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韓国の保守派 -----「南ー南摩擦」と核危機

The Conservatives, “Nam-Nam Friction” and Nuclear Crisis in South Korea

ジョセフ・H・チャン教授

グローバル・リサーチ 2019年2月26日

(翻訳:新見明 2019年3月14日)

<記事原文>
https://www.globalresearch.ca/conservatives-nam-nam-friction-nuclear-crisis-south-korea/5669716



最近5つの韓国政党党首がワシントンを訪れた(2月12日~14日)。その任務はハノイでの2回目のトランプー金正恩会談の支援をするためである。

しかし、信じがたいのは、4つの政党党首がサミット成功のロビー活動をしたのに、主要な野党保守党、自由韓国党 (LKP)の黄教安(ファン・ギョアン)党首は、北朝鮮を信頼すべきでなく、朝鮮戦争を終わらせるべきでないとワシントンの政治家に説得しようとした。この党は核危機の継続を願っているようであった。

このエピソードは、韓国社会がいかに深く「保守派」と他の住民と分断されているかを示している。特に核危機や南北問題に関して意見がわかれるのだ。保守とその他住民の関係は、相互に疑い、不信、恨み、さらには正に敵意にまで到るのだ。

保守派とその他の住民との摩擦は、「韓国内の南ー南摩擦」と呼ばれる。

これは韓国の深刻な問題である。これは和平過程のみならず、民主主義の将来にとっても、南北経済協力、そして最終的な朝鮮の再統一にさえ影響する。

最初にこの文章では、保守派グループの起源に焦点を当てる。このグループは、日本人に協力した人々によって設立された。だから朝鮮人の目には、保守政府は統治に正当性がなく、人民の信頼もないのだ。

2番目に、保守政権は正当性や人民の信頼に欠けるので、できる限り長く統治する必要があったことだ。保守派は、韓国を58年間にわたって統治したのだ。

3番目に、保守政権をそんなに長く統治させた抑圧的手段やいかがわしい戦術についてである。

4番目に、この章では、朝鮮人民がどのように保守政権と闘ったかを見ることにする。

最後に、第5章ではいくつかの結論を引き出す。

***
1. 親日保守派グループの起源

保守派グループの起源を探るためには、朝鮮が日本に不当に併合された1910年に戻らなければならない。裏切り者グループの反愛国的な行動のために併合が可能となったのだ。このグループは親日で、当時首相の李 完用(イ・ワンヨン)に率いられていた。彼は李朝高宗皇帝の承認なしで併合条約に署名したのだ。

35年間の厳しい日本の植民地統治の間、多くの親日派メンバーは日本に協力し、日本の植民地政府と共謀して権力を乱用した。そして朝鮮人青年を日本やその他の奴隷労働現場に送り、朝鮮人青年を日本の帝国軍隊に勧誘して送り込んだ。また朝鮮愛国者に属する土地や他の不動産を没収したり、朝鮮人の氏名を日本名に変えさせたりした。

日本によってなされた人道に対する最悪の犯罪の一つは、大規模な慰安婦問題だ。20万人の10代の少女は、ほとんど朝鮮人で、捕らえられて日本の軍隊に送られた。そこで彼女らは何年もの間、悲惨な非人間的性奴隷として苦しんだ。親日朝鮮人の中には、これらの少女を性奴隷として働かせるため、日本の警察に協力して探し出し、送り出す者もいた。

親日保守派グループによってなされた最も深刻な犯罪は、日本の抑圧的な植民地主義に対して、朝鮮の独立のために命をかけて闘った朝鮮人愛国者の逮捕に協力したことだった。

協力者達は、自分たちが抵抗する朝鮮人を犠牲にして日本の利害に奉仕していることがわかっていた。

1945年朝鮮は日本の残忍な植民地主義の軛から解放された。通常だったら、朝鮮は日本人に協力した朝鮮人を処罰すべきであった。

しかし、そうはならず、協力者は一人も罰されることはなかった。彼らを罰するために委員会がつくられた。しかしワシントンはそれを許さなかった。1945年から1948年まで韓国を統治したアメリカ軍事政府のもとで、元朝鮮人協力者の多くは、アメリカ軍事政府のために働いた。

1949年、李承晩(イスンマン)は第一次朝鮮政府をつくった。ほとんどの政府高官は元対日協力者だった。警官の約40%は、日本植民地政府下で働いた元朝鮮人警官で組織された。

日本人にただで土地を没収されたことに抗議した3人の朝鮮人が、レールを引き抜いたかどで射殺された。(公開資料より)

朝鮮の愛国者は日本政府に対して主に満州、中国、朝鮮半島で闘った。彼らの多くは中国やロシア軍と共に闘った。彼らの政治的指導者は、1919年中国で設立された朝鮮共和国臨時政府大統領の金九(キム・グ)であった。金九は1945年対日協力者を排除して、独立政府を打ち立てようとして朝鮮に戻った。しかし彼は1949年李承晩(イスンマン)政府によって暗殺された。非常に多くの朝鮮愛国者が暗殺されるか、北朝鮮に逃亡した。

だから、解放後の朝鮮の運命は、元対日協力者の手に握られていた。そして朝鮮社会は明らかに親日協力者と無力な朝鮮人に分断されていた。これが1945年に始まり70年間続いた南-南摩擦である。それは今も続いている。

親日保守派は6つの政府をつくり、6人の大統領がいた。李承晩[イ・スンマン](1948~1960)、朴正煕[パク・チョンヒ](1961~1979)、全斗煥[チョン・ドファン](1987~1992)、盧泰愚[ノ・テウ](1987~1992)、李明博[イ・ミョンバク](2007~2012)、朴槿恵[パク・クネ](2013~1992)である。

これらの大統領はみなその悲惨な任期の終わり方した。一人は学生によって追放され、一人は暗殺され、二人は刑務所に収監された。現在あと二人が刑務所に収監されている。彼らは全て権力の乱用や贈収賄で起訴されたり、現在、起訴されている。

2.長年にわたる保守派政権

親日保守派は、植民地日本人と協力して35年間(1910~1945)統治してきた。そして彼らは1948年以来70年で、さらに58年間、韓国を統治し続けてきた。

皆さんは保守派政権が、どうやって、なぜそんなに長く権力を維持できたのか不思議に思われるかもしれない。それは次の要素で説明がつく。つまり「北風」戦略とクーデターと憲法の改ざんと抑圧的な政策によって権力を維持してきたのだ。

「北風」は選挙戦術であり、保守派によって選挙に勝利するために最大限に利用する。それは2段階がある。一つは選挙2・3週間前に、戦争の恐怖を煽り、国家安全保障を最優先事項とすることだ。そうすることで保守派は、しばしば偽の目撃証言で、北からの脅威をねつ造する。ある場合には、保守派は北に大金を与える代わりに、敵対的行動を頼んだこともあった。しかしその試みはしぱしば失敗に終わった。

READ MORE:Denuclearization of the Korean Peninsula: A Blessing for South Korean People
朝鮮半島の非核化:韓国人民のたまもの


2番目に、保守派はメディア戦略を開始する。彼らは北の脅威から国民を守るのだと選挙民に納得させるのだ。これを証明するために、彼らは保守派軍事政権の長い歴史を自慢する。この戦略は保守派の選挙勝利に非常に有効な手段となってきた。だから北朝鮮が、保守派にとって役に立つ選挙同盟でもあった。

クーデターは、権力を保持する戦術の一つであった。韓国には二つの大きなクーデターがあった。一つは朴正煕が1961年5月16日に行ったもの。もう一つが、全斗煥が1980年12月12日に行ったものである。

憲法の改ざんは、保守派が好むもう一つの政権維持の手段だ。李承晩大統領は1956年憲法を改ざんして、1948年から1960年まで権力に就くことを可能にした。朴正煕大統領は1972年「スシン(維新)」憲法を制定し、1980年に権力を奪取した。そして彼は1987年まで政権にとどまった。

1987年の憲法まで、間接大統領選挙が行われていて、朴正煕将軍と全斗煥将軍は、事前に選ばれた同僚にによって選ばれた。

保守派政権の抑圧的政治は、保守派が権力を維持するもう一つの強力な道具であった。これらの政策の目的は、政府に対する反対派の声を圧殺することだ。これらの抑圧政治は様々な形をとった。つまり、大量殺戮、北朝鮮スパイ容疑のねつ造、警官による攻撃、デモに参加した若い学生を拷問し殺すことであった。それは政府やメディアへの圧力に抗議するデモであった。

どれほど多くの韓国人が、保守は政権によって「アカ」として攻撃され、殺され、投獄され拷問されたか誰にもわからない。しかし数百万人が犠牲者となった可能性がある。李承晩政権下で、20万人以上の無実の韓国人が、済州(チェジュ)や麗水(ヨス)や順天(スンチョン)地域で殺された*。政府は、これらの悲惨な犠牲者を、「共産主義者」とか「アカ」とか「PPal-gaing-ie」と呼んで起訴した。犠牲者の中には、イデオロギーに無関係の子どもや老人も含まれていた。
    *[訳注:李承晩の弾圧
       1948年4月3日 - 済州島四・三事件反乱鎮圧。
       1948年8月15日 - 朝鮮半島南部単独で大韓民国政府樹立を宣言。初代大統領に就任。
      1948年10月27日 - 麗水・順天事件反乱鎮圧。
       1948年12月1日 - 国家保安法を制定。
        1949年6月5日 - 国民保導連盟を組織させる。
       1949年12月24日 - 聞慶虐殺事件。
       1950年6月25日 - 朝鮮戦争勃発。
       1950年 6月 - 国民保導連盟の加盟者や収監中の政治犯など、少なくとも20万人あま
                 りを大量虐殺(保導連盟事件)。](ウィキペディアより)


全斗煥将軍も人民を殺害した。1980年5月18日、光州市民が全斗煥の独裁に抗議して街頭デモを組織した。全斗煥は高度に訓練された空挺部隊を動員し、戦車やヘリコプターで少なくとも1000人が殺された。そして非常に多くの市民が負傷した。さらに全斗煥は、彼の任期中(1980~1987)に山清(サムチョン)教育隊*で大量殺戮が行った。約10万人の若者が、全斗煥政権の政策を支持しなかったり、他の疑わしい理由で大量殺虐が行われた。
   *[訳注:「三清(サムチョン)教育隊事件」とは、1980年に軍事クーデターにより政権を掌握した全斗煥
    元大統領の下で、社会浄化を名分に市民が組織的な暴力を受け、人権を踏みにじられた事件です。暴
    力、密輸、麻薬、詐欺事犯等の社会悪一掃ということで、まともな令状もなく検挙し、検挙者を一方的にラ
    ンク付けしました。そして等級BとCになった4万2千余人を「三清(サムチョン)教育隊」に入隊させ、「純化
    教育」を行いました。1980年8月から81年1月の半年で6万人を越える検挙者があり、無実の市民も多
    数連行されました。教育隊では暴力と過酷な労役が待っていました。88年に被害者たちが真相究明と
    国家補償を求めて立ちあがりましたが、翌年に「三清(サムチョン)教育隊」での死亡者が54名であるこ
    とが初めて国防部によって明らかになりました。被害者たちの長年の要求が実り、04年1月に、「三清
    (サムチョン)補償法」が制定されました。]

  https://www.hurights.or.jp/news/0609/b05.html

これらの大虐殺の真の理由は、腐敗や人権侵害に対する反対の声を、保守派が圧殺するためであった。これらの人々は、「アカ」とか「北と通じている」(Chin-book)とか口実をつけて非難された。言い換えれば、南北の緊張が、人民を抑圧する格好の口実を与えたのだ。

朴正煕や全斗煥の軍事独裁下で、何百万の韓国市民が、「アカ」と「疑われ」、その友人や家族も警察から嫌がらせを受けた。

数え切れない若者が、不当に「アカ」であると告発され、投獄され、拷問され、殺されたのだ。韓国に勉強しに来た10人以上の在日韓国人学生が、朴正煕政権のCIAによって不当に北のスパイとして告発された。彼らはみな後に無罪判決が出たが、これはねつ造されたスパイ事件の典型例であった。

全斗煥政権下で、おびただしい数の学生が拷問され死んでいった。その中には1987年1月14日拷問され死んだ朴 鍾哲(パク・ジョンチュル)*がいた。
 *朴 鍾哲(パク・ジョンチョル、박종철、1965年4月1日 - 1987年1月14日)は、大韓民国釜山直
  轄市出身の学生運動家。治安本部の取り調べ中に拷問により死亡した。その死は6月民主抗争に強
  い影響を与え、韓国の民主化闘争の象徴となった。


 2016年25日、白南起(パク・ナムギ)という名前の老人は朴槿恵政府の汚職に反対する街頭デモで警察の放水銃に撃たれて死んだ。白は10年以上凍結されているコメの値上げを政府に要求しただけであった。

メディアへの圧力は、保守派政府による権力乱用の常套手段であった。李明博政府は、MBCテレビ系列に、何百人というかなり有能なテレビレポーターを解雇させた。彼らが政府の政策に批判的であったという理由で圧力を加えた。


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最も有名なケースは、MBCのChoi Sung-ho(チェ・ソンホ)と李相湖 (イ・サンホ)の解雇である。現在二人は、保守派企業メディアによる大量の偽情報を見破り、素晴らしい仕事をしている。

メディアへの圧力は、朴槿恵政権下でさらに悪化した。彼女の政権は、政権の政策に好ましくない考えをもった1万人の芸術家、映画制作者、画家、その他大勢の個人のリストを作成した。ブラックリストに挙げられたこれらの人々は、常時監視下に置かれ、政府補助金の配分で不利益を被った。

3. 保守派政権の否定的影響

確かに保守派政権は、韓国経済の近代化、工業化、そして急速な発展に重要な貢献をした。特に、韓国経済の離陸過程で朴正煕大統領の強い指導性はよく知られている。しかし、残念なことに彼らは韓国の腐敗文化や南-南摩擦や南北の緊張に大きな責任がある。

韓国保守派政府による58年の支配は、韓国社会に深刻で破滅的な足跡を残した。まず、上で見たように、このグループは日本植民地時代に形成された。彼らの多くは日本の協力者であった。これは彼ら自身が疎外されていて、孤立した状態にあることである。

日本人に協力し、韓国の利益を損ねたため、彼らは国を治める正当性に欠けた。そして彼らは人民の強い抵抗に対処しなければならなかった。このことは彼らに住民が敵対者(敵でないとしても)であると考えさせるに到った。

保守派にとって、北朝鮮は対立者以上であった。北は二つの理由で敵であった。まず初めに、北は共産主義国家であった。二番目に、北朝鮮政府は、親日協力者を敵とみなした愛国者達によって打ち立てられたことだ。だから韓国の保守派は、南の非友好的住民と北の敵対的な相手の両者と対峙しなければならなかった。

このような状況で、保守派の優先事項は、自らの防衛と自らの生き残りに賭けなければならなかった。だから社会正義や国民の福祉は重要なものと考えられなかった。一番の優先事項は、彼らの個人的グループの利害の最大化であった。

そのような状況で、腐敗が広まったのは避けられないことであった。保守派は韓国社会のエリートである。彼らは社会の上流階層である。残りの国民は社会の下層である。古い諺がある。「もし、上流が腐れば、下流も腐る」。保守派の腐敗した風潮は社会のあらゆる部門あらゆる階層に及んだ。つまり腐敗が「文化」になったのだ。

保守派の腐敗として、保守派政権幹部による何百万、何十億ドルにも及ぶ横領が劇的に明らかにされた。

どれほど多くの納税者のお金が、朴正煕大統領や朴槿恵大統領の家族によって奪われたか誰もわからない。それは、海外の不動産に投資され、何十億ドルにもなる可能性がある。

全斗煥大統領や盧泰愚大統領は、何億ドルという納税者のお金を横領したかどで告訴された。                                                
李明博大統領は、何百万ドルの贈収賄で告訴されている。彼はまた悪名高い「4大河川事業」や恥ずべき「海外資源開発外交」を通じて自分が儲けた容疑も受けている。李明博は刑務所で最終審を待っている。こらは彼が15年間にわたって糾弾されてきた最初の裁判である。

腐敗文化は、致命的な損害を社会全体に与えうる。贈収賄による倒産企業の救済は、企業の競争力を弱める。贈収賄のため、危険な犯罪者が刑務所に行かない。kick-knackのため、海軍は沈まない潜水艦を買う。何百万ドルの横領は、警察署長が彼の父親であるため問われることはない。全てこれらは社会を破壊することこの上ない。

しかし私を非常に悲しませることは、腐敗文化と権力の乱用が、人間関係の道義的基盤そのものを揺るがしてしまうことだ。何千年も韓国の個人的関係に行き渡ってきた暖かさ、相互信頼、相互理解がほとんど見られなくなってしまった。お金が人間関係の主要な決定要因になってしまった。

最近では「富は力であり権利である」。お金が神である世界では、人間性は、強き者やお金持ちが、弱き者や貧しき者を軽蔑し、抑圧する。

韓国では、そんなゆがめられた関係は、強者が弱者を虐待することを意味する「カプジル(訳注:パワハラ)」と呼ばれている。2・3年前(2014年12月5日)、カプジルの例として、大韓航空ニューヨーク=ソウル便で大韓航空創設者の娘、趙顕娥(チョ・ヒョナ)の出来事がある。彼女は搭乗スタッフをまるで奴隷のように扱い、侮辱した。問題はスタッフが彼女に出したマカデミア・ナッツの出し方であった。

事実、趙の家族はみんな大韓航空の従業員に対してカプジルを行っていた。残念ながらそのカプジルの行いは保守派を代表するエリートに広まっている。

4. 保守派に対する人々の決起

独裁、権力の乱用、保守派政権の腐敗は、韓国国民が立ち上がらなければ、さらに悪化する。

歴史の重要な局面で、韓国国民は保守派政権に対して街頭に出て闘った。

1960年4月19日、5万人の学生が大統領不正選挙に反対して闘った。これは「4月革命」であった。彼らは李承晩大統領を追放するのに成功した。李承晩はアメリカCIAの飛行機で韓国を脱出した。

1979年10月16日、10万人以上の若者や老人が、朴正煕の大統領職の永続化に反対して釜山-馬山地域で闘った。これは「釜-馬民主闘争」*であった。朴正煕大統領は1979年10月26日大韓民国中央情報部部長によって暗殺された。
   (訳注:釜馬(ブマ)民主抗争は、朴正煕・維新政権下の韓国(第四共和国時代)において最大
   野党であった新民党総裁の金泳三の議員職除名案が大韓民国国会で半ば強引に通過された事件(金
   泳三総裁議員職除名波動)を発端として、金総裁の地元である釜山直轄市(現釜山広域市)と隣接する
   馬山市(現昌原市)で学生・市民が反独裁・民主化を要求した大規模デモである。1979年10月16日から
   20日にかけて発生した。) ウィキペデアより


1980年5月、光州市民は、全斗煥将軍の独裁政治に対して10日間(18日から27日)闘った。これは「5月18日民衆蜂起」だった。1000人以上の市民が戦車やヘリコプターで殺された。そして若い女の子がレイプされた。しかしそれは全斗煥の犯罪体制に対して勝利した。

1987年16日、光州蜂起のあと2・3週間して100万人以上の人々が街頭に出て、新憲法制定のために19日間闘った。維新(ユシン)憲法を終わらせ、直接大統領選挙の新たな政治システムを構築するための闘いだ。この運動が「6月民主運動」*だった。
    [訳注:6月民主抗争は、大統領の直接選挙制改憲を中心とした民主化を要求するデモを中心とした
    韓国における民主化運動の名称で、1987年6月10日から「6・29宣言」が発表されるまでの約20日間
    にわたって繰り広げられた。この民主抗争の結果、大統領直接選挙制改憲実現などの一連の民主化
    措置を約束する「6・29宣言」を全斗煥政権から引き出すことに成功した。]ウィキペディアより


最終的な市民の抗議行動は2016年にやってきた。1700万人以上の市民が、2016年10月から20週間にわたって、朴槿恵政権とその友人たちの腐敗、権力の乱用、有力者の不正取引、高官職の取引、あらゆる種類の違法、不道徳な活動に対して闘った。これが「キャンドル・ライト革命」であった。

朴槿恵は弾劾された。1987年文在寅が民主政権を復活させた。朴槿恵は少なくとも25年間収監される。

5. まとめ

文在寅に率いられたリベラル政権は、朴槿恵大統領の弾劾後、2018年に政権の座についた。

文在寅とともに、韓国はよりよい未来を希望できるかもしれない。つまり、もはや南-南摩擦のない、北と南が協力して共存する、カプジル[パワハラ]ももうなくなり、公共心が取り戻され、お金がもはや「神」とされない未来だ。

しかし保守派は死んだわけではない。腐敗の痕跡はいまだにある。彼らは権力を奪取しようと反撃している。彼らはお金をたくさん持っている。お金は権力を買うことができる。現実的可能性として、彼らは日本の保守派やワシントンのタカ派と共謀して和平プロセスを妨害しようとするだろう。

日本の保守派は核危機を必要としている可能性がある。核危機は選挙で勝たせてくれるからである。ワシントンのタカ派は朝鮮半島の緊張を維持したいと考えている可能性がある。そうすればさらに多くの兵器が売れるからである。韓国の保守派は、選挙で勝てるように非核化を望んでいない可能性がある。同時に兵器売買から裏金が作れるからである。つまり、韓国の保守派は、最も熱心な非核化の反対者でありうる。

たとえ2月末のハノイでの2回目のトランプー金サミットが成功しようとも、保守派は和平プロセスを葬り去ることができる。もし彼らが3年後の大統領選挙に勝利すれば。

それ故、文在寅大統領とリベラル派は二つの選択がある。一つ目は彼らは腐敗の浄化プロセスを通じて保守派を無力にすることができる。これは簡単ではない。よりよい方法はリベラル政権の2期目に勝利することである。これは不可能ではない。

*

ジョゼフ・チャン教授は、モントリオールのケベック大学の統合・グローバル化研究センター(UQAM)にあるEast Asia Obsevatory(OAE)の共同所長である。彼はグローバル・リサーチセンター(CRG)の研究員でもある。
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