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ウクライナにおけるファシズムの歴史I部:OUNの起源1917-1941

<記事原文 寺島先生推薦>

The History of Fascism in Ukraine Part I: The Origins of the OUN 1917-1941

筆者:ヒューゴ・ターナー(Hugo Turner)

出典:INTERNATIONALIST 360°

2022年11月4日

<記事原文 寺島メソッド翻訳グループ>

2022年12月20日


2017年10月14日、キエフで行われたアゾフ大隊、スヴォボダなどの極右過激派によるデモ行進
(Reuters / Gleb Garanich)


 ウクライナ戦争が激化するなか、ウクライナにおけるファシズムの歴史をたどるときが来た。かつて時代錯誤の冷戦の遺物と考えられていたOUN(ウクライナ民族主義者組織)は、戦後最も成功したファシスト集団として登場した。世界中の政治家がそのファシスト的な呼びかけ「スラバ・ウクライナ」*を叫ぶ。この言葉は、ウクライナ・ファシスト連盟に端を発し、OUNによって採用され、OUNがポーランドで行っていた暗殺作戦のために裁判中のステパン・バンデラによって一般化されたものであった。ウクライナ、米国、カナダ、そして英国には、100万人以上のユダヤ人、数十万人のポーランド人、無数のウクライナ人、ロシア人、ベラルーシ人を殺害したウクライナSS退役兵の記念碑が建てられている。今日、イスラエルとポーランドはウクライナの最大の資金援助国グループに入っている。ウクライナ国内では、これらの大量殺戮者を批判することは違法である。西側諸国では、冷戦時代の学者たちが、逃亡したウクライナ人戦犯にウクライナとソビエト連邦の歴史を作り上げることを許し、彼らの歴史は何十年も歪曲されてきた。最も重要なことは、CIAが支援する2つのクーデター、「カラー革命」(2004年と2014年)のおかげで、OUNの後継者たちがウクライナをほぼ完全に支配できるようになったことである。OUNの概念はウクライナの公式概念となり、ナチの殺し屋たちは文句を言う者を脅すための完全な免罪符を与えられている。ファシストの準軍事組織が警察や軍に組み込まれた一方で、アゾフ大隊のように、ウクライナ情報局(SBU)や内務省にのみ応える一定の自治権を保持している組織もある。ウクライナの大統領でさえ、こうしたファシスト集団を抑制することは難しい。大統領がちゃんと彼らの機嫌をとらないと、このファシスト集団は公然と反抗する。
「スラバ・ウクライナ」*・・・「ウクライナに栄光あれ!英雄たちに栄光あれ!」(ウクライナ語: «Слава Україні! Героям слава!»、スラーヴァ・ウクライニ、ヘローヤム・スラーヴァ)は、ウクライナの標語、成句。1917年から1921年にかけて行われたウクライナ独立戦争(英語版)で確立され、今日に至るまでウクライナ人に広く認知された文言である。また、外国の政治指導者がウクライナの要人に挨拶をするときにも用いられることがある。(ウィキペディア)

 本稿では、OUNの起源をたどり、ナチス・ドイツのソ連侵攻前夜までの歴史を説明する。その頃、OUNはドイツ軍情報部(Abwehr)およびSSと密接に協力し、ウクライナでの大量虐殺を計画し始めていた。ナチス占領下のポーランドから、OUN/Bは2万人以上の地下活動家を支配し、ユダヤ人、ポーランド人、ロシア人を絶滅させるために武器を取り、ソ連領ウクライナでナチスを温かく迎え入れる準備を整えていたのである。第II部では、OUNが戦時中に行った恐ろしい戦争犯罪を取り上げる予定である。第I部では、最も信頼できるグルゼゴルツ・ロソリンスキー-リーベ(Grzegorz Rossolinski-Liebe)著『ステパン・バンデラ 。あるウクライナ人民族主義者の生涯とその後』に主に依拠することになる。これは、OUNの歴史について深く研究したい人にはお薦めの本だ。

 初期のウクライナ民族主義者は、社会主義に傾倒した穏健派であった。彼らは詩人、ロマンチスト、知識人で、農民やコサック、そして南ロシアでも話されていた独特のロシア方言から着想を得ていた。ウクライナという名前は単に国境地帯を意味し、その人々は「小さなロシア人」を意味するマロロシア人として知られていた。しかし、国家主義の流行がヨーロッパを席巻すると、一部の知識人はウクライナを独立した国家として考えるようになった。その中で、後のファシスト的ウクライナ民族主義者に大きな影響を与えたのは、歴史家ミハイロ・フルシェフスキー(Mykhailo Hrushev’sky)の『ウクライナ史』である。このきわめて重要な本は、ウクライナ人をポーランド人やロシア人とは全く別の民族として描き、密接に結びついたロシアとウクライナの歴史的関係を絶とうとしたのである。ロシア人は自分たちの起源をキエフ・ラス(現在のウクライナのキエフを中心とする)に求め、ウクライナ人やベラルーシ人をロシア人の近親者と見なした。ウクライナ人の多くは自らをロシア人と見なしていた。また、18世紀から19世紀にかけて多くのロシア人がウクライナに移住してきた。現在でもほとんどのウクライナ人がロシア語を話している。ロシア帝国はこの2つのアイデンティティの融合を奨励し、ウクライナ語の使用を控えさせようとした。

 フルシェフスキーのこの本は、ロシア支配下のウクライナで、さらに過激なウクライナ民族主義者ミコラ・ミフノフスキー(Mykola Mikhnovs’kyi)の尻を叩き、ウクライナ民族は撲滅すべき敵に囲まれているとする世界観を説くようになる。彼は、19世紀の社会ダーウィニズムと科学的人種主義をウクライナの国家主義に挟み込み、ロシアの多数派の都市ハリコフで執筆活動をした。彼は「ロシア人、ポーランド人、マジャール人、ルーマニア人、ユダヤ人をウクライナの敵」(彼らがウクライナ人を支配または搾取する限り)とし、コーカサス地方からカルパチア山脈に至るウクライナ国家の建設を目指した。1904年に結成されたUNP(ウクライナ国民党)の十戒は、OUNに大きな影響を与えることになる。その中には、「外国人女性と結婚してはならない。なぜなら、その子供はあなたの敵になるからだ」という印象的な一節が含まれていた。また、ミフノフスキーは他でも「ウクライナ人のためのウクライナ、そして一人でも異国の敵が我が領土に残っている限り、武器を手放すことを許されない」と書いている。

 ウクライナ人の8割はロシア帝国内に住んでいた。残りの20%は、かつてポーランド・リトアニア連邦が支配していた地域で、18世紀後半にポーランドが解体され消滅した後は、オーストリア・ハンガリー帝国に支配されていた地域に住んでいた。彼らはルテニア人と呼ばれ、言語はロシアのウクライナで話されている方言よりもポーランド語に近かった。オーストリア・ハンガリー帝国は、過激なウクライナ国家主義を奨励し、反抗的なポーランド人に対する対抗手段としてウクライナ人を重要視した。ウクライナ人あるいはルテニア人が住んでいた地域は、東ガリシアとして知られていた。1909年、こんな状況のなかでステパン・バンデラ(Stepan Bandera)は生まれた。OUNは、ウクライナのこの西側支配地域を完全な発祥地としている。第一次世界大戦とロシア内戦の後、この領土はポーランド第二共和国という形で再び生まれ変わったポーランドに支配されることになる。第二共和国にはまた、ソビエトとの戦争で征服されたロシア領ウクライナのヴォルフニャ地方に住む西ウクライナ人もいた。

 何世紀にもわたって、ポーランドのウクライナ人貴族は、同化してポーランドの貴族になることを決意していた。かくして、ウクライナ人のほとんどは農民ということになった。ポーランドはまた、ギリシャ・カトリック教会の創設を奨励した。このギリシャ・カトリック教会は、ギリシャ・カトリック正教会の総主教ではなく、ローマ教皇に従属しながらも、ギリシャ・カトリック正教会の儀式を引き続き踏襲した。バンデラの時代までに、ギリシャ・カトリック教会は西ウクライナの国民性を支える重要な要素となっており、ステパン・バンデラのようなOUN指導者の多くはギリシャ・カトリック司祭の子供であり、彼らはまた筋金入りのウクライナ民族主義者であった。ポーランド国家への忠誠を誓う一方で、ギリシャ・カトリック教会はOUNのメンバーが処刑されたり、警察がウクライナ民族主義者の行事を妨害しようとすると、それへの警告として教会の鐘を鳴らしたり、「ウクライナの英雄」のためにパナクヒダ(Panakhydas)と呼ばれる追悼礼拝を行うなどして、ポーランド政府を怒らせる行動をとっていた。「ウクライナの英雄」たちはOUN教団の中では民族主義的な殉教者として承認されていた。

 西ウクライナに住むウクライナ人の多くは、ポーランド人地主とそのユダヤ人監督者のもとで働く農民(1848年までは農奴)であった。こうして西ウクライナでは、ユダヤ人とポーランド人に対する憎悪に満ちた国家主義が誕生した。OUNはこの両者を抹殺の対象とすることになる。OUNは、伝統的なウクライナの反ユダヤ主義とナチスの「人種科学」を融合させることになる。しかし、ポーランドは権威主義的な軍事独裁国家であった。このことも、ポーランドに住むOUNに大きな影響を与えた。ドミトロ・ドンツォフ(Dmytro Dontsov)は、ポーランドの敵であるロシア人とソ連を中傷する方が、ポーランド国家の怒りを買うよりずっと安全だと考えた。ドンツォフは元マルクス主義者で、ウクライナ民族主義は社会主義や民主主義のあらゆる要素を排除すべきだと主張した。彼はウクライナが国家樹立できなかったのは、この二つの要素に原因があると非難した。1922年までにドンツォフは、ムッソリーニのファシスト・イタリアに自分の手本を見出した。そして、さらに強烈な印象を受けたのはヒトラーとナチスだ。ドンツォフは、これらのファシスト思想家たち(ムッソリーニとヒトラー)の著作をウクライナ語に翻訳した。また、ムッソリーニやヒトラーを褒めそやす伝記の序文も書いた。彼は、バンデラと同世代の学生たちに、ファシズム、反ユダヤ主義、ロシア恐怖症を広めた。ニーチェ、フィヒテ、ルソーなどの哲学を低俗的に解釈し、ウクライナ人は従来の道徳を捨て、ウクライナ国家の誕生を本気で考えるならば、どんな犯罪もよろこんで犯す可能性があると主張した。ドンツォフは狂信を美徳とした。しかし、彼はポーランド政府に逮捕されることを恐れて、何度もOUNへの参加を呼びかけられたが、これを拒否した。

 以上で、ウクライナのファシズムを発展させ、あるいは鼓舞した知識人の紹介は終わりにする。次に第一次世界大戦とロシア革命にさかのぼり、OUNの歴史的起源を紹介しよう。OUNは二世代で構成されていた。上の世代は、第一次世界大戦中オーストリア・ハンガリー帝国側で戦った人たちである。その中には、後にOUNの指導者となるレフエン・コノバレッツ(Levhen Konovalets)を含むシーチ銃兵隊*を結成した者もいた。彼らは西ウクライナ出身であった。第一次世界大戦中、ガリシアはロシアとオーストリア、ドイツ軍との戦場となる。ロシアはガリシアを占領したが、再び追い出されることになった。
シーチ銃兵隊*・・・(ウクライナ語: Січові Стрільціスィチョヴィー・ストリリツィー、略称:С.С. 、 СС、SS)は、かつてウクライナに存在した軍事組織。シーチ射撃隊と訳されることもある。
「シーチ」とはウクライナ人が心の拠り所としていたザポロージエ・コサックの根拠地のことであり、一方「銃兵隊」(ストレリツィ)は中世の東欧で組織されていた鉄砲隊に用いられていた名称であった。「シーチ銃兵隊」という組織は旧来ザポロージエ・コサックに存在した軍事組織の名称であった。
この名称を持つ最初の近代的軍隊は、1914年にオーストリア・ハンガリー帝国領であったハルィチナーで結成されたウクライナ・シーチ銃兵隊であった。1917年にこの組織がオーストリア・ハンガリー帝国軍から離脱してキエフに移動、反ボリシェヴィキの立場からウクライナ中央ラーダの軍隊に加わり、その主力として活動した。(ウィキペディア)

 1917年、二月革命でツァーリが倒され、ケレンスキー(Kerensky)が支配する穏やかな左翼の「民主主義」が確立すると、ロシア領ウクライナのウクライナ民族主義者はラーダ(議会)を作り、ロシア帝国内での自治を宣言した。その代表として左翼のヴィニチェンコ(Vinnichenko)が首相に就任した。この年末、10月革命が起こり、ロシアではケレンスキー政権が倒された。ラーダはこの混乱に乗じて、1917年11月20日にウクライナ人民共和国(UNR)を宣言することにした。軍部の代表はシモン・ペトリウラ(Symon Petliura)で、彼は内戦中にユダヤ人を大量に殺害し、5~6万人を殺したことで悪名高くなる。OUNは彼をウクライナの英雄として公認することになる。1926年、ペトリウラは家族を失ったユダヤ人の生き残りであるアナーキスト、ショロム・シュワルツ(Sholom Schwartz)によって暗殺される。シュワルツは裁判でペトリウラ軍の恐ろしい犯罪を暴露し、同情的な陪審員によって無罪とされた。今日では、ペトリウラは再びウクライナの英雄とされるようになった。

 ソ連はドイツとの戦争を終わらせるために必死で、後にブレスト・リトフスク条約と呼ばれることになる条約について交渉していた。ウクライナ人民共和国は交渉に特使を派遣し、ドイツとオーストリアはその主張を認めた。ソ連交渉団も認めた。ソ連は、同時に、自称ソビエト・ウクライナ共和国も支援していた。このソビエト・ウクライナが使節を送ったとき、ドイツは彼らの参加を拒否した。ソ連とウクライナ人民共和国(UNR)の間には、緊張が高まった。UNRは、コルニロフ(Kornilov)将軍率いる白ロシア軍(反革命軍)と、ヘトマン・カレディン(Hetman Kaledin)率いるその同盟者たちにドン・コサック領内での活動を許していた。つまり、彼らは赤軍部隊とウクライナ・ソビエトに忠実な部隊の武装解除と、赤軍に所属するウクライナ軍のウクライナへの帰還を促す活動をしていた。1917年12月15日、ブレスト・リトフスク条約が締結され、ドイツとオーストリアは和平と引き換えにロシアの広大な領土を支配することになった。1917年12月17日、ドイツの脅威から解放されたソ連政府は、ウクライナ人民共和国に最後通牒を送り、①白軍を庇護したり、②ソ連軍の武装を解除したり、そして③赤軍の通行を阻止したりするのをやめるように要求した。イギリスとフランスの使節団は、ソ連の最後通牒に抵抗すれば、ラーダを援助することを約束した。ソ連は、ウクライナ人民共和国(UNR)を公式に承認しながら、ハリコフに共産主義政権を樹立しようとするウクライナの共産主義者の動きを支援していたのである。

 その詳細は、ここで論じるにはあまりに複雑である。しかし、ウクライナは赤軍、ドイツ軍、ポーランド軍、白ロシアの反革命軍との戦場となった。また、西ウクライナ軍、ペトルーラ軍、ウクライナの無政府主義者マフノ軍、様々な盗賊軍閥やコサックも戦っていた。キエフは十数回にわたって政権が交代することになる。当初、ウクライナ人民共和国は、赤軍が白軍を攻撃するために通過することを許可するというソ連の最後通告を拒否した。しかし、戦争は数カ月間回避された。やがて、赤軍はキエフを占領するようになった。それはラーダが国民の支持を失ったためだ。人々が望んでいたのは土地改革だった。多くのロシア語話者が迷惑に思っていたウクライナ化ではなかったのだ。ラーダ軍は脱走して赤軍に走った。しかし、ソビエト軍がキエフを支配したのは3週間だけであった。ラーダはUNRを承認しているドイツとオーストリアを頼った。ドイツ軍はウクライナに侵攻し、赤軍を撤退させた。シモン・ペトリウラ(Symon Petliura)の軍隊が権力を握った。1918年4月、ドイツはラーダを解散させ、ヘットマン・スコルパドスキー(Hetman Skorpadsky)下の傀儡政権を発足させた。ドイツは経済封鎖下にあり、国民は飢餓に直面していた。ドイツ軍はウクライナの穀物を略奪し、農民を激怒させた。1918年11月、ドイツ軍は崩壊し、ウクライナを放棄した。スコルパドスキーも一緒に退却した。ペトリウラと「理事会」と呼ばれる新ラーダ政府は、キエフで再び権力を握ったが、その後赤軍に放逐された。ペトリウラ軍は撤退する際、ユダヤ人に対する大規模なポグロム(大虐殺)を行った。ペトリウラ軍はしばしば共産主義勢力に扮してポグロムを行い、出迎えに来た共産主義同調者たちをまず殺害し、その後何日もかけて残りのユダヤ人を強奪、強姦、殺戮したのである。ドイツが戦線を離脱したことで、イギリスとフランスは、ソ連を破壊しようとする血気盛んな白人のデニキン(Denikin)将軍をだれにも制限されず支援することになった。皮肉なことに、デニキンはロシアの民族主義者で、ウクライナをロシアと不可分のものと考えていた。デニキンの軍隊は、同様に恐ろしいポグロムを実行した。ペトリウラはデニキンと、さらにはポーランドとも同盟関係を結んだ。

 西ウクライナでは、彼らは 1918 年 11 月 1 日にリヴィウで自分たちのウクライナ共和国であるZUNRを宣言した。その軍隊(UHA)の中核は、シーチ銃兵隊の退役軍人であった。同時にポーランドは第二共和国の独立を宣言した。リヴィウではウクライナとポーランドの民兵が街の支配権をめぐって争い、戦争が始まった。ガリシアの支配をめぐってポーランド・ウクライナの戦争が始まった。ポーランドは最終的に西ウクライナ共和国を潰し、吸収することになる。ZUNRの指導者たちは亡命し、UVO(ウクライナ民族主義者組織)を結成する。皮肉なことに、その軍隊から多くの者が赤軍に脱走することになるのだ。これは赤軍がポーランドとウクライナ人民共和国(ロシア領ウクライナ)と戦争をしていたからだ。また、ウクライナ人民共和国は、ポーランドに西ウクライナの支配をゆだねる協定をポーランドと結んでいた。ウクライナにおけるロシアの内戦の複雑な経緯を正しく伝えるには、独自の記事や本が必要だろう。しかし、いくつかの教訓は得ることができる。ウクライナの民族主義者たちは、独立を目指すはずなのに、喜んで外国勢力の道具となった。ウクライナの民族主義者たちは、自国が外国勢力に経済的に搾取されることを望んでいたのだ。ロシア領ウクライナでは、ウクライナ化は人々の心をそれほど惹きつけなかった。ソビエトが勝利した理由は、ウクライナの人々がより重視したのが自分たちの経済だったからだ。1919年1月22日、条約によって一時的に統合された時期もあったが、西ウクライナZUNRとロシアウクライナUNRは激しい敵対関係に終止符を打つことになった。皮肉なことに、大量虐殺(ジェノサイド)を夢見るOUNにとって、大量殺人者ペトリウラは英雄だった。彼が、ポーランドの支援と引き換えに東ガリシアの領有権を認めるという売国行為をしていたことなどどうでもよかった。ペトリウラ暗殺の10年後、OUNはウクライナ人にペトリウラの復讐のためにユダヤ人を殴るか殺すように促す小冊子を発行した。

 1921年3月18日、ついにポーランド・ソビエト戦争は終結した。ポーランドとソビエト連邦はリガ条約に調印し、ポーランドは東ガリシアとヴォルヒィニアを支配し、約500万人のウクライナ人を擁することになった。ウクライナ人はポーランド内最少数民族となり、人口比率は16%。OUNがウクライナ国家を立ち上げようと目論むガリシアの人口は、ポーランド人47%、ウクライナ人42%、ユダヤ人11%。東ガリシアでは、ウクライナ人が62%、ポーランド人が25%、ユダヤ人が12%だった。残りのウクライナはソビエト連邦内の共和国となり、2600万人のウクライナ人(またはロシア人)が住んでいた。チェコスロバキアには約50万人、ルーマニアには約80万人のウクライナ人が住むことになる。チェコスロバキアはウクライナの民族主義を支持し、ウクライナの学校と大学を許可していた。ウクライナには、ハンガリー人、ルーマニア人、ドイツ人など多くの民族が住んでいた。内戦終結後、ソビエト連邦内のウクライナは比較的安定していた。1920年代、社会主義を後退させたNEP(新経済政策)は、農民を優遇した。レーニンはウクライナのソビエト共和国に、ドネツクやルガンスクの工業地帯とともに、ノボロシヤという黒海沿岸のロシア領の広大な土地を与えた。この決定について、レーニンは今でもロシアの民族主義者から非難されている。ロシアは現在の戦争でこの決定を覆すつもりでいるようだ。レーニンはウクライナ化を強力に推進し、政府高官にウクライナ語を学ばせ、ウクライナ語の学校と大学を設立した。1923年、ソビエトは民族主義者のウクライナ人歴史家フルシェフスキー(Hrushevs’kyi)を説得し、ウクライナ科学アカデミーの長として新政府に参画させたほどである。

 1930年代、集団化はウクライナを含むソ連全土で飢饉と小競り合い的な内戦を引き起こすことになる。西側の歴史家は、ソ連が農業を集団化したことが悪いと言いたがるが、それは、何世紀にもわたってロシアを襲ってきた定期的な飢饉をついに終わらせたのが集団化だったという事実を無視したものである。集団化は、ソ連が工業化し、来るべきドイツの大量虐殺的な侵略に対抗するために必要な軍事力を確立するために必要だったのだ。OUNのディアスポラ(離散)メンバーは、(ソ連の)集団化政策の際に起こった飢饉が、計画的大量虐殺(ジェノサイド)「ホロドモール」*だと神話化し、それが第2次世界大戦中のOUNの恐ろしい犯罪を正当化するために利用されたのだ。OUNは、この飢饉はウクライナ人を一掃するために意図的に仕組まれたものだと主張している。これは、ロシアとカザフスタンも同様に被害を受けたという事実を無視したものである。さらに、穀物投機と、西側の買い手から高値を提示されたウクライナの商人による西側への大量の穀物の輸出が果たした役割も見落とされている。飢饉は、悪天候と西側による経済戦争の結果であった。主流派の歴史家たち(特に英語で書かれる文献において)は、ソ連の経済問題とその結果は、常に、そして完全にソ連政府の自作自演であったという見方を、今も捨ててはいない。
「ホロドモール」*・・・1932年から1933年(または1934年)にかけてウクライナ・北カフカース・クバーニなどウクライナ人が住んでいた地域をはじめ、カザフスタンなど、ソビエト連邦各地でおきた大飢饉。(ウィキペディア)

 今日、OUNはソ連を悪者にして自分たちの犯罪を正当化しているが、実のところ、OUNはウクライナ・ソビエトに存在したことはなく、ポーランドとヨーロッパに亡命して活動しただけであった。1939年9月のドイツ軍のポーランド侵攻後、モロトフ・リッベントロップ(Molotov-Ribbentrop)条約の一環としてソ連が西ウクライナを占領することになり、ウクライナは一時的に統一される。ソ連は、ナチス・ドイツのスパイであるファシスト・テロリスト集団OUNの弾圧を開始し、容疑者数千人を逮捕、数百人を処刑した。これは、1941年6月22日にドイツがソ連に侵攻するまで続けられた。

 OUNの起源は、ポーランド第二共和国である。1920年、ウクライナ西部でZUNRのために戦ったシーチ銃兵隊の退役軍人たちが、地下テロ軍団UVOを設立した。UVOはウクライナ語でUkrainian Military Organization(ウクライナ軍事組織)の略である。その創設者はレフエン・コナバレッツ(Levhen Konavalets)、アンドレイ・メルニク(Andrii Melnyk)、そしてローマン・スシュコ(Roman Sushko)の3人。コナバレッツは、UVO、そしてその後OUNとなった組織を死ぬまで統率した。メルニクはコナバレッツの後、OUNを率いた。UVOは大衆的な政治組織ではなく、ドイツのAbwehr(軍事情報機関)のためにスパイ活動することによって資金を調達するテロ集団であった。当初、ウクライナ民族主義者の主要政党は、法的・民主的手段による独立を目指すUNDOで、始めはファシズムやテロリズムに反対していた。しかし、1930年代になると、UNDOの右派は密かにOUNと密接に連携するようになった。UVOは、1929年1月28日から2月3日にかけてウィーンで開催された第1回ウクライナ民族主義者会議において、OUN(ウクライナ民族主義者組織)を設立した。OUNは、ポーランドで人気のあったウクライナ民族主義青年団からメンバーを集めた大衆政治組織となる予定であった。OUNは国民を教化し、ポーランド当局に対してテロ戦争を行う手筈になっていた。亡命中のOUNの指導者たちの古い世代はPUNを結成し、ステパン・バンデラなどの若い新人たちはポーランドに戻って祖国行政府のために働いた。PUNは、ウクライナのすべての政党を統合しようとして失敗したが、多くのウクライナの青年グループに潜入し、その支配権を獲得することに成功した。OUNの若い世代は、年長者よりもさらに過激であり、年長者は自分たちがファシストであることを隠さなかった。若い世代は、8歳で民族主義の若者集団に入り、15歳で10代向けの団体に移った。10代の彼らは、ドンツォフ(Dontsov)や他のファシストの著作を貪るように読んでいた。この若い世代には、ステパン・バンデラ(Stepan Bandera)、ヤロスラフ・ステツコ(Yaroslav Stetsko)、ローマン・シュケヴィチ(Roman Shukhevych)など、後に悪名高い犯罪者となる人物たちがいた。1930年代の初め、OUNの若い世代は非常に意欲的で、狂信的で、無謀な若者たちであった。歴史家は彼らを「バンデラ世代」と呼んでいる。

 ステパン・バンデラ(Stepan Bandera)は1909年1月1日、アンドレイ(Andrii)とミロスラヴァ(Myroslava)・バンデラ夫妻の間に生まれた。父アンドレイ・バンデラはギリシャ系カトリックの司祭であり、熱烈なウクライナ民族主義者で、短命に終わったZUNR(西ウクライナ)の代議員を務め、ウクライナ民族主義者の武装部隊の育成を助け、ZUNRの軍隊UHAの従軍牧師を勤めたことがある。ステパンの母ミロスラヴァはギリシャ系カトリックの司祭の娘であった。バンデラ家には4人の息子と3人の娘がいた。ステパン・バンデラは、村の教師が徴兵されたため、小学校には通わなかった。両親は彼を家庭学習させ、ギリシャのカトリック教徒として、狂信的な民族主義者に育てた。しかし、ステパンは父とは違い、宗教よりも国を大切にするようになる。

 若き日のステパン・バンデラは、民族主義者のスカウト集団「プラスト」に参加し、後にOUN祖国行政府の責任者となるヴァシル・オクリモヴィッチ(Vasyl Okhrymovich)と親交を深めた。この友情は、バンデラのOUNでの急速な出世につながった。バンデラは民族主義青年団OVKUHに入り、そこで後にOUNの悪名高い団員となるローマン・シュケビッチやヤロスラフ・ステツコと知り合った。10代になると、バンデラや他の若いOUN指導者たちは、ドンツォフやミフノフスキー(Mykhnovs’kyi)の著作を読んで過ごす狂信的なファシストとなった。バンデラの趣味は、歌うこと、ハイキング、物まねをすること、爪にピンを刺すこと、自分を鞭打つこと、自分の体を火傷させること、ドアの桟に指をぶつけることであった。拷問に耐えられるように訓練しようとしていたのだ。ウクライナの若い民族主義者たちにとって、ポーランドの高校は戦場だった。ポーランドは、彼らに新しいポーランド国家への忠誠を教えようと決意していた。バンデラのようなウクライナ人は、ポーランド民族主義の象徴を破壊し、可能な限り授業を妨害することで抵抗することを決意していた。バンデラにとって、教育は二の次だった。大義がすべてであった。バンデラは祖国行政府の長になると、高校時代の恩師イワン・バビイを、ポーランド政府の命令に従ったウクライナ人であるという理由で暗殺させることになる。

 1927年までに、バンデラはUVOに加わり、偵察活動を行うようになった。1928年の秋、バンデラはウクライナ民族主義の温床であるリヴィウの大学に移籍した。しかし、民族主義者の扇動や殺人事件との関連で逮捕され、学業が中断されたため、バンデラは卒業することはなかった。バンデラは、ある種の分裂した人格を持っていた。彼は、組織作りのためには真剣そのものであった。しかし、仕事が終わると、仲間のOUNメンバーと冗談を言ったり、悪ふざけをしたりするのが大好きだった。また、あまりぱっとしない体型だったが、人を魅了する話術の持ち主であった。1929年の春、バンデラはOUNに参加した。彼は人を纏めることに長けており、急速に出世していった。1930年までにステパン・バンデラは、OUNのプロパガンダの配布を担当するようになった。彼は、しばしば女装してOUNの任務を遂行したため、女性を意味する「ババ」というあだ名で呼ばれた。1931年、バンデラはチェコスロバキアとグダンスクからOUNのプロパガンダを密かに運び込む責任者になった。この年は、彼の親友でOUNの祖国行政府のトップであるオヒモビッチ(Okhymovich)が死亡した年でもある。ポーランド当局に逮捕され、拷問を受けた可能性がある。イワン・ハブロセビッチ(Ivan Habrosevych)が祖国行政府の新しい代表となり、彼が逃亡を余儀なくされたとき、後任にはバンデラを、と希望した。しかし、バンデラは1932年6月まで獄中にあり、出所後はとりあえず副指導者ということになった。1933年1月までには、バンデラは事実上の祖国行政府の代表になり、1933年6月にベルリンで開かれたOUN会議で正式な委員長になった。バンデラの指導により、OUNの活動は大規模に過激化し、有名人の暗殺が行われることになる。彼は亡命中のOUN指導部であるPUNの命令に従って行動していた。

 PUNは、米国とカナダに離散したウクライナ人の間で資金集めに役立つような、華々しい攻撃を行うためにバンデラを必要としていたのだ。OUNの権力と影響力は、ウクライナ・ロビーという形で、その後数十年にわたり米国とカナダで拡大し続けることになる。もともとカナダのウクライナ人は左翼として悪名高く、ロシア10月革命後は共産主義新政権を広く支持したため、国家安全保障上重大な危険と見なされていた。しかし、ロシア内戦が終わると、多くの白系ロシア人とウクライナ人民族主義者がカナダとアメリカに移住することになる。西ウクライナのUHA軍の退役軍人はウクライナ戦争退役軍人協会を結成し、ウクライナ国民連盟と共にOUNのために4万ドル以上の資金を調達した。アメリカでは、ヘンリー・フォードがウクライナ人ファシストの凶悪犯を使い、組合組織へのテロ活動を行った。

 OUNの主な資金提供者は、ドイツ、リトアニア、イタリアであった。ドイツとリトアニアは、資金、軍事訓練、パスポートを提供した。第一次世界大戦後の国境紛争で、ポーランドはリトアニアの主要都市を含む重要な領土を占領した。リトアニアは報復のためにOUNに資金を提供した。イタリアはOUNの訓練基地を提供し、ステパン・バンデラの弟オレクサンドル(Oleksandr)はファシスト国家のイタリアで数年間、政治学の学位取得のために勉学し、ファシスト活動に従事した。イタリアはクロアチアのウスタシャ*の主要な支援国であった。OUNはクロアチアのウスタシャと緊密な同盟関係にあり、この2つの勢力は共に訓練を受け、共謀していた。この2つの勢力は、後にナチスをも驚愕させるほどの残虐な行為を行ったという特徴を持つようになる。冷戦時代には、両勢力は最も影響力のあるファシスト移民集団のひとつに数えられるようになる。冷戦終結後、両勢力は再び力を取り戻す。クロアチアのウスタシャは1990年代前半にフランヨ・トゥジマン(Franjo Tudjman)のもとで復活し、OUNは2004年と2014年に内戦とNATOの介入を煽った。前者は再びユーゴスラビア破壊の導火線となり、後者はロシアとの戦争に再び火をつけることになる。ナチス・ドイツはOUNの最も重要なスポンサーだった。UVO/OUNのスパイ活動は、ドイツ軍がポーランドに侵攻した際、間違いなく役に立った。ナチス・OUNの同盟関係については後ほど触れることにする。OUNの背後にはイギリスのMI6がいた事実を、ポーランドもつかんでいたことは興味深い。
ウスタシャ*・・・20世紀のクロアチアに存在したファシズム政党・民族主義団体。第二次世界大戦中にドイツと同盟を結び、大量虐殺を行ったことで有名である。(ウィキペディア)

 ポーランドでのOUNのテロ作戦に目を向ける前に、OUNの基底概念について考察してみよう。OUNはその後数十年間、ナチスとの協力関係を正当化したり否定したりすることになる。しかし、実際には、彼らが犯罪を実行したのは、ドイツの主人を喜ばせるためだけでなく、彼ら自身の基底概念にも完全に合致していたからである。OUNは公然たるファシストであった。しかし、初めのころは、国家の支配なしにファシズムが可能かどうかという議論もあった。結局、彼らは国家を樹立するためには、ファシスト運動が必要だと考えた。この運動は、ヒトラーやムッソリーニが既存の国家を掌握するために作り出したようなものでなければならないだろう。OUNは、2種類の革命を信じていた。一つは「永久革命」であり、OUNは、それを自分たちの考えるウクライナ民族主義を大衆に教え込むための果てしない戦争と呼んでいた。ウクライナ人は、ポーランド政府との闘争に絶えず動員され、その過程でますます先鋭化していった。

 第二の革命は、「民族革命」であった。OUNによって統一されたウクライナ国民は、ファシスト独裁政権を設立し、ウクライナ国家を建設することになる。OUNは、共産主義以上に民主主義を軽蔑していた。彼らは、プロヴィドニク(Providnyk)またはヴォーズド(Vozhd)というウクライナ版総統と呼ばれる独裁者を求めていた。民族革命が成功すると、OUNは敵をすべて排除するようになる。ユダヤ人、ポーランド人、ロシア人、その他の少数民族などだ。ユダヤ人がウクライナ人よりも多い都市は浄化される。ウクライナ人と他の民族との婚姻は禁止される。スポーツ、文化、宗教、経済など、生活のあらゆる分野がOUNの目標達成のために再編成される。OUN以外の政党はすべて禁止。OUNの基底概念は、ナチスの基底概念と交換可能なものであった。彼らの計画は、ナチス・ドイツのニュルンベルク人種法*に触発されたものである。1930年代後半には、ヒトラーは西ウクライナでは英雄とされ、OUNはドイツがポーランドに侵攻し、ウクライナ人が自分たちのファシスト独裁政権を樹立できるようになることを望んでいた。しかし、ヒトラーはウクライナに対して別の計画を持っていた。
ニュルンベルク人種法*・・・1935年9月15日に国家社会主義ドイツ労働者党(以下ナチ党)政権下のドイツにおいて制定された2つの法律「ドイツ人の血と名誉を守るための法律」(Gesetz zum Schutze des deutschen Blutes und der deutschen Ehre)と「帝国市民法」(de:Reichsbürgergesetz)の総称。ユダヤ人から公民権を奪い取った法律として名高い。

 永久革命を行うために、バンデラと祖国にいる幹部はテロ作戦を展開し、それは小競り合い的な内戦となった。OUNは、自分たちのテロ作戦がウクライナ人の大量投獄につながることを正しく予見していた。バンデラは、森で活動するOUNの残留者たちの繋がりを構築するよう命じられた。UVOは1921年に、後にポーランドの独裁者となるピウスツキ(Pilsudski)を暗殺しようとしたことがある。ステパン・バンデラの名誉とも不名誉ともなったのは、このOUNの暗殺作戦であった。1930年代、OUNは何百人もの犠牲者を出した。ウクライナの民族主義者を馬鹿にしたポーランド人は、しばしば死ぬことになった。OUNを批判したウクライナ人もそうだった。バンデラは、OUN内部の裏切り者を殺すことにも執念を燃やしていた。バンデラは特に大規模なプロパガンダ作戦を仕掛けることに長けていた。OUNの団員が殺されると殉教者にされ、ギリシャ・カトリック教会の援助を受けて、その人を中心とした礼拝の儀式がきちんと執り行われた。これはバンデラの時代以前から始まっていたことだが、バンデラはこれを一般民衆に広めることに成功した。OUNは外国からの資金に加えて、武装強盗で資金を調達していた。銀行や郵便局を狙った。強盗の一人が殺されると、彼はウクライナの英雄に祭り上げられた。OUNの裁判や逮捕はすべて、OUNの宣伝のために利用された。ウクライナの民族主義者たちは、西ウクライナの短命だったZUNR政府の戦死したUHA兵士を称えるために墳墓を築き上げた。バンデラは、ウクライナのすべての村に、そこに兵士がいる、いないに関わりなく兵士を埋葬する墳墓を築き、そこでのOUN行事に結集するよう命じた。ポーランド政府は墳墓の破壊を命じた。やがてガリシア全土で、ウクライナの村人たちは墳墓を守るために鍬や熊手を持って警察と戦うようになった。OUNは、ポーランド兵や警察官の墓も破壊し始めた。もし政府が墳墓を破壊しても、それはすぐに再建されることが多かった。

 バンデラは、タバコも酒も嗜まなかった。1933年の夏、バンデラは全国的な酒とタバコの不買運動を決行した。しかし、彼の目的は健康問題の先にあった。彼の真の標的は、酒とタバコを売るユダヤ人商人と、その売上から分け前を得るポーランド政府であった。バンデラは、不買運動中に飲酒したウクライナ人を逮捕し、ユダヤ人の経営する酒場を焼き払う放火作戦を命じた。OUNはさらに反ユダヤ計画を展開し、OUNのチンピラ集団はユダヤ人居住区の窓ガラスをすべて割って回った。また、ユダヤ人の家を焼き払い、ポーランド人の農場を破壊して回った。さらにOUNは、ポーランドの鉄道路線や通信インフラを破壊しようとした。バンデラは、学校に掲示されたポーランド民族主義の象徴を破壊する大規模な作戦を展開し、教師の暗殺を命じた。OUNは、親共産主義者と思われる新聞社を爆破した。この時期に殺された何百人ものOUNの犠牲者のほとんどは、このように歴史にまったく名前が残らないごく普通の人々であった。

 OUNによる数々の要人暗殺はOUNの評判を落とし、バンデラの政治家としての道はそれでほぼ断たれた。1933年10月22日、OUNはウクライナの飢饉に抗議するため、リヴィウのソビエト領事を殺害しようとした。しかし、暗殺者は人違いで領事館の秘書アレクセイ・マイロフを殺害し、ポーランド人の清掃員にも傷を負わせた。暗殺者ミコラ・レミックは終身刑に処された。1934年3月31日、バンデラは、ポーランド情報部とつながりがあるのではないかと疑ってOUNメンバーのバチンスキーを暗殺するよう命じた。暗殺者たちはこのバチンスキーと親しかったため、皆で酒を飲み、それから友人である彼を殺害した。1934年6月15日、OUNの最も成功した暗殺。ポーランド内務大臣ブロニスワフ・ピエラツキ(Bronislaw Pieracki)をワルシャワで殺害したのだ。暗殺者フリホリイ・マツェイコは、まずピエラツキを自爆で殺害しようとした。しかし、引き金の引きが弱く、爆弾は破裂しなかった。しかし、マツェイコはピエラツキを追いかけ、後頭部に2発撃った。そして、追っ手に発砲し、警官を負傷させた。OUNの助けを借りて何とか脱出した彼は、チェコスロバキアに密かに導かれ、リトアニアのパスポートでアルゼンチンに逃亡した。死の朝、ピエラツキはナチスの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスと会っており、ドイツがOUNの脱走者たちに避難場所を提供したため、厄介なことになった。当初、警察はポーランドのファシスト集団UNRの犯行とみていた。しかし、不発弾や黄色と青のウクライナ国旗が縫い付けられた服など、ずさんにもこの暗殺者は手がかりを残していたのだ。実はステパン・バンデラはその暗殺の前日、爆弾製造者を含む20人のOUNメンバーを捕らえた襲撃で逮捕されていた。ポーランド人は、バンデラがOUN祖国行政府の代表であることをまだ知らなかったようだ。バンデラ容疑者は、OUNの団員であることも含めて、すべてを否定した。

 1934年6月17日までに、警察はピエラツキ事件を解決していた。しかし、警察はそのことを公にはしなかった。ピウスツキはピエラツキを、アメリカが暗殺された大統領を埋葬するときのように華々しく、国民的殉教者にしてしまったのだ。ポーランドでは国家的な喪に服することが宣言された。棺は汽車で全国を回り、あちこちで弔問客に迎えられた。こうしてポーランドは、1934年7月10日に政府がOUNの責任であると発表したとき、熱狂に包まれた。その2週間後、OUNはバンデラの命令で再び暗殺を実行し、ウクライナ人の高校監督兼教師イワン・バビイを殺害することになる。バビイは、かつて仲間の試験でカンニングを手伝ったバンデラを処罰したことがあった。暗殺者のミハイロ・ツァーリは、逃げ切れないと悟り、自ら頭を撃ち抜いた。この殺人は、ウクライナの民族主義的新聞をも激怒させ、OUNをテロリストとして糾弾する記事を載せた。1934年10月9日、フランスのマルセイユでユーゴスラビア国王アレクサンドル1世とフランス外相ルイ・バルトゥーをウスタシャが暗殺する事件があったが、OUNはその共犯者であった。ムッソリーニは、両派との関係が露見して困惑し、ウスタシャとOUNをシチリアの2つの小さな別々の村に閉じ込めるよう命じた。ウスタシャによる暗殺事件の裁判は、1935年に行われた。ポーランドで行われたOUNの裁判と同時だった。

 ポーランドでは、OUN指導者の2つの大きな裁判が行われた。ワルシャワ裁判はピエラツキ暗殺事件を扱い、1935年11月18日から1936年1月13日まで続いた。リヴィウ裁判は、OUNの他の殺人や犯罪を扱い、1936年5月25日から1936年6月27日まで続いた。合わせて20人ほどの被告が裁かれた。チェコスロバキアの情報機関がOUNの指導者の家を急襲し、数千ページのOUN文書を押収し、ポーランド政府に閲覧を許可した。この「セニーク(Senyk)文書」は、OUNの目標や組織について多くのことを明らかにした。ステパン・バンデラや多くのOUNの団員は、全てを否定し続けた。しかし、数人のOUNの団員はOUNに反旗を翻し、国側の証人として証言することに同意した。そうすれば、OUNは間違いなく彼らを復讐のため殺すだろうということを知った上でのことである。OUNの脱退者の中には、ウクライナ人、特にOUNの仲間の殺人に罪悪感を抱いている者もいたのだ。また、尋問で屈服した者もいた。ポーランドのゼレンスキー検事は、OUNに対する国家の訴えを立証するのに成功した。ワルシャワの裁判では、バンデラ被告らはポーランド語で証言する(彼らはみんなポーランド語に堪能だった)ことを拒み、裁判所もウクライナ語での証言を許さなかった。バンデラ被告は、法廷侮辱罪として法廷から引きずり出され、叫び声を上げた。OUNが初めて「スラバ・ウクライナ(Slava Ukraini)」という掛け声をロマ(ナチ)式敬礼と組み合わせて公然と使い始めたのは、このワルシャワ裁判のときであった。ヴィラ・スヴィエンチツカ(Vira Svientsitska)は、ポーランド語での証言を拒否したために法廷から引きずり出されたとき、法廷で敬礼とともにこの掛け声を叫んだ最初の人物である。バンデラとミコラ・レベド(Mykola Lebed)は、判決の際にこのスローガンを叫ぶことになる。レベドは、戦時中にドイツ軍のために恐ろしい犯罪を行った後、後にCIAの支援を受けたOUNの中心人物だ。ステパン・バンデラ、ミコラ・レベッド、爆弾製造者イアロスラフ・カルピネッツは、1936年6月13日にワルシャワ裁判が終了すると、全員が死刑判決を受けることになった。他の被告は、8年から15年の長い懲役刑に処せられた。OUNにとって幸運だったのは、ポーランド議会が1936年1月2日に死刑を廃止していたことだ。この法律により、何十万人ものポーランド人を殺害することになる運動の指導者たちの命は救われた。その代わり、彼らは終身刑を宣告された。ポーランドはピエラツキ殺害事件を口実に、ウクライナ人の収容所を建設した。多くの下っ端OUN団員が現地で裁判にかけられた。1938年、ポーランド警察が民族主義者のデモ隊を弾圧した結果、ウクライナ人が経営する農業会社が都市への供給を拒否すると、ポーランドは約3万人のウクライナ人を投獄した。

 リヴィウ裁判はもっと緩やかだった。被告はウクライナ語で証言することが許され、OUNは自分たちの犯罪を否定する代わりに、それを正当化しようとした。バンデラは法廷での長い演説を許され、自分を悪者のポーランド人やロシア人から貧しいウクライナの農民を助けるロビン・フッドのような人物であるかのように描写した。彼は、亡命中のOUN指導者コナベレツ(Konavelets)を無視して、OUNのプロヴィドニク、つまり総統として名乗りを上げた。演説の中でバンデラは、OUNの真の評価は死ぬ意志ではなく、殺す意志であり、目的を達成するためには何百人ではなく何千人もの人々が死ぬ必要があると主張した。手前勝手な嘘に満ちたバンデラの伝説的なリヴィウ法廷での演説は、今日でもウクライナのファシストたちによって繰り返し読まれている。リヴィウ裁判によって、バンデラはポーランド在住のウクライナ人や流浪する(ディアスポラの)ウクライナ人の間でスーパースターになった。

 ピエラツキ暗殺の前日に逮捕されたバンデラは、1939年9月に脱走するまでポーランドの刑務所に収監された。バンデラと他のOUNの囚人たちは、獄中での時間を勉強と組織作りのために使った。彼らは、仲間のウクライナ人囚人たちに読み書きを教え、OUNのリーダーたちはそれぞれ異なる学術的なテーマで講義を行った。バンデラとOUNは、獄中でフリョーリイ・ペレヒナク(Hryorii Perehinak)を指導した。彼は、戦時中ヴォルィニアでポーランド人の大量殺戮に大きな役割を果たすことになる人物だ。バンデラとOUNは、3回のハンガーストライキを行ったが、その都度ポーランド人看守が鼻から食べ物を注入することで、ハンストは終わった。また、OUNはバンデラ解放のための策略も練っていた。修道士になりすましてバンデラの逃亡を手助けしようという計画もあった。しかし、ポーランド当局はOUNの手紙を読んでいて、計画者たちを逮捕した。また、海外のウクライナ人から集めた金で、刑務官に賄賂を渡して釈放させるという計画もあった。(しかし次の二つの理由のいずかのために)この計画は中止になった。理由①これは、逃走するバンデラを殺す策略かもしれないことを恐れたこと、理由②バンデラが逃走すると他のOUNの捕虜に報復されることを恐れたこと。このようなOUNの計画を懸念した当局は、ある刑務所に監視塔を建設し、またバンデラを移動させ続けた。バンデラ脱走計画は、1938年5月22日にOUNの代表であるコナバレツがロッテルダムで暗殺されると、さらに激しさを増した。バンデラの支持者は、彼がOUNの支配権を得るために、彼を自由にすることを望んだ。ポーランドは彼をブレストの刑務所に移した。 

 1939年9月1日、ついにナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まった。その混乱の中、1939年9月13日、バンデラはついに脱出することができた。バンデラはリヴィウに向かった。ドイツ軍の一部はガリシア地方を占領していた。OUNが蜂起し、3,000人のポーランド人と不特定多数のユダヤ人を虐殺し始めた。ポーランド軍の残党は、ウクライナ人やユダヤ人を大量に殺戮していた。しかし、バンデラは、ウクライナ西部がモロトフ・リッベントロップ協定*によってソ連の勢力圏に入ろうとしていたため、OUNが権力を握るにはまだ時期が早いとすぐに悟った。バンデラと多くのOUNメンバーは、ドイツが占領しているポーランド西部の総督府と呼ばれる地域に向かった。1939年9月17日、ソ連はポーランドに侵攻し、長年にわたるOUNのプロパガンダにもかかわらず、多くの西ウクライナ人は彼らを解放者として迎え入れた。バンデラの家族は、やがてソ連によるウクライナ西部のOUNへの弾圧に巻き込まれることになる。1941年3月、ドイツ軍のソ連侵攻の数ヶ月前に、ソ連はステパンの父アンドレイとステパンの姉二人を、OUNメンバーをかくまった罪で逮捕した。姉たちはシベリアに追放され、父親は銃殺の判決が下された。
モロトフ・リッベントロップ協定*・・・1939年8月23日にナチス・ドイツとソビエト連邦の間に締結された独ソ不可侵条約。

 バンデラは、3万人のOUN団員とその同調者が住むことになるクラクフ(Cracow)を目指した。そこに向かう途中、バンデラはヤヴォリの町に立ち寄った。そこでOUNとドイツ軍が地元のユダヤ人を残酷に虐殺し、地元のシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝所)を焼き払った。バンデラはこの事件や他のOUNによる大量殺人について言及することは一度もなかった。クラクフに到着したバンデラは、すぐに将来の妻となるOUN団員のイアロスラヴァ・オパリウンスカ(Iaroslava Oparivska)に出会った。二人は1940年6月に結婚することになる。(しかし)バンデラの心にあったのは、感傷以上のものだった。彼は、OUNの支配権を握ろうと考えていたのだ。

 1939年11月、バンデラはスロバキアのある温泉で開かれたOUNの会合に向かった。その後ウィーンに向かい、現国家主席のロパティンスキ(Lopatyns’kyi)と合流した。そしてローマに向かい、OUNの新代表アンドレイ・メルニクと対決することになった。メルニクはUVOとOUNの創設メンバーであったが、西ウクライナではバンデラほど有名ではなかった。メルニクは 1939 年 8 月にローマで開催された第 2 回ウクライナ国民党大会で OUN の代表となった。暗殺されたOUN代表コノヴァレッツは、遺言でメルニクを後継者に指名していた。バンデラの信奉者たちは、この遺言は偽造であると主張した。バンデラは、メルニクの首席顧問たちを裏切り者とみなしていた。バンデラとロパチンスキーは1940年1月中旬にローマに到着した。ステパンは、1933年にローマに来てから政治経済学の博士号を取得した弟のオレクサンドルと再会した。そして、メルニクに会い、①顧問たちを解任すること、②バンデラの選んだ者をOUNの指導者に任命すること、そして③スイスに亡命すること、を要求した。メルニクは、バンデラを顧問の一人にすることを申し出たが、祖国行政府に服従することを要求した。バンデラは、メルニクが自分の暗殺も命じたと思い、身を隠すようになった。

 OUNは、メルニク率いるOUN/Mとバンデラ率いるOUN/Bに分裂する方向に進んでいた。1940年2月10日、バンデラとその支持者であるローマン・シュケヴィチらは、OUNの革命的指導体制を宣言した。やがて、両者は互いに相手をOUNから追放するようになった。そして、ユダヤ人と結婚している、ソ連に秘密裏に支配されている、などと非難し合った。ちょっとした喜劇のような展開になり、やがて暗転する。戦時中、バンデラはOUN/Mのライバルの多くを暗殺させた。その中には、彼が裏切者のレッテルを貼ったメルニクの顧問たちも含まれていた。今日、高官の裏切り者に対するウクライナ民族主義者の執着は、マイダン後のウクライナに決定的な特徴として残っている。バンデラのOUN/BがOUN/Mとの権力闘争に最終的に勝利したのは、ソ連支配下の西ウクライナのOUN活動家たちとより良好な関係を保ち、ドイツ支配下のポーランドのウクライナ人の間でより人気があり、若者たちにも人気があったからである。ナチスはOUN/MとOUN/Bの両方と密接に協力することになる。彼らは、より管理しやすいOUN/Mを好んでいたようである。思想的には両者の間にほとんど違いはなく、OUN/BとOUN/Mはどちらがより親ナチであるかをめぐって争っていた。

 1941年3月31日から4月3日まで、OUN/Bはクラクフで独自の第2回ウクライナ民族主義者会議を開催し、メルニクをOUNの代表に任命したローマでの第2回会議を意図的に無視した。バンデラはOUNのプロヴィドニク(総統)と宣言された。OUN/Bは、自分たちの基底概念を表現したパンフレットを発行した。ソ連侵攻までの数ヶ月間、彼らはドイツ軍情報部(Abwehr)担当者たちと共に計画を練っていた。OUN/Bは、「ソ連のユダヤ人はボルシェビキ政権の主要な柱であり、ウクライナにおけるモスクワ帝国主義の前衛である」と主張した。彼らは、ベラルーシ人、フィンランド人、リトアニア人、エストニア人、ラトビア人、その他の「奴隷国」と同盟して、ソ連を破壊する計画を立案中だ、と発表した。彼らは、集団農場を破壊し、自由企業システムに置き換えることを発表した。血と土の象徴である赤と黒のOUN/B旗を作成した。そして、「一人民、一党、一指導者」という方針を打ち出した。1941年4月10日、OUNは、ナチスがユーゴスラビア王国からクロアチアの傀儡国家を切り出すことをウスタシァに許したことに喜びを表明した。その聖職者ファシスト国家クロアチア初代大統領には、1941年、フランヨ・トゥジマンが就任した。そして、ユダヤ人、ジプシー、セルビア人と正教徒に対する大量虐殺作戦を展開した。OUN/Bは、クロアチアの独裁者アンテ・パヴェリッチに個人的に祝電を送った。ナチスはすでにスロバキアにファシストの傀儡国家を作り上げていた。それゆえOUN/Bは、ナチスがドイツの侵攻後にバンデラを独裁者としてウクライナを支配することを認めると確信していた。

 1939年から1941年にかけて、OUNの両派は、ヴィルヘルム・カナリスが率いるドイツの軍事情報機関Abwehrや、SSと密接に連携していた。Abwehrの担当者は、ヴィルヘルム・カナリス、テオドール・オーバーランダー、ハンス・コッホ、そしてアルフレッド・ビサースであった。オーバーランダーは、ウクライナや汎トルコ主義のSS部隊との関係で悪名高い存在となる。Abwehrは、ドイツ占領下のポーランドとソビエト支配下の西ウクライナでOUNの訓練と武装のために資源を提供した。Abwehrは350人のOUN団員をナハティガル大隊に、330人のOUN団員をローランド大隊に採用した。さらに800人のOUN/Bメンバーが、クラクフのイエベン・コノヴァレツ軍事学校で、現地政府を掌握し、ウクライナ人民兵を集めて大量虐殺を実行する任務部隊を編成するための訓練を受けた。AbwehrはOUN団員をスパイ、翻訳者、兵士として採用した。Abwehrはまた、西ウクライナからの難民を訓練し、ソ連に潜入させるために送り返した。ソ連は越境した486人を捕らえることができた。Abwehrは、OUNにソ連軍を後方から攻撃させることを計画していた。

 1941年5月、OUN/Bは数週間の作業の後、同年6月22日に始まるナチスのソ連侵攻作戦(バルバロッサ作戦)に参加するための計画を最終的に決定した。ドイツ軍はOUNに侵攻の正確な日付を伝えるので、ソ連の地下にいるOUNは準備を整えることができた。彼らの計画は、「戦時下におけるOUNの闘争と活動」(略して「闘争と活動計画」)に記録されている。ステパン・バンデラ、後の戦争犯罪人ローマン・シュケヴィチ、レンカヴスキュイ、ヤロスラフ・ステツコ(後の世界反共産主義同盟の反ボルシェビキ圏国家代表であり、レーガンのホワイトハウスに招かれる)の三人が書いたものである。その目的は「ウクライナの全領土にウクライナ民族の全体主義的権力を確立すること」であった。OUN/Bの将来の同盟国として、バルト三国、ベラルーシ、フィンランド人などソ連の他の少数民族を挙げている。もちろん、彼らの重要な同盟国はナチス・ドイツそのものであった。OUNの活動家たちは、ウクライナの独立を宣言し、ステパン・バンデラの名でドイツ軍を歓迎するために地方を回ることになった。彼らは、赤軍との戦闘は避け、ドイツ国防軍に任せることにした。その代わり、彼らは田舎を組織することになる。この計画では、OUNを支持しないポーランド人、ロシア人、ユダヤ人、ウクライナ人を明確に明確な敵として特定していた。これらの敵は清算されることになっていた。この計画では、18歳から50歳までのすべての男性で構成される民兵を地方に結成することを求めていた。森や荒涼とした場所に自分たちの敵を引きずり出し、虐殺する。ユダヤ人はすべて登録され、抹殺されることになっていた。OUN/Bは、ポーランド人とNKVD*へ情報提供者の死亡者リストを作成することになっていた。OUN/Bは、ユダヤ人、ロシア人、ポーランド人で溢れる都市を粛清するために、郡部で人員を募集する予定であった。OUN/Bはすべての現地行政を掌握し、教育制度をウクライナのファシスト路線に沿ったものに作り変える。この計画では、6歳から子供たちを洗脳する青年団を作ることを求めていた。10歳になると次の組織に入り、18歳になると次の組織に入り、21歳になるとOUN、準軍事組織、文化・スポーツ戦線のいずれかに参加させるというものであった。この計画では、大衆を動員するためのOUN/Bファシストの呼びかけ文句の膨大な一覧が用意されていた。「モスクワのユダヤ共産主義に死を」、「ウクライナ人のためのウクライナ」。言い換えれば、OUN/Bはステパン・バンデラが率いるファシスト独裁政権を作り、ユダヤ人、ポーランド人、ロシア人、そして彼らの計画の障害となるウクライナの人々を排除しようと計画していたのである。
NKVD*・・・内務人民委員部(ないむじんみんいいんぶ)は、ソビエト連邦のヨシフ・スターリン政権下で刑事警察、秘密警察、国境警察、諜報機関を統括していた人民委員部。「エヌカーヴェーデー」と略称される。

 しかし、ヒトラーはウクライナとソ連に対して独自の計画を持っていた。ヒトラーの狂気の夢の中では、ウクライナはドイツ版アメリカ西部やイギリス領インドになる運命にあったのだ。彼は、ウクライナの植民地化によってドイツ人入植者が硬化し、変貌していく姿を思い描いていた。ヒトラーは西部劇とカウボーイの大ファンであった。彼の考えでは、ウクライナ人はロシア人と同じように、虐殺され奴隷にされるべき劣ったスラブ人であった。ウクライナは大ドイツの一部となる。ウクライナは大ドイツの一部となり、国民を奴隷にする計画だった。より現実的なナチスの見解は、アルフレッド・ローゼンベルク*とヴァッフェンSS*が唱えたもので、彼らはウクライナ人のような東ヨーロッパに多くの有用な同盟者を見出し、ファシズムは国際性を持つとの見解を唱えたのである。戦争中、流れがナチスに不利になると、ナチスはますますこの実用的な考えを採用し、ウクライナのファシストの同盟国にますます依存するようになった。
アルフレッド・ローゼンベルク*・・・1893-1946。ドイツの思想家。国家社会主義ドイツ労働者党対外政策全国指導者)。第二次世界大戦期には東部占領地域大臣も務めた。ニュルンベルク裁判で死刑判決を受け処刑された。

ヴァッフェンSS*・・・武装親衛隊。国家社会主義ドイツ労働者党の親衛隊における武装組織である。


 1941年6月22日、ドイツはソビエト連邦に侵攻し、OUNはドイツ国防軍に続いてウクライナに侵攻することになる。その後数年間は、ソビエト国民に計り知れない苦しみと恐怖をもたらすことになった。OUNの歴史は最も血なまぐさい局面を迎えることになる。彼らは、ドイツ軍がウクライナや他の占領地で行った大量殺人やその他の犯罪の手助けに、重要な役割を果たすことになる。これらについては、このシリーズの第2回で述べることにしよう。

Sources:
参考資料:
 私の主な情報源は、Grzegorz Rossolinski-Liebe著の非常に詳しい『Stepan Bandera The Life and Afterlife of a Ukrainian Nationalist Fascism, Genocide, and Cult(ステパン・バンデラ ウクライナの民族主義者の生涯、虐殺、カルト)』。ウクライナのファシズムの歴史に関心のある人にはぜひお勧めしたい。

 ロシア内戦中のウクライナの項は、エドワード・ハレット・カーの古典『ボルシェビキ革命1917-1923』第1巻289-307ページに依拠している。ロシア革命の政治、経済、外交史について深く研究したいのであれば、3巻シリーズの一部をお勧めする。

 ヒトラーのウクライナに関する計画の部分は、ドイツによるウクライナ占領の恐ろしさを伝えるウェンディ・ローワー(Wendy Lower)の『ナチスの帝国建設とウクライナのホロコースト』に依拠している。

 2014年のマイダン・クーデター後のウクライナのファシズムについては、クリス・カスパー・デ・プログ(Chris Kaspar de Ploeg)の『Ukraine in the Crossfire』をお勧めする。

「詐欺、飢饉、ファシズム」のPDF版。ダグラス・トットル(Douglas Tottle)著『ウクライナ人虐殺神話 ヒトラーからハーバードまで』は、「ホロドモール」*神話の実態を暴いている。
「ホロドモール」*・・・ウクライナ語で飢え・飢饉を意味するホロド (holodo)と、殺害、絶滅、抹殺、または疫病を意味するモル (mor) との合成語・造語で、飢餓による殺害 (death by hunger) を意味する。具体的には、1932年から1933年(または1934年)にかけてウクライナ・北カフカース・クバーニなどウクライナ人が住んでいた地域をはじめ、カザフスタンなど、ソビエト連邦各地でおきた大飢饉を指す。この飢饉は、当時のソ連のスターリン政権による計画的な飢餓、または不作為による人災、人工的・人為的な大飢饉であったことが明らかになっている。ソ連政府の五カ年計画において、コルホーズ(集団農場)による農業の集団化や、クラーク(富農)撲滅運動において反ソ連分子を強制収容所(グラグ)に収容したり、さらに穀物の強制徴発、ノルマを達成しない農民への弾圧や処罰などを原因として発生した。「富農」と認定されたウクライナ農民たちはソ連政府による強制移住により家畜や農地を奪われ、「富農」と認定されなくとも、少ない食料や種子にいたるまで強制的に収奪された結果、大規模な飢饉が発生し、330万人から数百万人ともされる餓死者・犠牲者を出した。
特にウクライナでの被害が甚大で、かつウクライナを標的としたソビエトの政策が飢饉の原因であったことから、ホロドモールはソビエトの政策に抵抗したウクライナの農民に対するソビエト国家による攻撃の集大成であるともされる。ホロドモールがジェノサイドに該当するかについては議論がある。(ウィキペディア)


Click to access tottlefraud.pdf

Additional details on massacres of Jews during the Russian civil war in Ukraine can be found in Yasha Levine’s recent articles.
Yasha Levine on Petliura
https://yasha.substack.com/p/my-ukrainian-grandma-and-our-lost
Yasha Levine on Denikin
https://yasha.substack.com/p/white-russian-saviors
Yasha Levine on the Holodomor

https://yasha.substack.com/p/holodomor-and-the-erasure-of-jewish?r=45jbs&s=r&utm_campaign=post&utm_medium=email

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