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コソボ戦争 ----「人道的介入」、もしくは
ユーゴスラビアへの宣戦布告なき戦争
----すべてはここから始まった

The Kosovo War: “Humanitarian Intervention” or Undeclared War Against Yugoslavia?

By Dragan Vladic
ドラガン・ウラディッチ

グローバル・リサーチ 2019年3月14日

(翻訳:新見明 2019年4月28日)

<記事原文>
https://www.globalresearch.ca/the-kosovo-war-humanitarian-intervention-or-undeclared-war-against-yugoslavia/5671466



コソボ解放軍(KLA)とセルビア勢力の間の武力紛争は1992年、コソボ解放軍が非アルバニア人のセルビア警察を攻撃したときに始まった。セルビア警察はコソボに住んでいて、アルバニア人はセルビアに忠実であった。この低レベルの紛争は、1996年、コソボ解放軍が難民キャンプや他の市民や警官を襲撃し、何十人という無垢の死者を出したときにエスカレートした。すべてこの時点でに、コソボ解放軍はテロ組織と見られていた。

アルバニアで共産主義が倒れ、この国が無秩序に陥って、多くの軍事物資貯蔵施設が略奪され、トラック何台分もの兵器が、隣のコソボにこっそり持ち出された。麻薬や人身売買など増加する犯罪行為や、海外で働くアルバニア人への強制的徴税もコソボ解放軍に資金供給されていた。

コソボ解放軍のテロ活動の増加は、セルビア警察や軍の激しい抵抗にあい、市民が死んだり、家を追い出されたりした。続く国連決議1160、1199、1203は、1998年のホルブルック-ミロシェビッチ合意と共に、セルビア勢力の削減と紛争以前の状態への撤退を要求していた。セルビア政府はこれらの要求にほとんど従った。しかしその要求は様々な理由のため十分守られなかった。コソボ解放軍は武装解除せず、決議に従わず、テロ活動を増加させた。コソボ解放軍は、意図的に市民を危機にさらして、セルビア軍を絶えず挑発していた(サチ、BBCから引用)。彼らはわかっていた。「さらに多くの市民が殺され、国際介入の機会はますます大きくなった・・・」と

オルブライトとコソボ解放軍指導者ハシム・サチ

彼らは再びセルビア勢力が前に保持していた位置を再占拠し、ある時点で、コソボの40%まで支配した。コソボ解放軍は数百もの外国人傭兵やムジャヒディンによって再強化され、CIA、DIA、MI6、ドイツ情報局BNDからの支援を受け始めた。

ハシム・タシとマドレーヌ・オルブライト、1998年

オルブライトとKLA指導者ハシム・タシ


コソボ解放軍(KLA)は、またオサマ・ビン・ラディンやアルカイダによっても支援されていた。コソボ解放軍が国連決議やホルブルック=ミロシェビッチ合意に従わず、コソボ解放軍は停戦破棄に大部分責任があるにもかかわらず、戦争行為がかなり減少したとき、ほとんどすべての難民が元の生活場所に戻ったのだ。

最も重大な事件は、1999年1月15日に起こった。ラチャクの虐殺と言われる事件は、コソボ調査委員長ウィリアム・ウォーカーによって、不当に、しかも意図的にセルビア勢力のせいにされた。ウォーカーは、以前エルサルバドルの虐殺隠蔽にかかわっていた人物だ。

セルビア勢力が45人の無垢の男女や子ども達を虐殺したという主張は、セルビア、ベラルーシ、フィンランドの法律専門家によって退けられた。法律専門家が発見したことは、これらの人々は、近距離から虐殺されたり、殺されたのではなく、彼らのほとんどが手に火薬の残滓があり、実際、彼らはコソボ解放軍の戦闘員であったことであった。

報告はまた述べている。死者の中にはたった一人の女性と一人の青年がいただけであり、明らかではないが、一人だけが近距離から撃たれた可能性があると。これは決定的事実であるにもかかわらず、報告は直ちに公表されなかった。

この後、ランブイエ交渉が続いた。それはユーゴスラビア政府も他のどの政府でも受け入れがたい最後通告であった。このコソボ調査委員会が撤退した後、NATOの人道的介入、いやむしろ侵略が始まり、78日間続いたのだ。

数多くの学者たちや、コソボ国際委員会、そして政治家たち、特にNATO諸国から来た人々は、NATOの介入は民族浄化やジェノサイドや新たなホロコーストを防ぐと共に、地域の平和や安定のために正当化されると主張している。彼らは、国連憲章7条、国際人道法、世界人権宣言に基づいて主張している。フォークは次のように述べている。

    コソボ戦争は正しい戦争であった。なぜならそれは旧ユーゴスラビアの
    セルビア主導による「民族浄化」の事態を避けるためにおこなわれたの
    だから・・・それは正しい戦争であった。国連の認可なしで不法におこな
    われたにもかかわらず。そして、おびただしいコソボやセルビアの市民
    の死傷者を出したやり方にもかかわらず。だが、NATO側の死傷者のリ
    スクを最小限に抑えられたのだ。

しかしその他多くの学者達は、NATOの介入は違法で不必要であったと主張し、論証した。ニュールンベルグ戦争犯罪裁判所の元検察官ウィリアム・ロックラーは、次のように述べている。

    空爆戦争[1999年]は、国連憲章の基本条項や他の規定や条約に違反し、
    それらをズタズタにしている。ユーゴスラビアへの攻撃は、ナチがドイツ人
    に対する「ポーランドの虐殺」を防ぐために、ポーランドを攻撃して以来、
    最も厚かましい国際的侵略である。アメリカは国際的合法性や体裁を守
    る振りを捨て去って、狂った帝国主義の道を開始したのだ。

NATOの行動が一方的であったので、NATOの介入は違法であり、安全保障理事会を避けたので、それ故、国連憲章の各条項に違反していた。特に2条(3)、2条(4)、53条である。またNATO憲章第一条にも違反している。ランブイエ合意はウィーン条約の条約法(1969年)にも違反したのだ。セクション2:条約条項51と51条に対しても無効である。

NATO当局は、これは人道的介入であると主張した。しかし合同軍司令官マイク・ショート将軍は、NATOの介入は実際ユーゴスラビア連邦共和国に対する戦争行為であることを認めた(BBC, -)。

    同盟国の中には、戦争ではないと思っている人々もいることを私は
    認めるが、司令官として・・・私の心の中では戦争をしていた。そして
    私の管轄下の人々もそうであった・・そしてそれが我々の仕事のや
    り方である・・・。

これは宣戦布告なき戦争なので、NATO諸国が参加する憲法やジュネーブ協定52条2にも違反していた。NATOは何度もこの憲章を破った。そして学校や病院やテレビ、ラジオ局、橋、工場、多くの都市の住宅街、水道施設、電気施設を爆撃し、戦争犯罪を犯した。グルデリツァの列車やジャコビッツァ近くのアルバニア難民輸送隊の場合、意図的に市民を狙って、75人から100人の難民が殺された。さらに、スペイン人パイロット、アドルフォ・ルイス・マーチン・デ・ラ・ホーズ大尉は、NATOの攻撃に従事していて、NATOが意図的に一般住民を標的にしていたことを認めた。BBCによれば、これはハビアー・ソラナとクラウス・ナウマン大将が、他のNATO諸国に相談することなく決定した。ハイデンはこれは意図的な行動であったと述べている。 

    ウォールストリートジャーナルの4月27日は、NATOは、「単なる軍事的
    目標よりも、政治的目標」を攻撃することに決定したと報道した。4月25
    日のワシントンタイムズの報道では、NATOは、「市民生活に直接かか
    わる発電施設や水道システム」を爆撃する計画であると報道した。

NATOのジュネーブ協定違反は、中国大使館を爆撃すると同様、ミロシェビッチ大統領の私邸を爆撃して、彼を暗殺しようとしていたことだ 。

さらにリットマンは述べる。

    「あらゆる手段が軍事力不足で(そして特に外交手段)が使い果たさ
    れたことがはっきり証明されない限り、軍事力の使用が必要だとは言
    えない。」

ランブイエ交渉はリットマンの声明にあまりにも沿わない。ユーゴスラビア政府はすべての政治的合意項目を受け入れた。そして合意の軍事面においても交渉の用意があった。しかしNATO合意の「付帯条項B」が、最終日前のある日、非交渉事項としてユーゴスラビア代表団に提示された。これは事実上NATOがユーゴスラビアを占拠することを意味し、当然受け入れられなかった。しかしユーゴスラビア政府は、さらに軍事的提案に関して交渉する準備があった。このことを証明するために、ユーゴスラビア政府は(1999年2月23日)、セルビア議会決議(1999年3月23日)と同様、ユーゴスラビアは国連指揮下の国際部隊を受け入れると宣言した。しかしNATOはランブイエ合意の軍事部分をすべて従うことを要求した。そしてアメリカ国務省高官によれば、「アメリカは意図的に、セルビアが受け入れがたいさらに高い要求をした。その高官によれば、セルビアは少しの爆撃を受け入れるほど道理をわきまえていた」。キッシンジャー博士は明らかに次のように述べている。

    ランブイエ文書は、セルビアにユーゴスラビア全体にNATO軍駐留を
    認めさせるものであり、それは挑発そのものであり、爆撃を開始する
    口実にすぎないというものだった。ランブイエはあどけないセルビア
    人がとうてい受け入れられない文書である。それはあのような形で
    決して提出すべきでないひどい外交文書であった。    

その上、多くの学者や政治家が、セルビア人を民族浄化や虐殺にかかわった犯人と見なしていた。確かに、セルビア落下傘部隊や取るに足らない犯罪者によってなされた殺人、略奪行為、無垢の市民への仕返しがあった。しかしながらこれらの残虐行為を、ユーゴスラビア政府は支持しておらず、NATOやメディアが報道するようなものとはほど遠いものであった。国連事務総長が1999年3月17日に国連に報告したところでは、コソボの状況は、コソボ解放軍の絶えず執拗な攻撃と、それとは不釣り合い名ユーゴスラビア当局の軍の使用であった。コソボ調査委員会報告は次のように述べている。期間中に・・・

    1999年1月22日と3月22日、NATOによって国連に伝えられたとこでは、
    この期間にすべての死者はセルビア人が27人、コソボアルバニア人が
    30人であった。別の調査ではアルバニア人の死者合計は5ヶ月間
    (1998年10月16日から1999年3月20日まで)で46人であり、1週間に平
    均2人である。対照的に1999年3月25日から6月10日まで11週間の
    NATO戦争では、NATOは1500人の一般市民を殺し、8000人が負傷
    した。これは1週間あたり平均136人の死者であり、戦争前の総死亡
    者数の30倍になる。

NATO介入の前に、双方の側で約10万人の難民がいた。しかし、爆撃が始まった後、この数は急速に80万人以上に拡大した。10万人のセルビア人や、アルバニア人、その他が中央セルビアに移動したことを含めて。ここでの問題は、セルビア人がコソボから彼ら自身の住民を民族的に浄化したということだろうか。真実は簡単で、難民のほとんどが、NATOの爆撃と、コソボ解放軍(KLA)とセルビア勢力の闘いが激化したことによって去って行ったということである。軍司令官であり、元ユーゴスラビアの国連軍の長官サティッシュ・ナビエールが認めるところでは、ユーゴスラビアにコソボを民族浄化する意図はなかったということである。同様に、カリントン卿は次のように断言した。

    NATOがセルビア爆撃によってしたことは、実際コソボのアルバニア
    人をマケドニアやモンテネグロへの流出を引き起こしたと私は思う。
    爆撃が民族浄化を引き起こし、・・・コソボにおけるNATOの行動が
    誤っていた・・・我々がしたことは、事態をさらに悪化させたことだ。

NATO介入前の時期に、OSCE視察団のフランス人メンバーであるジャック・プロドームは、「その間、彼は自由にペック地域を移動できた。彼も彼の同僚も組織的迫害や集団的、又は個人的殺害、住居への放火や退去とされるものは見なかった」と述べた。

また、セルビア人勢力が、「馬蹄作戦」によってアルバニア住民をコソボから浄化する計画をもっていたという報告があったが、それは後にドイツ情報部のプロパガンダであることが判明した。コソボのアルバニア人集団殺害のその他の主張では、アメリカ国務省大使のシェッファーの主張があり、14歳から59歳までの22万5千人のコソボのアルバニア人が不明であったというものだ。またイギリス外務大臣フーンの主張は、100件以上の虐殺で、1万人以上の人々がセルビア勢力によって殺されたというものであった。さらにセルビア勢力が、トレプカの立坑を使って、殺されたアルバニア人の捨て去り、またアルバニア人をかまどで焼いたという主張もあった。

これらすべての主張は、後にFBIやフランス、スペインの法律家によってナンセンスであり、NATOのプロパガンダであるとして退けられた。ウォールストリートジャーナルの報道では、1999年11月までに約2100人の死体が見つかり、これらにはセルビア軍、コソボ解放軍、NATOの爆撃で殺された人々や、自然の原因で死んだ人々も含まれているとされた。実際、最大の集団墓地は、マリセボ野町近くで発見され、コソボ解放軍によって切断された24人のセルビア人や非アルバニア人の死体があった。

最後に、NATOの侵略による人的、経済的、環境的コストは膨大なものであった。コソボを含めたユーゴスラビア連邦での人的損失の全体は、2500人で、そのうち557人の市民が殺され、12500人が負傷した。経済的損失全体は、25億ポンドのNATOの損失で、ユーゴスラビアの荒廃した経済やインフラにとっては300億ドルから1000億ドルの損失であった(。

環境への損失は計り知れない。例えば、NATOの爆撃機は、意図的にパンセボの科学工場群を狙って、約10万トンの高濃度の有毒で発ガン性化学物質や、8トンの水銀を落とし、空気や土壌、そして地下水やダニューブ川を汚染した。ノビ・サッドでNATOは150の石油タンクを破壊し、12万トン以上の石油派生物を流出させた。それは何日にもわたって燃え続け、地下水やダニューブ川に流出させた。クラグジェバックやボールで、NATOは変電所を破壊し、50トン以上の高濃度有毒ダイオキシンを流出させ、広範な地域を汚染した(cited in Djuric, 2005:4)。コソボと南セルビアではいくつかの地域が繰り返し劣化ウラン弾で爆撃された。10トン以上の劣化ウランが、ユーゴスラビアに投下されたという調査もある。スルブリャックの2005年初頭の報告(Djuric, 2005:4)では、肺や骨髄、肝臓、その他の器官のガンを患っている人々の率は、コソボのある地域では2004年の同時期より120倍高いということだ。

全体的に、NATOの「人道的」介入は、決して人道問題についてではなかった。これはユーゴスラビア主権国家に対する不当な侵略であり、宣戦布告なき戦争であり、国連憲章やジュネーブ協定違反であった。NATOの介入は、全住民にさらに大きな苦痛をもたらした。それはユーゴスラビア経済やインフラを破壊したが、同時にユーゴスラビアの環境や周辺諸国を荒廃させた。それはまたコソボのアルバニア人とセルビア人、その他の非アルバニア人との対立を激化させ、共存の可能性を減少させた。このことが証明されたのは、NATOがコソボを占拠し、アルバニア難民やコソボ解放軍がコソボに戻ってきた後、25万人の難民が出国したことでも明かである。それはまた、イスラム過激派の考えが元ユーゴスラビアの他の地域に広がり、サンジャクや南セルビアやマケドニアをさらに不安定化させた。ロシアはまたMATOの行動を警戒するようになり、軍事支出を増大させ、軍拡を再スタートさせた。

NATO侵略の本当の理由はつかみ難い。多くの著者が考えるところでは、この介入は冷戦後のNATOの新たな役割や信頼性を打ち立てることだったと言う。他の著者はこれを経済的拡大と同様、アメリカ帝国主義と覇権主義の結果で、フレミング(1999年)は、「市場をこじ開ける一つの方法として、それを起こしたのだと言う。他の者は又、これは東方に向けたアメリカの戦略的拡大の一部であり、それは共産主義に対する長年の闘いであり、世界におけるロシアの影響力を減少させる試みであるという。ユーゴスラビアは、当時まだヨーロッパで共産主義が支配する唯一の国であり、それ故ロシアの影響下にあったのだ。」

NATO介入がなされたのは、正義のためで、それ故ヨーロッパの中央で人道的大惨事を阻止する試みであったと考える者も確かにいる。しかし、すべての状況に対する彼らの理解は、コソボ解放軍やNATOの巧妙なプロパガンダであり、メディアの錯乱であり、現場の状況を十分理解していないために、ねじ曲げられたものである。

*
(訳注:文中の注や、脚注はすべて省略しました。必要な方は原文を参考にしてください。)
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