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「こいつらはケダモノだ、人間じゃない」 ゼレンスキーは、刑務所にいた児童レイプ犯・拷問犯を解放し、枯渇した軍隊を補強する

<記事原文 寺島先生推薦>

These are animals, not people”: Zelensky frees convicted child rapists, torturers to reinforce depleted military

著者:エシャ・クリシュナスワミ (Esha Krishnaswamy)

出典:グレー・ゾーン (GRAYZONE)

2022年7月30日

<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>

2022年9月1日



写真:ルスラン・オニシェンコのトルネード大隊員とゼレンスキー夫妻

 かつてウクライナ当局から非難され、サディスティックな拷問と未成年者のレイプで投獄されていた悪名高いトルネード大隊のリーダーたちは、いまやヴォロディミル・ゼレンスキーの命令で自由の身となって闊歩している。

 ウクライナの大統領ヴォロディミル・ゼレンスキーは、事実上すべての野党政党を追放した。また「ロシアのプロパガンダ」を推進したとされた外国人ジャーナリストや学者のブラックリストを公表した。さらに、職場保護法からウクライナ国民の70%を適応外に置くという法律を強行採択した。そしてついには、第2次世界大戦以来この国で見られた最も極悪な犯罪で有罪となったファシストの武装集団を刑務所から解放する事態にまで発展してしまったのだ。

 7月11日付のウクライナのメディア報道によると、現在は解散しているトルネード大隊の司令官であったルスラン・オニシェンコが解放された。これはゼレンスキー大統領が戦闘経験のある囚人を解放する計画の一環だった。オニシェンコは、ファシズムに首尾一貫して関与してきただけでなく、子どもへの性的暴行、囚人への残酷な拷問、殺人に関与したサイコパス(精神病質的な)サディストとして知られている人物だ。

 オニシェンコの釈放は、ゼレンスキーが2月27日に、有罪判決を受けた他の元トルネード大隊員の釈放を命じたことに続くものだったが、その中には、ISISを公然と模倣し、捕虜を拷問して楽しむことを自慢していたベラルーシ出身の狂信者ダニール「ムジャヘド」リャシュクなどがいた。ゼレンスキーの法令によれば、戦闘経験のある囚人たちは「最激戦地」で戦うことによって「罪を償う」ことが許されることになる。
 
 2015年、ウクライナ国家が彼のトルネード大隊にたいする公式支援を開始したとき、オニシェンコは仲間の「愛国者」の二人、ヴォルドモル・サヴィチュクとスヴェトラーナ・サヴィチュク(女性)に携帯メールを送って、スヴェトラーナ・サヴィチュクに「(幼児の)子どもたちの前で俺のチンコをしゃぶれ」と誘っている。(会話のスクリーンショットはこちら)。さらに彼は、彼が見て楽しむために、彼女の子どもたちに淫らな行為をしろとサヴィチュクに命じた。拷問、殺人、子どもを含むレイプ、誘拐、切断など、その罪の大きさにもかかわらず、オニシェンコは2017年4月11日にわずか11年の禁固刑を言い渡されただけだった。

 そして今、刑期をわずか5年務めただけで、この有罪判決を受けたケダモノは、西側の後援者が民主主義の擁護者として歓迎する大統領によって解放されたのだ。

 ゼレンスキーのこの動きが示しているのは、東部でロシア軍によってウクライナ軍が制圧されたという絶望的な状況だけではない。経験豊富な犯罪者やネオナチがはびこるウクライナの大隊が、マイダン政権後の支配の公式執行者として、8年以上も享受してきたことにたいする免罪符を拡大することをも示しているのだ。


トルネード大隊創設者 ルスラン・オニシェンコ


マイダン後に正規部隊が離反し、大隊がその穴を埋める

 2014年2月、アメリカの支援を受けたユーロマイダンのクーデターがウクライナの民主的に選ばれた大統領を追い出したとき、キエフ新政権は危機に直面した。全国各地の軍部隊や地方政府には、ロシア系民族やその他「非国民」とされる人たちがまだ多く残っていたからだ。しかし主に東部のロシア系民族の政治家は「過激派代議士」の烙印を押され、誘拐され、追いつめられ、あるいは逃亡を余儀なくされた。

 2014年2月23日、オレクサンドル・ヴァレンティノビッチ・トゥルチノフ(元ウクライナ保安局長官)がウクライナの大統領代行となり、選挙や憲法上の委任もない中で、大規模な法改正を実施した。しかしウクライナ全土で、市民の大半が新しいクーデター政権の正統性を認めない動きのある地域も現れた。そのようなドニエプル川以東のロシア語話者、ユダヤ人、イスラム教徒、その他の少数民族が多く住む地域は、のちにオニシェンコのトルネード大隊のような右翼準軍事組織の標的となるのだった。

 東部のルガンスクドネツクマリウポリオデッサハリコフでは、住民たちが自治体や治安当局の建物を包囲し、独立を問う住民投票に向けて圧力をかけていた。地元の軍も警察も、このデモ隊を止めようとはしなかった。

 2016年の米軍報告書によると

 「確かに、当初は親ロシア派による武力抵抗はなかった。しかし、現場の本当の状況はもっと悪かった。ウクライナ内相によると、同地域の警察の最大7割が反マイダン・クーデター側の住民たちの建物占拠を容認、あるいは積極的に支援していた」という。

 ポスト・マイダン政権が、住民投票も、政府への代表派遣も拒否したため、東部の2つの州、ドネツクとルガンスクは独立を宣言した。

 ポスト・マイダン政権の正統性の危機が拡大したのは、ドネツクの反乱を鎮圧するために派遣されたウクライナ軍部隊が、結局は反マイダン・クーデターの住民側に与し、離反したことであった。選挙で選ばれたわけでもないトゥルチノフ暫定大統領は、新体制を維持するために、東部の「テロリストを鎮圧する」大規模な反テロ作戦を発表した。しかし、ウクライナ軍は頑強な姿勢を崩さず、キエフ新政権の命令に従うことをほぼ拒否していた。

 2014年4月、ウクライナ軍高機動強襲部隊第25分離空挺旅団がドネツクに派遣され、ドネツク住民に戦争を仕掛けた。しかし、苦々しい思いをしていたトゥルチノフ暫定大統領の2014年4月17日ヴェルホヴナ議会での言葉では、「第25分離空挺旅団は、軍が臆病さを露呈し武器を放棄したので、廃止することになる…という指示を国防省は受けていた」ということであった。 

 トゥルチノフ暫定大統領は検察庁に命令を出し、不服従の兵士を刑事罰に処するよう要求した。ウクライナ国防省は旅団が分離主義者(反マイダン・クーデター住民)側に離反したことについては否定したが、欧米の主要メディアも報じたように、部隊の戦車はDNR(ドネツク人民共和国)の旗を掲げるようになっていた。

 トゥルチノフ暫定大統領が第25旅団を「解散」させた数日後、新たに就任したドニプロペトロフスクの「副知事」は、これは「ロシアの手」に落ちることから「州を守る」ための策であると述べた。2014年のウクライナ人の給与の中央値は3480₴(フリビュナ)(117米ドル)だが、ドニプロペトロフスク州のヘナディ・コルバン副知事によると、これらの大隊の「ボランティア」は月29528₴(1000米ドル)を受け取っている。これはウクライナの平均給与の10倍近い額だ。

 ルガンスク州、ドネツク州の一部とクリミア半島全体を失ったキエフは、ロシア語を話す住民が多いドニプロペトロフスク州が次に独立を宣言する州だと考えていた。キエフは、軍にも警察にも「親ロシア派の分離主義者が入り込んでいる」とみていたので、ウクライナ軍にも現在の警察にも頼ることができなかった。それで、マイダンのクーデターの際に市街戦の戦闘力として機能したファシズム的な準軍事部隊を正式に派遣したのだった。

 2014年3月、キエフは内務省が監督する「国家警備隊」を設立する法律を可決した。当時の内務大臣アルセン・アヴァコフの同意を得て、ウクライナの億万長者イゴール・コロモイスキーは、この国のさらに悪名高い領土防衛部隊のいくつかを創設するために資金を提供した。その最初の「特殊警察大隊」である「ドニプロ1」は、このオリガルヒの財産から誕生した。コロモイスキーの代理人の一人、ボリス・フィラトフが述べたのは、この特別大隊の目的が「国を一つにまとめる」ことだということであった

 その代わり、特別大隊(ドブロバット)はマイダン活動家の中核から募集したのだが、彼らは亡命したヤヌコビッチ大統領の機動隊と戦った者たちだった。オレグ・リアシュコは自称「人民代議士」で、急進党を設立し、ユーロマイダンのクーデター賛成派の集会のメインステージに登場した人物だが、自分独自のドブロバット(特別大隊)を設立しようとした。この名称が「ウクライナ」であった。リアシュコには正式な大隊を組織する資金がなかったため、彼のグループはオリガルヒの支援を受けるための審査を受けることになった。ドネツク州のトレーズ市で有志部隊として戦うことによってである。 

 この頃、ルスラン・オニシェンコは、強盗、フーリガン、不法監禁(誘拐)の3つの前科を持つ職業犯罪人として知られていた。ルスラン・アバルマズという名をもって生まれた彼は、ユーロマイダン以降、妻の姓である「オニシェンコ」を名乗るようになった。トレーズ出身ということもあり、リアシュコの新大隊の「試験的な部隊」の中心人物となった。

 しかし、(オリガルヒからの資金調達のために有志部隊として戦って)分離主義者からトレーズを奪還するという計画は失敗し、オニシェンコたちは億万長者イゴール・コロモイスキーの住む隣町ドニプロペトロウシク州に逃げ込むことになった。結局、アルセン・アヴァコフ内務大臣とその副官で右翼の政治的黒幕アントン・ゲラシェンコの支援を得て、オニシェンコはコロモイスキーを説得し、「シャクトリスク」という新しい大隊に出資させることができたのだった。

 2014年6月、シャクトリスク大隊の広報活動がEspressoTVで始まった。これが「特別大隊」の非公式放送局である。またUkroTVも同様だった。これらの放送局はオニシェンコを「国の魂のために闘う唯一の男」と有名人扱いした。


ウクライナのエスプレッソTVでのルスラン・オニシェンコが出演した瞬間

 同月、シャクトリスクの戦闘員たちは、地方警察本部の後援のもと訓練を受けた。2014年7月8日、新たに誕生した警察部隊は、正式に訓練所を「卒業」し、宣誓をおこなってから、マリウポリに配属された。

 元SBU(ウクライナ保安庁)捜査官から内部告発者となったヴァシリー・プロゾロフによれば、「アルセン・アヴァコフ内相が内務省(MVD)の組織内に警察の特別部隊『パトロール』を設置すると決定してから、これらの部隊は雨後のタケノコのように出現し始めた」のだという。特別大隊は、ユーロマイダン後の時期には2隊しかなかったのが、数カ月で59隊に増えた。


戦闘訓練を行うオニシェンコ

 訓練所を卒業する7日前、シャクトリスク大隊の隊員たちは、そのサディスティックな傾向を誇示した。7月1日、訓練終了の1週間前に、地元のルスラン・キレンコフという民間人が友人宅を訪れていた時、「武器を持った一団」に声をかけられた。彼らはキレンコフを分離主義者だと言って家から引きずり出し、地下の秘密の牢屋に連れて行った。彼の艱難辛苦の日々は2日間しか続かなかったが、彼は「15日くらいだったような気がする」と私に言った。

 キレンコフは椅子に縛られ、覆面をした隊員がガスバーナーを持ち出し、胸と腕の肉を焼いた。3日間ぶっ続けで拷問された。今でも、その傷跡が残っている。「昔はもっと黒かったんだ。火傷の重傷第三度だったけど、今は大分薄くなった」



 シャクトリスク大隊は、その蛮行において、決して特殊な存在ではなかった。多くの特殊大隊は完全に刑事罰に問われることなく活動した。その一方で、部隊指揮官たちは事実上あらゆる物資の密輸に手を染めて金をかき集めていた。彼らは野蛮な暴力によって、いつでも物資を独占できることを知っていたからである。

 例えば、2015年7月、ライトセクトール(右派セクター)はムカチェヴォ市でタバコの密輸カルテルを運営していた。極右部隊の2つの派閥の間で対立が起きると、銃撃戦となり、警察が介入しようとした。


 地元検察庁の発表によると

 「7月11日14時頃、ムカチェヴォ市で、迷彩服を着て自動車には「右派セクター」などと書かれたステッカーを貼った武装集団20人がやって来た。勢力圏の縄張りをめぐって地元住民とカフェで会う約束をしていたのだ。衝突が発生し、武装した男たちは上記カフェに向かって銃で撃ち始めた。事前の情報によると、警察官6人と民間人3人が様々な程度の銃傷を負った。また、「右派セクター」のラベルを持つ武装集団のうち5人が負傷した」。

 しかし、右派セクターのメンバーは警察の手を逃れたので、武装解除できないままとなった。警察が武装集団を追跡した後、右派セクターは6歳の少年を人質にして報復した。 2015年7月25日、右派セクターの武装解除に失敗したアルセニー・アヴァコフ内務大臣は、ムカチェヴォの警察署長を停職処分にした。これで右派セクターは、公式の嫌がらせを受けずにタバコの密輸活動をおこなえるだけでなく、次に地元警察を率いるのは誰かを決めることができるようになったのだった。

 右翼の準軍事組織には、完璧な刑事免責とともに、米国から無尽蔵ともいえる武器が提供された。当時、コメディアンだったゼレンスキーは、全国放送のコメディー番組の中で、この傾向を揶揄していた。特に注目されたのは、マイダン後の警察署の警官を演じたことである。ゼレンスキーは、警察署長の甥であるという理由だけで警官になれた警官役を演じたのだ。

 新米警官たちが高価な戦車を爆破してしまうという設定だ。しかし、「大丈夫、アメリカが戦車の代わりになる」と、あっけらかんと言い放つ。


マイダン後のウクライナ警察の腐敗を揶揄するコメディアン、ヴォロディミル・ゼレンスキー

 大統領になったゼレンスキーは、制御不能で全く責任を負わない「ドブロバット(特別大隊)」による自国への被害を忘れているようで、彼らの継続的な暴挙を大目に見ている。

 2014年8月、ルスラン・オニシェンコのシャフチョルスク大隊は、ウクライナ政府による分離主義者の支配地域を奪還するための、また別の痛恨を味わうことになる作戦に参加した。そしてまた今回は、東部の町イロヴァイスクの作戦に参加した。結局、ウクライナの特別大隊「ドブロバット」は、ドネツク人民民兵の戦闘員に囲まれ、作戦の中止を余儀なくされた。この痛恨の敗北は、ウクライナのクーデター政権がドンバス共和国との交渉に踏み切らざるを得なくなった大きな要因となった。ミンスク合意のガイドラインに基づいてである。

 不思議なことに、オニシェンコのシャフチョルスク大隊は、集団で尻尾を巻いて撤退したにもかかわらず、アルセニー・アヴァコフ内務大臣から、イロヴァイスク市での勇敢さを称える表彰を受けることになった。しかし、わずか1カ月後の2014年9月、ポロシェンコ大統領ら閣僚は突然、シャフチョルスク大隊の略奪行為を非難し、大隊の解散を決定したのである。

 アヴァコフ内務大臣は賞賛しているのか非難しているのか分かりづらい以下のような声明を出した。「イロヴァスク市内で果敢に戦っている間に、ヴォルノヴァハや近隣の場所で多くの略奪事件が発生したため、私の命令でシャフチョルスク大隊を解散させた」と。

 こうしてシャフチョルスク大隊は、「聖マリア」と名乗るグループと、オニシェンコが率いる「トルネード」という、ルガンスクやドネツクの親マイダン派の住民や一部の外国人を中心としたグループに分かれたのである。

 一方、2015年の4回にわたる徴兵動員をかけ、ウクライナは正規軍を13万人から「公式発表」数の23万人に拡大しようとした。しかし、採用の行き当たりばったりさは、いかなる戦闘活動も効果的におこなえない兵士を増やすことにしかならなかった。2015年3月、ユーリ・ビルコフは、当時のウクライナ大統領で億万長者のオリガルヒであるペトロ・ポロシェンコの顧問の一人だったが、Facebookで「ウクライナは大量の『アル中、ドジ、麻薬中毒者、白痴』を採用できただけだ」と発言している。

 ドンバス地方では2015年だけで、ウクライナ軍は1万6000件以上の脱走を確認した。これらの脱走の一部は、指揮官が脱走兵を射殺することを合法化する法律がその年に可決された後に発生したものである。

 ウクライナ政府は、東部の分離主義者との戦いにおいて、「大隊」のような過激派ドブロバット(特別大隊)やオニシェンコのような精神病の指導者に助けを求めることをますます余儀なくされた。


トルネード大隊のリーダー、 ルスラン・オニシェンコ

 「この部隊は手に負えない」。ウクライナ政府関係者と国務省後援の人権報告書は、トルネード大隊の信じられないようなサディズムを詳述している。

 トルネード大隊は、他の特別大隊ドブロバットと同様に、極右の狂信者と常習犯を混ぜて募集していた。その仲間には、ベラルーシの過激派ダニール・リャシュクが含まれていた。彼は「ムジャヘド」という通称で通っていて、イスラム教に改宗してISISを支持していると主張している。リャシュクが実際にISISに従軍したかどうかは不明だが、彼はイスラム民兵の異常なサディズムへの欲求を公然と模倣してきた。2015年のある音声録音の中で、リャシュクは「拷問がなければ、人生は生きているとは言えない」と宣言している。これが彼のモットーになった。



 正式な結成直後から、トルネード大隊のメンバーの一部は、武器を闇市場で売り始めた。2014年11月2日、トルネード大隊の6人の戦闘員がキエフに呼び戻され、武装解除され、東部のザポリジャ州に配置換えとなった。そこで彼らは、アレクサンダー・シン市長から金を強奪しようとした。しかし、シン市長は毅然とした態度でトルネード大隊を自分の地域から移動することを求めた。シン市長は予想どおり、汚職、分離主義、反逆罪の非難急進的な民族主義者たちから受けたが、最終的に彼は、過激派をルガンスク州に移送することに成功した。ルガンスク州は2015年にはまだキエフの支配下にあった。

 ハリコフ人権グループは、アメリカ国務省に代わって報告書を執筆し、ルガンスク州でトルネード大隊が「毎日巡回」することで地元民に与える恐怖を以下のように詳細に記している。

 迷彩服を着て機関銃を持った人々がドアを破壊し、民家に押し入り、(裁判官の許可なく)捜索をおこない、貴重品を「徴発」し、所有者を辱め、殴り、銃撃すると脅した。彼らは路上や検問所で人を捕まえ、頭に袋をかぶせて地下室に連行し、そこで村の住民のなかから「分離主義を見極める作業をおこなった」。

 アメリカ国務省の委託を受けたこの報告書はこう続けている。

 「多くの人が家から強制的に連れ出され、ノバヤ・コンドラショフカ市にある鉄道病院の建物に護衛付きで連れて行かれた。拘束された人のほとんどは釈放されたが、大隊の戦闘員に不法に拘束された後、行方不明になったケースもある。2014年夏から2016年末にかけて、スタニツィア・ルハンスカ市の住民が行方不明になった事例は11件確認されている。」

 2015年1月3日、ルガンスク州の地元住民であるセルゲイ・ヴァルヴェスキーとその友人コスタ(女性)の2人が、マレコ村の店にいつもどおり訪れていた時、トルネード大隊の犠牲となった。店内には、顔を覆った軍服姿の男たちが、装填済みの自動小銃を携えて列をなしていたのである。ヴァルヴェスキーは、店にいた覆面男たちの一人に言った。「機関銃を持った姿を、女の前で見せびらかせてるつもりなのかい」と。

 この一見何の変哲もない一言で、覆面民兵はヴァルヴェスキーと友人のコスタを店から引きずり出し、機関銃の尻で殴り倒した。 結局、2人は貨物運搬車の中に放り込まれ、ノバヤ・コンドラショバ市の病院の地下室に連れて行かれた。2週間の拷問の後、彼は妻が彼を認識できないほど醜い姿になって家に戻った。

 オニシェンコはゼレンスキーの命令で今や自由の身となって闊歩しているが、彼の部隊の怒りを買ったルガンスク州の地元民数人は、至極曖昧な理由で刑務所に入れられたままである。トルネード大隊の残虐性を示す特に不穏な例は、2015年1月にスタニツァ・ルガンスカヤの町の検問所で36歳の兵士が死亡した爆発事故の後に起きた。この激しい爆発事件の丸1カ月後、トルネード大隊はニコライ・ルバンという65歳の年金生活者を拘束した。ウクライナの情報機関SBU(保安庁)長官の顧問であるマルキヤン・ルブキフスキーの主張によると、この年金生活者は、蜂蜜の瓶に隠した「TNT爆弾」と導火線を所持していた「現行犯」で逮捕された、ということだった。

 囚人仲間の証言によると、ニコライ・ルバンはその後、トルネード大隊が管理する地下の仮設刑務所で拷問を受けたという。

 「私は彼を見ました。この老人は、道路封鎖のときに蜂蜜の瓶を持っていたことで、後に有罪判決を受けました」と、元同房者はハリコフ人権グループに語っている。
 「彼は、私たちが拘束されたのと同じモトボンドの地下室にいました。まず、この老人はひどく殴られました。彼はほとんど裸で、完全に裸足でした。服は破れていました。彼はずっと泣いていて、『なぜ拘束されたのか説明してくれ』と言いました。2時間おきに殴りに来るんです。毎回違う人が来ました。同房者と私が釈放されたとき、彼はまだそこにいました。他の囚人もそうでした。その後、彼らがどうなったかは分かりません。彼が15年の刑を宣告されたことが分かった時は、ショックでした」。

 ルバン老人はすぐにSBUに移送され、1年後、蜂蜜の瓶を所持していたことが唯一の証拠となった極めて疑わしい裁判において、テロ行為をおこなったとして15年の禁固刑を宣告された。彼は、ロシアの軍事情報機関GRUと接触していたロシアのスパイであることも自白したという。

 また、セルゲイ・ペトリンコという地元民は、トルネード大隊が「白昼堂々、友人と一緒に私を地下室に連れて行った」と主張した。大隊の地下牢で、彼は時間を忘れ、恐怖のどん底に落ちた。ペトリンコは、「何人かがいつもそこにいました」「また何人かが連れて来られ、ある者は連れ去られ、ある者は身代金を要求されました」。また、トルネード大隊の拷問部屋で死んだあと、死体を捨てられた別の知人の骨を、森にいたキツネが掘り起こしたとも証言している。

以下の2件の映像資料を参照
https://videopress.com/v/UtdvfyqW


https://videopress.com/v/hyuyOrp6
 これらの残虐行為に加えて、トルネード大隊の隊員たちは、小さな子どもをレイプするなど、過激な性暴力を自慢してきた。2015年6月に内務省が部隊の解散を命じた理由は、この部隊の変態趣味がきっかけだったようだ。

 しかし、ウクライナ政府は結局、これらの大隊を統制する権限がないことに気づき、驚きを隠せなかった。トルネード大隊の解散命令と大隊基地の捜索命令を受けて、アントン・ゲラシェンコ副内相は親野党の「チャンネル112」に出演し、自らが副官を務める過激派準軍事について不満を述べた。ゲラシェンコ副内相は、「トルネード大隊のある基地を捜索せよとの裁判所命令がある」と述べた。「誰かが裁判所の命令に従わないことを許せば、この場合、この部隊は手に負えなくなる」

 その後、2015年6月18日、主任軍事検察官アナトリー・マティオスは、トルネード大隊の戦闘員が武装解除を拒否し、セベロドネツク市の学校にあった部隊基地内にバリケードを築いたと報告した。

こちらの動画を参照

 ウクライナ当局は、ドネツク空港でオニシェンコをついに逮捕することができた。彼の武装した兄弟たちは、キエフからの命令に数日間従わず、捜査官が部隊基地に入って捜索をおこなうのを妨害し、法執行機関が武力行使でそれをおこなおうとすると武力抵抗をすると脅して、これに応えた。

 危機のさなか、ルガンスク軍民管理局のゲンナディ・モスカル長官(当時)は、トルネード大隊の戦闘員がキエフとの戦闘に備えて防御態勢を取り、軍事装備を配備したと報告した。 結局、他のウクライナ軍部隊を派遣して、ようやくこの不正規大隊は鎮圧され、隊員は逮捕された。  


トルネード大隊の裁判で繰り広げられた、現実生活のホラー映像

 逮捕後、ウクライナの主任検事は、トルネード大隊のさまざまなメンバーが犯した恐ろしい犯罪の証拠を発見した。ダニール・「ムジャヘド」・リャシュクの電話から、検察官はトルネード大隊の他の2人のメンバーが3人目の男性を2つの別々の開口部(口と肛門)でレイプしているビデオ(2分23秒の場面)を発見した。リャシュクは、裁判の中で、自分が恐ろしいレイプを命じたのは、それが面白かったからだと主張した。

 2016年の裁判では、別の誘拐された被害者が、何週間も巨大な黄色いボールに鎖でつながれていたと証言した(ビデオの10分以降を参照)。裁判では、トルネード大隊の戦闘員の携帯電話から、醜い姿にさせられた女性や腐った死体が軍事基地に散乱している気持ち悪い画像も出てきた。

 トルネード大隊の裁判では、111人の目撃者による証言と、ルガンスク州の地域に散乱した証拠、トルネード大隊の暴力に起因する少なくとも80体の死体が確認された。裁判員たちは、切断された性器、去勢、その他の性的拷問の写真に圧倒された。

トルネード大隊員の裁判で提示された写真には、男性器の形をした刺青を入れられた拷問被害者が写っている。

 ある証人の腕には、トルネード大隊のメンバーがナイフで左腕に彫った陰茎と2つの睾丸の刺青があった(上の写真参照)。建物廊下で母親が聞かされることになったのは、自分の息子が殺される前に大隊に残酷にレイプされたという証言だった。目撃者が語ったのは、10歳の少女が身代金目的で誘拐され、繰り返しレイプされた様子を彼らがフィルムに収めていたことだった。誘拐されてから1週間余りで死亡するまでずっとだ。

 キエフ政府は、トルネード大隊のギャングたちを悪いリンゴの集まりとして描いて義務的に非難することで反応した。ウクライナ軍全体の性格を表す集団ではない、と。

 タチアナ・チョルノヴィルは、ユーロマイダンの活動家で、超国家主義者エイダル大隊の元メンバーだが、裁判の直前に「チャンネル112」で劇的な宣言をおこなった。
 「トルネード大隊の指揮官は逮捕され、携帯電話を押収された。これは、様々な性的乱交、レイプのビデオだ。そして、そこには新生児すらいたそうだ。この新生児を持つ母親は、子どもの死を脅かされながら、無理やりレイプされたと聞いている。未成年の少女に対するレイプもあった。こいつらはケダモノで、人間じゃない」

 今、ゼレンスキーは戦争を隠れ蓑に 「ケダモノ」を檻から出そうとしている。

 トルネード大隊員は、一般市民をうろつく最も野蛮な獣の一部であるが、それと同じような大隊がウクライナ全土で58隊も活動中である。
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