fc2ブログ

シオニズムは、そのイデオロギーも運動もファシズムだ

<記事原文 寺島先生推薦>
Zionism as a Fascist Ideology and Movement
筆者:L.アルデイ(Allday)とS.アル‐サレ(Al-Saleh)
出典:INTERNATIONALIST 360°


2206-1.jpeg
アル‐アクサ門でパレスチナ人女性を殴打し逮捕するイスラエル警察


ファリス・ヤフヤ・グラブ(Faris Yahya Glub)著『シオニストとナチス・ドイツの関係』

弱者は崩れ去り、殺戮され、歴史から抹消される一方で、強者は・・・生き残る。
- ベンヤミン・ネタニヤフ 1
(訳注:1~63までの番号は以下のサイトで説明を確認できます)
https://liberatedtexts.com/reviews/zionism-as-a-fascist-ideology-zionist-relations-with-nazi-germany-by-faris-glubb/

我々が目にしたのは・・・シオニズムはファシズムだということ・・・まちがいない。
ジョージ・ハバシュ( George Habash)2


『シオニストとナチス・ドイツの関係』は、1978年にパレスチナ研究センター3によって出版された。ベイルートがシオニスト軍の占領中に略奪され、後に爆撃されたわずか4年前だった。この研究は、主要メディアでは抑圧されてほとんどタブーとなっているテーマを扱っている。4

この簡潔で強力な本が出版されてから40年以上が経過し、ほとんど注目されず、引用されず、知られることはなかった。しかし、この本は必読書だ。なぜなら、それはシオニズムと欧州ファシズムとの関係について重要な歴史的文脈を提供しているからだ。その歴史的文脈は、欧州ファシスト勢力と協調したときから今日に至るまでシオニズムがまぎれもなくファシスト的性格をもったイデオロギーと運動であることを明らかにしているからだ。そして75年以上まえに始まったパレスチナ人に対するジェノサイドは今も進行中だ。したがって、『シオニストとナチス・ドイツとの関係』は、2つの関連する方法で読むことができる:1)ユダヤ人シオニズム運動の抑圧された歴史に関する歴史的証拠として、そして2)シオニズムに対するイデオロギー闘争を戦う研究書として。シオニズムはレイシズム(人種差別主義)であり、すべてのユダヤ人の救済運動だというのは自己詐称にすぎない。

この本の表紙には著者はファリス・ヤフヤと記されているが、中に貼り付けられた別紙によると、それはファリス・グラブのペンネームだ。彼は興味深いがあまり知られていない革命的人物で、彼の生涯も業績も人々の目に触れることはなかった。

ファリス・グラブの略歴

1939年にエルサレムでゴドフリー・グラブとして生まれたファリスは、ジョン・バゴット・グラブ (グラブ・パシャとしてよく知られている) とムリアル・ローズマリー・フォーブスの息子だった。彼の父親は、著名な英国の軍人であり、アラブ軍団の司令官を務め、1939年から1956年5に解任されるまでトランスヨルダンの英国保護領 (1946年以降はヨルダン王国) の軍人だった。福音派のキリスト教徒であり、大英帝国の献身的な奉仕者であるグラブ・シニアは、エルサレムの十字軍王国の最初の支配者であるブイヨンのゴドフリーにちなんで息子を名付けた。しかし、彼の人生は、彼の父親や彼につけられた名前とは全く異なる軌道をたどることになった。ファリス・グラブの人生はパレスチナの大義と反帝国主義の闘争に捧げられた。

グラブの多面的な人生についての完全な経歴はこの書評の範囲を超えるが、イギリス帝国内で育ったにもかかわらず、彼がいかにしてパレスチナの大義に関わりをもつようになったかについてのある程度の知識は、この本の文脈と著者の動機を十分に理解するために必要である。パレスチナで生まれ、ヨルダンで育ち、生まれたときからアラビア語にどっぷりと浸かったゴドフリーは、若い頃からファリスという名で知られるようになった。アラビア語で騎士を意味するこの名前は、父親が長年にわたって緊密に協力していたトランスヨルダン首長アブドラ1世から与えられたものである6。主にアラブ軍団のベドウィン部隊に囲まれた軍国主義的な環境で育ったグラブは、「シャマフ付きの」軍服の特製レプリカを着用している父親の仲間たちとよく交わっていた7

1947年から48年にかけての少年時代、グラブはシオニストによるパレスチナ民族浄化(ナクバ)の影響を目の当たりにした。シオニスト民兵によって追放された難民が、彼の家にパレスチナ人の孤児を置き去りにした。そのうちの2人はグラブの両親の養子となり、彼の兄弟として育てられた。グラブの息子であるマーク・グラブは、ナクバが人間に与えた壊滅的な影響をこのように直接目撃したことが、グラブのパレスチナ問題への深い思い入れと生涯にわたる関与に火をつけたと考えている8

英語と同様にアラビア語にも堪能だったグラブは9、イギリスの寄宿学校に入れられたとき、適応するのに苦労し、ウェリントン・カレッジからロンドンのヨルダン軍代表部に逃げ込んだ。1951年に彼がイギリスに到着したことは、地元の新聞でも取り上げられた。ロンドンの挿絵入り新聞スフィアには、「アラブ軍団司令官の息子がロンドンに到着」という見出しで、「ロンドン空港で飛行機を降りるとき、アラブの頭飾りをつけた」若きグラブの姿が描かれている10。彼は18歳でイスラム教に改宗したが、息子のマークによれば、カイロのアル・アズハル・モスクで正式に改宗するずっと前から、グラブはイスラム教徒だと感じていたという。11オックスフォード大学のエクセター・カレッジに入学したが、中退した後12、グラブはロンドンの東洋アフリカ研究学院で学び、そこで親パレスチナ派の組織活動に関わるようになった13

学業を終えたグラブはロンドンに残り、政治的な執筆活動や組織作りに積極的に取り組み続けた。1966年までに、彼は「植民地自由のための運動」(Movement for Colonial Freedom)の幹事となった。この運動は、党の多数派やその指導部とは異なり、イギリスの植民地の独立を支持する労働党の議員たちによって1954年に設立された著名な反帝国主義擁護団体である14。彼はオマーン権利委員会の事務局長となり、ニューヨークの国連総会を含め、湾岸におけるイギリス帝国主義の暴力に対して公然と発言した。イギリス政府高官たちはこのことに驚愕した。グラブ・パシャの息子がこのような立場に立つことに当惑したのだ。15。実際、グラブの活動がイギリス国家にとって重大な関心事であったことは外務省のファイルから明らかであり、1965年の国連総会での質問でグラブは、彼の属する委員会が英国当局から嫌がらせを受けており、その郵便物が開封された証拠を持っていると主張した。

グラブは委員会の機関紙である『自由オマーン』を数年にわたって編集し、断固たる反帝国主義的で革命的な立場を取り、その中で国内外の抑圧との関連性を指摘した。当時の彼の活動は重要であり、比較的知られていたにもかかわらず、グラブは無視された。たまに公に言及されることはあっても、だいたいはまともにとりあげられず、見下すような論調だった。西洋の帝国主義的な流れに抗う者がしばしば辿る運命だった。1963年の記事で、グラブと彼が属する委員会について嘲笑的なプロフィールを書いたガーディアンは、『自由オマーン』を、エジプト大統領ナセルを支持する「エジプトの宣伝紙」として一蹴し、グラブの「個人的な誠実さ」は疑われないものの、「青白く、痩せこけた、わずかに髭をたくわえた若者」と彼を見下し、「明白な誠実さでその理念を擁護しているものの、オマーンには一度も行ったことがない」とこき下ろした。16

オマーンと湾岸諸国への関心に加え、グラブはパレスチナ連帯サークルでも活動していた。1966年5月、英国・アイルランド・アラブ学生連合がロンドンで開催したパレスチナ・デー会議で、彼は熱弁をふるった。同委員会の委員長から「中東全域でよく知られ、愛されている人物・・・11年間にわたってアラブ解放運動に奉仕してきた人物」と紹介されたグラブは、パレスチナを反帝国主義の枠組みの中に明確に位置づけ、パレスチナを孤立したものとして捉えるのではなく、「アラブ世界と、人類にとって最も危険な敵であるアメリカ帝国主義に率いられた帝国主義に対抗する全人類の、より広い文脈における反帝国主義闘争の一部」として捉えるべきだと主張した。17グラブはまた、ヨーロッパ諸国がヨーロッパでユダヤ人に加えた「野蛮な扱い」を嘆き、「アラブ人はヨーロッパの野蛮主義が犯した犯罪の責任を負っておらず、犠牲者への補償は・・・アラブ人ではなくヨーロッパ諸国自身が行うべきである」ことも力をこめて明言した18

1967年6月の六日間戦争(アラビア語ではナクサ)の後、グラブはロンドンを去った。しばらく教育と放送に携わっていたチュニジアも離れ、幼少期からの故郷であるヨルダンに戻った。19 翌年の『デトロイト・ユダヤ・ニュース(The Detroit Jewish News)』 紙に掲載されたグラブへの辛辣な人物紹介に、次のような彼の説明を引用している:「アラブ人とイスラエル人の6月戦争は私に大きな影響を与えました。私は常にアラブ人を同胞だと感じていました。イスラエルの爆撃で黒焦げになったヨルダンや、アレンビー橋に押し寄せる難民の写真を見たとき、私の居場所はここにあると思ったのです!」20同年末の右翼タブロイド紙『ニューズ・オブ・ザ・ワールド(The News of the World)』でも、グラブはアンマンのラジオで「広告塔」となり、「アラブ人よりもアラブ人らしい」と、同様に失礼な報道がなされた。21 実際には、ヨルダンに戻っていたグラブはジャーナリストとしての仕事に加え、パレスチナ難民のための学校で教鞭をとり、ヨルダンを拠点に急成長していたパレスチナ革命運動とのつながりを強めていた。1970年の「黒い9月」の後、西側帝国主義と協力したヨルダン国家による軍事的敗北の後、PLOをはじめとするパレスチナ人グループはレバノンに向かうことを余儀なくされたが、グラブは彼らとともにベイルートに向かった。

レバノンの首都(ベイルート)で、グラブは闘争に身を投じた。欧米の新聞社向けにジャーナリストとしての仕事を続け、しばしばマイケル・オサリバンというペンネームで執筆した。ジャーナリズムだけでなく、レバノンに亡命したパレスチナ人派閥のいくつかと親密な関係を築き、援助活動家、作家、編集者、翻訳者、通訳、国際代表団の出迎え役、そしてアラビア語で書かれたいくつかの証言によれば、戦闘員としても活動した。実際、ある元同志は、ファリスが複数の派閥で軍事的に活動していたことを回想し、指揮官の一人が冗談半分で「我々はいつも彼(ファリス)を最も危険な状況に送り込んだが、彼は無事に戻ってきた。我々はイギリス人の殉教者を必要としていたのに!」22元同志の別の回想によると、グラブの名字はアブ・アル=フィダであり、彼は新しい幹部のために革命的な治安訓練を行い、多くの任務に参加していた。

この数年の間に、グラブはPLOのパレスチナ研究センターと緊密な関係を築き、ここで取り上げているテキストを出版した。この作品に加えて、グラブはこの時期に『国際法におけるパレスチナ問題(The Palestine Question in International Law)』(1970) や『シオニズムは人種差別か?(Zionism,is it Racist?)』(1975)など多くの作品を発表している。彼はまた、『サダト:ファシズムからシオニズムへ(Sadat:From Fascism to Zionism)』 (1979) や、パレスチナ人作家の短編集である『パレスチナの空の星々(Stars in the Sky of Palestine )』 (1978) を含む多くの作品を翻訳し、寄稿した。

グラブは、自らを単なる支持者や大義への同調者とは考えておらず、実際、自らをパレスチナ人だと考えていたことがわかる。内戦中、あるジャーナリストから、英国人でありながらなぜベイルートとパレスチナ人を守るために戦っているのかと尋ねられたグラブは、「私はパレスチナ人であり、パレスチナの首都エルサレムで生まれました。私のルーツはアイルランドにもさかのぼるが、私の血と肉はパレスチナ人です」23。このことは、この時期のグラブの友人アドナン・アル=グールも認めており、彼は自分がエルサレム出身のパレスチナ人であると常に感じており、それ以外の方法で名乗ることを拒否し、(パレスチナの)大義に心から献身していたと述べている24。また、別の元同志ハッサン・アル=バトルの言葉を借りれば、グラブは「生まれも所属も、まさにパレスチナ人」25であった。

シオニズムとのイデオロギー闘争

パレスチナ問題への深い親近感を持ちながら、グラブは、パレスチナの闘いを支援し、それに立ち向かうイデオロギー的な闘いに関わる研究と執筆を行なった。その中で、彼は『シオニストとナチス・ドイツの関係』という著作を執筆した。この著作は、ナチス・ドイツとシオニスト運動の協力関係に関する歴史的記録が、シオニスト運動によってぼかされ、抑えられている時点で書かれた。これは「シオニスト運動がプロパガンダ技術でどれほど成功しているか」26を指摘している。この著作から25年後、2人のイスラエルのシオニスト著者が、自らの記事『パレスチナの公的な論議におけるホロコーストの認識』27において、グラブの『シオニストとナチス・ドイツの関係』を取り上げ、彼の主張を単なる申し立てとして扱い、パレスチナ人や彼らの支持者を反ユダヤ主義者でホロコースト否認論者と描写した。彼らの立場は、パレスチナ民族解放運動関係者がシオニズムの歴史的現実を明らかにし、説明しようとすると、日常的に偏見と反ユダヤ主義だとの非難にさらされることを物語っている。グラブは、歴史的知識の抑圧を含むこの戦術が、ナチとシオニストの協力の歴史、あるいは彼が別の言葉で言うところのナチとシオニストの「便宜的同盟」に対する「広範な国民の無知」をもたらしたことをよく知っていた。 28「シオニストたちは、非シオニスト、あるいは反シオニストの視点はすべて「反ユダヤ主義」と決めつける傾向がある」ことを指摘し、そのような非難を先取りする明確な試みとして、グラブは「ユダヤ人資料のみから取られた」資料を研究に用いることを選択した29 。グラブが研究を書いてから数十年の間に、レニ・ブレンナーやジョセフ・マサドをはじめとして、ナチとシオニストの関係についてさらなる歴史的研究が書かれたが、一般的には、この関係は一般大衆の知識や意識の片隅にとどまっているにすぎない。

グルブは第1章で、 「シオニズムと反ユダヤ主義の間の哲学的共通点」 、すなわち、ユダヤ人は非ユダヤ社会に同化できず、排他的な人種集団を構成するという共通の前提を確立することに専念している30。シオニズムと反ユダヤ主義の間のこの哲学的共通点は、シオニズム運動が当初からヨーロッパの人種差別勢力と公然と協力し、支持を求めていたことから、歴史の中で具体的に展開された。グルブにとって、このことはシオニズムの基礎テキストの一つである『ユダヤ人国家』 (1896) に示されており、著者のテオドール・ヘルツルは 「反ユダヤ主義に苦しめられているすべての国の政府は、我々が望む主権を得るために我々を支援することに強い関心を持つだろう」と宣言している31

ヘルツルの外交目標は、シオニスト運動への支持を得ることだった。それに関してグラブは、ロシア帝国からイギリスに至るまで、ヨーロッパ各地の主要な反ユダヤ主義者たちにヘルツルがどう訴えたかを書いている。ロシアにおいて、「ユダヤ人をヨーロッパから排除するシオニスト計画を支持した」ヴェンツェル・フォン・プレーヴェなどの反セム主義的政治家たちに訴えた。しかし、「シオニズムの将来の成功のためにヘルツルが築いた最も重要な基盤は、イギリスの反ユダヤ主義者だった」。イギリスでは、彼は右翼のイギリスの取り組みを支持し、ユダヤ人の移民を国に入れないことを薦めた。グラブは反シオニストのユダヤ人思想家モーシェ・メニュヒンから引用している。「ヨーロッパを支配する悪党や反動主義者たちの中で、ヘルツルがひとつ好ましい約束をした:シオニズムはユダヤ人の間にあるあらゆる革命的、社会主義的要素を解消するだろう」32。シオニズムは、反動的な政治思想として始まり、発展し、ヨーロッパの支配階級と手を結び、その利益を確保する政治思想だった。

1904年にヘルツルが死んだ後、彼の努力はチャイム・ワイズマンに引き継がれた。彼のシオニスト運動への取り組みも、政治的イデオロギーに基づいていた。そのイデオロギーは帝国主義であり、反ユダヤ主義だった。帝国主義の点では、シオニスト国家、つまり初代イギリスのエルサレム総督が「潜在的に敵対的なアラブ主義の海における少数の忠実なユダヤ人アルスター(北アイルランド)」と述べたものの設置は、イギリス政府高官たちによって自分たちの帝国がその地域を支配する手段と見なされていた。そして反ユダヤ主義の点では、それは「ヨーロッパからユダヤ人を追い出す便利な方法だった」。331917年のバルフォア宣言は、パレスチナにシオニスト国家を設立するというイギリスの約束を確固たるものにし、「それ故に、それを発行した右派政治家たちの帝国主義的な野望と反ユダヤ主義的な偏見の組み合わせによって動機づけされたものだった」。34グラブの出版元であるパレスチナ研究センターの創設者フェイエズ・セイエグが1965年に書いたように、イギリス帝国主義とシオニスト植民地主義との連携は「便宜上の必要と相互の必要性」の連携だった。

シオニスト―ナチ関係の歴史的事実

シオニズムと反ユダヤ主義の間の哲学的、歴史的なつながりをはっきりさせることで、グルブはシオニズム運動とナチス・ドイツの関係を具体的に探求するための本の舞台を設定している。その後、1930年から1940年にかけてのシオニズムとナチス・ドイツとの関係を考察し、1950年から1970年までの歴史を消去しようとするシオニズムの存在を分析する。シオニズムの歴史的発展の抑圧は、イスラエルをナチズムへのアンチテーゼを代表する進歩的な反ファシズム事業計画として再ブランド化するための広範な運動の一部であった。しかし、これへの反論として、『シオニストとナチス・ドイツとの関係』は、シオニズムとファシズムとの協力が偶然の一時的なものではなく、その基盤の一部であったことを示唆している。

「シオニズムとナチズムの共通点」の章でグラブは、シオニズム運動がナチズムと同様に、ユダヤ人をヨーロッパ社会に同化させることはできないという考え方、すなわち異化を受け入れていたことを示している。アドルフ・アイヒマンのような確信犯的なナチスが、ナチスのイデオロギーに専心しながら、シオニストと友好的な関係を築き、自らを親シオニストと称することができたのは、このような異化の理念の共有があったからである」35。1935年、SSの諜報部員がナチス党の新聞に書いたように、「(ナチス)政府は、・・・シオニズム(そして)それに完全に同意している・・・すべての同化主義的な考えは拒絶する」。36ナチスがドイツを占領する以前にも、ナチスは1932年にブレスラウ(現在のヴロツワフ)を行進し、ユダヤ人を恐怖に陥れ、「ユダヤ人はパレスチナへ帰れ」と叫んだと報告されている37。グルブから見て、1930年代にシオニズムが勢力を伸ばしたのは、反動勢力と進歩勢力との間のより広範な政治的闘争があったからだ:「シオニズムは、ヒトラーの台頭がドイツ・ユダヤ人のイデオロギー的指導権をめぐる主要なライバルを粉砕することにつながったという事実から、確かに恩恵を受けた」38。ヒトラーが権力を掌握したわずか数ヵ月後、ドイツのシオニスト連盟のトップは、「今日、ドイツのユダヤ人をシオニズムの思想に引き入れるまたとない機会が存在する」39と宣言した。

グラブの研究の次の章では、1930年代に*ハアヴァラ協定を通じて、シオニスト運動とナチス・ドイツとの間に経済関係が確立されたことが取り上げられている。この協定により、ナチスはドイツのユダヤ人が資本をパレスチナに移すことを許可し、結果として、グラブによれば、総額1億4000万マルク相当(2021年時点で約13 億ドル)の移転が行われた。これらの合意は、パレスチナの植民地化を促進し、同時に、ナチス政権によるユダヤ系企業へのボイコットに対する世界的な対応を弱体化させた。「世界中のユダヤ人は、ドイツ製品へのボイコットで返答することによって、自らを迫害される同胞たちとの連帯を示し、おそらくはナチス政権に迫害の緩和を求める圧力をかけることができると希望した。が、シオニストたちがハアヴァラ協定に署名することで、この希望は事実上失敗に終わった」40
*ハアヴァラ協定・・・1933年8月25日にナチス・ドイツとシオニスト・ドイツ系ユダヤ人の間で締結された協定である。この協定は、シオニスト・ドイツ連邦、アングロ・パレスチナ銀行、ナチス・ドイツの経済当局による3か月の協議を経て完成した。(ウィキペディア)

ドイツ・シオニスト連盟は、ナチス政権との経済関係を確立することによって、反ナチス・ボイコットを打ち破っただけでなく、「「今日頻繁に行われているようなドイツのボイコットを求めるプロパガンダは、本質的には完全に非シオニストである」とナチス高官を安心させた」。この関係を通じて、ナチスは二つの目的を達成することができた。第一に、反ファシスト・ボイコットがドイツ経済に及ぼす影響を弱めること、第二に、「(ドイツ)帝国からパレスチナへのユダヤ人の出国を促進する」ことである。41

ハアヴァラ協定は「ニュルンベルク法が成立した2年後の1937年に記録的な水準に達した」。グラブの目から見て、これはシオニストの台頭と反ユダヤ主義者の猛攻と相関関係を示している:「皮肉なことに、ヒトラーが権力を握って以来、シオニスト運動が獲得してきた特権は、ニュルンベルク法によって実際に増大し、その一方でドイツ系ユダヤ人の立場は悪化の一途をたどった」42。結局、これらの協定は、「シオニストの政治的野心のためにヨーロッパのユダヤ人大衆の利益を犠牲にするという・・・不幸な前例」を作ったのである43

『シオニストとナチス・ドイツとの関係』の特徴は、シオニスト運動がいかに大多数のユダヤ人を犠牲にしてナチス政権に協力したかに焦点を当てていることである。グラブは、シオニスト運動はナチズムと闘うために資源を投入するのではなく、いかなる人的犠牲を払ってでもパレスチナにおける植民地入植計画を促進することに力を注いだと主張する。このことを証明するために、グラブは、モサドの副長官になる前に、1930年代のパレスチナにおける不法入植をテーマにした本を共同執筆したデイヴィッド・キムチェの研究を引用している44。当時、ナチス党はシオニスト運動を支援し、パレスチナにおけるシオニストの植民地入植とドイツからのユダヤ人移住を準備するために、「ユダヤ人開拓者」のための特別な農業訓練学校を設立した45。これらの取り組みは、ユダヤ人共同体連合の公式代表であるシオニストの使節たちによって行なわれた。彼らはナチ党親衛隊(SS)やゲシュタポと関係を築いた。グラブは、キムチェを引用しつつ、あるシオニストの使節がナチの上級幹部アドルフ・アイヒマンから農場や農業機械の支援を受けたことまで記述している。46実際、キムチェは「1938年末までに、これらのナチ提供のキャンプで約千人の若いユダヤ人が訓練を受けていた」と述べている。ここで注目すべきは、共同体連合はパレスチナのキブツ(集団農場)の設立と強化のために活動を行ない、これらの集落は「準軍事的な性格」を持っていたというグラブの指摘だ。47

さらに、グラブは、パレスチナの修正主義者イルグン民兵のシオニスト指導部も、ポーランドの反ユダヤ主義的な政権と「訓練キャンプなどの協力協定」を結んでヨーロッパのファシスト勢力と協力したと主張する。48グラブは、シオニスト運動のこのような取り組みが単なる手段であるとは示唆していない。代わりに、彼は次のように書いている:

反ユダヤ主義と、それを必要とする「推進力」として利用しようとするシオニストの便宜的同盟という二つの現象を完全に切り離すことはできない。対決であれ協力であれ、密接な接触の関係にある2つの政治勢力では必然的に起こるように、彼らは相互依存的に反応した。



この時期、反ユダヤ主義とファシズムがシオニズムに影響を与えたとすれば、そのファシズム的性格は、ヨーロッパにおけるユダヤ人の抵抗に対して見せた行動様式ほど荒涼としたものはない。第5章「ゲットーの反乱」で、グラブは反ファシズムのユダヤ人抵抗を称える。彼は、ユダヤ人捕虜がナチスの大量虐殺計画を知った最初の場所の一つであるヴィルノ・ゲットーに注目する。彼らは「ナチスに対する破壊活動を行なったが・・・大衆蜂起の望みは実現しなかった」。その一因は、修正シオニストで、ゲットーの警察隊長であり、ヴィルノのユダヤ人レジスタンスを弾圧し、弱体化させる中心的役割を果たしたヤコブ・ゲンスにある。ナチスの命令で、彼は脅迫しながらレジスタンスの共産主義者リーダー、イツィク・ウィテンベルクにナチスに寝返るよう強要した。ナチズムに直面したシオニズムが戦闘的抵抗に反対したことについて、グラブはこう付け加えた:「歴史には、ヨーロッパのナチズムに対するシオニスト運動の反乱宣言は記録されていない」49

グラブは、ファシズムに抵抗して命を捧げたヴィテンベルクのような人物に敬意を表している。彼は「ユダヤ人の抵抗を打ち砕くためのナチスの取り組みにシオニストの指導部が手を貸したにもかかわらず、反人種差別主義者のユダヤ人たちは、身を守るための手段を自分たちで精一杯工夫していた」50と書いている。ナチズムに対するユダヤ人の抵抗をこんな風に思い返していることは、グラブの研究において非常に強力な側面となっている。なぜなら、彼の研究はヨーロッパのファシズムの多くの犠牲者を賞賛しているからだ。彼らの歴史と記憶を、シオニストたちは植民地主義ファシズムの支持のために厚かましくも利用しようとしている。

シオニスト運動とファシズムとの関係は、多くの懐疑論と論争の対象となっている。グルブ自身もその事実を知っていたので、彼は次のような疑問を提起せざるを得なかったのだろう。「ナチズムと様々な形で協力した多くのシオニスト指導者たちは、個人として、あるいはシオニスト政策を実行する役人として行動していたのだろうか?」この疑問に対して、グルブは、「シオニストの伝統的政策を破り、ナチスに対する反乱に参加した個々のシオニスト」はいたが、そのような反乱には 「国際レベルでのシオニスト運動の協力」51 はなかったと答えている。彼は次のように書いている:

シオニズム運動の上層部、特に将来のイスラエル政府となる安全な隠れ場所で戦争を傍観していたユダヤ機関 [訳註:イスラエルと世界中のユダヤ人コミュニティとを結び付けることを目的とした団体_英辞郎] の指導者たちに意見の分裂はなかった。これらの指導者からナチズムに対する反乱の号令はかからなかったし、例えば、必死に武器を必要としていたゲットーの戦士たちに武器を密輸しようと試みたという記録もない。



『シオニストとナチス・ドイツの関係』は、シオニスト運動はユダヤ民族の絶滅を認識していなかったという主張の謎解きをする。さらに、シオニスト運動にはナチスの絶滅に直面するユダヤ人を助けるための十分な手立てがなかったという主張にも反論している。グラブが指摘するように、シオニスト運動の「唯一の関心事は、パレスチナに国家を確実に創設すること」であった52

このような歴史的な議論を実証するために、グラブは著名なシオニストの指導者イツァーク・グリーンバウムについて書いている。彼は第二次世界大戦中、ヨーロッパのユダヤ人を救うための救済委員会の責任者に任命された。グリーンバウムは後にイスラエルの初代内務大臣となった。ホロコーストの最中、彼はこう宣言した:

ヨーロッパにおけるユダヤ人大量虐殺の救出か、(パレスチナで)土地の解放かの2つの案が私たちに持ちかけられた際、私は迷いなく土地の解放に、疑いなく投票する。私たちの民の虐殺について言及が多くなればなるほど、私たちの土地のヘブライ化を強化し促進する取り組みが最小化される。もし今日、ナチス支配下の飢えるユダヤ人のために食糧パッケージを(リスボン経由で送るために)ケレン・ハエソッド(連合ユダヤ人アピール)の資金で購入する可能性があれば、私たちはそのようなことをするだろうか? 否! 繰り返す、否!だ。53

ヨーロッパのユダヤ人を助けるためにユダヤ機関の資金を送るよう要求することは、グリーンバウムにとって、事実上「反シオニスト的行為」であった54。このような大量虐殺肯定感情は、チャイム・ワイツマンのホロコーストに関する議論にも同様に見られ、彼はヨーロッパのユダヤ人を「残酷な世界の塵、経済的、道徳的塵」と表現している55

グリーンバウムとワイツマンの言動は例外的なものではなかった。グラブが提供した別の例では、ブダペストのユダヤ機関の救済委員会の長であるルドルフ・カストナーの卑劣な話を知ることができる。彼はアイヒマンのようなナチスと秘密協定を結び、「600人以上の著名なシオニストを救ってパレスチナに連れて行くことを許可してもらう代わりに、ハンガリーのユダヤ人の大部分を絶滅させる手助けをした」。カストナーの行動は、グラブによって引用されたソロモン・ションフェルト(Solomon Shonfeld)が「シオニスト政策の基礎:選択性」56と呼ぶものを反映している。この特徴はシオニスト国家が設立された後も続き、2022年現在、ホロコースト生存者の3分の1が貧困の中で生活している。2014年にインタビューを受けたある人は、「我々はホロコーストの生存者を非常に弱い集団として見ていた.・・・我々は彼らとは非常に異なっていた。私たちは強く、そんな立場になることを許そうとはしなかった」と語った。

カストナーの裁判とイスラエルによる歴史消去の取り組み

1950年代初頭ころには、ルドルフ・カストナーはイスラエル商工省の報道官となり、政党マパイの幹部となっていた。そのため、1952年にアマチュア・ジャーナリストでホテル経営者のマルキエル・グリーンワルドによってナチスとの協力関係が暴露されると、イスラエル政府はグリーンワルドを名誉毀損で告発し、この事件を鎮圧するために躍起となった。1955年、グリーンワルドには名誉毀損の罪なしとしたベンジャミン・ハレヴィ判事の所見は、詳細に引用する価値がある:

ユダヤ人の大多数のための重要な利益を犠牲にして、著名人を救出することが、カストナーとナチスとの間の合意の基本要素だった。この合意は、国民を2つの不平等な陣営に分けることになった。片方は、ナチスがカストナーに救出を約束したごく一部の著名人で、もう片方は、ナチスが死ぬと決めたハンガリーのユダヤ人の大多数だった。ナチスによる著名人たちの陣営の救出のための必須条件は、カストナーが大多数のハンガリー・ユダヤ人に対するナチスの行動に干渉せず、その殲滅を妨害しないことだった。カストナーはその条件を果たした。ユダヤ機関救援委員会とユダヤ人の殺害者との協力はブダペストとウィーンで確立された。カストナーの職務はSSの要だった。ナチSSは殲滅部門と略奪部門に加えて、カストナーが率いる救助部門を開設した。57



カストナーは、ナチスの強制収容所総司令官であったクルト・ベッヒャーSS大将を戦争犯罪の容疑から擁護することまでした。彼は個人としてではなく、彼自身の言葉を借りれば、「ユダヤ機関とユダヤ世界会議を代表して」そうしたのである。58ベッヒャーは*ベン・ヘクト(Ben Hecht)の『背信』を引き合いに出しながら、ベッヒャーがその後、さまざまな企業の社長になり、その中には彼の会社ケルン・ハンデル・ゲゼルシャフトも含まれている。この会社は「イスラエル政府と結構なビジネス」を展開した。59
*ベン・ヘクト(Ben Hecht)・・・アメリカ合衆国の脚本家、劇作家、小説家、映画プロデューサー。ハリウッドとブロードウェイを代表する最も偉大な脚本家の1人として知られ、数々の名作を残している。アカデミー賞では6回のノミネートで2回の受賞を果たしている。(ウィキペディア)

名誉毀損裁判での成功に勇気づけられたグリーンウォルドの弁護士シュムエル・タミールは、カストナーに対する新たな証拠を集め、彼をナチスとの共謀罪で裁判にかけようとした。しかし、この2回目の裁判が始まる前に、カストナーは、元「イスラエル政府情報局の金で雇われた潜入工作員」であったゼーブ・エクスタインによって暗殺された60。カストナー事件に関して幅広く執筆し、彼を裁判にかけるよう求めていたジャーナリストのモーシェ・ケレンにも、同じような運命が訪れた。ベッヒャーとのインタビューのためドイツに飛んだ後、ケレンはホテルの部屋で死亡して見つかり、公式には心臓発作で死亡したとされている。

グラブは、これらの死を、イスラエル政府が以前、検事総長を任命してまでカストナーを擁護し、容疑を晴らそうとした、より広い文脈の中に位置づけている。グリーンウォルドに対する名誉毀損裁判が敗訴し、さらに不利になる可能性のある別の裁判が目前に迫ったときになって初めて、カストナーと、そして彼へのさらなる尋問によって明らかになるであろう秘密は、排除しなければならないと考えられるようになった。カストナーが殺される前、戦争末期に彼がベッヒャーだけでなく、悪名高いアドルフ・アイヒマンの逃亡も手配していたことが明らかになった。このようにグラブは、1962年の有名なアイヒマンの逮捕、裁判、それに続く処刑を、イスラエル政府が「カストナー事件が明るみに出した不愉快な事柄をもう一度すべて葬り去る」61ための手段として、また、すべてのユダヤ人の庇護者としてのシオニズムという公式の物語を再確認するための公的なプロパガンダの見世物として、さらには、シオニズム運動とナチスの関係についてのアイヒマンの深い知識を彼とともに死滅させる直接的な手段として、捉え直している。

イデオロギー的対決の歴史的研究—グラブの遺産

『シオニストとナチス・ドイツの関係』はわずか85ページの短い本である。論題の複雑さと繊細さを考えると、グラブは、反シオニストであるモーシェ・メニュヒンなど、これまで無視され、抑圧されてきた(そしてそれは変わらない)ユダヤ人作家のさまざまな資料を駆使して、自分の主張を冷静に要約している。同様に重要なのは、グラブの著作が、シオニスト運動とナチズムとのつながりを歴史的に痛烈に告発している一方で、ユダヤ人の反ファシスト的抵抗を記念するものでもあるということである。

本書の結論は、その内容全体を物語っている。簡潔な数ページの中で、グラブは彼の中心的な主張を再度強調している:特に、シオニスト運動が「シオニストの国家建設に貢献できない高齢者を軽視」していたことを考えれば、「優れた人種」というファシストの概念がシオニストのイデオロギーに存在すること、シオニストとナチスの協力は「個人の逸脱ではなく、シオニストの公式政策の反映」であったこと、シオニスト運動はナチズムに対する持続的な抵抗を組織することはなかった。「その闘争の主導権と負担を自らに課したのは非シオニストのユダヤ人個人と組織であった」62とグラブは述べている。

シオニズムが自らの歴史を意図的に隠蔽する中で、『シオニストとナチス・ドイツとの関係』は、歴史を正すと同時に、反シオニスト、反ファシスト闘争のための極めて重要な方法である。歴史を正すこととして、グラブはシオニズム運動の歴史について歴史的証拠を提供し、ひいてはシオニズムとヨーロッパ中の反動的政治勢力との歴史的関係を解明している。この歴史的解明は、シオニストによる事業計画と、ウクライナのネオナチ・アゾフ運動のようなファシズムの現代的顕在化との関係についての現代的分析に情報を与え、文脈を整理するのに役立つだけでなく、ハマスが「新しいナチス」であるとするイスラエルの足掻きが、心理的投影の明らかな事例であることを浮き彫りにする。政治的資料として、『シオニストとナチス・ドイツとの関係』は、イスラエルとシオニスト運動全体とのイデオロギー的対決、とりわけ、イスラエルは世界中のユダヤ人の利益を代表する進歩的勢力という自己神話化との対決のために歴史研究を結集することになる。

グラブの著書について一番心をひきつけられるのは、その歴史的分析によって、現代のシオニズムとそのファシスト的性質について洞察を開いていることだ。彼の本から私たちが推測できることは、シオニズムがどこかで道を踏み外した進歩的な運動ではないということだ。その創設以来、シオニスト運動は反動的であり、資本主義的で、帝国主義的で、反ユダヤ主義的で、右翼的であり、ファシスト勢力と連携してきた。シオニズムはこうした勢力との関係を通じて、自らを維持してきたのだ。

そして今日、反動勢力との提携を通じて、シオニスト運動は自らを維持し続けている。この原稿を書いている現在、私たちはイスラエルとアメリカが、包囲されたガザでパレスチナ人に対する大量虐殺行動を実行しているのを目の当たりにしている。彼らは6日間でガザに6000発の爆弾を投下した。これは、アメリカが1年間にアフガニスタンに投下した爆弾よりも多い。何日間も、15分に1人の割合でパレスチナの子どもが殺された。彼らは地球上から家族全員を消し去った。そして彼らは、「弱者は崩れ去り、虐殺され、歴史から抹殺される」というシオニズムのファシズム的マントラの旗印のもとに、このようなことを行なったのだ。

だから我々みんなが目にしたのは、「シオニズムはファシズムである―まちがいない」。シオニズムの反対者がイスラエルはファシスト的政体であると宣言するとき、彼らは歴史的真実を語っており、それはイスラエルが世界にむき出しで示し続けているものである。我々は植民地主義63の中にファシズムの根源を見出し、イスラエルはこの歴史的基本方針の主要な実例である。

2004年、グラブは、1994年からクウェート通信のジャーナリストとして働いていたクウェートで、交通事故により悲劇的な死を遂げた。それ以来、彼のパレスチナ問題への幅広い貢献は、その言葉においても行動においてもほとんど知られていない。『シオニストとナチス・ドイツとの関係』のようなグラブの重要な著作を取り上げることでグラブに敬意を表するだけでなく、グラブと彼の遺産を称える最も適切な方法は、彼が人生の多くを捧げた現在進行中の緊急の闘い、すなわちシオニズムと帝国主義に対する正義の闘いに彼の著作を利用し、それを土台とすることである。


________________________________________
サマル・アル‐サレはニューヨーク大学で歴史学と中東・イスラム研究の博士課程に在籍。
ルイス・アルデイは作家・歴史家で、『Liberated Texts』創刊編集者。

________________________________________
付録 1966年、英国・アイルランド・アラブ学生連合第14回パレスチナ・デー会議におけるファリス・グラブのスピーチ

議長(フェイド氏):

ご列席の皆様、この度、私は、英国とアイルランドのアラブ学生連合を代表して、第14回パレスチナの日会議の議長を務めることに深い光栄を感じております。

時間の都合で、わたしは今すぐファリス・グラブ氏を呼びたいと思います。彼は中東全域でよく知られ、愛されている人物であり、11年間、中東のアラブ解放運動に奉仕してきた方です。私たちが皆心から歓迎することでしょう・・・ファリス・グラブ氏。

* * *

議長、兄弟姉妹の皆さん、パレスチナの問題は孤立した問題ではありません。それは、アラブ世界における反帝国主義闘争の一部であり、人類にとって最も危険な敵であるアメリカ帝国主義に率いられた帝国主義に対する全人類の闘いという、より広い文脈におけるものです。このことは、地図を見れば一目瞭然です。地図を見れば、アフリカとアジアの間に、短剣のような形をした小さな領土があることに気づくでしょう。それがシオニストの占領したパレスチナです。アフリカとアジアの2つの大陸を分断しているのは、この小さな短剣のような形をした領土です。この問題の本質が帝国主義から生じたものであることを理解するには、パレスチナ問題の歴史を見、帝国主義列強の理屈を見るだけでよいのです。バルフォア宣言の結果、中東におけるイギリス帝国主義の結果、シオニスト国家がパレスチナに押しつけられた歴史、そしてイギリスの将軍、アレンビーがエルサレムに入り、イギリス軍とともにパレスチナを占領したとき、彼は「私は十字軍の最後の戦いに勝った」と言ったことを、私たちは皆知っています。アレンビーの話は勇み足でした。十字軍の最後の戦いはまだ終わっていません。しかし、アレンビーが言及した戦いは、ヨーロッパ諸国がアジアとアフリカの民族に支配を押し付けようとしてきた十字軍の時代から続いてきた一連の過程の一段階なのです。ここで、帝国主義のプロパガンダがパレスチナ問題に関してどのような論拠を用いているかを見てみましょう。

イギリスやアメリカの報道を読むと、アラブ人が受け入れるべき既成事実として、パレスチナにおけるシオニストの占拠が変えられないものであり、私たちが受け入れるべき歴史上の事実の1つだと繰り返し述べられています。しかし、歴史を振り返ると、多くの場合、人々がそのような既成事実を受け入れなかったことで、それらを打ち破ったり元に戻したりすることができた例がたくさん見られます。私はアレンビーから十字軍の引用をしました。十字軍自体がパレスチナに国を立てることで既成事実を築きましたが、その地域の人々がこの支配を受け入れなかったため、その既成事実は今では消し去られています。アルジェリアの人々は、自分たちがフランスの一部であることは既成事実であると言われましたが、こんなことを彼らが受け入れることはしませんでした。私の人生の中で最も幸せな時間は、アルジェリアがフランスの一部であるというこの定説を覆すための戦いの中で、高貴なアルジェリアの人々に奉仕することに費やしたことです。また、アルジェリアの独立闘争に少しでも貢献できたことを非常に光栄に思っています。南アフリカの白人入植者はアフリカの人々に白人支配を既成事実として受け入れるように言っていますが、これはアフリカの人々も拒否しています。さて、なぜこのパレスチナ問題、シオニストによるパレスチナ占領が、既成事実として受け入れられないのでしょうか? 帝国主義列強が今回私たちに何を求めているのか見てみましょう。帝国主義列強は、単にアラブの人々がユダヤ人をもてなすことを要求しているのではありません。

何世紀にもわたって、アラブ世界に住むユダヤ人コミュニティは、尊厳と平等の条件の下で生活してきました。そこでは、ユダヤ人はアラブ世界で最高の地位を獲得することができ、閣僚の地位にまで達していましたが、ヨーロッパ人は種々の問題を整理し、優れたヨーロッパ文明の名の下にユダヤ人をガス室に押し込んでいました。私はヨーロッパ諸国がヨーロッパのユダヤ人に対して行なってきた野蛮な仕打ちを真っ先に非難し、さらにその後も数え切れないほど非難を繰り返してきました。しかし、私はこう言いますし、これからも言い続けます。アラブ人はヨーロッパの蛮行によって犯された罪に責任はなく、ヨーロッパの蛮行の犠牲者への補償はアラブ人ではなくヨーロッパ諸国自身が行なうべきであり、ヨーロッパ帝国主義者とアメリカ帝国主義者は、この既成事実をアラブ人に押し付けようとして、ヨーロッパでユダヤ人に対して行なってきた虐殺と非人道的行為に対する責任を回避しているのです。だから、私たちは誰もこれに惑わされないようにしましょう。罪はヨーロッパのものであるのに、その代償は100万人、100万人以上のパレスチナの人々によって支払われてきました。パレスチナの人々は、ヨーロッパのいわゆる文明の歴史を通じてヒトラーや彼の前任者の犯罪には関与していませんでした。

アラブ人は本質的にユダヤ人に偏見を持っているわけではなく、彼らの歴史を見ればそれがわかります。しかし、アラブ人が偏見を持つのは、おそらくどの人間も持つものであり、それは自分たちの領土の一部が異国の支配者に奪われ他の誰かに与えられ、原住民が追放されることについての偏見です。これは帝国主義の宣伝機関があなたに信じさせようとしていることとは非常に異なるものです。そしてなぜ帝国主義者はこのような戦術を採用するのでしょうか、なぜ彼らはシオニスト国家(イスラエル)の保存にそんなに関心を寄せるのでしょうか。すでに地理的要因について指摘しています。つまり、シオニスト国家(イスラエル)がアジアとアフリカを分断し、アラブ世界を二分するという事実です。シオニスト国家(イスラエル)は西洋帝国主義にとっても非常に有益であり、アフリカとアジアの大陸全域で軍事的および政治的な蠱惑(こわく)のおとりとして機能しています。もしこれに疑念を持つのであれば、1956年にさかのぼって10年前を振り返ってください。その時、イギリスとフランスの帝国主義がエジプトの支配を取り戻そうとした試みにおいてシオニズムが果たした役割を見ればよいでしょう。

エジプト(現在の統一アラブ共和国)の人々が、この侵略に対して非常に勇敢に抵抗したことは、私たち全員にとって反帝国主義の闘いの模範であり、アフリカやアジア全体で帝国主義の狙いの本質を非常に明確に示しています。そして今、私たちは将来を見据えなければなりません。現在、中東の中心における帝国主義の拠点という状況に直面しており、これはアラブ人だけでなく、アフリカとアジアを分断する脅威であり、占領された世界中の解放闘争および帝国主義に抵抗している人々にとっても脅威です。そして私たちが明確に目指すべきことは、すべての帝国主義の打倒です。私たちは非常に明確に敵を認識しなければなりません。私たちの敵は、米国帝国主義を先頭に置く世界帝国主義です。パレスチナ問題がこれをはっきりと示しています。なぜならこのシオニスト国家(イスラエル)は、1948年以来の間、米国からの援助、米国の資金に支えられてきたからです。イスラエルは他人の領土で不法に生み出された米国の子であるのです。

この問題を切り離して考えるのではなく、世界の人々、アラブ人と非アラブ人、そして実情を認識しているここにいるイギリス人たちが、敵が誰であるかを非常に明確に認識し、帝国主義が打倒されるまでその敵に対して断固たる戦いをしなければならないことを認識しなければなりません。そして今、兄弟姉妹よ、私は平和について一言述べたい。私は平和を愛するが、私はある種の平和を愛します。尊厳と自由の平和を愛します。自分が安全であり、自分の所有物がより強力なものに脅かされることがないと知っている平和を愛します。私は墓場の平和を愛するわけではありません。しかし、尊厳ある平和、自由な平和は、戦争の原因である帝国主義が取り除かれることによってのみ達成されることができるのです。

ご清聴ありがとうございました。
関連記事
スポンサーサイト



プロフィール

tmmethod

Author:tmmethod
FC2ブログへようこそ!

検索フォーム
リンク
最新記事
カテゴリ
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

月別アーカイブ
最新コメント