「大量破壊兵器」があるからイラク侵攻を!とのロビー活動をデイビッド・ケイは米国で展開したが、最後は自分の過ちを認める勇気を持った。
<記事原文 寺島先生推薦>
This man lobbied the US to invade Iraq over ‘WMDs’, but had the courage to admit his mistake
副題:2003年のイラク侵攻の口実について「私たちは皆間違っていた」と語ったベテラン兵器査察官、デイビッド・ケイ(David Kay)は誠実な人物だった。
筆者:スコット・リッター(Scott Ritter)

Scott Ritter is a former US Marine Corps intelligence officer and author of 'Disarmament in the Time of Perestroika: Arms Control and the End of the Soviet Union.' He served in the Soviet Union as an inspector implementing the INF Treaty, in General Schwarzkopf’s staff during the Gulf War, and from 1991-1998 as a UN weapons inspector.
出典:RT
2022年8月27日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>
2022年10月8日

ディビッド・ケイ © Alex Wong / Getty Images / AFP
イラクの軍縮義務の遵守について、積極的な査察手法と強い見解で知られるデイビッド・ケイは、最後に、世界に対して、イラクに関して全員が間違っていたという事実を突きつけ、その真の気概を示した。
私がニューヨークに到着した1991年9月中旬までに、国連イラク特別委員会(UNSCOM)の兵器査察官たちは、5月から16回にわたってイラクに赴いていた。そのほとんどは、1988年7月に発効した中距離核戦力(INF)条約を履行したアメリカの経験から生まれた現地査察基準に従って実施されたもので、軍備管理遵守の検証手段として、世界で初めて現地査察に踏み切った。
これは、いわば紳士協定であり、査察権を与える協定(イラクの場合、1991年4月に成立したUNSCOMとその軍縮ミッションを義務づける安保理決議687)の対象となる場所と資料を、徹頭徹尾一方が申告し、他方は、その申告内容の完全性を確認、そして査察対象国の主権と尊厳を尊重した形で関係資料の処分を監督することに同意するものであった。
しかし、この方式にはいくつかの例外があった。イラクがUNSCOMに対して、禁止されている化学兵器、生物兵器、核兵器、長距離弾道ミサイル(WMD)の保有に関する申告を行った際、この申告を検討した多くの国は、イラクが核・生物兵器活動への関与を否定し、化学・長距離弾道ミサイル能力を著しく低く申告したことに驚かされたのである。

関連記事:US Democrat leader blames inflation on wrong conflict
アメリカの諜報機関は、イラクがウラン濃縮に使用していたカルトロンと呼ばれる大型装置の存在を示す証拠を発見していた。この装置は、イラクが申告していなかった。1991年6月、国際原子力機関(IAEA)の査察団は、UNSCOMに与えられた権限の下で、米国の情報衛星がカルトロンを観測した施設の査察を行なった。査察団の団長は、経験豊富な保障措置査察官のデイビッド・ケイ。アメリカ側が特定した場所に到着したが、3日間現場に入ることを拒否された。やっと中に入ることを許されたが、何もなかった。イラク側がすべての資料を持ち去っていたのだ。
アメリカの人工衛星は、バグダッド西部の軍事キャンプで、カルトロンを積んだ車列を発見した。査察の手順として、査察団は指定された場所に行くことを、イラク側に事前通知することになっていた。しかし、今回、デイビッド・ケイはイラク側に事前通告の礼を取ることなく、視察団を指定された場所に連れて行った。到着すると、武装した警備員によって場所への立ち入りが阻まれた。しかし、2人の査察官は近くの監視塔に登り、施設内を見渡した。そして、イラク人が収容所の裏側から車両を走らせているのを確認し、無線で連絡した。その中には、イラク人が収容所からの退去を急ぐあまり、適切な被覆を施さなかったカルトロンを積んだトラックもあった。しかし、イラク兵が頭上から威嚇射撃をしてきたため、停車せざるを得なくなり、数十枚の写真撮影だけを行った。
ダメージは大きかった。査察団とイラクの間の長い外交的対立は、国連安全保障理事会が軍事力行使を許可する、と脅した時点で終わった。最終的に、イラクはウラン濃縮のための未申告の計画があることを認めざるを得なかったが、この取り組みが核兵器開発計画と関係があることは否定した。

関連記事: FBI uncovers ‘ISIS plot’to assassinate ex-US president
7月の事後継続査察で、デイビッド・ケイは、イラク側の説明の矛盾点を十分に洗い出し、詳細な科学捜査と分析の結果から浮かび上がった技術的見解と合わせ、兵器計画の存在を明らかにすること成功した。
9月、デイビッド・ケイは別の査察団を率いてイラクに入った。この査察は(通常の査察とは)異なっていた。IAEAの保障措置査察官や核専門家ではなく、米軍の特殊部隊やCIAの準軍事要員で構成されたこの査察団は、機密文書やその他の資料をいかに発見するかという「サイト・エクスプロイト」の訓練を積んでいたのだ。デイビッド・ケイの査察団は、軍を退役したイラク人から得た正確な情報をもとに、核兵器計画の存在を証明する機密文書を含む保存文書を発見することができた。デイビッド・ケイの査察団は、その文書を手に入れたものの、武装したイラク人警備員によって敷地から出ることを阻まれた。
このやりとりはテレビで生中継され、衛星電話を通じて行われた数々のインタビューで、デイビッド・ケイは一躍有名になった。数日後、イラクは再び態度を和らげ、査察官と文書を解放。核兵器開発計画の存在を認め、核申告書を書き直すことを余儀なくされた。
この快挙を単独で成し遂げたのが、デイビッド・ケイだった。
私がデイビッド・ケイに初めて「会った」のは、9月危機の際、UNSCOMの担当者として勤務していた時で、電話で話したのが最初だった。その後、デイビッドがいろいろ協議をするためにニューヨークへ来た時、私は彼がUNSCOMの職員に自分の偉業を説明しているところをしっかり見たが、この伝説的な人物には恐れ多くて近づけなかった。

関連記事:George Bush’s Iraq slip when slamming Putin is perfect irony
デイビッド・ケイの知名度は、IAEAの硬直した官僚機構にとって、あまりに大きいことがわかった。そして、その後すぐ、彼はIAEAを離れ、民間で穏やかな生活を送ることになった。
一方、私自身は査察官としての知名度が上がっていった。1992年の夏には、私が作戦参謀として編成したチームが、大量破壊兵器関連資料を保管しているイラクの省庁の建物に入ることを拒否され、数日間にわたってイラクとにらみ合い状態になった。その年の秋、イラクの未申告弾道ミサイル部隊の実態を明らかにするため、私は2回の査察を構想・組織・主導した。その後、イラクが査察団から情報や資料を隠すために使っている、いわゆる隠蔽工作の調査を率先して行った。この任務の遂行にあたり、私が率いたチームは、イラク当局や治安部隊との間でしばしば困難なにらみ合いになり、1991年夏にデイビッド・ケイが引き起こしたのと同様の安保理介入を伴うこともあった。
デイビッド・ケイと同じようなことをやっていると非難された時は、最高の褒め言葉だと思った。
1998年8月、私が国連安保理を辞めた後、デイビッドと私の道は大きく分かれた。私は、7年間にわたるイラクでのUNSCOM査察の経験から、イラクが保有する大量破壊兵器はほぼ解明され、重要なものは何も残されていないと確信していた。
しかし、デイビッドは、この任務には最初から参画しているので、(私とは)異なった操作方法を取っていた。彼はイラクが大量破壊兵器を査察団から隠していると非難した。このような争いの多い環境では、イラクの武装解除を査察団が成しどけることは、端的に言って、できない、というのが彼の考えだった。
イラクの隠蔽工作に対抗するためにUNSCOMが用いた方法論、技術、戦術を考案し、実施した責任者として私は、デイビッド・ケイが私や仲間の査察官の仕事を誹謗したことに憤慨し、彼が米国議会や主流メディアに、イラクが相当数の大量破壊兵器を保持しており、この事実は米国の軍事介入に値する脅威であるという彼なりの考えを受け入れるようにうまく働きかけるのを、不満はありながら、じっと見守った。
関連記事:Turkey releases video from Iraq invasion(VIDEO)
ブッシュ政権は、元検査官として揺るぎない信頼を得ていたデイビッド・ケイのロビー活動を主な根拠として、2003年3月のイラク侵攻を米議会で承認させることができた。イラクの抵抗がなくなった直後の4月、デイビッド・ケイはイラク調査団(ISG)と呼ばれるCIAの組織の長に抜擢され、イラクの大量破壊兵器計画を追及することになった。
デイビッド・ケイの伝記を知る人の多くは、IAEA査察官時代を彼の最大の功績として言及するが、私は別の見方をしている。2003年末、ケイは、その事実解明を任されたイラクの大量破壊兵器が、イラク侵攻前に、ケイが断固として存在すると証言していたものが、実際には存在しないという厳しい現実に直面することになったのである。この厳しい現実に直面したケイは、ISGの責任者を辞し、2004年2月の議会での証言で、イラクの大量破壊兵器の存在について、「私たちがやったことはすべて間違っていました。私の判断するところではそうなのです。それが今の私の心ひどくかき乱しています。」と認める勇気と誠実さを見せたのであった。
デイビッド・ケイは2022年8月12日に逝去した。82歳であった。
1991年の秋、戦いに疲れた元海兵隊員だった私をその存在と評判で圧倒し、イラク侵攻前のイラク大量破壊兵器の処分をめぐって意見の相違はあったものの、自分の過ちに責任をもって立ち上がる誠実さを持った男として、私は彼を永遠に忘れないだろう。
デイビッド・ケイは、私にとって、これからずっと肉体的・道徳的勇気のお手本となるだろう。それがあれば、この困難な時代に、世界はもっと多くのことを成し遂げることができるだろう。そして、彼が亡くなった今、それに比して、この世界はますます見劣りがする場所となることだろう。
This man lobbied the US to invade Iraq over ‘WMDs’, but had the courage to admit his mistake
副題:2003年のイラク侵攻の口実について「私たちは皆間違っていた」と語ったベテラン兵器査察官、デイビッド・ケイ(David Kay)は誠実な人物だった。
筆者:スコット・リッター(Scott Ritter)

Scott Ritter is a former US Marine Corps intelligence officer and author of 'Disarmament in the Time of Perestroika: Arms Control and the End of the Soviet Union.' He served in the Soviet Union as an inspector implementing the INF Treaty, in General Schwarzkopf’s staff during the Gulf War, and from 1991-1998 as a UN weapons inspector.
出典:RT
2022年8月27日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>
2022年10月8日

ディビッド・ケイ © Alex Wong / Getty Images / AFP
イラクの軍縮義務の遵守について、積極的な査察手法と強い見解で知られるデイビッド・ケイは、最後に、世界に対して、イラクに関して全員が間違っていたという事実を突きつけ、その真の気概を示した。
私がニューヨークに到着した1991年9月中旬までに、国連イラク特別委員会(UNSCOM)の兵器査察官たちは、5月から16回にわたってイラクに赴いていた。そのほとんどは、1988年7月に発効した中距離核戦力(INF)条約を履行したアメリカの経験から生まれた現地査察基準に従って実施されたもので、軍備管理遵守の検証手段として、世界で初めて現地査察に踏み切った。
これは、いわば紳士協定であり、査察権を与える協定(イラクの場合、1991年4月に成立したUNSCOMとその軍縮ミッションを義務づける安保理決議687)の対象となる場所と資料を、徹頭徹尾一方が申告し、他方は、その申告内容の完全性を確認、そして査察対象国の主権と尊厳を尊重した形で関係資料の処分を監督することに同意するものであった。
しかし、この方式にはいくつかの例外があった。イラクがUNSCOMに対して、禁止されている化学兵器、生物兵器、核兵器、長距離弾道ミサイル(WMD)の保有に関する申告を行った際、この申告を検討した多くの国は、イラクが核・生物兵器活動への関与を否定し、化学・長距離弾道ミサイル能力を著しく低く申告したことに驚かされたのである。

関連記事:US Democrat leader blames inflation on wrong conflict
アメリカの諜報機関は、イラクがウラン濃縮に使用していたカルトロンと呼ばれる大型装置の存在を示す証拠を発見していた。この装置は、イラクが申告していなかった。1991年6月、国際原子力機関(IAEA)の査察団は、UNSCOMに与えられた権限の下で、米国の情報衛星がカルトロンを観測した施設の査察を行なった。査察団の団長は、経験豊富な保障措置査察官のデイビッド・ケイ。アメリカ側が特定した場所に到着したが、3日間現場に入ることを拒否された。やっと中に入ることを許されたが、何もなかった。イラク側がすべての資料を持ち去っていたのだ。
アメリカの人工衛星は、バグダッド西部の軍事キャンプで、カルトロンを積んだ車列を発見した。査察の手順として、査察団は指定された場所に行くことを、イラク側に事前通知することになっていた。しかし、今回、デイビッド・ケイはイラク側に事前通告の礼を取ることなく、視察団を指定された場所に連れて行った。到着すると、武装した警備員によって場所への立ち入りが阻まれた。しかし、2人の査察官は近くの監視塔に登り、施設内を見渡した。そして、イラク人が収容所の裏側から車両を走らせているのを確認し、無線で連絡した。その中には、イラク人が収容所からの退去を急ぐあまり、適切な被覆を施さなかったカルトロンを積んだトラックもあった。しかし、イラク兵が頭上から威嚇射撃をしてきたため、停車せざるを得なくなり、数十枚の写真撮影だけを行った。
ダメージは大きかった。査察団とイラクの間の長い外交的対立は、国連安全保障理事会が軍事力行使を許可する、と脅した時点で終わった。最終的に、イラクはウラン濃縮のための未申告の計画があることを認めざるを得なかったが、この取り組みが核兵器開発計画と関係があることは否定した。

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7月の事後継続査察で、デイビッド・ケイは、イラク側の説明の矛盾点を十分に洗い出し、詳細な科学捜査と分析の結果から浮かび上がった技術的見解と合わせ、兵器計画の存在を明らかにすること成功した。
9月、デイビッド・ケイは別の査察団を率いてイラクに入った。この査察は(通常の査察とは)異なっていた。IAEAの保障措置査察官や核専門家ではなく、米軍の特殊部隊やCIAの準軍事要員で構成されたこの査察団は、機密文書やその他の資料をいかに発見するかという「サイト・エクスプロイト」の訓練を積んでいたのだ。デイビッド・ケイの査察団は、軍を退役したイラク人から得た正確な情報をもとに、核兵器計画の存在を証明する機密文書を含む保存文書を発見することができた。デイビッド・ケイの査察団は、その文書を手に入れたものの、武装したイラク人警備員によって敷地から出ることを阻まれた。
このやりとりはテレビで生中継され、衛星電話を通じて行われた数々のインタビューで、デイビッド・ケイは一躍有名になった。数日後、イラクは再び態度を和らげ、査察官と文書を解放。核兵器開発計画の存在を認め、核申告書を書き直すことを余儀なくされた。
この快挙を単独で成し遂げたのが、デイビッド・ケイだった。
私がデイビッド・ケイに初めて「会った」のは、9月危機の際、UNSCOMの担当者として勤務していた時で、電話で話したのが最初だった。その後、デイビッドがいろいろ協議をするためにニューヨークへ来た時、私は彼がUNSCOMの職員に自分の偉業を説明しているところをしっかり見たが、この伝説的な人物には恐れ多くて近づけなかった。

関連記事:George Bush’s Iraq slip when slamming Putin is perfect irony
デイビッド・ケイの知名度は、IAEAの硬直した官僚機構にとって、あまりに大きいことがわかった。そして、その後すぐ、彼はIAEAを離れ、民間で穏やかな生活を送ることになった。
一方、私自身は査察官としての知名度が上がっていった。1992年の夏には、私が作戦参謀として編成したチームが、大量破壊兵器関連資料を保管しているイラクの省庁の建物に入ることを拒否され、数日間にわたってイラクとにらみ合い状態になった。その年の秋、イラクの未申告弾道ミサイル部隊の実態を明らかにするため、私は2回の査察を構想・組織・主導した。その後、イラクが査察団から情報や資料を隠すために使っている、いわゆる隠蔽工作の調査を率先して行った。この任務の遂行にあたり、私が率いたチームは、イラク当局や治安部隊との間でしばしば困難なにらみ合いになり、1991年夏にデイビッド・ケイが引き起こしたのと同様の安保理介入を伴うこともあった。
デイビッド・ケイと同じようなことをやっていると非難された時は、最高の褒め言葉だと思った。
1998年8月、私が国連安保理を辞めた後、デイビッドと私の道は大きく分かれた。私は、7年間にわたるイラクでのUNSCOM査察の経験から、イラクが保有する大量破壊兵器はほぼ解明され、重要なものは何も残されていないと確信していた。
しかし、デイビッドは、この任務には最初から参画しているので、(私とは)異なった操作方法を取っていた。彼はイラクが大量破壊兵器を査察団から隠していると非難した。このような争いの多い環境では、イラクの武装解除を査察団が成しどけることは、端的に言って、できない、というのが彼の考えだった。
イラクの隠蔽工作に対抗するためにUNSCOMが用いた方法論、技術、戦術を考案し、実施した責任者として私は、デイビッド・ケイが私や仲間の査察官の仕事を誹謗したことに憤慨し、彼が米国議会や主流メディアに、イラクが相当数の大量破壊兵器を保持しており、この事実は米国の軍事介入に値する脅威であるという彼なりの考えを受け入れるようにうまく働きかけるのを、不満はありながら、じっと見守った。

関連記事:Turkey releases video from Iraq invasion(VIDEO)
ブッシュ政権は、元検査官として揺るぎない信頼を得ていたデイビッド・ケイのロビー活動を主な根拠として、2003年3月のイラク侵攻を米議会で承認させることができた。イラクの抵抗がなくなった直後の4月、デイビッド・ケイはイラク調査団(ISG)と呼ばれるCIAの組織の長に抜擢され、イラクの大量破壊兵器計画を追及することになった。
デイビッド・ケイの伝記を知る人の多くは、IAEA査察官時代を彼の最大の功績として言及するが、私は別の見方をしている。2003年末、ケイは、その事実解明を任されたイラクの大量破壊兵器が、イラク侵攻前に、ケイが断固として存在すると証言していたものが、実際には存在しないという厳しい現実に直面することになったのである。この厳しい現実に直面したケイは、ISGの責任者を辞し、2004年2月の議会での証言で、イラクの大量破壊兵器の存在について、「私たちがやったことはすべて間違っていました。私の判断するところではそうなのです。それが今の私の心ひどくかき乱しています。」と認める勇気と誠実さを見せたのであった。
デイビッド・ケイは2022年8月12日に逝去した。82歳であった。
1991年の秋、戦いに疲れた元海兵隊員だった私をその存在と評判で圧倒し、イラク侵攻前のイラク大量破壊兵器の処分をめぐって意見の相違はあったものの、自分の過ちに責任をもって立ち上がる誠実さを持った男として、私は彼を永遠に忘れないだろう。
デイビッド・ケイは、私にとって、これからずっと肉体的・道徳的勇気のお手本となるだろう。それがあれば、この困難な時代に、世界はもっと多くのことを成し遂げることができるだろう。そして、彼が亡くなった今、それに比して、この世界はますます見劣りがする場所となることだろう。
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