃を実行したのである。

 確かに言えることは、ミハイル・アンドレイエヴィチ・ススロフのようなソ連の思想家たちの政策が、アブハジアや他の北コーカサス民族の分離主義的な想像力を育んで成長させ、新生ジョージアの民族主義に対抗するものにしたことだ。

 しかし、1992年から93年にかけてのアブハジア紛争の起源は、ジョージア人の民族主義の行き過ぎにも行き着くことができる。具体的には、ジャバ・イオセリアニの準軍事組織ムケドリオニ(「ホースメン」)という犯罪組織である。1992年8月、エドゥアルド・シェバルドナゼはその組織をスフミ市に解き放った。その結果、ジョージアとそのアブハジア少数民族の間の政治論争だったものが内戦に変化し、最後はジョージアの敗北で終わった。

 私の目には、ジョージア人がジョージア人を裏切るというのが主題のように映る。1993年にジョージアがスフミ市を含むアブハジア領を失った時もそうだったし、いまジョージアが必死に努力して、ロシアを挑発し、勝てることのない戦争への道をレミング*のように行進しているように見えることもそうだ。そんな戦争が起こってしまえば、ジョージアは真っ当な近代国家として生き残れないだろう。
*ネズミに似た、小型の齧歯類の総称。繁殖が極に達すると海に向かって「集団自殺行進」をすると言われる。

 ジョージアの勇敢な息子や娘たちよ、スローガンを唱え、ヒンカリやハチャプーリを食べ、クフヴァンチカラを飲み、女性がカルトゥーリを踊るのを見て、ホロウミの男らしいドラマに酔いしれろ、というわけである。

 しかし、ホロウミは、栄光への野望が、常に、そして必然的に、より大きな隣人の力によって打ち砕かれた敗北した人々の踊りであることを心に留めておいてほしい。

 ロシアはより大きな隣人である。



スコット・リッターは、「査察官に聞く」の第53話で、この記事について議論し、視聴者の質問に答えます。

 ジョージアの若者たちは、次のことを考えたほうがいいだろう:ジョージアの生活におけるヒンカリとハチャプーリの役割や、フヴァンチカラに凝縮されているジョージアのワイン製造の歴史、カルトゥーリの社会の複雑さ、そしてホロウミの背後にある辛い歴史を理解できるアメリカ人は、かりにいたとしても、ほんの少数だ。

 多くのアメリカ人にとって、それは単なる食事とワイン、そして面白いダンスに過ぎない。

 これが、あなた方ジョージア人が未来を賭けている社会の現実であり、アメリカはあなた方のことなど気にかけていない。

 アメリカ人は、あなたのことが好きでもない。私たちアメリカ人は、貴国の食べ物やワインをかろうじて許容し、貴国の文化を単なる好奇心として見ているだけだ。

 歴史を見ても、我が国民が貴国のために死ぬことは絶対にないことが明らかだ。

 あなた方は、我が国の地政学的な大きな目標や目的のためにのみ存在する。

 あなた方は、米国がロシアの周辺に設置しようとしている「不安定な地域」の一部に過ぎない。

 ジョージアにおけるアメリカの目的は、地域の不安定さを生み出すことだ。その代償を払うのは誰なのか。

 アメリカではない。

 ジョージアだ。

 ジョージアはウクライナの縮小版であり、アメリカの「不安定な地域」のもう一つの歯車なのだ。

 そのことを念頭においてほしい。あなた方がロシアに対して第 2 戦線を開くというアメリカ主導の目標に向けて行動するときには。

 ウクライナの運命に思いを馳せてください。

 何十万人ものウクライナ人の死者について考えてみてください。

 数千万人のウクライナ人が家を失い、ホームレスになっていることに思いを馳せてください。

 ウクライナの生活基盤が受けた1兆ドル以上の損害について考えてみてください。

 ウクライナの領土が永久に失われたことを忘れないでください。

 ウクライナは、その前のアフガニスタン(その前の南ベトナム)と同様、最終的には、良き「友人」であるアメリカ人によってその運命に見放されることになるという事実を覚えておいてください。

 そして、ロシアが1年でウクライナに行ったことは、ジョージアに対してなら1ヶ月以内に達成できることを理解したほうがいい。

 ジョージアはアブハジアと南オセチアを永久に失うだろう―永遠に。ロシアは、ゴリやクタイシと一緒に、念のためにポチを取るかもしれない。当然だろう。ジョージアがロシアにとって恒久的な軍事的脅威となることを望むなら、ロシアはその脅威を恒久的に除去しようとせざるを得なくなるからだ。

 ジョージアが解体され始めると、トルコはアジャリアを手に入れるかもしれない。これはいい加減な推測ではない。トルコのエルドアン大統領は、歴史的に見てトルコにはバトゥミの領有権があると発言しているからだ。その根拠となっているのは、1920年のアッタチュルクの「国民契約」(ミサク・イ・ミリ)、つまりオスマン帝国後のトルコ共和国建国の条件を定めた条項だ。

 ジョージアの分割が始まれば、米国、欧州連合(EU)、NATOのいずれもが、それに対してできること、することはない。

 ジョージアは、存続可能な近代国家として存在しなくなる。

 これは間違いない。

 なぜなのか? もう一度、ジョージアの人々に言っておくが、アメリカは君たちを嫌っている。

 我が国は友人ではない。

 我が国は君たちを利用しているのだ。

 利用し終わったら、見捨てる。

 これを読んでいるジョージア人の皆さんには、次のようなことを考えてもらいたい:

 ロシア人女性が、ヒンカリを作る生地をこねるという忍耐力のいる作業をジョージア人女性と同じようにできるのは、ロシア人女性には、ジョージア人の友人や親類がいるからだ。その人たちと一緒にヒンカリを作って大人になったからだ。ロシアとジョージアの間にそんな社会的繋がりがあったからこそだ。

 ロシア人女性が、さまざまな種類のハチャプリの複雑な作り方を理解できるのは、ジョージアで休暇を過ごしたことがあるからだ。地域によって異なるジョージア料理の愉快な変種をたくさん知っているからだ。

 ロシア人男性がヒンカリのてっぺんを食べ残せたり、一切れのハチャプリをがっつくのは、ジョージアの料理を食べることは、彼らにとって後天的に身につけた習慣のようなものだからだ。ずっとそうしてきたからだ。ジョージア料理は、彼らにとって外国料理ではなく、自国料理なのだ。なぜなら、ロシアの有名な都市にはどこにも、少なくとも1つのジョージア料理レストランがあるからだ。そして、ロシア人男性たちができることは、ジョージア料理を前に、フヴァンチカラを啜り、料理の香ばしい一口を逃さないよう注意しながら、スターリンの遺産について微に入り細にわたって熱く語り合うことだ。そんなことができるのは、ロシア人とジョージア人は、共有する遺産の中で育ってきたからだ。

 ジョージア人とロシア人は、大祖国戦争で共に血を流した。

 ジョージア人とロシア人は、収容所で共に苦しんだ。

 ジョージア人とロシア人は、同じ大学で共に学んだ。

 ジョージア人とロシア人は、結婚し、共に家庭を築いた。

 ロシア人はカルトゥーリやホロウミを鑑賞し、同様にジョージア人は白鳥の湖やくるみ割り人形組曲を鑑賞してきた。そうやって、両者はお互いの、文化的、歴史的重要性と関連性を持ってきたのだ。足の動きや立ち振る舞い、舞台での動きの中でそれらを感じてきたのだ。それは両者にとっての共有文化だったのだ。

 1829年、ロシアの詩人アレクサンドル・セルゲイビッチ・プーシキンは、プロポーズを断られた後、「ジョージアの丘の上で」を書いた。ロシア軍に入隊し、ジョージアに派遣された彼は、コーカサス山脈南部の麓、アラグヴィ川のほとりで、叶わぬ恋を歌ったこの名詩を書き上げた。

  ジョージアの丘に暗黒が降り注ぐ、

  アラグヴァの咆哮が聞こえる。

  悲しくて軽い、私の悲しみは―透明だ、

  私の悲しみは、あなたで満たされている、

  あなたと、あなただけと―私の憂鬱は

  手付かずの状態で残っている、

  そして、もう一度、私の心は燃え上がり、愛する

  そうすることしかできないからだ。

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ジョージア・トビリシにあるアレクサンドル・プーシキン(左)とミハイル・レルモントフ(右)の銅像

 プーシキンは、ジョージアを知り、理解していた。彼は、ジョージアの詩人ショタ・ルスタベリを読んだことがあり、その詩人を基盤にして、グルジアの美しさの中にある、悔いなき愛についての詩を書くことができたのだ。そして同時に、その詩は、多くの人によってロシアの真の魂を表していると認められるようになったひとりの男によって語られたものなのだ。

 プーシキンの言葉は、同じくジョージアに滞在したロシア人将校で、「コーカサスの詩人」と呼ばれるようになったミハイル・ユーリエヴィチ・レルモントフなど、他のロシアの作家にも霊感を与えた。

 私が言いたいのは、ロシア人はジョージアを知っているということだ。ロシア人はジョージアを理解している。ロシア人はジョージアを愛している。

 ロシアとジョージアの間には様々な困難があるが、ロシアはジョージアにとってアメリカよりも良い友人であり、今後もそうであろう。

 「ソクミ!」「ソクミ!」「ソクミ!」

 ジョージアの人々は、アメリカの友好という幻想に誘惑され、スフミへの道はワシントンDCとブリュッセルを通ると信じ込んでしまったのだ。

 私は、ジョージアの愚かな若者たちが、自分たちの知らない、そして自分たちの愚かな行動のために、これからも知ることのない都市の名前を唱えるのを悲しみながら見ている。そして、彼らの愚かな言葉を聞きながら、ジョージアが方針を変えない限り、私と家族は、ジョージア全土とともに、私たちが知っていて愛している街に別れを告げなければならないことを理解している。なぜなら、ジョージアがロシアに対して第二戦線を開くならば、スフミは永遠に私たちから失われることになるからだ。

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アブハジア反乱軍とその同盟軍によるスフミの陥落(1993年9月27日)
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