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自由と自治を求めた世界初のポスト植民地主義黒人国家の悲劇の歴史

<記事原文 寺島先生推薦>
The Tragic History of the World’s First Post-Colonial Black Nation’s Struggle for Freedom and Autonomy
筆者:K.D.ルイス(Lewis)
出典:INTERNATIONALIST 360° 2024年3月27日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年4月12日


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ジミー・"バーベキュー"・シェリジエとG9


虐殺者と間違われた革命家

ハイチ島の現在の国営ニュース報道では、元警察官だったジミー・シェリジエ(通称「バーベキュー」)をリーダーとする犯罪集団による密売や、強姦、そして人肉食などの凶悪な行為が蔓延していると報じられている。このように告発された暴力行為があるから、ハイチ最大の犯罪対策組織の指導者(ジミー・シェリジェ)に対して経済制裁をするし、ケニアおよびその他のECOWAS*軍を動員した米国の介入もあるのだ、という不注意な正当化が行なわれている。
*ECOWAS(Economic Community of West African States)西アフリカ諸国経済共同体

地元の暴力組織に対するシェリジエの抵抗組織(G-9として知られる)の行動をめぐるプロパガンダは、アメリカ軍産複合体の帝国主義的願望に隠れ蓑となる口実を提供してきた。ダン・コーエンの3部構成のドキュメンタリー『もうひとつの見方: ハイチの蜂起の内幕』は、貧困にあえぐデルマスという町のコミュニティ・リーダーであるシェリジエの姿を映し出している。彼が革命的抵抗の道に入ったきっかけは、デルマス6の自宅をギャングの暴力から守りたいという願望と、ハイチの司法・法執行システムの有効性に幻滅したことだった。彼は、ブルジョワ階級が警察や政府指導者と結託し、国の刑事司法制度から説明責任を回避していることに気づいたのだ。

シェリジエがハイチのUDMO警察部隊を辞職した後、2020年に形成されたG9は、国際的犯罪組織であると非難された。こうした非難を受けた後、G9はデルマスのさまざまな地域に対する警察主導の攻撃を受けた。彼らは、リュエル・マイヤール(Ruelle Maillart)のギャングを使って家屋を焼き払い、学校を取り壊すという行動をとった。G9に対抗するこれらのギャングは、ハイチの裕福な階級や米州機構(OAS)からの支援を受けていると言われている。このような虐殺について、合衆国支援のハイチ人権団体であるRNDDH*を含め、人権団体からの報告はない。
* RNDDH(Réseau National de Défense des Droits Humains)国家人権擁護ネットワーク

こういった行動へのシェリジエの反応は、デルマスの未被害地域内での避難所や食料の提供に加えて、貧しい武装ギャングや民兵の間で団結を呼びかけることであり、彼が言うハイチの富の85%を所有し、管理する上位5%のファミリーに抵抗することだった。ハイチ国内の、米国寄り指導層や暴力的なブルジョア派のギャング、西側メディア、そして、てぐすねひいて介入をしようとしている米国政府などからの敵意にもかかわらず、ジミー・シェリジエは、腐敗したブルジョア・システムに対する統一されたプロレタリア革命の未来構想を維持するとともに、特に米国のような西側大国からの干渉に立ち向かっている。

ハイチで起きていることは新しいことではない。実際、ハイチが誕生して以来、イスパニョーラ島として知られるこの島の西半分は、何十年にもわたって内憂外患に苦しんできた。しかし、この争いの解決は、ハイチのエリートではなく、特に欧米の超大国でもなく、ハイチの大衆からもたらされなければならない。この記事では、ハイチの経済的・社会的進歩を絶え間なく邪魔してきたヨーロッパやアメリカの介入と占領に対処してきたハイチの長い歴史を探求する。ハイチの混乱状態に関連してこの帝国主義の歴史を理解することは、他国の占領に反対する統一的な呼びかけと、シェリジエの構想に似た労働者階級中心の抵抗運動への統一的な支持を通じて、この国の自治を確実に守るために不可欠だからである。

西洋の窃盗によるハイチ独立後の不況

1804年1月1日、何世紀にもわたってヨーロッパ人が植民地主義入植活動をしてきた後、世界初の黒人独立国家が設立された。以前はサン・ドミングとして知られていたハイチは、13年間の反乱が革命に変わってから、植民地の抑圧者を打ち負かし、追放することに成功した。この新たに獲得した独立は記念碑的な勝利であったが、西洋帝国主義からはただちに反動があり、ハイチは、それ以降、いつ果てるともしれない悲惨な状態に置かれることになった。

独立からわずか20年後、ハイチは銃口を突きつけられ、かつての奴隷商人たちに独立の対価を支払うことを余儀なくされた。1922年にハイチ政府から最後の支払いを受けたフランスは、ハイチから(2022年の価値にすれば)5億6000万ドルを盗み出すことに成功した。この盗んだ金は、エッフェル塔のような驚異的な建造物の建設に使われただけでなく、フランスの銀行システムの構築にも使われ、クレディ・インダストリエール・エ・コマーシャル銀行(C.I.C.)に最大の利益をもたらした。ニューヨーク・タイムズ紙の「身代金」という記事は、この報復的なハイチ略奪が、210億ドル以上の損失(ハイチ国内に資金が残っていればだが)につながったことを説明している。植民地支配強国によるこの類を見ない行動は、ハイチの国家としての発展に多大な悪影響を及ぼしたが、それは始まりに過ぎなかった。

この強盗的所業とほぼ同時に、アメリカ合衆国は資源豊かだが経済的に破綻したハイチに目をつけた。まず、1868年、アンドリュー・ジョンソン大統領はヒスパニョーラ島全体を併合することを目指した。彼の後任であるユリシーズ・S・グラント大統領は、サントドミンゴ併合の積極的なPRをする委員会を後押しし、フレデリック・ダグラスを黒人支持の顔として利用した。併合に関する投票は米国上院で成立しなかったが、アメリカ合衆国はその後もハイチの事情に関与し続け、1915年にはハイチへ侵攻し、占領した。

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米国海兵隊、ポルトー・プランスに駐留。1915年

この占領は19年間続いた。その間、アメリカはハイチの国立銀行から50万ドル以上を盗み、その金をウォール街の様々な銀行に移した。シティグループはそのひとつ。この行為によって、アメリカはハイチ最大の金融機関を一方的に支配することになった。

企業の搾取と独裁者たち

1934年の善隣政策*によってアメリカ軍が島から完全に撤退した後、第二次世界大戦は欧米諸国がハイチの資源を開発する新たな機会となった。1941年、ハイチ政府は米国と共同でハイチ農業開発協会(SHADA)を設立した。
*善隣政策とは、フランクリン・ルーズベルトがアメリカ合衆国大統領在任時に行なった、ラテンアメリカ諸国に対する外交政策のことである。善隣外交とも言う。この政策が実施されたのはルーズベルト政権の時であるが、19世紀の政治家ヘンリー・クレイが既に「Good Neighbor」という用語を用いていた。(ウィキペディア)

この法人は、米国輸出入銀行(EXIM)が出資し、管理する農業法人であった。取締役会はハイチ代表3名とアメリカ代表3名で構成され、会社の主要幹部もアメリカ人であった。この構想は、戦時中のハイチの農業基盤経済を拡大し、ゴム生産に力を入れることを目的としていた。SHADA社が設立された結果、ハイチ政府はEXIM銀行に400万ドルの負債を負い、ハイチ製品の最大の輸入国はヨーロッパ(特にフランス)に代わってアメリカとカナダになり、ハイチの「農民階級」の農地はSHADA社に奪われた。

この時点から1980年代後半まで、ハイチはエセ人民主義者のフランソワ・デュバリエと、その息子のジャン=クロード・デュバリエの独裁的な支配を受けた。

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フランソワ “パパ・ドク” とジャン=クロード・“ベビー・ドク”・デュバリエ

デュバリエの治世は1957年、主にドミニカ共和国に端を発するムラート(白人と黒人の混血集団)の暴力への対応として始まった。フランソワ・"パパ・ドク"・デュバリエは、政権初期に黒人大衆が政治的・経済的に権力を握るという将来構想を表明した。一方、彼の行動は扇動政治家のそれであり、最終的に「ボギーメン(妖怪)」と呼ばれる腐敗した準軍事組織を設立し、地元住民を恐怖に陥れた。その後1964年、彼は自らを「終身支配者」と宣言した。

彼の指導の下、ハイチは観光客の減少、ドミニカ共和国との緊張の増大、そして彼の政権による厳しい弾圧に苦しんだ。19歳の息子、通称“ベビー・ドク”は、1971年、父の後を継いだ。 ジャン=クロード・デュバリエの統治法は国際的な尊敬されるイメージを確立することに焦点を当てていたが、父親の指導の名残があったので、1987年、独裁王朝を追放する大規模な蜂起が起こった。

裏切り者に阻まれた流血の政権交代

1991年の冬の終わり、ハイチの大衆に圧倒的に支持された社会・経済改革派のジャン=ベルトラン・アリスティドが、ハイチで初めて民主的に選出されて、大統領に就任した。しかし、この勝利は短命に終わった。

アリスティドが推し進めた野心的な改革には、軍隊に対する文民統制の拡大や長期政権最後の軍事指導者たちへの引退「奨励」、そして貧しい農民から土地を奪う腐敗した農村長制度の廃止などがあった。この改革は富裕層や元軍事当局への攻撃と受け止められ、選挙からわずか7か月後にアリスティドに対するクーデターが引き起こされた。クーデターは、ラウル・セドラス中将が指導者だった。彼は後に、アメリカ政府からの恩赦と、月額数千ドルの給与を受け、ハイチの隔離地に住むことになった。

このクーデターの後に起こったのは、軍事政権による労働者や農民、そして学生の様々な抵抗グループとアリスティドの支持者らに対する極端な暴力行為であった。ハイチの独立系ラジオ局を武力攻撃したり、ハイチ学生連盟 (FENEH) と関係がある150人の学生を大量に逮捕したりした。

ジョージ・H・W・ブッシュ政権下の米国諜報機関は、セドラス派とアリスティドとの交渉に便宜をはかったが、反面、アリスティドに対して人物破壊工作も行なった。その際(米国諜報機関は)アリスティドの支持者たちから出された1991年デュバリエ派が起こした反アリスティド・クーデターは人権侵害であるとの告発を非難することもした。

次のクリントン政権は前政権とは対照的に、アリスティドに対する厳しい態度を和らげた。実際、この政権は軍事的介入で、抑圧的なセドラス政権を追放する「民主主義維持作戦*」を展開した。しかし、この善意の行動は中央情報機関(CIA)の関与と矛盾する。なぜなら、CIAはセドラスがアリスティドを排除する手助けをし、セドラス大統領再任を押し進める組織FRAPH(「ハイチの発展と進歩のための戦線」)を操った体制の後ろ盾だったからだ。
*民主主義維持作戦(Operation Uphold Democracy)は、1991年のハイチのクーデターで選出されたジャン=ベルトラン・アリスティド大統領が打倒された後、ラウル・セドラスが主導し設置した軍事政権を排除することを目的とした多国籍軍事介入であった。この作戦は、1994年7月31日の国連安全保障理事会決議940によって事実上承認された。(ウィキペディア)

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左:FRAPHの民兵。右:CIA諜報員でFRAPHのリーダー、エマニュアル・コンスタント

「正義と説明責任センター」*によれば、FRAPHはハイチ軍(セドラス政権下)の暴力、テロ、抑圧行為に積極的に関与していた。そのリーダーであるエマニュエル "トト "コンスタントは、1993年にC.I.A.の諜報員であることが暴露された。それにもかかわらず、1994年のアメリカによる(再度の)ハイチ占領は、セドラスと彼の派閥を権力から「成功裏に」排除し、アリストティドの復帰への道を開くことになった。
*Center for Justice and Accountabilityは、カリフォルニア州サンフランシスコを拠点とする米国の非営利国際人権団体。1998年に設立されたCJAは、米国およびスペインの裁判所での個人の権利侵害者に対する訴訟における拷問およびその他の重大な人権侵害の生存者を代表している。

貪欲と植民地本能に潰された2回目の機会

アリスティド復帰は、帝国主義者が考えるようなアメリカの善意による行動ではなく、アリスティドが西側諸国の賛同を得られるような経済政策を展開することを条件とした取引行為であり、その条件のひとつがハイチの国有企業の完全民営化だった。アリスティドがこの条件に従わなかったのは、それはおそらく、この条件の性質上、主権国家ハイチにおけるアメリカの経済支配に大きな窓を開けることになるからだった。

西側の意志に従うことを拒否するこの行為は、アリストティドとラヴァッシュ党(アリストティド系の「進歩的」な党)が労働者階級からの圧倒的な支持を受けていたことと相まって、民主的に選出された大統領(アリストティド)を脅威に晒し、(敵の)標的にしてしまった。

アリスティドは、2度目の選挙に勝利した後、米国が支援するFRAPHと西側に好意的なハイチのエリートの残党からの反対に直面することになる。注目すべき野党指導者は、米国のパスポートを持つ工場経営者アンドレ・アペイドで、アリスティドと彼の政権は独裁主義であると中傷する「184人グループ」と呼ばれるギャングを率いていた。彼らと並んで、前述の暴力的で抑圧的なFRAPHは、アリスティド支持者を恐怖に陥れ、傷つけ、虐待する行為を続けた。

米国は、ハイチ問題への過去の干渉によって引き起こされる流血が避けられないことを察知し、それをテコに2004年にアリスティドを亡命させた。その後、アメリカ軍は再びハイチに進駐し、アリスティドに反対する暴力的な勢力を速やかに排除した。フランスの支援と国連の制裁により、ハイチ初の選挙で選ばれた大統領(アリスティド)は、最高裁判所のボニファス・アレクサンドル裁判長と交代した。彼は国連の傀儡政権の顔として振る舞った。この政権交代で、ラバシュ派が多数を占めていた指導部に、元デュバリエ派の閣僚が入ることになった。

自然災害の悪用

2010年に入ってわずか数週間でハイチを襲ったマグニチュード7.0の地震の惨状を多くの人はまだ忘れていないが、この自然災害に対する米国の対応の失敗によって引き起こされた惨状を多くの人は知らないかもしれない。当時のヒラリー・クリントン国務長官の監督の下、米国主導で行なわれた人道的対応というのは、非政府組織 (NGO) の場当たり的な管理と誤った監督だった。最も顕著な例は、赤十字の5億ドルの使途不明金である。

また、クリントンの実の娘が指摘したように、地域住民の自治に対する配慮もほとんどなかった。また、米軍が駐留しているのに治安が維持されなかったことも彼女は問題視した。クリントン夫妻のさらに悪質な行為は、「慈善的な」クリントン財団とクリントン・ブッシュ・ハイチ基金が、まるで「たかり」のような動きをしたことだ。この2つ財団は総額100億ドルの寄付の約束を受けている。

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カラコル工業団地の設立、従業員の日給は5ドル。

この資金を集めた後、ビル・クリントンはハイチ復興暫定委員会の共同議長に任命された。これによってクリントンは、両財団を通じて受け取った資金を直接管理することになった。しかしこれも、取るに足らない支援と、2012年にクリントン夫妻とファッション界の重鎮によって設立された3億ドルの衣料工業団地が失敗に終わったこと以外は、何も残らなかった。

操り人形と愛国者

この米国の大失敗で、米国はまんまとハイチを米国の言いなりにさせた。ハイチ救済を目指し、結局は失敗に終わった指導者は、マイケル・マルテリーとジョサバ・モイーズだった。マルテリーは、2005年にベネズエラの社会主義者ウゴ・チャベス大統領の下で始まったペトロカリベ協定*を通じて、ベネズエラから40億ドル以上の援助を横領したことで悪名高い。この盗んだ金は、彼の後継者であるモイーズを政権に押し上げるために利用されたと推測されている。
*ペトロカリベ協定・・・ベネズエラとカリブ海加盟国間の地域石油調達協定。この貿易組織は、ウゴ・チャベス大統領時代の2005年6月29日にベネズエラのプエルト・ラ・クルスで設立された。ベネズエラは加盟国に譲歩的な金融協定に基づいて石油供給を提供した。(ウィキペディア)

モイーズ政権下、ハイチの生活環境は悪化の一途をたどった。ペトロカリベ協定は2017年、他の誰あろう、トランプ政権下のアメリカによるベネズエラへの重い制裁により、事実上廃止された。ペトロカリベ協定の終了は、搾取される大衆にとって困難な局面となり、大規模な市民の混乱と、2021年のモイーズ暗殺につながった。

この暗殺事件により、現在、アリエル・アンリ首相がハイチの公式な国家元首として承認された。しかし、ハイチの労働者階級や事実上の指導者であるジミー・シェリジエは、この新首相と見解を共有していない。

ジミー・シェリジエはハイチの息子であり、犯罪と戦った経験があり、彼らに押しつけられた抑圧から苦しむすべての人々の結束を求める大きな思いやりの心を彼は持っている。この新しい家族を“G9”と呼ぶ。しかし、ハイチの社会的および政治的エリートと、ハイチのエリートと結びつく西側の外部機関は別だ。初の黒人独立国であるハイチが、自らの道を確立するための場所と礼儀を与えられる時が来たのだ。特にそれは国内の貧しい大衆が掲げた道なのだ。

ハイチの歴史は、西欧の排外主義がもたらした負の結果に満ちている。(ハイチは)フランスの植民地抑圧者に何百万ドルもの賠償金を支払うことから始まり、実質的に米国のお気に入りのおもちゃになった。過去の3人の指導者が米国によって恣意的に選ばれた。しかし、トゥーサン*がいた。アリスティドがいた。そのようにシェリジエとG 9には、ハイチの子供たちに利益をもたらすために、最終的に真の意図を持った国家を持つ機会に値する愛国精神がある。私たち帝国主義の中心にいる市民は、現在と将来の指導者たちにハイチから手を退くことを要求しなければならない。
*トゥーサン・・・フランソワ=ドミニク・トゥーサン・ルヴェルチュール(1743年 - 1803年4月7日)は、(フランス革命期の)ハイチの独立運動(ハイチ革命)指導者であり、ジャン=ジャック・デサリーヌ等とともにハイチ建国の父の一人と看做されている。(ウィキペディア)
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「我々はテロリストを戸外トイレからも一掃する」:ロシアのテロとの長く血なまぐさい戦い

<記事原文 寺島先生推薦>
‘We’ll wipe them out in the outhouse’: Russia’s long and bloody fight against terrorism
クロッカス・シティ・ホールへの襲撃は、この国の30年以上にわたる暴力的過激主義との闘いの最新の事例にすぎない
筆者:アルテミー・ピガレフ(Artemiy Pigarev)
出典:RT 2024年3月31日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年4月12日


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2024年3月22日、ロシア、クラスノゴルスクのクロッカス・シティ・ホール・コンサート会場近くで犠牲者の遺体の隣で働く医師たち。© Sputnik/Sergey Bobylev


先週、モスクワのクロッカス・シティ・ホールで行なわれたバンド「ピクニック」のショーの前に、テロリストがコンサート来場者に向けて発砲した。この攻撃の結果、火災が発生し、その火災は1万3000平方メートルの範囲に広がり、翌日の夕方まで鎮火することはなかった。143人が死亡、182人が負傷した。ロシア連邦保安庁(FSB)は容疑者11人の逮捕を報告し、その大半はすでに法廷に持ち込まれている。

これは過去20年間でロシアにおける最も死者数の多いテロ行為となった。ここ数十年、この国は、国際的にはあまり知られていない小規模な(しかし悲劇の規模も小規模である、という訳ではない)テロ行為と、多くの死者を出した大規模な悲劇の両方に苦しんできた。それらはモスクワと国内の他の地域の両方で行われた。

テロはロシアをどのように襲ったのか

ロシア現代史におけるテロ攻撃のほとんどは、イスラム過激派運動に関連した過激派によって組織されたものである。

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関連記事:M.K. Bhadrakumar: Moscow massacre proves the West has created a Frankenstein monster on its own doorstep

1991年のソ連崩壊後、チェチェン過激派はいくつかの大規模な暴行を行なった。翌年、南部の町ミネラーリヌィエ・ヴォーディでバスの乗客が人質に取られた。1993年から1994年にかけて、別の攻撃が続いた。キスロヴォツク発バクー行きの列車がチェチェンのグデルメス駅近くで爆破された(11人が死亡、18人が負傷)。他にも列車爆破事件やバス乗客が人質に取られる事件が起きた。1994年5月26日、ブラジカフカスからスタヴロポリへ向かうバスの乗客33名(学童やその保護者、教師)が捕らえられ、7月28日にはミネラーリヌィエ・ヴォーディで乗客41名を乗せたバスがハイジャックされた。同じ年に、テロリストはモスクワ(2名が死亡)、ノヴゴロド(1名が負傷)、エカテリンブルク(2名が負傷)および他の場所で住宅の建物の近くで爆発物を爆発させた。1994年9月7日、モスクワで爆発が発生し、7人が死亡、44人が負傷した。

第一次チェチェン戦争は1994年12月に始まった。紛争期間中、攻撃は頻繁に行なわれるようになり、テロリストは交渉を有利に進める道具としてテロ攻撃を頻繁に使用した。目的を達成するために、彼らは人質を取るのが常だった。

1996年1月9日から15日にかけて、サルマン・ラドゥエフ率いる武装集団は、ダゲスタンのキスリャル市の病院と産科病棟で約2000人を捕虜にした。交渉の結果、人質の大部分は解放された。しかし、テロリストらは一部を連れてチェチェン方面に逃走した。彼らはペルボマイスコエ村近くでロシア軍に阻止されたが、夜、脱出に成功した。攻撃の過程で37人が死亡、50人以上が負傷した。ラドゥエフと他のテロリストはなんとか逃走した。キズリャルでのテロ行為により、ダゲスタン軍人や警察官、民間人を含む合計78人が死亡した。数年後、ラドゥエフは逮捕され、終身刑を言い渡され、最終的に獄死した。

ブジョンノフスクの悲劇と第一次チェチェン戦争の終結

1500人以上の人質が取られた1990年代最大のテロ攻撃は、チェチェンとの国境近くのブディオノフスク市で起きた。

1995年6月14日、この種の大規模作戦をいくつか組織したテロリストのシャミル・バサエフ率いる195人の武装過激派組織がブディオノフスク市を攻撃した。彼らは軍用トラック3台とパトカー1台を使ってチェチェンとスタヴロポリ地域の国境を越えた。検問所では警察官に変装し、軍人の遺体を輸送していると称して、検査を受けずに通過させるよう要求した。最終的に彼らが地元の警察署に連行されたとき、過激派は施設を攻撃した。彼らはまた、いくつかの行政建造物や住宅を占拠し、地元の病院で1586人を人質に取った。彼らはこの人たちを6日間拘束し、政府に対しチェチェンから連邦軍を撤退させ、不法テロ集団の武装解除を停止するよう要求した。

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ファイル写真。 1995年6月14日から19日にかけて、ロシアのスタヴロポリ地方ブディオノフスク市で起きたテロ攻撃と病院の人質包囲。 © Sputnik/Alexander Zemlyanichenko

6月17日、テロリストとの交渉が始まった。この交渉はロシア当局を代表してヴィクトール・チェルノムイルディン首相によって実施された。交渉の結果、テロリストらは人質数人とともにブディオノフスクを離れることが許可された。チェチェンに到着すると、過激派は人々を解放して逃走した。

この悲劇の原因となったテロリストの指導者バサエフは、2006年の特別作戦中に殺害された。それ以前にも、彼はロシア領土に対してさらに数回の血なまぐさい攻撃を実行することに成功していた。チェチェンでの対テロ作戦中の2005年までに、ブディオノフスク攻撃に関与した過激派30人が殺害され、2019年までに他の約30人が長期懲役刑を宣告された。しかし、武装勢力の一部は依然として逃走中である。

ブディオノフスクでの攻撃では129人(警察官18人、軍人17人を含む)が死亡、415人が負傷した。襲撃作戦中に少なくとも30人が死亡、70人が負傷した。その後の交渉の過程で、当局は敵対行為の無期限の一時停止を宣言した。

ただし、それでもその後の攻撃を防ぐことはできなかった。1996年7月11日、モスクワは地下鉄爆発事件で震撼させられ、4人が死亡、12人が負傷した。同年末、サンクトペテルブルクでも再び地下鉄爆破事件が発生した。

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関連記事:How Chechen terrorists overran a hospital, murdered dozens and made Russia tremble

これらの大きな悲劇に加えて、小規模なテロ攻撃が続き、さまざまな都市が標的にされた。7月11日から12日にかけてモスクワでトロリーバス2台が爆破され、30人以上が負傷した。爆発はヴォロネジ州やヴォルゴグラード州、および国内の他の地域の旅客列車でも発生した。

一連のテロ攻撃と前線での失敗(1996年8月、分離主義者らがグロズヌイやグデルメス、アルグンの都市を占領)により、ロシアの戦闘行為停止の決定が加速した。1996年8月31日、ハサヴユルト協定が調印され、第一次チェチェン戦争の終結が正式に示された。

「平和な」時代

和平協定調印から数カ月後、再びテロリストが襲撃した。今度は旅客列車が狙われ、1996年11月10日にはモスクワのコトリャコフスキー墓地で襲撃事件が起き、10人が死亡、約30人が負傷した。

1996年11月16日、テロリストはマハチカラ郊外のカスピースクにある9階建てのアパートを爆破した。この建物にはロシア軍第136自動車化ライフル旅団の将校の家族が住んでいた。犠牲者は子ども23人を含む64人、負傷者や重傷者は約150人となった。

テロ攻撃は1997年から1998年にかけて続いた。爆発は鉄道駅(アルマヴィルで1997年4月23日、ピャチゴルスクで1997年4月28日)と機関車(7月27日のモスクワ-サンクトペテルブルク間列車の爆発で5人が死亡、13人が負傷)で発生した。 1998年1月1日にはモスクワの地下鉄で再び爆発が発生し、9月4日にはマハチカラの路上で爆発が発生し18人が死亡、91人が負傷した。

1999 年はロシアにとって特に厳しい年だった。モスクワやサンクトペテルブルク、その他の都市の路上で爆発が起きた。1999年3月19日、ウラジカフカス市の中央市場が爆破され、52人が死亡、168人が負傷した。犯人のマゴメド・トゥシャエフは、サウジアラビアのテロリスト、イブン・アル=ハタブの命令に従って行動した。トゥシャエフはジャガイモの入った袋に爆弾を隠し、市場の最も混雑する場所にある金属製のカウンターの下に置いた。

1999年8月7日、イスラム過激派がロシアのダゲスタン共和国に侵攻し、第二次チェチェン戦争の勃発につながった。

住宅家屋での爆発

1999年9月4日、テロリストらは硝酸アンモニウムとアルミニウム粉末の混合物2700kgを積んだトラックを爆破した。事件はダゲスタン州ブイナクスクのレヴァネフスキー通りにある5階建てアパートの近くで起きた。この攻撃で子ども23人を含む64人が死亡、約150人が負傷した。

その後、テロリストらはモスクワで恐ろしい攻撃を開始した。1999年9月9日の真夜中、グリヤノフ通りにある9階建てのアパートで恐ろしい爆発が発生した。 2つの入り口は廃墟のまま残され、衝撃波は隣接する建物に被害を与えた。爆発の威力はTNT(トリニトロトルエン)火薬約350kgに相当した。この攻撃により106人が死亡、200人が負傷し、総計690人が爆発の影響を受けた。この攻撃は国民の強い反応を引き起こし、人々はロシアの首都のど真ん中で集合住宅が爆破されたという事実に衝撃を受けた。

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ファイル写真。 1999年9月14日、モスクワのカシラ・ハイウェイでアパートの建物が爆発した後の瓦礫の撤去。© Sputnik/Oleg Lastochkin

そのほんの数日後の1999年9月13日、モスクワのカシルスコエ高速道路沿いにある8階建てのアパートの地下室で別の爆発が起きた。爆発物はTNT火薬300kgに相当した。この攻撃の結果、民間人124名が死亡、9名が負傷した。

この後、別の悲劇が続いた。1999年9月16日の早朝、ロストフ地方のヴォルゴドンスクで自動車爆弾が爆発した。2つの建物が深刻な被害を受け、半壊した。爆発により近くの区画にあった窓やドアが破壊され、近隣のいくつかの建物に亀裂が生じた。この攻撃により19人が死亡、90人が負傷した。

同月、当時のウラジーミル・プーチン新首相は自身の対テロ戦略について次のように述べたがこの発言は後に有名な発言となった。

「私たちはあらゆる場所でテロリストを追跡します。空港内なら空港内で、です。ですので、トイレでテロリストを見つけたら、汚い話で申し訳ありませんが、屋外トイレでテロリストを一掃します。それだけの話です。以上です。」

9月4日から16日までの一連のテロ攻撃は、アル・ハタブと説教者のイスライル・アフメドナビエフ(アブ・ウマル・サシトリンスキーとして知られる)によって組織され、資金提供された。彼らは多くの大規模な暴動の責任者だった。アル・ハタブは2002年に殺害されたが、サシトリンスキーはロシア国外に居住しており、2023年に国際刑事警察機構は彼を国際指名手配リストから削除した。

住宅建物に対するこれらの恐ろしいテロ攻撃は、自爆テロや過激派の関与はなかったものの、数百人の民間人の命を奪ったもので、ロシア社会に強い衝撃を与えた。

ノルド・オスト

新千年紀初頭の最大の悲劇は、モスクワでの「ノルド・オスト」テロ攻撃と人質奪取だった。10月23日の夜、モスクワのドゥブロフカ劇場で同名のミュージカルが上演されていた。午後9時5分頃、モフサル・バラエフ率いる40人の武装テロリストを乗せた3台のマイクロバスが現場に到着した。彼らは悪名高いテロ指導者シャミル・バサエフの命を受けていた。彼らは劇場に侵入して出口を封鎖し、子ども100人を含む916人(出演者や劇場職員、観客)を人質に取った。

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ファイル写真。 2002年10月26日、チェチェン反政府勢力によって数百人の人質が拘束されていたモスクワの劇場から遺体を運び出す特殊部隊員。© AP Photo/Dmitry Lovetsky

10月23日から25日まで、人質はとんでもなく劣悪な状況で建物に閉じ込められた。しかし、交渉担当者の努力のおかげで、約60人の捕虜が釈放された。最終的には10月26日、FSB特殊部隊は人質を解放するための緊急作戦を実施した。作戦は極めて困難で、その過程でテロリストは全員殺害された。

ドゥブロフカ劇場襲撃の結果、人質130人が死亡した。うち5人は特殊部隊による建物襲撃前にテロリストに射殺され、残りは作戦中か負傷により死亡した。

ノルド・オスト事件やクロッカス・シティ・ホールの悲劇の場合と同様に、2003年7月5日にもテロリストが別の音楽イベントを標的にした。モスクワの人気ロックフェスティバル中に2件の爆発が発生したのだ。自爆テロ女性犯のズリハン・エリハジエワとマリアム・シャリポワの2人を含む16人が死亡し、57人が負傷した。

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更なる流血事件

2002年、過激派はさらにいくつかの恐ろしい攻撃を組織した。5月9日、カスピースクで第二次世界大戦戦勝記念日の祝典中に爆発が発生した。爆弾により43人が死亡、約120人が負傷した。テロリストのラパニ・ハリロフが爆発の責任者とされた。彼は2007年にダゲスタンで殺害された。

2002年12月27日、チェチェンのグロズヌイにある政府庁舎の庭で2台の車が自爆テロにより爆破された。この攻撃で71人が死亡、640人が負傷した。

2003年5月12日、チェチェンのズナメンスコエ村で、女性の自爆テロ犯が地方行政と連邦保安局の建物近くで爆発物を積んだトラックを爆破した。60人が死亡、197人が負傷した。犠牲者には警察官やFSB職員、民間人(子ども8人を含む)が含まれていた。一部の住宅建物も被害を受けた。 2003年6月、これらの攻撃の主催者であるチェチェンのテロ現場司令官ホジ・アフメド・ドゥシャエフが殺害された。

2003年9月3日、キスロヴォツクからミネラーリヌィエ・ヴォーディに向かう列車の車両の下で 2つの爆発装置が爆発し7人が死亡、92人が負傷した。この悲劇は2003年12月5日にも同じ行程を走行していた列車で繰り返された。自爆テロ犯はTNT火薬7kgに相当する爆発物を爆発させた。爆発の結果、47人が死亡、186人が負傷した。チェチェンのテロリストが犯行声明を出した。

テロリストは通勤者も標的にした。2004年2月6日午前8時30分、モスクワの地下鉄アフトザヴォツカヤ駅とパヴェレツカヤ駅の間で爆弾が爆発した。犯人のアンツォル・イザエフはバックパックに仕込んだ爆弾を爆発させた。爆発は非常に強力だったので、死者の多くはDNA検査によってのみ特定され、隣接する地下鉄の車両は完全に破壊された。41人が死亡(テロリストは含まない)、250人が負傷した。

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ファイル写真。 2004年2月6日、モスクワの地下鉄アフトザヴォツカヤ駅の外に集まる救助隊員。© MLADEN ANTONOV / AFP

襲撃の主催者と実行者は、カラチャイのムジャヒディーンのワッハーブ派組織「ジャマート」の構成員だった。

航空テロも問題になった。2004年8月24 日、トゥーラ地方とロストフ地方上空で2機の旅客機がほぼ同時に爆発した。それぞれ、ヴォルガ・アヴィアエクスプレスとシベリア航空の便が、モスクワのドモジェドヴォ空港からヴォルゴグラードとソチへ向かう途中だった。この二重攻撃により89人が犠牲となった。どちらの爆弾も、飛行機に乗っていた女性の自爆テロ犯によって爆発させられた。テロリストの一人の妹は、ほんの数日後に起こったベスランの学校包囲事件に関与していた。チェチェンの過激派シャミル・バサエフは爆発と学校襲撃の両方に対する犯行声明を出した。

2004年8月は特に死者数が多かった月だった。飛行機の悲劇から数日後、モスクワで新たなテロ攻撃が発生した。2004年8月31日、地下鉄リシュカヤ駅の入り口で自爆テロが発生し、10人が死亡、50人以上が負傷した。そしてその翌日、ベスランでの悲劇が起きた。

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ベスラン

2004年9月1日、新学期初日の祝賀行事中に、ルスラン・フチバロフ (「大佐」として知られる) が率いるテロリスト組織がベスラン第一中等学校を占拠し、生徒やその親族、学生や教員を含む1100人以上を人質に取った。校舎に地雷が仕掛けられた。武装勢力はほぼ3日間、人質を体育館に監禁し、食事や水、トイレの使用を拒否した。人質の中には生まれたばかりの子供を連れた母親もいた。

ルスラン・アウシェフ(イングーシ共和国の元大統領であり、テロリストが建物への立ち入りを許可した唯一の人間)の交渉のおかげで、9月2日に26人の女性と子どもが解放された。翌日、テロリストに撃たれた人質の遺体の引き渡しが合意された。

9月3日正午頃、非常事態省が遺体を回収するため学校に到着した。まさにその時、建物内で数回の爆発が起きた。特殊部隊が緊急作戦を開始した。人質の何人かは窓と爆発の結果できた壁の隙間から逃げ出すことができた。残りはテロリストによって学校の別の場所に連れて行かれた。戦闘は夜遅くまで続いた。

ベスランでの攻撃では、子ども186人、教師と学校職員17人、FSB職員10人、救助隊員2人を含む334人の命が失われた。

ヌルパシャ・クラエフを除く過激派は全員殺害された。クラエフには死刑判決が下されたが、執行猶予により判決は終身刑に変更された。チェチェンのバサエフが犯行声明を出した。

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ファイル写真。 2004年9月9日、北オセチアのベスランの人質事件の現場、学校の廃墟となった体育館にいる女性。© AP Photo/Alexander Zemlianichenko

第二次チェチェン戦争の終結

これらの重大な悲劇に加えて、多くのあまり知られていないテロ攻撃が2000年から2006年にかけて発生した。地下鉄での爆発(2001年モスクワ)から、多数の死傷者を出した攻撃(2001年ミネラーリヌィエ・ヴォーディ:死者21人、負傷者約100人、2002年ウラジカフカス:死者9人、負傷者46人)などさまざまな事件が発生した。また、バスの乗客が人質に取られる事件(ネヴィノムイスク、2001年)、バス内での爆発(グロズヌイ、2003年)、電車内での爆発(キスロヴォツク~ミネラーリヌィエ・ヴォーディ間の列車での爆弾で7人が死亡、約80人が負傷)といった事件もあった。 2004年、エッセントゥキ近郊のスタヴロポリ地方での列車爆発:44人が死亡、156人が負傷)、混雑した場所での自爆テロ(クラスノダールでは2003年8月25日のバス停での爆発、チェチェンでは祝賀会での爆弾テロ) 2003 年 5 月 14 日: 30 人が死亡、150 人以上が負傷)。

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政治家(2004年5月9日、テロリストはチェチェンの指導者アフマド・カディロフとチェチェン国家評議会議長のフセイン・イサエフを殺害)や警察官、軍への攻撃のほか、小規模な爆発で国民の命が失われる事件も定期的に発生した。

第二次チェチェン戦争は2009年4月16日に終結した。それにもかかわらず、テロ攻撃は続いた!

コーカサス地方のテロリストによる最後の攻撃

2009年11月27日、モスクワからサンクトペテルブルクへ向かう高速鉄道ネフスキー急行の3両が爆発により脱線し、28人が死亡、130人以上が負傷した。翌日、同じ悲劇の現場で2発目の爆弾が爆発した。事件は捜査現場近くで発生し、携帯電話を通じて起動されたものだった。違法武装組織の一員だった7名がテロ行為で有罪判決を受け、2010年3月2 日にイングーシでの戦闘中に殺害された。他に10名が投獄された。

2010年3月29日の朝、モスクワで新たな二重の悲劇が起きた。地下鉄のルビャンカ駅とパーク・カルトゥリー駅でテロ攻撃が開始された。両駅での爆発は女性の自爆テロ犯によって1時間の間に実行された。犠牲者は計44人、負傷者は88人となった。

チェチェンのテロ指導者ドク・ウマロフが犯行声明を出した。 2006年、ウマロフは未承認国家であったイクケリア共和国の大統領であると主張し、2007年にはコーカサス首長国連邦ジハード主義組織を設立し、その最高指導者となった。

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ドク・ウマロフ。 ©ウィキペディア

2011年1月24日、ウマロフ率いるチェチェンのテロリストによって別の悲劇的なテロ行為が実行された。ロシアで二番目に大きい空港であるモスクワのドモジェドヴォ空港で、自爆テロ犯が群衆の中で自爆した。その結果、37人が死亡、170人以上が負傷した。数人の加害者が逮捕され、投獄された。

この間何年にもわたって、過激派は他の攻撃を実行し、多くの命を奪った。

2010年8月27日にはピャチゴルスクでの爆発により40人以上が負傷し、2010年9月9日にはブラジカフカスでのテロ攻撃により17人が死亡、さらに158人が負傷した。

2013年にウマロフは殺害された。

ウマロフの死により、チェチェン戦争後に発生したコーカサス地方およびイスラム主義過激派組織によって組織されたテロ行為は終焉を迎えた。

イスラム過激派による新たな攻撃

多くのイスラム過激派とその指導者の死亡または逮捕、および国際情勢の変化により、ロシアにおけるテロ活動は影響を受けている。ウマロフと他の多くの司令官の死後、コーカサス首長国のテロ組織は分裂し、解散した。その結果、多くのイスラム主義者がイスラム国(IS、旧ISIS)に忠誠を誓った。

ISと関係のある過激派は過去数十年にわたり、ロシアで多数のテロ攻撃を行なってきた。最悪の出来事の一つは、2013年にヴォルゴグラードで起きた一連の襲撃事件だ。10月21日、女性の自爆テロ犯がバスを爆破し、7人が死亡、37人が負傷した。12月29日には鉄道駅での爆発で18人の命が奪われ、その翌日の12月30日にはトロリーバスでのテロ攻撃が発生し16人が死亡、25人が負傷した。

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2015年10月31日、ロシアの航空会社メトロジェット所属のエアバス321型機(A321)が、エジプトの都市エル・アリシュから100キロメートル離れたシナイ半島北部で墜落した。9268便はシャルム・エル・シェイクからサンクトペテルブルクへ向かう途中だった。この事故により、子ども5人を含む乗客乗員224人全員が死亡した。

この悲劇は、エジプトの空港職員によって隠蔽された飛行機内の爆発物によって引き起こされた。ISシナイ支部は災害発生から数日後に犯行声明を出した。

ロシア第二の都市サンクトペテルブルクもテロ攻撃に見舞われている。2017年4月3日、センナヤ・プロシャド駅と工科大学駅の間の地下鉄で爆発が発生した。その結果、テロリストを含む16人が死亡、67人が負傷した。攻撃は自爆テロ犯アクバルジョン・ジャリロフによって実行された。11人が襲撃準備の罪で起訴され、全員が長期懲役刑を言い渡された。

ロシアの近代史の過程において、テロリストは罪のない民間人に対してかなりの数の攻撃を実行してきた。標的の中には、旅客機や電車、学校、住宅、空港、コンサートホール、音楽祭など大勢の人が集まる場所も含まれている。

本記事においては、過去30年間にテロリストによって組織された攻撃の一部についてのみ言及した。いずれの場合も、当局は迅速に対応し、犯人を捜し出す必要があった。そしてロシアはテロ対策においてかなりの経験を積んできたが、残念ながらテロの脅威は過去のものになったわけではない。

筆者、アルテミー・ピガレフ。ロシア帝国とソ連の政治生活を専門とするロシアの歴史家
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