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安倍晋三はなぜ暗殺されたのか: そこには「欧州合衆国」と国際連盟樹立を目指す構想がある

<記事原文 寺島先生推薦>

Why Shinzo Abe Was Assassinated: Towards a ‘United States of Europe’ and a League of Nations

筆者:シンシア・チャン(Cynthia Chung)

出典:the Saker ブログ

463 画像   

2023年02月06日

<翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>

2023年4月12日

 本稿の前編である拙稿「日本は米国の<アジアへの軸足>の犠牲になって、自らの首を絞めるつもりなのか」で既に述べたように、日本は世界経済にとって時限爆弾となったのである。

 これは日本にとって予期せぬ結果ではなく、三極委員会*の政策展望(ただし、この三極委員会に限ったことではないが)として過去50年来、仕組まれていたことである。実際、国際連盟の構想は、第一次世界大戦を始めた人々が望む項目のひとつに載せてきたものである。彼らは、世界が地域化され、帝国に奉仕する一つの世界政府を受け入れることを期待していた。イタリアやドイツに見られた「国家社会主義」的なファシズムの台頭を通じて、国際連盟という構想を再び実現しようとしていたのが世界恐慌を画策した勢力だったのである(この構想の実現は、経済危機がなければ不可能だった)。そして、そのような構想を世界に強引に導入しようとする絶望的な試みのために、第二次世界大戦が始まったのである(詳しくは、こちらこちらを参照)。
* 三極委員会は、国際社会における日本・北米・欧州の協同を促進する為に設立された非営利の政策協議組織である。世界各国から著名な政治家、官僚、財界人、学者、メディア企業取締役などが参加する。 発足時の名称は「日米欧三極委員会」。


 このような構想を実現するために、民主主義者を自称する人々は、しばしばファシストを自称する人々と同居することになったのである。

 汎ヨーロッパ主義の父であるリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵(たまたま親ファシストでもあった)は、1943年の自伝『汎ヨーロッパのための十字軍』の中でこう書いている:

「反ファシストたちはヒトラーを憎んでいた...しかし彼らは...ヒトラーの成功への道を切り開いた。反ファシストたちは、ヒトラーの最強の敵であったムッソリーニを、1933年と1934年の間にヒトラーの最強の味方に変えることに成功したのだから。私は、イタリアとスペインの反ファシストたちの、冷酷な政敵に対する勇敢でごく自然な戦いを責めるつもりはない。しかし、私は民主的な政治家、特にフランスの政治家を非難する。彼らは、ムッソリーニがヒトラーの同盟者となる前から、ムッソリーニをヒトラーの盟友として遇していたのだ。」

 カレルギーや、同様の血統を持つ多くの「エリート」によれば、ファシストによる汎ヨーロッパ支配が起こることは必然であり、カレルギーはこの「必然」に対する反ファシストや民主主義者の抵抗を明確に軽んじていることを表明した。カレルギーからすれば、ファシズムへの移行に対する反ファシストや民主主義者のより「平和的」な抵抗のために、ファシズムが暴力的な力で押しつけられなければならない状況を作り出してしまったというのである。これらの国々が単に「民主的」な条件でファシズムを受け入れていれば避けられたかもしれない悲劇であったとカレルギーは見ている。

 リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵は、もう一つの自伝『ある思想が世界を征服する』の中でこう書いている:

プロパガンダのための集団催眠術の使用は、危機的状況にあるときに最も成功する。当時、中流階級の家庭はプロレタリアート(賃金労働者階級)に、労働者階級の家庭は仕事がない状態にまで落ち込んでいた。第三帝国は、取り残された人々、社会的地位を失った人々、そして無意味になった自身の存在に新しい基盤を求める根無し草の人々の最後の希望となった...。

 ヒトラー運動の経済的背景は、ヒトラーの2つの革命が、ドイツの2つの大きな経済危機、すなわち1923年のインフレと1930年代初頭の不況、そしてその失業者の波と重なったことを思い起こせば明らかである。その間の6年間は、ドイツにとって比較的豊かな時期であったが、ヒトラー運動はほとんど存在しなかった。(強調は筆者)とある。

 汎ヨーロッパ主義の父であり、EUの精神的父であるリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵は、オーストリアやイタリアのファシズム、さらにはカトリックのファシズムをよく語っていたため、彼の上記の引用は不気味さを増している。カレルギーは、ドイツに2度の極端な経済危機がなければ、ヒトラーの台頭はあり得なかったと認めている。問題は、これらの危機が有機的に発生したものなのか、それともむしろ計画されたものなのか、ということである。

 カレルギーは、1954年の自伝『思想が世界を征服する』の中で、「ヒトラーの人気が、主にベルサイユ条約に反対する狂信的な闘いにあったことは間違いない」と書いている。

 カレルギーが歩んできた政治的な系譜を見ると、マックス・ウォーバーグ、ルイ・ロスチャイルド男爵、ハーバート・フーバー、フランク・ケロッグ国務長官、オーウェン・D・ヤング、バーナード・バルーク、ウォルター・リップマン、ハウス大佐、タスカ・ブリス将軍、ハミルトン・フィッシュ・アームストロング、トマス・ラモント、ヒューズ判事といった人々が、ヒトラー台頭の疑問を解くヒントになっている。これらの人物はすべて、カレルギーが自伝の中で、アメリカにおける彼の支持基盤として直接名前を挙げている。彼らはカレルギーが提唱する汎ヨーロッパ主義、別名「ヨーロッパ合衆国」を断固として支持し、国際連盟構想の強固な支持者であり、パリ講和会議(1919-1920)の設計者であった。その講和会議によるヴェルサイユ条約が、ドイツに極度の経済危機の第一波をもたらしたのである(この話の詳細については、こちらをご覧ください)。

 前回の論文、「日本は米国の<アジア基軸>の犠牲になって、自らの首を絞めることを望んでいるのか?」では、三極委員会の究極の目的は、極端な構造改革を推し進めるために経済危機を引き起こすことであったと論じた。

 金融専門家で歴史家のアレックス・クレイナーはこう書いている

「三極委員会は1973年7月、デビッド・ロックフェラー、ズビグニュー・ブレジンスキー、アラン・グリーンスパンやポール・ボルカーを含むアメリカ・ヨーロッパ・日本の、銀行家・公務員・学者のグループによって共同設立されました。この会議は、今日の西側帝国の3ブロック構造を構成する国家間の緊密な協力を促進するために設立されたものでした。その“緊密な協力”は、不死身の大英帝国の執事たちによって策定された帝国の「3ブロック構造計画」のまさに基礎となることを意図したものでした。」

 その編成は、英国の対米工作機関である外交問題評議会(CFR)(別名:英国王室御用達のシンクタンクである王立国際問題研究所の後継組織)によって組織されることになる。

 1978年11月9日、三極委員会のメンバーであるポール・ボルカー(1979年から1987年まで連邦準備制度理事会議長)は、イギリスのウォリック大学での講演でこう断言した。 「世界経済の統制された崩壊が、1980年代の本当の目的である」。これは、ミルトン・フリードマンの「ショック療法」を形成してきたイデオロギーでもある。

 1975年、CFR(外交問題評議会)は「1980年代プロジェクト」と題する世界政策の公開研究を開始した。そのテーマは、世界経済の「管理下での崩壊」であり、その政策が世界の大多数の人々にもたらす飢餓、社会的混乱、死を隠そうともしなかった。

 これはまさに日本が経験してきたことであり、経済学者リチャード・ヴェルナーが著書『円の王子たち』で実証したものだ。なお、この著書の同名のドキュメンタリー映画も制作された。日本経済は、経済危機を引き起こし、極端な構造改革の必要性を正当化するために、捏造されたバブルを経験させられたのである。

 次に、アメリカ、タイガー・エコノミー*、ヨーロッパも同じように経済危機が作り出され、それが今日の世界にとって何を意味するのか、ヨーロッパが「ヨーロッパ連合」モデルを採用した結果どうなったのか、国際連盟の一国政府モデルと主権国家からなる多極的枠組みはどう違うのかを簡単に説明する。最後に、なぜ安倍晋三が暗殺されたのかについて言及し、本論を締めくくる。
* 東南アジアで急成長しているいくつかの経済を表すために一般的に使用される用語。 アジアのトラ経済圏には通常、シンガポール、香港、韓国、台湾が含まれる。


植民地主義2.0―タイガー・エコノミーのアジア経済危機

 1990年代、大恐慌以来の深刻な不況に見舞われたのは、日本だけではない。1997年、東南アジアのタイガー・エコノミー諸国の通貨は、米ドルとの固定為替レートを維持することができなくなった。1年以内に60~80%も暴落したのだ。

 この暴落の原因は、1993年までさかのぼる。この年、韓国、タイ、インドネシアといったアジアのタイガー・エコノミー圏は、積極的な資本勘定の規制緩和と国際銀行機能の整備を行い、企業や銀行が戦後初めて海外から自由に借入できるようにした。実際には、この経済圏が海外から資金を借りる必要性はなかった。国内投資に必要なお金は、すべて国内で作ることができたからだ。

 『円の王子たち』のドキュメンタリーはこう述べている:

 「資本移動の自由化に対する圧力は、外から来たものである。1990年代初頭から、IMF、世界貿易機関、米国財務省は、国内企業が海外から借金をすることを認めるよう、これらの国々に働きかけていたのだ。新古典派経済学では、自由市場と自由な資本移動が経済成長を促進することが証明されている、と彼らは主張した。

 資本勘定が規制緩和されると、中央銀行は、国内企業が海外から借り入れを行うための抗しがたい誘因を生み出すことに着手した。それは、国内通貨での借り入れを米ドルでの借り入れよりも高くすることだった。

 中央銀行は公の場で、米ドルとの固定為替レートを維持することを強調し、借り手が自国通貨での返済額が当初の借り入れ額を上回ることを心配する必要がないようにした。銀行は貸し出しを増やすよう命じられた。しかし、生産性の高い企業には海外からの借り入れの奨励金が与えられていたため、経済の生産部門からの融資需要は少なくなっていた。そのため、銀行はリスクの高い借り手への融資を増やさざるを得なくなった。

 中央銀行が自国通貨を米ドルに固定することに合意していたため、輸入は減少し始めた。競争力は低下したが、国際収支は統計上、輸出としてカウントされる外債があるため、経常収支は維持された。投機筋がタイ・バーツ、韓国ウォン、インドネシア・ルピーを売り始めたとき、それぞれの中央銀行は外貨準備のほとんどを使い果たすまでペッグ制*を維持しようと無駄な試みをした。このため、外国人金融機関は、割高な為替レートで資金を引き出す機会を十分に得ることができた。
 * 自国の通貨と、米ドルなど特定の通貨との為替レートを、一定に保つ制度。貿易規模が小さく、輸出競争力のある産業をもたない国等が、多く採用をしている。

 中央銀行は、各国が外貨準備を使い果たせば、デフォルト(債務不履行)を避けるためにIMFに助けを求めなければならないことを知っていた。なぜなら、このような場合のIMFの要求は、過去30年間同じであったからである。つまり、中央銀行を独立させること、(そして、IMFの命令に従わせること)である。

 7月16日、タイの財務大臣は、日本に救済を要請するため、飛行機で東京へ向かった。当時の日本の外貨準備高は2,130億ドルで、IMFの総資本を上回っていた。日本は喜んで支援しようとしていたが、ワシントンは、この日本からの働きかけを止めた。なぜなら、アジア危機の解決には、IMFを通じたワシントンからの支援が必要だったからである。

 2カ月にわたる投機的な攻撃の後、タイ政府はバーツを変動相場制にした。

 IMFは、タイ、インドネシア、韓国の経済危機に対して、現在までに約1200億ドルの支援を約束している。危機的状況にある国々に到着すると、IMFのチームはすぐに中央銀行内にオフィスを構え、そこから降伏条件ともいうべきことを指示した。IMFは、中央銀行や銀行の信用創造の抑制、大規模な法改正、金利の急上昇など、一連の政策を要求した。金利が上昇すると、リスクの高い借り手は貸し倒れを起こすようになった。

 大量の不良債権を抱えたタイ、韓国、インドネシアの銀行システムは、事実上破綻した。健全な企業も信用収縮に苦しむようになった。企業倒産は急増した。失業率は1930年代以降で最も高いレベルにまで上昇した。

 IMFは、自分たちの政策がどのような結果をもたらすか、よく知っていた。韓国の場合、金利が5%ポイント上昇した場合、どれだけの韓国企業が倒産するかという、詳細だが非公開の研究結果まで準備されていた。IMFの韓国との最初の合意は、まさに5%ポイントの金利上昇を要求したのである。

 リチャード・ヴェルナーはインタビューでこう述べている

 「IMFの政策は、明らかにアジア諸国の景気回復を目的としたものではありません。IMFの政策は、アジア諸国の景気回復を目指すものではなく、アジア諸国の経済、政治、社会システムを変えるという、まったく異なる課題を追求するものです。実際、IMFの取引は、韓国やタイのような関係国のリフレ[通貨再膨張政策]を妨げているのです。」

 インタビュアー:「興味深いですね。つまり、それが危機を悪化させ、IMFには隠された意図があると言いたいのですね?」

 リチャード・ヴェルナーはこう答えた。「IMFは、アジア諸国に対して、外国資本が銀行から土地まで何でも買えるように法律を改正するようはっきりと要求しているからです。実際、IMFの取引によれば、銀行システムの資本増強は外国の資金を使うことによってのみ可能です。そのために外国の資金は必要ないのです。つまり、アジアを外国の利益のために開放することが目的なのです。」

 IMFは、経営難に陥った銀行を救済するのではなく、閉鎖して不良資産として安く売却することを要求し、多くの場合、米国の大手投資銀行に売却された。ほとんどの場合、IMFの指示した「趣意書」には、銀行を外国人投資家に売却しなければならないと明示されていた。

 アジアでは、経営不振に陥った金融機関を存続させるために、政府が組織的に救済することは許されないことだった。しかし、その1年後、アメリカで同じような危機が発生したとき、同じ金融機関が異なる対応をした。

 『円の王子たち』のドキュメンタリーはこう語る。

 「コネチカット州のヘッジファンド、ロングターム・キャピタルマネジメントは、富裕層の個人投資家と機関投資家のみを顧客としていたが、50億ドルの顧客資金をレバレッジ*することでその25倍以上の資金を動かし、世界の銀行から1000億ドル以上を借り入れていた。この会社が出した損失がこの会社に資金を貸し出した銀行を弱体化させ、米国の金融システムと経済を危うくする全般的な銀行危機の可能性が生じたとき、FRBはカルテル的な救済策をとり、ウォール街や国際銀行に資金を提供させて、デフォルト(債務不履行)を回避するように仕向けた。
* 預けた資金(証拠金)を担保とし、その何倍もの金額の取引ができる仕組みのこと

 米国は、自国内で同じルールを実施するつもりもないのに、なぜ自由市場の名の下に外国にそれを要求するのだろうか。

 日本やアジアの危機の例は、経済的所有権の再分配を促進し、法的、構造的、政治的変化を実施するために、危機がいかに操作されるかを示している。

 アジアの銀行が救済されることを禁じられたのは、これらのアジア経済に対する外国人による買収が行われるようにするためであった。IMFが帝国の植民地的狙いを保証している今、誰がかつてのイギリスの東インド会社のような力を必要としたでしょうか。


IMFと三極委員会の「それほど隠されていない」予定計画

 IMFは明らかに西洋の銀行によるアジアの乗っ取りを目標に掲げているが、この勢力圏内に位置していたヨーロッパやアメリカの人々にとっての「狙い」は何だったのだろうか。彼らは帝国の略奪から利益を得る運命にあったのだろうか?

 これに対する短い答えは、もう明らかだろうが、「ノー」である。

 アメリカやヨーロッパで引き起こされた危機は、ごく小さな集団に権力を集中させるためのものであり、これらの地域にたまたま住んでいた人々、つまり統治される人々のためでなかったことは明らかである。

 ヨーロッパは特に、「ヨーロッパ合衆国」という視点に固執したために、自分自身を苦しめることになった。ユーロ圏の国々は自国通貨を持つ権利を放棄し、中央銀行の中でも最も強力で秘密主義的な欧州中央銀行(ECB)にその権限を委ねてしまった。

 このような体制の下では、ヨーロッパのどの国も自国の経済を管理することはできず、ECBが決定することに完全にさらされてしまう。

 リチャード・ヴェルナーはこう言っている。 「ECBは金利よりも信用創造*に力を入れなければなりません。ECBは過去の失敗から学ぶべきことがたくさんあります。なぜなら、基本的に信用創造を十分に注意深く観察していなかったと思うからです。スペインやアイルランドでは、ECBの監視下で大規模な信用拡大**が行われましたが、ユーロ圏では金利はもちろん同じですが、信用創造の循環量は大きく異なります。ユーロ圏全体の金利は同一ですが、2002年にECBはブンデスバンク(ドイツの中央銀行)に対して、史上最大だった信用創造量を減らすように指示し、逆にアイルランドの中央銀行には、明日がないかのように(信用創造を増やすことで)お金をたくさん刷れと指示しました。何が起きたと思いますか? 金利は同じです。成長も同じだったでしょうか? いいえ、ドイツでは不況、アイルランドでは好景気になりました。その違いは何だったのでしょう? 信用創造の規模です。」
* 信用銀行が預金を利用した貸し出しを繰り返すことによって、銀行全体として、最初に受け入れた預金額の何倍もの預金通貨をつくりだすこと。
** 信用拡大とは、市場に資金が十分に供給され、銀行が積極的に貸し出しを行える状態。


 2004年からECBの監視下で、アイルランド、ギリシャ、ポルトガル、スペインの銀行信用は年率20%以上増加し、不動産価格は急騰した。銀行の信用が落ちると、不動産価格は暴落し、開発業者は倒産し、アイルランド、ポルトガル、スペイン、ギリシャの銀行システムは債務超過に陥った。

 『円の王子たち』のドキュメンタリーはこう指摘する。

 「ECBはバブルを防ぐことができたし、その後の銀行危機や経済危機を終わらせることもできたはずだ。しかし、ECBは、財政と予算の権限を各国からEUに移譲するなどの大きな政治的譲歩がなされるまでは、それを拒否した。

 スペインでもギリシャでも、若者の失業率は50%に達し、多くの若者が海外に就職することを余儀なくされている。ECBの意思決定機関の審議は秘密である。例えば、民主的な議論や討論を通じてECBに影響を与えようとすることは、マーストリヒト条約によって禁じられているのである。

 ECBは国際的な組織であり、いかなる国の司法権の法律よりも上位に位置し、その外にある。上級職員は外交官パスポートを所持しており、欧州中央銀行内のファイルや文書は、いかなる警察や検察官によっても捜索や押収を受けることができない。

 欧州委員会は、選挙で選ばれたわけでもない組織であり、統一国家のような装飾を施した「欧州合衆国」を建設することを目的としているため、個々の政府や欧州の民主的な議会の影響力を弱めることに関心がある。マーストリヒト条約で根拠とされた中央銀行の独立性の根拠は、欧州委員会自身が依頼したたった1つの研究だけに由来していることが判明した」。


「ヨーロッパ合衆国」のファシスト的ルーツ

 1930年2月15日、チャーチルはサタデー・イブニング紙に「ヨーロッパ合衆国」と題する記事を掲載し、次のように書いている[1]。

 「汎ヨーロッパの思想の復活は、クーデンホーフ=カレルギー伯爵の考えとほぼ一致している。国際連盟は、米国がその広大かつ増大する利益を考慮して、軽率にも参加しなかったが、形式的にはともかく、事実上、主としてヨーロッパの機関とならざるを得なかった。クーデンホーフ=カレルギー伯爵は、ヨーロッパの力、利益、感情を1本の枝に集中させることを提案し、それが成長すれば幹そのものになり、明らかに優位性を獲得することになると述べた。ヨーロッパがどれほど強大か、しかしそれが分裂していた場合を考えてみてほしい!そしてすでにほぼ事実となっているように、ロシアをアジアに後退させればよいと、カレルギー伯爵は提案する。カレルギー伯爵の計画では除外されている大英帝国が、自らの世界進出の理想を実現するとしても、ヨーロッパの集団は、統合されたり、連邦化または部分的に連邦化されたり、ヨーロッパ大陸として我々はひとつであるという自己認識がなされれば、アフリカとアジアに所有地や植民地を有していることから、英国とは比較にならない有機体を構成するだろう」。(強調は筆者)。

 リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー伯爵の『ある思想が世界を征服する』には、こう書かれている:

「驚いたことに、ヨーロッパ人の意識は十字軍の時に初めて現れたのだと知った。ローマ帝国が崩壊した後、十字軍はヨーロッパの連帯を最も強力に広報するものであった。そして、1834年、マッツィーニ*は、国家主義と民主主義を基礎とした新しい統一ヨーロッパを建設するために、既存のすべての革命運動を調整するための運動、ヤング・ヨーロッパ**を設立した」。(強調は筆者)
* ジュゼッペ・マッツィーニ 、(1805年~1872年)は、イタリアの政治家、ジャーナリスト、イタリア統一運動(リソルジメント)の活動家であり、イタリア革命運動の先頭に立っていた。彼の努力は、9世紀まで存在していたいくつかの別々の州(多くは外国勢力によって支配されていた)の代わりに、独立した統一されたイタリアをもたらすのに役立った。
** 1834年にイタリアの思想家ジュゼッペ・マッツィーニが創始した政治結社。カルボナリ(19世紀に伊・仏で興った革命的秘密結社)を通じての国際運動に限界を感じていたマッツィーニは、新たな汎ヨーロッパ的視野を持つ共和主義団体を作る必要性を感じていた。これにイタリア本国は無論、ドイツ・ポーランド・スイスなどの知識人が呼応し、1834年に「青年ヨーロッパ党」が結成された。


 興味深いことに、カレルギーは、自身が「国家主義と民主主義を基礎とする統一ヨーロッパ」に向けた最も近代的な組織者であると考えたジュゼッペ・マッツィーニは、イタリアにおけるファシズムの先駆者であると考えられていた、ともしている。カレルギーは次のように書いている[2]。

 「当時(イタリア)のファシズムは、まだ議会主義や民主主義と決別していなかった。イタリアの新政府は連立政権であり、立憲君主制の原則を尊重し、それに新たな活力と権威を与えようとしたに過ぎなかった。イタリア新政府は、若者の英雄的本能、犠牲の精神、理想主義に訴えかけるものであった。宗教的価値の尊重と古代ローマの輝かしい伝統の回復に努めた。そして、イタリア新政府は、マッツィーニをファシズムの先駆者として称えたのである」というものである(強調は筆者)。

 十字軍という主題は、カレルギーが汎ヨーロッパを構想する上で中心的なものとなり、汎ヨーロッパのための旗に十字軍のシンボルを取り入れたほどであった。

 1943年の自伝の中で、カレルギーは汎ヨーロッパの十字軍という主題について、さらに次のように説明している[3]。

 「私は、この運動のシンボルとして、黄金の太陽に赤い十字架を重ねたものを選んだ。赤十字は、中世の十字軍の旗であり、ヨーロッパの超国家的な兄弟愛の象徴として最も古くから知られているようだ。また、近年では、国際的な救援活動の象徴としても認知されている。太陽は、世界を照らすというヨーロッパ文化の功績を表すために選ばれた。ヘレニズムとキリスト教、キリストの十字架とアポロンの太陽は、ヨーロッパ文明の永遠の柱として並んでいる(強調は筆者)」とある。

 この「ヨーロッパ合衆国」というカレルギーの「汎ヨーロッパ」構想は、巧妙かつ不誠実な言葉遊びであった。アメリカはもともと、大英帝国に従順な13の植民地という形で存在していた。しかし、アメリカは大英帝国からの独立を目指し、国家としての主権を確立したとき、建国の父たちはハミルトン銀行を中心に新共和国を統一した。この政治経済の革新は、返済不可能な債務を連邦政府の信用制度に転換し、地域の産業成長に有利な連邦保護主義を制定し、銀行を一般福祉向上への投資を中心に方向付けた。

 こうして、アメリカ合衆国は、1つの通貨と国立銀行を形成し、貿易を促進することで、新しく誕生した国家の経済主権を維持することができた。

 このハミルトン流の経済組織は、ドイツの経済学者フリードリッヒ・リストの「国民政治経済システム」に影響を与え、ツォルフェライン(関税同盟)につながった。当時のドイツもアメリカのように地域ごとに分かれており(この時点までドイツは国家ではなかった)、ツォルフェラインによってドイツは歴史上初めて主権国家としての地位を確立し始めることになったのだ。フリードリッヒ・リストは、ハミルトン主義の経済体系に直接言及し、ドイツに創造性を与えた。この体系は、中華民国の父である孫文の「人民の三原則」にも影響を与え、リンカーン/ヘンリー・C・キャリーの経済計画に直接言及したもので、それ自体はアレキサンダー・ハミルトンの経済原則を引き継いでいた。これはまた、明治維新で始まった産業成長計画を組織するために、日本にいるアメリカの親リンカーン経済学者という形で復活したのである。

 このハミルトン流の経済組織の流れが、多極化の枠組みが続けている、主権を持つ国民国家の防衛と成長に受け継がれているのである。そうだ、地域協力は必要だ。鉄道のような大きなインフラ計画では、多数の国が関わるので地域協力が必要である。しかし、地域協力と国際連盟の構想とを混同してはいけないし、実際に政治的、経済的に提案されているものを見れば、両者の違いはすぐにわかるはずだ。近い将来、このテーマについてより直接的に論じる論文を書くつもりだが、今のところ、この点についてさらに詳しい内容はこちらを参照していただきたい。

 国際連盟、汎ヨーロッパ、ヨーロッパ合衆国などの構想の場合、それはまったく逆だった。それは、主権を持つ国民国家の枠組みから権力を奪い、帝国体制に従属する国家へと変貌させることだった。つまり、「ヨーロッパ合衆国」という言い方は、元来のアメリカの13の植民地に対して不誠実で誤解を招く表現であった。なぜなら、ヨーロッパ諸国は、国家の経済的主権をさらに促進するのではなく、主権を取り除き、欧州連合(中央集権的政治力)と欧州中央銀行(中央集権的経済力)、NATO(中央集権的軍事力)による中央集権に従うことを期待されたからである。欧州のどの国も、このような締め付けの中で、政治的、経済的、軍事的な運命を掌握することはできないだろう。

 国際連盟の構想が引き継がれるためには、主権を持つ国民国家は解体されなければならないだろう。この話については、拙著『黒い太陽*が沈まない帝国』を参照されたい。
*黒い太陽は、12個の放射状のジークルーネ(ᛋ)あるいは3つの重ね合わせた鉤十字(卐)で構成された、秘教的シンボルの一つである。

 1990年代以降、黒い太陽のシンボルは、ネオファシスト、ネオナチ[4]、極右、白人国粋主義者に広く使われている。

 アメリカやヨーロッパの経済危機が教えてくれたのは、ごく少数者に力を与えるために、かつては主権国家だった経済が乗っ取られ中央集権化され、一般市民の権利や福祉がますます軽視されるようになり、納税者がそのツケを払わされることになるということである。


安倍晋三はなぜ暗殺されたのか

 安倍晋三元首相は、2022年7月8日に暗殺された。暗殺された時点で日本の首相の座には(2006年から2007年、2012年から2020年9月16日まで在任)いなかったが、日本の歴史上最も長く首相を務め、日本の政策形成に大きな影響力を与え続けた。

 安倍首相が暗殺されたというニュースは、世界中で両極端から非常に強い感情で受け止められた。ある人は彼の死に慄き、彼が日本のために行ったことをほとんど聖人のように称賛した。また逆に、日本の帝国時代の暗黒面を復活させようとしたり、第二次世界大戦中の日本のファシストへの賛辞を公の場で表明したことから、いいことは何もなかった考え、大喜びして彼の死を祝う者もいた。このニュースがまだ新鮮で、混乱が頂点に達していたとき、安倍首相の死を画策したのは中国であると非難する者さえ多数いた。

 確かに安倍首相は、日本を帝国主義的な帝国に戻すという非常に危険で破壊的な使命を担っていた。彼は、日本政府の危険な民営化を推し進め、富裕層と中流市民の間の格差を拡大させた腐敗した当事者だったのだ。しかし、彼の死を絶対的な勝利として祝うのも、あまりに単純な話である。安倍首相の暗殺から7カ月が経過した今、日本は平和的で東側の友好国との対話が可能になったのではなく、むしろ好戦的で、ますます戦争に熱狂する西側の要求に協力する姿勢を強めていることがよくわかる。また、安倍首相が生きていたころはまだ進んでいたロシアや中国との経済的・政治的な協力関係も大きく断ち切られてしまった。

 安倍首相が暗殺されたのは、ペロシが台湾に曲芸のような訪問を行う数週間前だったことも興味深い。ペロシの挑発は軍事的対決には至らなかったが、その意図がなかったとは言い切れないし、中国と米国の軍事的対決という点では、まったく違った展開になったかもしれない。

 読者は、2014年に日本が憲法を改正、あるいは「解釈変更」して、自衛隊に大きな権限を与え、同盟国が宣戦布告された場合、自衛隊に「他の同盟国を守る」ことができるようにしたことを思い出してほしい。もちろん、アメリカはこの動きを全面的に支持した。

 この日本国憲法の「解釈変更」によって、日本は事実上NATOに加盟することになった。

 2022年12月、日本は新たな国家安全保障戦略を発表した。この新戦略では、防衛費を倍増させる。日本はまた、米国のトマホーク巡航ミサイルの購入や独自の兵器システムの開発など、反撃能力への投資も計画している。

 日本が帝国としての「栄光」の時代に戻るという安倍首相の壮大な構想こそが、国際連盟の構想にとって問題であった。つまり、安倍首相は日本を属国として売り渡すつもりはなかったが、それこそが欧米の絶対命令が日本に本質的に求めていたものだった。この欧米の指示の下で、日本は経済的に崩壊して絶望に沈み、軍国主義と過激さを増し、日本文明の破滅につながる中国やロシアとの戦争に神風を吹かせるという運命を受け入れるよう命じられていた。安倍首相は、そのような日本の厳しい未来像に沿うつもりはなかったようだ。

 エマニュエル・パストリッチは「安倍晋三大公の暗殺」と題する洞察に満ちた論文を書いている。[この論文は「グローバリストがルビコンを渡った時:安倍晋三の暗殺」という題名でもある]。

 パストリッチは、「(安倍は)...射殺されたとき、すでに日本の歴史上最も長く首相を務め、3度目の首相就任を計画していた」と書いている。

 言うまでもなく、世界経済フォーラム(WEF)の背後にいる権力者は、たとえグローバリストらが描く予定計画に適合していても、国民国家の中で抵抗を組織することを可能にする、安倍のような国家指導者を望んでいない。

...ロシアの場合、安倍首相は2019年、ロシアとの関係を正常化し、北方領土(ロシア語でクリル諸島)に関する紛争を解決するための複雑な平和条約を交渉することに成功した。ワシントンが東京への制裁圧力を強めても、日本企業のエネルギー契約を確保し、ロシアに投資機会を見出すことができたのだ。

 ジャーナリストの田中宇(さかい)は、ロシア政府が他の日本政府代表の入国を禁止した後も、安倍はロシアへの入国を禁止されなかったと指摘している。

 安倍は中国とも真剣に関わり、長期的な制度的関係を固め、第15回協議(2019年4月9日~12日)で突破口を開いた自由貿易協定交渉を推進した。安倍は中国の有力政治家とすぐに接触でき、その反中的な暴言を吐くことはあっても、彼らから信頼でき、予測できる者と思われていた。

 安倍の暗殺に至る経緯を引き起こしたと思われる決定的な出来事は、マドリードでのNATO首脳会議(6月28~30日)であった。

 そのNATO首脳会議は、裏の隠れた勢力が新しい世界秩序の法則を打ち立てた瞬間だった。NATOは、ヨーロッパを守るための同盟を越えて、世界経済フォーラムや世界中の億万長者、銀行家たちと協力して、かつてのイギリス東インド会社のように機能する「世界軍隊」として、説明責任を果たさない軍事大国に進化する道を急ぎつつある。

 NATO首脳会議に日本、韓国、オーストラリア、ニュージーランドの首脳を招待するという決定は、このNATOの変革の重要な部分であった。

 この4カ国は、情報共有(ハイテク多国籍企業に外注)、先端兵器システムの使用(ロッキード・マーチンなどの多国籍企業の職員が管理しなければならない)、合同演習(抑圧的な意思決定過程の前例を作る)、その他国家内の指揮系統を弱める「協調」構想など、安全保障における前例のない規模の統合に加わるために招待された。

 7月1日に岸田が東京に戻ったとき、最初に会談を持った1人に安倍元首相がいたことは間違いないだろう。岸田は、バイデン政権が日本に要求してきた無理難題を安倍に説明した。

 ところで、ホワイトハウスは今や、ビクトリア・ヌーランド(政治担当国務次官)ら、ブッシュ一族に鍛えられたグローバリストの道具と化している。

 日本に出された要求は、日本にとって自殺行為的なものであった。日本はロシアに対する経済制裁を強化し、ロシアとの戦争の可能性に備え、さらに中国との戦争に備えなければならなかった。日本の軍事、情報、外交機能は、NATO周辺の饗宴に集う新興の民間業者の集団に移管されることになっていた。

 安倍首相が死の直前の1週間に何をしたかはわからない。おそらく、ワシントンD.C.、北京、モスクワ、そしてエルサレム、ベルリン、ロンドンにあるすべての繋がりを駆使して、高度な政治的駆け引きに乗り出し、日本が裏口から中国やロシアとのデタント(緊張緩和)を模索しながら、バイデンに全面的に協力しているという印象を世界に与えるような多層的な対応策を考えていたのだろう」。

 正直に言おう、この時点でホットメス*はむしろ誰の目にも明らかなはずだ。IMF、NATO、世界経済フォーラムの悲惨な政策を推進する立場にある人々は、司令部ではない。たったの2ヶ月弱で首相の座を降りた英国のリズ・トラス元首相が、ロシア領とウクライナ領の区別もつかず、ロストフやボロネジをロシア領とは認めないと答えて恥をかいたのは、ほとんど毎日のように起きている例のひとつに過ぎない。このような非常識な政策が最適なのは、まさにこの理由からで、彼らは自分たちが最終的にどのような結果をもたらすのか理解していない。彼らは全く無知であり、したがって、切り取られた厚紙として使い捨てにされるのである。
* ホット・メス(hot mess)は、魅力的でありながらも、目を見張るような成功を収めていない人物や物のことを指す。

 本当に起こっているのは、この対立の先に生き残れる国家はひとつもないということだ。

 西側諸国が東側諸国と対立するという話ではない。すべての国家を破滅させ、一つの帝国を形成すること、あるいは、この言葉を好むなら、一つの世界政府を形成することである。繰り返すが、これは第一次世界大戦以来、ごく少数の勢力の夢であった国際連盟の構想なのである。

 この構想の主旨は、西洋の民主主義や自由主義、西洋の価値観のことではない。帝国体制の復活を目指すものであるし、これまでもずっとそうであったのだ。この構想のせいで、第一次世界大戦が引き起こされ、第二次世界大戦も引き起こされ、この先起こるであろう第三次世界大戦もそうなのだ。

 興味深いことに、私たちは、ドイツと日本が、地球を再び本格的な世界大戦に突入させる準備の整った罠の横に位置しているのを再び目にすることになる。そして、ドイツと日本という2つの国の運命はどうなるのだろうか。ドイツと日本は、からくり人形に過ぎない「指導者」たちが、第二次世界大戦中に愚かにも誤った考えをしてしまったように、世界を火の海にしても何とか生き残る「特権階級」集団の中に自分たちが含まれていると愚かにも考えている。彼らは、自分たちが受け入れられたいと切に願う「特権階級」集団にとって、自分たちの国民や文明がいかに消耗品であるかを改めて思い知ることになるだろう。

 安倍首相が暗殺されて以来、確かなことが一つある。日本は、再び歴史の間違った側に立つ危険に繋がる、非常に危険な道をますます急速に進んでいる。問題は、ドイツと日本が同じ過ちを2度犯すほど愚かなのか、ということである。


1.クーデンホーフ=カレルギー、リチャード(1943)『汎ヨーロッパのための十字軍』: Autobiography of a Man and a Movement. G.P. Putnam's Sons, New York, pg. 198-200.
2.クーデンホーフ=カレルギー, リチャード. (1943) Crusade for Pan-Europe: Autobiography of a Man and a Movement. G.P. Putnam's Sons, New York, pg. 78.
3.クーデンホーフ=カレルギー, リチャード. (1954) An Idea Conquers the World. Purcell & Sons Ltd., Great Britain, pg. 98.
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