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ヨーロッパはアフリカの遺産を盗んだ。道理は通るのか?

<記事原文 寺島先生推薦>
Europe has stolen Africa’s heritage. Will justice prevail?
世界で最も有名な美術館収集物の大部分は、植民地時代に略奪されたアフリカの工芸品で構成されている。そして、現時点でアフリカに返還されたのは1パーセント未満。
筆者:ダリア・スホバ(Daria Sukhova)
出典:RT 2024年4月4日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年4月16日


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© RT/ RT


戦争とアフリカの植民地化の過程で、西側諸国は何十万ものアフリカ美術品の略奪に関与した。博物館は植民地主義の確立に貢献し、征服を正当化するために政府によって利用された。

2018年にフランス政府の委託を受けた、フランスの美術史家ベネディクト・サヴォイ氏とセネガルの経済学者フェルワイン・サール氏が作成した報告書で は、アフリカの物質的な文化遺産の90%から95%がアフリカ大陸の外に保管されている、とされている。いっぽう、アフリカの国立博物館に所蔵される文化財は、かろうじて3000点を超えるにすぎない。

ほとんどすべてのアフリカ諸国は、ヨーロッパによる探検とその後の植民地化の時代に、最も重要な文化的工芸品を失った。アフリカに残された遺産物は、ヨーロッパの博物館に持ち込まれたものほど歴史的および文化的価値がなかった。過去数十年にわたり、西側諸国はアフリカ諸国から繰り返し賠償請求を受けてきた。

アジェンダ2063―2015年にアフリカ連合によって採択されたアフリカの長期開発計画―では、文化遺産の保護がアフリカ大陸の主要な優先事項のひとつとされている。この枠組み文書によれば、アフリカのすべての文化財は2025年までに大陸に返還されるべきである、とされている。しかし、この野心的な計画は実現するのだろうか?

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関連記事:British generosity: The UK is loaning back African gold it stole. Is it the best it can do?

英国の懲罰遠征と英国美術収集物におけるその重要性

美術史家らは、2020年の時点で約7万点のアフリカの工芸品が大英博物館に収蔵されている、と推定している。しかし、展示の説明には、それらが英国に来た経緯についてはあまり触れられていない。

遺物の多くは、19世紀末の1897年のベニン懲罰遠征中にアフリカから押収されたものだ。ベニン王国 (西アフリカで古代から存続していた国) は、現在のナイジェリアの領土に位置していた。この懲罰遠征は、領土の支配を確立するために派遣された250人のイギリス軍部隊を地元住民が攻撃したことを受けて、「懲罰」として組織された。

懲罰分遣隊は最初の部隊をはるかに上回り、1500人の武装兵で構成されていた。英国軍はベニンの首都を襲撃し、王国を破壊し、支配者を捕らえた。この作戦の結果、2500から4000 個のベ二ンの青銅工芸品 (いわゆる「ベニンの青銅」) がアフリカから持ち去られた。ナイジェリアは英国に対し物品の返還を要求している。この事件はアフリカ美術史上最大の略奪事件の一つとみなされている。

遠征の費用を補うために、入手した遺物の一部がオークションに出品された。このようにして、ベ二ン・ブロンズはヨーロッパのさまざまな国に渡り、そこでアフリカ美術収集の人気が高まった。

世紀末の時代、ヨーロッパはアフリカ美術に大きな関心を示した。しかしそれでもヨーロッパ人がアフリカ美術を「原始的」芸術と呼ばなくはならなかった。今日に至るまで「原始主義」という用語はアフリカの芸術を説明するときによく使われている。実際、他地域の文化に対するヨーロッパ人の固定観念は、その特定の文化を説明するためにどんな言葉が選ばれているかで、よくわかる。

英国はまた、オークションでは売らなかった盗まれた工芸品の用途を発見したが、その多くはベ二ン民族の精神性を反映するものだった。工芸品の一部は遠征の軍事的成功に対する報酬として軍関係者に与えられた(経済的観点から見て価値がないとされるものだったからだ)が、他の品物は最終的に大英博物館に収蔵された。

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ナイジェリア生まれの芸術家ソカリ・ダグラス・キャンプによる「アフリカとアメリカに支えられたヨーロッパ」と題された作品を鑑賞する英国国王チャールズ3世(左)。 ©イザベル・インファンテス/AFP

ドイツも後塵を拝していたわけでは全くなかった

ドイツ帝国もアフリカの文化遺産の略奪に関与していた。英国やフランスとは対照的に、ドイツの植民地時代は短期間だった。しかし、ドイツは近隣諸国に遅れを取らず、自分たちの収集のための物品を手に入れようとした。

ドイツの遠征の過程で、研究者や博物館、または個人収集家(植民地当局者など)の興味を引く多くの工芸品や芸術品、地元の動植物の標本がアフリカから持ち出された。

ドイツはオークションで購入したベ二ンの青銅器とは別に、カメルーン民族とナミビア民族の芸術品も入手した。アフリカ民族にとって文化的、宗教的に重要な小像や宝飾品、作業道具などは、ベルリン民族学博物館に保管されていた。

ドイツ兵士は戦争犯罪の結果、多くの物品を入手した。シュトゥットガルト博物館には 2019 年まで、ナミビアの国民的英雄、ヘンドリック・ヴィットボーイの鞭が収蔵されていた。ドイツは、1904 年から 1908 年のヘレロ族とナマ族の虐殺中にそれを入手した。ヴィットボーイは、入植者と戦い、蜂起を指導した功績により、死後、ナミビア英雄の称号を授与された。

カメルーンから持ち込まれ、2022年までベルリン民族学博物館に保管されていた女神ンゴンソの彫刻に関しては、その彫刻が属していたンソ族によってドイツに売却も寄贈もされたものではなかった。1903年、ドイツの将校がこの彫刻を強制的に押収し、個人的な贈り物として博物館職員に贈呈した。ドイツの美術館職員らが行なった「不在アトラス」という調査によると、カメルーンから持ち出された4万点以上の美術品がドイツに保管されていたことが分かった。

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ベルリンの「新しいベルリン宮殿フンボルト・フォーラムの民族学博物館」での取材旅行中に撮影された、アフリカのバムム族(19世紀)の王の座席であるカメルーンの足置き付きマンドゥ・イェヌの玉座© JENS Schlueter / AFP

盗まれたひらめきの源

植民地時代の全盛期に、フランスは9万点以上のアフリカ美術を取得した。この収集物の大部分は、パリのケ ブランリー美術館をはじめ、他の州立美術館や個人ギャラリーに保管されている。

展示品の説明によると、アフリカの彫刻と仮面は、主に創造的な危機を経験したフランスの芸術家にひらめきを与えたという理由で貴重であることがわかる。しかしこれらの作品を創り出したアフリカの巨匠たちの創造的天才にはほとんど注意が払われていない。

当初、略奪された美術品はヨーロッパの民族学博物館に展示され、主に科学研究を目的とした「奇妙なもの」とみなされていた。アフリカの芸術家の才能を評価できたのは一部の個人収集家だけだった。

植民地時代が終わった後も、フランスはアフリカから貴重な工芸品を持ち出し続けた。たとえば、2005 年と 2007 年には、マリの文化遺産1万点以上がパリの空港で押収された。これらには、ブレスレットや斧、指輪が含まれていました。遺物のほとんどは 8000年前に遡るものだ。

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展覧会「二つの国のファラオ」の一部として展示されている芸術作品。パリのルーブル美術館内の「ナパタ王」というアフリカの物語、という展示区域。 ©ステファン・ド・サクティン/AFP

1パーセント未満

2017年にブルキナファソのワガドゥグーで講演したフランスのエマニュエル・マクロン大統領は、アフリカの文化遺産がフランスの博物館に残ることは容認できないと述べた。彼は5年以内に文化遺産を返還するためにあらゆる適切な措置を講じる、と約束した。

この声明が多くの注目を集めたのは、欧州の法律は国家遺産(西側諸国ではアフリカ美術は「国家遺産」とみなされている)の譲渡を認めておらず収集物が国家の所有する博物館から永久に移動されることがない可能性があるからだ。

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関連記事:Africa’s secret weapon: Extracting this resource will help present the continent’s true potential to the world

マクロン大統領の演説から6年後、フランス政府はついに賠償政策の実施に向けた対策の策定に着手した。 2023年4月、ルーヴル美術館のジャンリュック・マルティネス元館長は、一連の賠償要件を含む政府への勧告を含む報告書を発表した。フランスは美術品が違法かつ不当に取得されたものであることを確認する必要があり、アフリカ諸国からの賠変換請求は特別委員会によって調査される必要があり、金銭的補償の要求は考慮されないことになっている。

現時点でフランスはベ二ンに26点、セネガルに1点の遺物を返還している。これは、美術館に所蔵されているアフリカ美術品の総数の 1 パーセント未満に相当する。

フランス議会は2023年12月に新たな賠償要件を盛り込んだ法律を採択する予定だったが、この文書は野党によって阻止された。すべての勧告とその実際の実施を考慮した法律の制定には長い時間がかかる可能性があり、その結果、返還に至る過程が何年も遅れる可能性がある。

英国の博物館、略奪を懸念

世界第2位の植民地帝国である英国は、返還に関してははるかに保守的な考えを持っている。この国の国立博物館や美術館は、返還を認める法律の対象にはならない。英国は今後も、国家の収集物から美術品を引き離すことを認めない現行法を順守していく構えだ。

今年1月、大英博物館とヴィクトリア・アンド・アルバート博物館はついに、盗まれたアサンテ族の美術品をガーナに「返す」ことに合意した。しかし、その「返還」は最長6年の「長期賃貸借」に過ぎなかった。

英国の住民は、賠償により英国の博物館の収集物が空になるのではないかと懸念している。テレグラフ紙は、アフリカへの文化遺産返還要求により英国の博物館が「略奪される危険にさらされている」とさえ書いた。

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2021年10月27日、今月後半に西アフリカの国に輸送される前にケ・ブランリ美術館に展示されたベニンのゲゾ王を表す19世紀の王室の半人半鳥の彫像を鑑賞中のフランスのエマニュエル・マクロン大統領(左)。 © ミシェル・オイラー / BELGA / AFP

返還の先頭に立つ?

ドイツはフランスと並行して返還政策を実施している。両国は共同基金を設立し、その資金は現在博物館に保管されているアフリカの工芸品の起源に関する追加の研究を行うために使用される予定だ。返還に向けた準備作業は3年以内に実施される。

ドイツはすでに21個のベニンブロンズをナイジェリアに返還した。2022年に両国間で締結された協定によると、ドイツの博物館は1130点の返還を約束した。

ドイツはヨーロッパで「賠償の先頭に立っている」と言われている。しかし、アフリカ諸国はこれに同意していない。例えば、西アフリカの新聞モダン・ガーナ紙は、ドイツが「反返還運動」の先導者である、と反論している。ジャーナリストらは、美術品の返還を求めるアフリカの人々の要求は、他のヨーロッパ諸国と同様に、「常にドイツによって抵抗され」ており、ドイツ政府が一部の美術品を返還したのはつい最近になってやっとのことであった、と指摘している。

アフリカの人々は、ドイツが例えば英国よりも略奪品の返還に多くの努力を払ってきたことを認めているが、ドイツが何百年も保管してきた遺物のごく一部を返還したことを称賛されるべきであるという点には依然として同意できていない。また、ドイツはアフリカ大陸への影響力拡大に努めており、文化的取り組みはイメージ向上の手段に過ぎない可能性もある。

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ベルギーのテルビュレンにあるアフリカ博物館/中央アフリカ王立博物館、民族学および自然史博物館にあるアフリカの木製小像。 © Arterra / Universal Images Group(ゲッティイメージズ経由)

返還情報を監視しているのは誰か?

過去10年にわたり、アフリカの文化遺産の返還を公に訴える公的機関や個人活動家が増えている。

これらの取り組みの中で最大のもののひとつは、文化遺産の運命を憂慮するアフリカの人々によって設立された「オープン・リスティテューション(返還)・アフリカ」計画だ。この計画の主催者は、アフリカに対する文化遺産の返却の現状に関する情報への開かれた情報を提供するよう努めている。この計画のデータベースには、アフリカ大陸外に保管されている100万点を超えるアフリカ美術に関する情報が含まれている。現時点で返された文化遺産は1000点未満だ。

2022年、同組織は「返還物の回収」と題した世界中の活動家の活動に関する報告書を発表した。2016 年以来、アフリカ美術の返還に特化した科学出版物の数は 300%増加し、ニュースやソーシャル・メディアでのこの話題に関する議論の数は600%増加した。

しかし、返還に関するインタビューのほとんどはアフリカの人々によるものではないと、オープン・リスティテューション・アフリカの研究者らは指摘している。返還問題を専門的に研究しているアフリカの専門家は、通常、引用される著者一覧の最後に記されている。

ナイロビに拠点を置く非営利団体アフリカン・デジタル ・ヘリテージも、返還に関する新しい基礎情報の探索に取り組んでいる。ケニアの専門家は、デジタル技術を使用してアフリカの文化遺産と保存記録データを研究している。この専門家団は、現在の返還過程に関する関連情報をデータベースに定期的に更新するよう努めている。

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ライプツィヒのグラッシ博物館フォルケルクンデでベナンのブロンズ像の傍らに立つ訪問者。 © Jan Woitas / ゲッティイメージズ経由の写真アライアンス

アフリカ美術を取り戻すことの重要性

ヨーロッパの拡大期に略奪されたアフリカ美術は、美的価値を持っているだけではない。これらの美術品は文化的な観点から非常に重要だ。

彫刻やマスク、宝石は、アフリカの2000 以上の民族の精神性を反映している。各民族集団とその世界観は独自であるため、地元住民の同意なしに工芸品をアフリカから持ち出すことは、単なる芸術品の不法入手の問題ではない。実際のところ、これは外国の文化遺産の不法輸出にあたる。

ロシア外務省傘下のMGIMO(モスクワ国際関係大学)アフリカ研究センターの次席研究員マヤ・ニコルスカヤ氏がRTに語ったところによると、アフリカの文化遺産の返還は民族の自己証明の構築に大きな役割を果たしている、という。

「文化は人間生活における必須項目のひとつです。さまざまな工芸品や宗教的品物を含むアフリカの文化遺産の返還は、失われた自己証明の回復を示しています。しかし、現代のアフリカはこれらの貴重品が盗まれた頃のアフリカとは大きく異なります。こんにち、多くのアフリカ諸国は国家建設の過程にあり、民族の非政治化はこの過程における重要な要素となっています。文化は社会のさまざまな部分を結び付けることができる『細胞間空間』なのですから」とニコルスカヤ氏は述べた。

アフリカの若者の多くは、自分たちの民族に属する物質文化の対象物を一度も見たことがない。アフリカの数千年の歴史を示す文化財が大陸の外に保管されているということは、アフリカの人々は自国の文化に触れる機会が奪われている、ということになる。

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関連記事:‘A violation of human rights’: Will the UK government get away with deporting asylum seekers to Africa?

ニコルスカヤ女史は、現代アフリカ文化とその特有の自己証明の関連性についても強調している。「伝統的な芸術の分野や形態の新しい解釈は現在、映画や音楽、文学、写真、デジタルアートを含む芸術において発展しています。アフリカの現代美術がネット上で著作権侵害の犠牲になったり、個人収集物として公の場から消えたり、作者が分からない扱いになったりしないことが重要です」と同氏は述べた。

RUDN(パトリス・ルムンバ・ロシア人民友好大学)国際関係論理論史学科の博士課程学生ブライアン・ムガビ氏も、文化的回復の重要性についてRTに意見を寄せた。

「美術品を元の所有者に返還することは、植民地解放に向けた重要な一歩となるでしょう。これらの芸術作品は植民地時代に入手されたもので、歴史の暗い章を痛烈に思い出させるものとなっているからです 」と彼は語った。

「これらの文化遺産の入手については、多くの場合、疑わしい手段によって取得されました。その手段とは、植民地支配中に取られた搾取的で、しばしば原始的な方法を反映したものでした。」

したがって、「完全な返還を主張することは、歴史的不正義を正す手段になります」とブライアン氏は考えている。

「さらに、アフリカの文化遺産が不均衡に分布しており、推定90%から95%がアフリカ大陸の外に位置している現状は、公平な文化保護の必要性を浮き彫りにするものです。このような不均衡な状況は、アフリカ内の博物館が自らの遺産を紹介できる力を妨げるだけでなく、経済格差を永続させることにもなります。それは、最も重要な展示会がアフリカ国外で開催されているからです。」

「したがって、盗まれた美術品を返還することは道徳的義務として機能するだけでなく、文化の公平性と文化の保存を促進することにもなるでしょう」とブライアン氏は主張した。

アフリカ芸術の運命を決定するのはヨーロッパではなく、アフリカ自身であることは明らかだ。それは、現代芸術においても、古代芸術においても当てはまる。その事実を尊重することは、明らかに歴史的義務だ。
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日本人教授による世界へのメッセージ: 「健康な人への遺伝子治療の不正使用は極端な人権侵害である」

<記事原文 寺島先生推薦>
Japanese Professor’s Message to the World: “Fraudulent use of gene therapy in healthy people an extreme violation of human rights”
筆者:ジョン・リーク(John Leake)
出典:グローバル・リサーチ(Global Research) 2024年4月11日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年4月16日


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井上教授の「世界へのメッセージ 」に耳を傾け 、彼が語る人道に対する罪について考えてみてほしい。

大阪市立大学医学部名誉教授の井上正康氏が、世界保健会議の席上、日本から「政府による危険な新展開」を警告する驚くべきメッセージを発した。

分子病理医学を専門とする井上正康教授は次のように警告している。

「日本製のワクチンが、偽りの信用を装って輸出される危険性が高い。

日本がワクチン加害国になれば、後世に取り返しのつかない禍根を残すことになるでしょう。

したがって、日本政府の行為は国際的な協力によって阻止されなければなりません」。




この動画に私たちの注意を引き付けてくれたジョン・リーク氏に感謝する。


井上正康氏は、大阪市立大学医学部名誉教授であり、専門は分子病理学だ。

井上氏がこれまで出してきた論文を見直して、私が特に驚かなった事実は、同氏が長年関心を持ってきたのは、酸化ストレス*である、という点だ。同氏の論文「ミトコンドリアによる活性酸素**種の生成と好気性生物***におけるその役割」の要旨は以下のとおり:
*体内の活性酸素が自分自身を酸化させようとする力

**呼吸によって体内に取り込まれた酸素の一部が、通常よりも活性化された状態になること
***酸素を利用した代謝機構を備えた生物のこと。ほとんどの生物が当てはまる。


この研究では、酸素分子や一酸化窒素 (NO)、および超酸化物の相互作用が循環やエネルギー代謝、アポトーシス(細胞死)を調節し、病原体に対する主要な防御システムとして機能することが説明されている。また、老化や癌、および変性神経疾患*の病因におけるミトコンドリアによる活性酸素種生成の病態生理学的重要性についても説明されている。

*何らかの原因により脳や脊髄の神経細胞が徐々に失われ、物忘れが多くなったり(認知症)、手足がうまく動かせなくなったり(運動障害)する病気

最近、「老化と癌、退化性の神経系の疾病」について思いを馳せることが多くなっているのだが、それは私の友人である青年が、脳に転移した原発部位不明の進行性転移性黒色腫を患っていることが判明したからだ。 このニュースを聞いた翌日、ニューヨーク・ポスト紙に次のような記事が掲載されていた:『老化の加速により、若年層における癌の発生率が加速していることが、「非常に悩ましい」新しい研究により明らかになった』。

当然ながら、この「悩ましい新しい研究」では、過去3年間、若者たちに繰り返し注射されてきた遺伝子注射については何も触れていない。
関連記事

ドイツ政府、パンデミックは存在しなかったと認める

<記事原文 寺島先生推薦>
German Government Admits There Was No Pandemic
筆者:バクスター・ドミトリー(Baxter Dmitry)
出典:グローバル・リサーチ(Global Research) 2024年4月4日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年4月15日


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はじめに

重要なことは、ドイツ保健当局が公式データに基づいて、2020年3月11日から190カ国に課せられたCOVIDによるロックダウンの壊滅的な性質と影響を情報公開請求に基づいて明らかにする義務を負ったことだ。

本グローバル・リサーチが示した論文をはじめとする政府から独立した研究のほとんどは検閲の対象となっている。

重要なのは、ドイツ保健省の公式文書の内容が、COVID-19に伴うロックダウンやマスク着用の義務化、実験的mRNAワクチンに関して4年以上にわたって政府から独立した組織が出してきた報告と一致していることだ。

ミシェル・チョスドフスキー、グローバル・リサーチ、2024年4月4日


***
ドイツからのビッグ・ニュースだ。ドイツ連邦政府がいわゆる「陰謀論者ら」が、COVIDパンデミック時におこなっていた主張が正しかった事を認めざるを得なくなっている、というのだ。



実際、ドイツ政府のデータによると、パンデミックはまったく存在せず、悲惨な結果をもたらす実験用ワクチンを大衆に受け入れさせるために綿密に仕組まれた軍事級の心理作戦が行なわれただけだったことがわかる。

情報公開請求とその後の訴訟を通じて入手されたこれらのドイツ政府の機密文書は、世界の支配者層のCOVIDに関する嘘を暴いたものであり、できるだけ多くの人に真実を知らせることが極めて重要である。

世界中でますます多くの人々が目を覚まし、世界を股に掛ける支配者層のこれまでの姿、つまり破壊と支配に熱中する異常な精神異常者としての姿を目にするようになっている。

ドイツも例外ではない。ドイツ国民はヨーロッパ全土で最も残忍なロックダウンとワクチン接種の義務に苦しんだが、今では国民が立ち上がって説明責任を求めている。

ドイツ政府に対して情報公開請求を開始し、訴訟を起こしたポール・シュライヤー氏とマルチポーラー誌の動きを前進させていただきたい。ドイツ政府は、機密文書を厳重に管理しようとあらゆる策略を試みようとしていたのだ。

スティーブン・ホンバーグ教授が説明するように、この数値は驚くべきものであり、ロックダウンとマスクとワクチンの義務付けの必要性を訴える言説に敢えて疑問を呈したすべての人々が完全に正しかったことを示している。



2000ページに及ぶ政府の秘密文書は、ほぼすべてについて私たちが正しかったこと、つまりいわゆる「パンデミック」はすべて詐欺であったことを明らかにしている。

これらの事実は支配者層の悪事を暴くものであり、世界各国の政府や主流報道機関によって推進されているCOVIDに関する公式の報道が完全にでたらめであることを証明している。

そのため、いわゆるパンデミックの最中に私たちが経験してきた独裁権力者たちの言をうのみにすることはさらに難しくなっている、とホンブルグ教授は説明する。

このデータはまた、欧州でマスク着用やロックダウン措置がとられなかった唯一の国であるスウェーデンの結果がドイツよりもはるかに良かったことも明らかにしている。そうなると生じてくる疑問は、ロックダウンという横暴な義務は実際には何のために取られたものだったのか、という点だ。

ホンブルグ教授が答えを持っている。そして結局のところ、私たちがずっとおこなってきた主張は正しかったのだ。

残忍なロックダウン措置を利用してワクチンへの躊躇を打破することは、常に世界の支配者層の目標だった。残念ながら、当時この心理作戦を見抜けなかった人々にとって、健康への影響は悲惨なものとなっている。このことに関して重大な懸念を持つことは当然のことだ。

ワクチン接種者にとって残念なことに、悪い知らせはこれで終わりではない。日本の研究者は、COVIDと数百の病気を関連付けている。



いっぽう、米国で行なわれた新しい研究では、ワクチン接種と追加免疫を受けた人は、予想よりもはるかに早く天国に行ってしまう可能性があることが判明した。

気がかりな新しい研究により、COVIDのmRNA注射による「ワクチン完全接種」を受けた人々は、平均寿命がなんと25年も縮む可能性があることが明らかになったのだ。

研究者らは、CDCや米国オハイオ州のクリーブランド・クリニックが出した数値、保険会社の危険度評価データからの数値を分析し、mRNAを複数回投与した人々の予想される余命が急落するという憂慮すべき傾向を明らかにした。

ワクチン接種者にとって残念なことに、さらに悪い知らせもある。それは、これまで考えられていたこととは異なり、mRNA の投与ごとに引き起こされる健康への慢性的な被害は時間が経っても軽減されない、というものだ。

実際には、健康への悪影響は無限に続くようだ。

研究者らによると、CDCの全死因死亡率の数値は、接種回数が増えるごとに、2021年の死亡率と比較して2022年の死亡率が7%増加したことを明らかにしている。

これは、5回の接種(2回の接種と3回の追加接種)を受けた人は、死亡する可能性が、2021年に比べて2022年は35%高かったことを意味する。

ドイツからの情報と同様に、この研究でもワクチン接種を受けていない人々が2022年に死亡する可能性が2021年よりも低かったことが確認された。

これらの数字はひどいものだ。しかし、注意を払っている人なら誰でも、ワクチン接種者に何か非常に大きな問題が起こっていることがわかっているはずだ。世界中で心臓病やターボガンを患う人たちがハエのように(バタバタと)亡くなっている事例が増えている。

プロのスポーツ選手は地球上で最も健康であるはずだが、ここ数年で何千人もの選手が突然の原因不明の心臓病で倒れている。

ワクチンを完全接種したプロスポーツ選手がハエのように(バタバタと)倒れる事件が相次いでおり、先週だけで4人のプロサッカー選手が自分の心臓のあたりを掴んで突然倒れた。

エジプトのスター、アーメド・リフィートは、テレビのライブカメラの前で心停止に陥った3人目のプロサッカー選手となり、後に医師らは「このような事態はこれまで見たことがなかった」と認めた。

オーランド・パイレーツのミッドフィールダー、マヘレン・マハウラは、今週フィールド上で倒れた2人目のサッカースター選手となったが、医療スタッフがこの南アフリカのスター選手の蘇生に必死に努める姿が見られた。

唖然としたアナウンサーが、ワクチンの普及以来、世界中でサッカー選手がハエのように(バタバタと)倒れていることを自分の言葉を使って認めている様子を聞いていただきたい。

日曜日(3月31日)、アルゼンチンのトップリーグのエストゥディアンテスのハビエル・アルタミラノは、南米最大のクラブの一つ、ボカ・ジュニオルスとの大一番中に発作を起こし、突然倒れた。

ハエのように(バタバタと)倒れていくのはプロの運動選手だけではない。ソーシャルメディアで人気のインフルエンサーを含むあらゆる階層の人々が、前例のない頻度で、心臓病や珍しい種類のがんに見舞われている。

倫理的なメディアであれば、これらの事件を一面で特集し、なぜこれほど多くの若くて健康な人々が心停止や脳卒中、まれな形態の癌に苦しんでいるのかの調査に活力を投入するだろう。

その代わりに、報道機関はこの現象を正常であると報じ、プロのスポーツ選手や若者が心臓発作を起こすのは普通のことであると信じ込ませようとしている。しかし、自立した思考ができる人なら誰でも、この状況が正常から程遠いことを理解している。
*

バクスター・ドミトリーは、「ザ・ピープルズ・ボイス」の記者。政治や商業、娯楽を取材している。バクスターは人前で話すことを稼業にして以来、権力者に真実を語り、80カ国以上を旅し、どの国でも議論に勝利を収めてきた。怖いものなしだ。
電子メール: baxter@thepeoplesvoice.tv
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プーチンのハルマゲドンへの道

<記事原文 寺島先生推薦>
Putin’s Road to Armageddon
筆者: ポール・クレイグ・ロバーツ(Paul Craig Roberts)
出典:PCR政治経済研究所(IPE) 2024年4月5日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>  2024年4月14日

プーチンの終りのない戦争は、核ハルマゲドン(最後の壊滅的大決戦)になるだろう。

米国政府は今週、ブリンケン国務長官の口を通して、ロシアの警告をすべて無視してこう宣言した。

「ウクライナはNATOに加盟するだろう。サミットでの我々の目的は、加盟への橋渡しをすることだ。」

プーチンが危険な状況に対処するのに必要な武力行使を控えることによって、そして、紛争はウクライナ侵攻ではなく、ウクライナ軍をロシアのドンバス諸州から排除するための限定的な作戦に過ぎないと主張し続けることによって、ロシアは間もなくNATOとの戦争に陥るだろう。 https://www.zerohedge.com/geopolitical/hungary-vows-thwart-natos-newly-proposed-100bn-5-year-fund-ukraine

私は、この紛争に関するプーチンの非現実主義は、以前のミンスク合意に関する非現実主義や、いわゆるマイダン革命におけるウクライナ政府転覆に関する非現実主義と同様、第三次世界大戦への直接的な道であると、一貫して警告してきたが、効果がなかった。

ウクライナがNATOに加盟した瞬間、プーチンはNATOと戦争状態に陥るだろう。ロシアがウクライナを打ち負かし、政府を倒し、国を占領し、周囲に壁を築くための時間はあまりないのだ。

ウクライナがNATOに加盟することは、「文字どおり、核の黙示録映画が始まるきっかけになる」と、数少ない知的なアメリカ人の一人であるイーロン・マスクは言う。

プーチンの「限定的な軍事作戦」は、2つの新しい国(フィンランドとスウェーデン)がNATOに加盟し、ロシア国内でロシア市民がテロ攻撃を受け、ウクライナに西側の兵器システムとそれを操作するNATOの軍人が配備され、そして西側の情報により標的とされた死者が増加した以外、何も成し遂げていない。その間、プーチンはロシアが戦争状態にあることを理解できなかった。プーチンの挑発行為に対する無反応は、プーチンの警告が無意味であることをワシントンに確信させた。プーチンがレッドラインを行使しないことで、ワシントンは、プーチンにはレッドラインがあるという疑念から解放されている。

相互安全保障協定を求めるプーチンの嘆願をワシントンが侮辱的に冷遇したことで、プーチンが「限定的な軍事作戦」に追い込まれたように、ロシアはウクライナのNATO加盟を認めないというプーチンの警告をワシントンが無視したことで、ロシアは、NATOとのさらに広範な戦争に追い込まれるだろう。

プーチンが行動できないことによって第三次世界大戦が引き起こされる前に、ワシントンがでっち上げるまで存在しなかったウクライナの存在を終わらせるのに、プーチンは数ヶ月しかない。

悲惨な状況にもかかわらず、プーチンは依然として現実を受け入れることができないでいる。ロシア政府は、交渉の意思を繰り返すことで、ワシントンに弱さと優柔不断さを示し続けている。ここにプーチンの戦争指導者としての失敗がある。本来なら、ワシントンとNATOがプーチンに交渉を懇願すべきなのだ。

私たちは、私が予言したとおりにハルマゲドン(最後の壊滅的大決戦)への道を進んでいる。ある挑発を無視すると、また別の挑発が起こり、さらに次の挑発が起こり、今やプーチンが無視できないレッドラインに達している。この時点で、プーチンが第三次世界大戦を回避する唯一の方法は、降伏するか、ワシントンがウクライナをNATO加盟国に昇格させる前にウクライナの存在を消滅させるしかない。それ以外に選択肢はない。
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米独、ウクライナのNATO加盟に反対 - NYT紙

<記事原文 寺島先生推薦>
US and Germany against inviting Ukraine into NATO – NYT
NATOは「敗戦の危機にある」キエフを支援する「妥協点」を見つけたい、と同紙は報じている。
出典:RT  2024年4月5日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年4月14日


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写真: 2023年7月12日、リトアニア・ヴィリニュスで開催された2023年NATO首脳会議2日目、メディアの取材に応じるウラジーミル・ゼレンスキー・ウクライナ大統領(左)とイェンス・ストルテンベルグNATO事務総長。ショーン・ギャラップ / Getty Images

米国とドイツは、ロシアの圧力によるキエフの軍事崩壊を懸念しているにもかかわらず、ウクライナのNATO加盟に消極的である、とニューヨーク・タイムズ紙は木曜日(4月4日)に報じた。

同紙は、米国主導陣営の高官たちは、このような大胆な動きは「1945年以来ヨーロッパで最大の陸上戦に巻き込まれる」と懸念しており、NATOは替わりに「妥協点」を探していると付け加えた。

こうした懸念はベルリンとワシントンも共有しているとされ、7月にワシントンで開催されるNATO首脳会議でウクライナとの加盟交渉を開始することに反対している。同時に、両政府はウクライナに対する長期的な安全保障支援の約束を支持している。

水曜日(4月3日)、NATOのイェンス・ストルテンベルグ事務総長は、NATO加盟国に対し、自発的な寄付ではなく、ウクライナに「信頼でき、予測可能な安全保障支援」を提供することに重点を置くよう促した。ストルテンベルグ事務総長は、5年間で1000億ユーロ(約1070億ドル)の軍事援助をキエフに提供することを提案したと伝えられている。

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関連記事:NATOはヨーロッパでロシアと対決するためのアメリカの道具 - クレムリン

しかし、複数の西側外交官はNYT紙に、この計画は今のところ「確かなものではない」ように見えると語った。

米国の元NATO大使イヴォ・ダールダー氏によれば、ワシントンはこの構想に暗黙のうちに反対しているようだ。もうひとつのNATO加盟国であるハンガリーは、NATOが紛争により深く関与するような動きには反対だと公言している。

また、NATOがこのような長期にわたる1000億ユーロの拠出を加盟国に強制できるかも不明である。

しかし、ロシアがキエフ軍を押し返し続ければ、ウクライナは「敗戦の危機に瀕している」ため、夏までには「これらのことは問題にならなくなるかもしれない」とNYT紙は述べている。

ここ数週間で、ロシアはドンバスの主要都市アブデフカを解放し、近隣のいくつかの集落を占領した。ウクライナ大統領ウラジーミル・ゼレンスキーは先月、アメリカが軍事支援を再開しない限り、これが最後の撤退にはならないと警告した。米国議会では、共和党議員が国境警備の強化にもっと力を入れるよう要求しているため、共和党の反対で数カ月にわたって支援策が停滞している。

ロシアは、キエフへの西側の武器輸出を非難し、紛争を長引かせるだけだと警告している。モスクワの政府関係者はまた、西側諸国がロシアに「戦略的敗北」を与えるためにウクライナを道具として使っていると非難している。
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テロに対する戦いは軍事的手段では勝てない

<記事原文 寺島先生推薦>
The struggle against terrorism cannot be won by military means
G8は、このような残虐行為の根底にあるより広範な問題に取り組む機会をとらえなければならない。
筆者:ロビン・クック(Robin Cook)
出典:The Guardian   2005年7月8日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>  2024年4月14日


昨日、ロンドンでの爆弾テロを審理するために下院本会議が開かれたのだが、その会議がこれほど満席でこれほど静まり返ったのを私はほとんど見たことがない。いつもは粗野で騒々しい議場が、厳粛で重々しい雰囲気に包まれていた。普段は党派的な感情が渦巻く議場が、ショックと悲しみでひとつになった。イアン・ペイズリー*でさえ、それはジャーナリストが愛する人の死を知らされる前に親族にコメントを求めたときのことだったが、北アイルランドで起きた犯罪を繰り返さないよう報道陣に人道的な訴えをしたほどだ。
イアン・ペイズリー*・・・イギリスの牧師、政治家。元北アイルランド自治政府首相、民主連合党創設者、アルスター自由長老派教会創始者。北アイルランドのプロテスタントおよびユニオニストの中心人物の一人だった。男性。(ウィキペディア)

このような人間的悲劇に対する最初の反応は、負傷者の痛みと遺族の悲しみへの共感でなければならない。このような残虐行為に接すると私たちは為す術を知らない。伴侶や子供、両親の予期せぬ失踪が、自然死以上に耐え難いものであることを知っているからだ。突然のことであるため、別れを惜しむことも、打撃に備えることもできない。今日、ロンドンのあちこちで、最後の愛情の言葉をかけたり聞いたりする機会がなかったために、より深刻な痛みを感じている親族がいる。

それは恣意的であり、したがって一瞬の決定の偶然によって変わる出来事だ。今朝、自分の伴侶が次のバスに乗っていたら、または早めの地下鉄に乗っていたら、事態はまったく違っていただろうと考えた人は何人いるだろうか。

しかし、なぜそのようなことが起こったのかという問いに答えることは非常に困難である。だから、おそらくその喪失は最も耐え難いものだろう。今週末、私たちは先の大戦で英国を守った世代の英雄主義に敬意を表する。記念式典に先立ち、ファシズムを打ち負かすために危険を冒し、時には命を落とした人々の勇気について、多くの物語が語られてきた。それらは、人間の精神がどのようなものであるかを示す、感動的で謙虚な例であるが、少なくとも当時亡くなった男女の親族は、自分たちが何のために戦ったのかを知っていた。しかし、昨日の無意味な殺人に何の目的があるのか。このような無意味な殺戮から利益を得るような大義があると、いったい誰が想像できるだろうか?

この記事を書いている時点で、攻撃を開始した理由を説明するグループは現れていない。これから数日の間に、私たちはウェブサイトやこの途方もないことを正当化しようとするビデオメッセージを提供されるかもしれないが、そのような恣意的な殺戮の合理的な根拠を提供できる言語などは一切ない。そんなものが提供されても、その説明は、理性ではなく、その脅迫的な原理主義が何たるかを共有していない被害者への同情の余地を残さない犯人たちの宣言に頼るしかなくなってしまうだろう。

昨日、首相は爆破事件を、社会的価値観への攻撃と表現した。私たちの価値観の中には寛容さや異なる文化や民族背景を持つ人々に対する相互尊重も含まれる。前日には、ロンドンがオリンピック招致に成功し、我々の多文化主義の実績を世界に示すことを祝福していた。昨日の爆弾を仕掛けた人間にとって、この惨劇が私たちの社会の少数派に対する疑念や敵意を育むことほど嬉しいことはないだろう。テロリストを打倒することは、異なる信条や民族的出自を持つ人々が共存できないという有害な信念を打倒することでもあるのだ。

誰も昨日の犯罪を自分がやったと認めないまま、私たちはイスラム過激派の脅威を分析する記事に次から次へとさらされることになるだろう。皮肉なことに、それらの記事はスレブレニツァでの大虐殺から10周年を迎える同じ週に掲載されることになる。ヨーロッパの強国は、前世代のヨーロッパで最悪のテロ行為となった8000人のイスラム教徒全滅を防げなかったのだ。

オサマ・ビン・ラディンは、セルビア軍を指揮したミラドチ将軍がキリスト教の代表ではないのと同様に、イスラムの真の代表ではない。なぜなら、コーランには、私たちは互いを軽蔑するためではなく、お互いを理解するために異なる民族として創造された、と書かれているからだ。

しかし、ビン・ラディンは西側の安全保障機関による重大な誤算の産物だった。彼は80年代を通じてCIAから武器を供与され、サウジアラビアから資金援助を受けて、ロシアのアフガニスタン占領に対する聖戦を展開した。アルカイダとは、文字どおり "データベース "であり、もともとは、ロシア軍を打ち負かすためにCIAの助けを借りて募集され、訓練された何千人ものムジャヒディンのコンピューターファイルであった。不可解なことに、そして悲惨な結果を招いたが、ロシアが手を引けば、ビン・ラディンの組織が西側に目を向けるとは、ワシントンには思いもよらなかったようだ。

今、危険なのは、テロリストの脅威に対する西側の現在の対応が、当初の誤りをさらに悪化させていることだ。テロとの闘いが軍事的手段で勝てる戦争と考えられている限り、それは失敗する運命にある。西側諸国が対立を強調すればするほど、イスラム世界の穏健派の声を封じ込めることになる。成功は、テロリストを孤立させ、彼らの支援、資金、勧誘を拒否することによってのみもたらされる。つまり私たちを分断するものよりも、イスラム世界との共通点に焦点を当てることなのだ。

主要国にイスラム諸国が含まれていないため、G 8サミットはイスラム諸国との対話を開始するための最良の場となっていない。また、グレンイーグルズ・ホテル(G8の会場)にも招待されている中国、ブラジル、インドなどのえり抜きの新興経済国の周辺にも位置付けられていない。我々は、グローバル・ガバナンスの構造の中にイスラム諸国を包摂するための一層の努力をしなければ、イスラム諸国の間の疎外感に対処することにはならないだろう。

しかし、G8は今日の共同声明で、最新のテロ攻撃に力強く対応する機会をきちんと手にしている。それには、昨日の犯罪の責任を負う者を追跡するという共同の決意を述べることが含まれる必要がある。しかし、(そのためには)テロの根源的な問題に取り組む機会を逸してはならない。

特に、G8サミットが貧困撲滅を焦点にしているのに、昨日の爆破事件が今それを曖昧にすることは不適切である。テロの温床は貧困の裏通りにあり、原理主義は希望や経済的機会がないと感じる若者たちに、偽りの、簡単な誇りや自己証明を提供する。西側の安全保障にとっては、テロとの戦争よりも世界の貧困との戦いの方がより効果的かもしれない。

そして、プライバシーの守られた広々としたスイートルームで、昨日の残虐行為は、その場に居合わせた何人かの人々に心の内省を促すものになるだろう。ブッシュ大統領は、イラク侵攻を正当化するために、海外でテロと戦うことによって、西側諸国が国内でテロリストと戦わなくてすむようにするという理由をつけている。今日、イラク戦争を擁護するために他にどのようなことが言えるにせよ、イラク戦争が自国内のテロからわれわれを守ったとは言えない。
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自由と自治を求めた世界初のポスト植民地主義黒人国家の悲劇の歴史

<記事原文 寺島先生推薦>
The Tragic History of the World’s First Post-Colonial Black Nation’s Struggle for Freedom and Autonomy
筆者:K.D.ルイス(Lewis)
出典:INTERNATIONALIST 360° 2024年3月27日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年4月12日


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ジミー・"バーベキュー"・シェリジエとG9


虐殺者と間違われた革命家

ハイチ島の現在の国営ニュース報道では、元警察官だったジミー・シェリジエ(通称「バーベキュー」)をリーダーとする犯罪集団による密売や、強姦、そして人肉食などの凶悪な行為が蔓延していると報じられている。このように告発された暴力行為があるから、ハイチ最大の犯罪対策組織の指導者(ジミー・シェリジェ)に対して経済制裁をするし、ケニアおよびその他のECOWAS*軍を動員した米国の介入もあるのだ、という不注意な正当化が行なわれている。
*ECOWAS(Economic Community of West African States)西アフリカ諸国経済共同体

地元の暴力組織に対するシェリジエの抵抗組織(G-9として知られる)の行動をめぐるプロパガンダは、アメリカ軍産複合体の帝国主義的願望に隠れ蓑となる口実を提供してきた。ダン・コーエンの3部構成のドキュメンタリー『もうひとつの見方: ハイチの蜂起の内幕』は、貧困にあえぐデルマスという町のコミュニティ・リーダーであるシェリジエの姿を映し出している。彼が革命的抵抗の道に入ったきっかけは、デルマス6の自宅をギャングの暴力から守りたいという願望と、ハイチの司法・法執行システムの有効性に幻滅したことだった。彼は、ブルジョワ階級が警察や政府指導者と結託し、国の刑事司法制度から説明責任を回避していることに気づいたのだ。

シェリジエがハイチのUDMO警察部隊を辞職した後、2020年に形成されたG9は、国際的犯罪組織であると非難された。こうした非難を受けた後、G9はデルマスのさまざまな地域に対する警察主導の攻撃を受けた。彼らは、リュエル・マイヤール(Ruelle Maillart)のギャングを使って家屋を焼き払い、学校を取り壊すという行動をとった。G9に対抗するこれらのギャングは、ハイチの裕福な階級や米州機構(OAS)からの支援を受けていると言われている。このような虐殺について、合衆国支援のハイチ人権団体であるRNDDH*を含め、人権団体からの報告はない。
* RNDDH(Réseau National de Défense des Droits Humains)国家人権擁護ネットワーク

こういった行動へのシェリジエの反応は、デルマスの未被害地域内での避難所や食料の提供に加えて、貧しい武装ギャングや民兵の間で団結を呼びかけることであり、彼が言うハイチの富の85%を所有し、管理する上位5%のファミリーに抵抗することだった。ハイチ国内の、米国寄り指導層や暴力的なブルジョア派のギャング、西側メディア、そして、てぐすねひいて介入をしようとしている米国政府などからの敵意にもかかわらず、ジミー・シェリジエは、腐敗したブルジョア・システムに対する統一されたプロレタリア革命の未来構想を維持するとともに、特に米国のような西側大国からの干渉に立ち向かっている。

ハイチで起きていることは新しいことではない。実際、ハイチが誕生して以来、イスパニョーラ島として知られるこの島の西半分は、何十年にもわたって内憂外患に苦しんできた。しかし、この争いの解決は、ハイチのエリートではなく、特に欧米の超大国でもなく、ハイチの大衆からもたらされなければならない。この記事では、ハイチの経済的・社会的進歩を絶え間なく邪魔してきたヨーロッパやアメリカの介入と占領に対処してきたハイチの長い歴史を探求する。ハイチの混乱状態に関連してこの帝国主義の歴史を理解することは、他国の占領に反対する統一的な呼びかけと、シェリジエの構想に似た労働者階級中心の抵抗運動への統一的な支持を通じて、この国の自治を確実に守るために不可欠だからである。

西洋の窃盗によるハイチ独立後の不況

1804年1月1日、何世紀にもわたってヨーロッパ人が植民地主義入植活動をしてきた後、世界初の黒人独立国家が設立された。以前はサン・ドミングとして知られていたハイチは、13年間の反乱が革命に変わってから、植民地の抑圧者を打ち負かし、追放することに成功した。この新たに獲得した独立は記念碑的な勝利であったが、西洋帝国主義からはただちに反動があり、ハイチは、それ以降、いつ果てるともしれない悲惨な状態に置かれることになった。

独立からわずか20年後、ハイチは銃口を突きつけられ、かつての奴隷商人たちに独立の対価を支払うことを余儀なくされた。1922年にハイチ政府から最後の支払いを受けたフランスは、ハイチから(2022年の価値にすれば)5億6000万ドルを盗み出すことに成功した。この盗んだ金は、エッフェル塔のような驚異的な建造物の建設に使われただけでなく、フランスの銀行システムの構築にも使われ、クレディ・インダストリエール・エ・コマーシャル銀行(C.I.C.)に最大の利益をもたらした。ニューヨーク・タイムズ紙の「身代金」という記事は、この報復的なハイチ略奪が、210億ドル以上の損失(ハイチ国内に資金が残っていればだが)につながったことを説明している。植民地支配強国によるこの類を見ない行動は、ハイチの国家としての発展に多大な悪影響を及ぼしたが、それは始まりに過ぎなかった。

この強盗的所業とほぼ同時に、アメリカ合衆国は資源豊かだが経済的に破綻したハイチに目をつけた。まず、1868年、アンドリュー・ジョンソン大統領はヒスパニョーラ島全体を併合することを目指した。彼の後任であるユリシーズ・S・グラント大統領は、サントドミンゴ併合の積極的なPRをする委員会を後押しし、フレデリック・ダグラスを黒人支持の顔として利用した。併合に関する投票は米国上院で成立しなかったが、アメリカ合衆国はその後もハイチの事情に関与し続け、1915年にはハイチへ侵攻し、占領した。

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米国海兵隊、ポルトー・プランスに駐留。1915年

この占領は19年間続いた。その間、アメリカはハイチの国立銀行から50万ドル以上を盗み、その金をウォール街の様々な銀行に移した。シティグループはそのひとつ。この行為によって、アメリカはハイチ最大の金融機関を一方的に支配することになった。

企業の搾取と独裁者たち

1934年の善隣政策*によってアメリカ軍が島から完全に撤退した後、第二次世界大戦は欧米諸国がハイチの資源を開発する新たな機会となった。1941年、ハイチ政府は米国と共同でハイチ農業開発協会(SHADA)を設立した。
*善隣政策とは、フランクリン・ルーズベルトがアメリカ合衆国大統領在任時に行なった、ラテンアメリカ諸国に対する外交政策のことである。善隣外交とも言う。この政策が実施されたのはルーズベルト政権の時であるが、19世紀の政治家ヘンリー・クレイが既に「Good Neighbor」という用語を用いていた。(ウィキペディア)

この法人は、米国輸出入銀行(EXIM)が出資し、管理する農業法人であった。取締役会はハイチ代表3名とアメリカ代表3名で構成され、会社の主要幹部もアメリカ人であった。この構想は、戦時中のハイチの農業基盤経済を拡大し、ゴム生産に力を入れることを目的としていた。SHADA社が設立された結果、ハイチ政府はEXIM銀行に400万ドルの負債を負い、ハイチ製品の最大の輸入国はヨーロッパ(特にフランス)に代わってアメリカとカナダになり、ハイチの「農民階級」の農地はSHADA社に奪われた。

この時点から1980年代後半まで、ハイチはエセ人民主義者のフランソワ・デュバリエと、その息子のジャン=クロード・デュバリエの独裁的な支配を受けた。

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フランソワ “パパ・ドク” とジャン=クロード・“ベビー・ドク”・デュバリエ

デュバリエの治世は1957年、主にドミニカ共和国に端を発するムラート(白人と黒人の混血集団)の暴力への対応として始まった。フランソワ・"パパ・ドク"・デュバリエは、政権初期に黒人大衆が政治的・経済的に権力を握るという将来構想を表明した。一方、彼の行動は扇動政治家のそれであり、最終的に「ボギーメン(妖怪)」と呼ばれる腐敗した準軍事組織を設立し、地元住民を恐怖に陥れた。その後1964年、彼は自らを「終身支配者」と宣言した。

彼の指導の下、ハイチは観光客の減少、ドミニカ共和国との緊張の増大、そして彼の政権による厳しい弾圧に苦しんだ。19歳の息子、通称“ベビー・ドク”は、1971年、父の後を継いだ。 ジャン=クロード・デュバリエの統治法は国際的な尊敬されるイメージを確立することに焦点を当てていたが、父親の指導の名残があったので、1987年、独裁王朝を追放する大規模な蜂起が起こった。

裏切り者に阻まれた流血の政権交代

1991年の冬の終わり、ハイチの大衆に圧倒的に支持された社会・経済改革派のジャン=ベルトラン・アリスティドが、ハイチで初めて民主的に選出されて、大統領に就任した。しかし、この勝利は短命に終わった。

アリスティドが推し進めた野心的な改革には、軍隊に対する文民統制の拡大や長期政権最後の軍事指導者たちへの引退「奨励」、そして貧しい農民から土地を奪う腐敗した農村長制度の廃止などがあった。この改革は富裕層や元軍事当局への攻撃と受け止められ、選挙からわずか7か月後にアリスティドに対するクーデターが引き起こされた。クーデターは、ラウル・セドラス中将が指導者だった。彼は後に、アメリカ政府からの恩赦と、月額数千ドルの給与を受け、ハイチの隔離地に住むことになった。

このクーデターの後に起こったのは、軍事政権による労働者や農民、そして学生の様々な抵抗グループとアリスティドの支持者らに対する極端な暴力行為であった。ハイチの独立系ラジオ局を武力攻撃したり、ハイチ学生連盟 (FENEH) と関係がある150人の学生を大量に逮捕したりした。

ジョージ・H・W・ブッシュ政権下の米国諜報機関は、セドラス派とアリスティドとの交渉に便宜をはかったが、反面、アリスティドに対して人物破壊工作も行なった。その際(米国諜報機関は)アリスティドの支持者たちから出された1991年デュバリエ派が起こした反アリスティド・クーデターは人権侵害であるとの告発を非難することもした。

次のクリントン政権は前政権とは対照的に、アリスティドに対する厳しい態度を和らげた。実際、この政権は軍事的介入で、抑圧的なセドラス政権を追放する「民主主義維持作戦*」を展開した。しかし、この善意の行動は中央情報機関(CIA)の関与と矛盾する。なぜなら、CIAはセドラスがアリスティドを排除する手助けをし、セドラス大統領再任を押し進める組織FRAPH(「ハイチの発展と進歩のための戦線」)を操った体制の後ろ盾だったからだ。
*民主主義維持作戦(Operation Uphold Democracy)は、1991年のハイチのクーデターで選出されたジャン=ベルトラン・アリスティド大統領が打倒された後、ラウル・セドラスが主導し設置した軍事政権を排除することを目的とした多国籍軍事介入であった。この作戦は、1994年7月31日の国連安全保障理事会決議940によって事実上承認された。(ウィキペディア)

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左:FRAPHの民兵。右:CIA諜報員でFRAPHのリーダー、エマニュアル・コンスタント

「正義と説明責任センター」*によれば、FRAPHはハイチ軍(セドラス政権下)の暴力、テロ、抑圧行為に積極的に関与していた。そのリーダーであるエマニュエル "トト "コンスタントは、1993年にC.I.A.の諜報員であることが暴露された。それにもかかわらず、1994年のアメリカによる(再度の)ハイチ占領は、セドラスと彼の派閥を権力から「成功裏に」排除し、アリストティドの復帰への道を開くことになった。
*Center for Justice and Accountabilityは、カリフォルニア州サンフランシスコを拠点とする米国の非営利国際人権団体。1998年に設立されたCJAは、米国およびスペインの裁判所での個人の権利侵害者に対する訴訟における拷問およびその他の重大な人権侵害の生存者を代表している。

貪欲と植民地本能に潰された2回目の機会

アリスティド復帰は、帝国主義者が考えるようなアメリカの善意による行動ではなく、アリスティドが西側諸国の賛同を得られるような経済政策を展開することを条件とした取引行為であり、その条件のひとつがハイチの国有企業の完全民営化だった。アリスティドがこの条件に従わなかったのは、それはおそらく、この条件の性質上、主権国家ハイチにおけるアメリカの経済支配に大きな窓を開けることになるからだった。

西側の意志に従うことを拒否するこの行為は、アリストティドとラヴァッシュ党(アリストティド系の「進歩的」な党)が労働者階級からの圧倒的な支持を受けていたことと相まって、民主的に選出された大統領(アリストティド)を脅威に晒し、(敵の)標的にしてしまった。

アリスティドは、2度目の選挙に勝利した後、米国が支援するFRAPHと西側に好意的なハイチのエリートの残党からの反対に直面することになる。注目すべき野党指導者は、米国のパスポートを持つ工場経営者アンドレ・アペイドで、アリスティドと彼の政権は独裁主義であると中傷する「184人グループ」と呼ばれるギャングを率いていた。彼らと並んで、前述の暴力的で抑圧的なFRAPHは、アリスティド支持者を恐怖に陥れ、傷つけ、虐待する行為を続けた。

米国は、ハイチ問題への過去の干渉によって引き起こされる流血が避けられないことを察知し、それをテコに2004年にアリスティドを亡命させた。その後、アメリカ軍は再びハイチに進駐し、アリスティドに反対する暴力的な勢力を速やかに排除した。フランスの支援と国連の制裁により、ハイチ初の選挙で選ばれた大統領(アリスティド)は、最高裁判所のボニファス・アレクサンドル裁判長と交代した。彼は国連の傀儡政権の顔として振る舞った。この政権交代で、ラバシュ派が多数を占めていた指導部に、元デュバリエ派の閣僚が入ることになった。

自然災害の悪用

2010年に入ってわずか数週間でハイチを襲ったマグニチュード7.0の地震の惨状を多くの人はまだ忘れていないが、この自然災害に対する米国の対応の失敗によって引き起こされた惨状を多くの人は知らないかもしれない。当時のヒラリー・クリントン国務長官の監督の下、米国主導で行なわれた人道的対応というのは、非政府組織 (NGO) の場当たり的な管理と誤った監督だった。最も顕著な例は、赤十字の5億ドルの使途不明金である。

また、クリントンの実の娘が指摘したように、地域住民の自治に対する配慮もほとんどなかった。また、米軍が駐留しているのに治安が維持されなかったことも彼女は問題視した。クリントン夫妻のさらに悪質な行為は、「慈善的な」クリントン財団とクリントン・ブッシュ・ハイチ基金が、まるで「たかり」のような動きをしたことだ。この2つ財団は総額100億ドルの寄付の約束を受けている。

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カラコル工業団地の設立、従業員の日給は5ドル。

この資金を集めた後、ビル・クリントンはハイチ復興暫定委員会の共同議長に任命された。これによってクリントンは、両財団を通じて受け取った資金を直接管理することになった。しかしこれも、取るに足らない支援と、2012年にクリントン夫妻とファッション界の重鎮によって設立された3億ドルの衣料工業団地が失敗に終わったこと以外は、何も残らなかった。

操り人形と愛国者

この米国の大失敗で、米国はまんまとハイチを米国の言いなりにさせた。ハイチ救済を目指し、結局は失敗に終わった指導者は、マイケル・マルテリーとジョサバ・モイーズだった。マルテリーは、2005年にベネズエラの社会主義者ウゴ・チャベス大統領の下で始まったペトロカリベ協定*を通じて、ベネズエラから40億ドル以上の援助を横領したことで悪名高い。この盗んだ金は、彼の後継者であるモイーズを政権に押し上げるために利用されたと推測されている。
*ペトロカリベ協定・・・ベネズエラとカリブ海加盟国間の地域石油調達協定。この貿易組織は、ウゴ・チャベス大統領時代の2005年6月29日にベネズエラのプエルト・ラ・クルスで設立された。ベネズエラは加盟国に譲歩的な金融協定に基づいて石油供給を提供した。(ウィキペディア)

モイーズ政権下、ハイチの生活環境は悪化の一途をたどった。ペトロカリベ協定は2017年、他の誰あろう、トランプ政権下のアメリカによるベネズエラへの重い制裁により、事実上廃止された。ペトロカリベ協定の終了は、搾取される大衆にとって困難な局面となり、大規模な市民の混乱と、2021年のモイーズ暗殺につながった。

この暗殺事件により、現在、アリエル・アンリ首相がハイチの公式な国家元首として承認された。しかし、ハイチの労働者階級や事実上の指導者であるジミー・シェリジエは、この新首相と見解を共有していない。

ジミー・シェリジエはハイチの息子であり、犯罪と戦った経験があり、彼らに押しつけられた抑圧から苦しむすべての人々の結束を求める大きな思いやりの心を彼は持っている。この新しい家族を“G9”と呼ぶ。しかし、ハイチの社会的および政治的エリートと、ハイチのエリートと結びつく西側の外部機関は別だ。初の黒人独立国であるハイチが、自らの道を確立するための場所と礼儀を与えられる時が来たのだ。特にそれは国内の貧しい大衆が掲げた道なのだ。

ハイチの歴史は、西欧の排外主義がもたらした負の結果に満ちている。(ハイチは)フランスの植民地抑圧者に何百万ドルもの賠償金を支払うことから始まり、実質的に米国のお気に入りのおもちゃになった。過去の3人の指導者が米国によって恣意的に選ばれた。しかし、トゥーサン*がいた。アリスティドがいた。そのようにシェリジエとG 9には、ハイチの子供たちに利益をもたらすために、最終的に真の意図を持った国家を持つ機会に値する愛国精神がある。私たち帝国主義の中心にいる市民は、現在と将来の指導者たちにハイチから手を退くことを要求しなければならない。
*トゥーサン・・・フランソワ=ドミニク・トゥーサン・ルヴェルチュール(1743年 - 1803年4月7日)は、(フランス革命期の)ハイチの独立運動(ハイチ革命)指導者であり、ジャン=ジャック・デサリーヌ等とともにハイチ建国の父の一人と看做されている。(ウィキペディア)
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「我々はテロリストを戸外トイレからも一掃する」:ロシアのテロとの長く血なまぐさい戦い

<記事原文 寺島先生推薦>
‘We’ll wipe them out in the outhouse’: Russia’s long and bloody fight against terrorism
クロッカス・シティ・ホールへの襲撃は、この国の30年以上にわたる暴力的過激主義との闘いの最新の事例にすぎない
筆者:アルテミー・ピガレフ(Artemiy Pigarev)
出典:RT 2024年3月31日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年4月12日


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2024年3月22日、ロシア、クラスノゴルスクのクロッカス・シティ・ホール・コンサート会場近くで犠牲者の遺体の隣で働く医師たち。© Sputnik/Sergey Bobylev


先週、モスクワのクロッカス・シティ・ホールで行なわれたバンド「ピクニック」のショーの前に、テロリストがコンサート来場者に向けて発砲した。この攻撃の結果、火災が発生し、その火災は1万3000平方メートルの範囲に広がり、翌日の夕方まで鎮火することはなかった。143人が死亡、182人が負傷した。ロシア連邦保安庁(FSB)は容疑者11人の逮捕を報告し、その大半はすでに法廷に持ち込まれている。

これは過去20年間でロシアにおける最も死者数の多いテロ行為となった。ここ数十年、この国は、国際的にはあまり知られていない小規模な(しかし悲劇の規模も小規模である、という訳ではない)テロ行為と、多くの死者を出した大規模な悲劇の両方に苦しんできた。それらはモスクワと国内の他の地域の両方で行われた。

テロはロシアをどのように襲ったのか

ロシア現代史におけるテロ攻撃のほとんどは、イスラム過激派運動に関連した過激派によって組織されたものである。

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1991年のソ連崩壊後、チェチェン過激派はいくつかの大規模な暴行を行なった。翌年、南部の町ミネラーリヌィエ・ヴォーディでバスの乗客が人質に取られた。1993年から1994年にかけて、別の攻撃が続いた。キスロヴォツク発バクー行きの列車がチェチェンのグデルメス駅近くで爆破された(11人が死亡、18人が負傷)。他にも列車爆破事件やバス乗客が人質に取られる事件が起きた。1994年5月26日、ブラジカフカスからスタヴロポリへ向かうバスの乗客33名(学童やその保護者、教師)が捕らえられ、7月28日にはミネラーリヌィエ・ヴォーディで乗客41名を乗せたバスがハイジャックされた。同じ年に、テロリストはモスクワ(2名が死亡)、ノヴゴロド(1名が負傷)、エカテリンブルク(2名が負傷)および他の場所で住宅の建物の近くで爆発物を爆発させた。1994年9月7日、モスクワで爆発が発生し、7人が死亡、44人が負傷した。

第一次チェチェン戦争は1994年12月に始まった。紛争期間中、攻撃は頻繁に行なわれるようになり、テロリストは交渉を有利に進める道具としてテロ攻撃を頻繁に使用した。目的を達成するために、彼らは人質を取るのが常だった。

1996年1月9日から15日にかけて、サルマン・ラドゥエフ率いる武装集団は、ダゲスタンのキスリャル市の病院と産科病棟で約2000人を捕虜にした。交渉の結果、人質の大部分は解放された。しかし、テロリストらは一部を連れてチェチェン方面に逃走した。彼らはペルボマイスコエ村近くでロシア軍に阻止されたが、夜、脱出に成功した。攻撃の過程で37人が死亡、50人以上が負傷した。ラドゥエフと他のテロリストはなんとか逃走した。キズリャルでのテロ行為により、ダゲスタン軍人や警察官、民間人を含む合計78人が死亡した。数年後、ラドゥエフは逮捕され、終身刑を言い渡され、最終的に獄死した。

ブジョンノフスクの悲劇と第一次チェチェン戦争の終結

1500人以上の人質が取られた1990年代最大のテロ攻撃は、チェチェンとの国境近くのブディオノフスク市で起きた。

1995年6月14日、この種の大規模作戦をいくつか組織したテロリストのシャミル・バサエフ率いる195人の武装過激派組織がブディオノフスク市を攻撃した。彼らは軍用トラック3台とパトカー1台を使ってチェチェンとスタヴロポリ地域の国境を越えた。検問所では警察官に変装し、軍人の遺体を輸送していると称して、検査を受けずに通過させるよう要求した。最終的に彼らが地元の警察署に連行されたとき、過激派は施設を攻撃した。彼らはまた、いくつかの行政建造物や住宅を占拠し、地元の病院で1586人を人質に取った。彼らはこの人たちを6日間拘束し、政府に対しチェチェンから連邦軍を撤退させ、不法テロ集団の武装解除を停止するよう要求した。

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ファイル写真。 1995年6月14日から19日にかけて、ロシアのスタヴロポリ地方ブディオノフスク市で起きたテロ攻撃と病院の人質包囲。 © Sputnik/Alexander Zemlyanichenko

6月17日、テロリストとの交渉が始まった。この交渉はロシア当局を代表してヴィクトール・チェルノムイルディン首相によって実施された。交渉の結果、テロリストらは人質数人とともにブディオノフスクを離れることが許可された。チェチェンに到着すると、過激派は人々を解放して逃走した。

この悲劇の原因となったテロリストの指導者バサエフは、2006年の特別作戦中に殺害された。それ以前にも、彼はロシア領土に対してさらに数回の血なまぐさい攻撃を実行することに成功していた。チェチェンでの対テロ作戦中の2005年までに、ブディオノフスク攻撃に関与した過激派30人が殺害され、2019年までに他の約30人が長期懲役刑を宣告された。しかし、武装勢力の一部は依然として逃走中である。

ブディオノフスクでの攻撃では129人(警察官18人、軍人17人を含む)が死亡、415人が負傷した。襲撃作戦中に少なくとも30人が死亡、70人が負傷した。その後の交渉の過程で、当局は敵対行為の無期限の一時停止を宣言した。

ただし、それでもその後の攻撃を防ぐことはできなかった。1996年7月11日、モスクワは地下鉄爆発事件で震撼させられ、4人が死亡、12人が負傷した。同年末、サンクトペテルブルクでも再び地下鉄爆破事件が発生した。

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これらの大きな悲劇に加えて、小規模なテロ攻撃が続き、さまざまな都市が標的にされた。7月11日から12日にかけてモスクワでトロリーバス2台が爆破され、30人以上が負傷した。爆発はヴォロネジ州やヴォルゴグラード州、および国内の他の地域の旅客列車でも発生した。

一連のテロ攻撃と前線での失敗(1996年8月、分離主義者らがグロズヌイやグデルメス、アルグンの都市を占領)により、ロシアの戦闘行為停止の決定が加速した。1996年8月31日、ハサヴユルト協定が調印され、第一次チェチェン戦争の終結が正式に示された。

「平和な」時代

和平協定調印から数カ月後、再びテロリストが襲撃した。今度は旅客列車が狙われ、1996年11月10日にはモスクワのコトリャコフスキー墓地で襲撃事件が起き、10人が死亡、約30人が負傷した。

1996年11月16日、テロリストはマハチカラ郊外のカスピースクにある9階建てのアパートを爆破した。この建物にはロシア軍第136自動車化ライフル旅団の将校の家族が住んでいた。犠牲者は子ども23人を含む64人、負傷者や重傷者は約150人となった。

テロ攻撃は1997年から1998年にかけて続いた。爆発は鉄道駅(アルマヴィルで1997年4月23日、ピャチゴルスクで1997年4月28日)と機関車(7月27日のモスクワ-サンクトペテルブルク間列車の爆発で5人が死亡、13人が負傷)で発生した。 1998年1月1日にはモスクワの地下鉄で再び爆発が発生し、9月4日にはマハチカラの路上で爆発が発生し18人が死亡、91人が負傷した。

1999 年はロシアにとって特に厳しい年だった。モスクワやサンクトペテルブルク、その他の都市の路上で爆発が起きた。1999年3月19日、ウラジカフカス市の中央市場が爆破され、52人が死亡、168人が負傷した。犯人のマゴメド・トゥシャエフは、サウジアラビアのテロリスト、イブン・アル=ハタブの命令に従って行動した。トゥシャエフはジャガイモの入った袋に爆弾を隠し、市場の最も混雑する場所にある金属製のカウンターの下に置いた。

1999年8月7日、イスラム過激派がロシアのダゲスタン共和国に侵攻し、第二次チェチェン戦争の勃発につながった。

住宅家屋での爆発

1999年9月4日、テロリストらは硝酸アンモニウムとアルミニウム粉末の混合物2700kgを積んだトラックを爆破した。事件はダゲスタン州ブイナクスクのレヴァネフスキー通りにある5階建てアパートの近くで起きた。この攻撃で子ども23人を含む64人が死亡、約150人が負傷した。

その後、テロリストらはモスクワで恐ろしい攻撃を開始した。1999年9月9日の真夜中、グリヤノフ通りにある9階建てのアパートで恐ろしい爆発が発生した。 2つの入り口は廃墟のまま残され、衝撃波は隣接する建物に被害を与えた。爆発の威力はTNT(トリニトロトルエン)火薬約350kgに相当した。この攻撃により106人が死亡、200人が負傷し、総計690人が爆発の影響を受けた。この攻撃は国民の強い反応を引き起こし、人々はロシアの首都のど真ん中で集合住宅が爆破されたという事実に衝撃を受けた。

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ファイル写真。 1999年9月14日、モスクワのカシラ・ハイウェイでアパートの建物が爆発した後の瓦礫の撤去。© Sputnik/Oleg Lastochkin

そのほんの数日後の1999年9月13日、モスクワのカシルスコエ高速道路沿いにある8階建てのアパートの地下室で別の爆発が起きた。爆発物はTNT火薬300kgに相当した。この攻撃の結果、民間人124名が死亡、9名が負傷した。

この後、別の悲劇が続いた。1999年9月16日の早朝、ロストフ地方のヴォルゴドンスクで自動車爆弾が爆発した。2つの建物が深刻な被害を受け、半壊した。爆発により近くの区画にあった窓やドアが破壊され、近隣のいくつかの建物に亀裂が生じた。この攻撃により19人が死亡、90人が負傷した。

同月、当時のウラジーミル・プーチン新首相は自身の対テロ戦略について次のように述べたがこの発言は後に有名な発言となった。

「私たちはあらゆる場所でテロリストを追跡します。空港内なら空港内で、です。ですので、トイレでテロリストを見つけたら、汚い話で申し訳ありませんが、屋外トイレでテロリストを一掃します。それだけの話です。以上です。」

9月4日から16日までの一連のテロ攻撃は、アル・ハタブと説教者のイスライル・アフメドナビエフ(アブ・ウマル・サシトリンスキーとして知られる)によって組織され、資金提供された。彼らは多くの大規模な暴動の責任者だった。アル・ハタブは2002年に殺害されたが、サシトリンスキーはロシア国外に居住しており、2023年に国際刑事警察機構は彼を国際指名手配リストから削除した。

住宅建物に対するこれらの恐ろしいテロ攻撃は、自爆テロや過激派の関与はなかったものの、数百人の民間人の命を奪ったもので、ロシア社会に強い衝撃を与えた。

ノルド・オスト

新千年紀初頭の最大の悲劇は、モスクワでの「ノルド・オスト」テロ攻撃と人質奪取だった。10月23日の夜、モスクワのドゥブロフカ劇場で同名のミュージカルが上演されていた。午後9時5分頃、モフサル・バラエフ率いる40人の武装テロリストを乗せた3台のマイクロバスが現場に到着した。彼らは悪名高いテロ指導者シャミル・バサエフの命を受けていた。彼らは劇場に侵入して出口を封鎖し、子ども100人を含む916人(出演者や劇場職員、観客)を人質に取った。

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ファイル写真。 2002年10月26日、チェチェン反政府勢力によって数百人の人質が拘束されていたモスクワの劇場から遺体を運び出す特殊部隊員。© AP Photo/Dmitry Lovetsky

10月23日から25日まで、人質はとんでもなく劣悪な状況で建物に閉じ込められた。しかし、交渉担当者の努力のおかげで、約60人の捕虜が釈放された。最終的には10月26日、FSB特殊部隊は人質を解放するための緊急作戦を実施した。作戦は極めて困難で、その過程でテロリストは全員殺害された。

ドゥブロフカ劇場襲撃の結果、人質130人が死亡した。うち5人は特殊部隊による建物襲撃前にテロリストに射殺され、残りは作戦中か負傷により死亡した。

ノルド・オスト事件やクロッカス・シティ・ホールの悲劇の場合と同様に、2003年7月5日にもテロリストが別の音楽イベントを標的にした。モスクワの人気ロックフェスティバル中に2件の爆発が発生したのだ。自爆テロ女性犯のズリハン・エリハジエワとマリアム・シャリポワの2人を含む16人が死亡し、57人が負傷した。

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更なる流血事件

2002年、過激派はさらにいくつかの恐ろしい攻撃を組織した。5月9日、カスピースクで第二次世界大戦戦勝記念日の祝典中に爆発が発生した。爆弾により43人が死亡、約120人が負傷した。テロリストのラパニ・ハリロフが爆発の責任者とされた。彼は2007年にダゲスタンで殺害された。

2002年12月27日、チェチェンのグロズヌイにある政府庁舎の庭で2台の車が自爆テロにより爆破された。この攻撃で71人が死亡、640人が負傷した。

2003年5月12日、チェチェンのズナメンスコエ村で、女性の自爆テロ犯が地方行政と連邦保安局の建物近くで爆発物を積んだトラックを爆破した。60人が死亡、197人が負傷した。犠牲者には警察官やFSB職員、民間人(子ども8人を含む)が含まれていた。一部の住宅建物も被害を受けた。 2003年6月、これらの攻撃の主催者であるチェチェンのテロ現場司令官ホジ・アフメド・ドゥシャエフが殺害された。

2003年9月3日、キスロヴォツクからミネラーリヌィエ・ヴォーディに向かう列車の車両の下で 2つの爆発装置が爆発し7人が死亡、92人が負傷した。この悲劇は2003年12月5日にも同じ行程を走行していた列車で繰り返された。自爆テロ犯はTNT火薬7kgに相当する爆発物を爆発させた。爆発の結果、47人が死亡、186人が負傷した。チェチェンのテロリストが犯行声明を出した。

テロリストは通勤者も標的にした。2004年2月6日午前8時30分、モスクワの地下鉄アフトザヴォツカヤ駅とパヴェレツカヤ駅の間で爆弾が爆発した。犯人のアンツォル・イザエフはバックパックに仕込んだ爆弾を爆発させた。爆発は非常に強力だったので、死者の多くはDNA検査によってのみ特定され、隣接する地下鉄の車両は完全に破壊された。41人が死亡(テロリストは含まない)、250人が負傷した。

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ファイル写真。 2004年2月6日、モスクワの地下鉄アフトザヴォツカヤ駅の外に集まる救助隊員。© MLADEN ANTONOV / AFP

襲撃の主催者と実行者は、カラチャイのムジャヒディーンのワッハーブ派組織「ジャマート」の構成員だった。

航空テロも問題になった。2004年8月24 日、トゥーラ地方とロストフ地方上空で2機の旅客機がほぼ同時に爆発した。それぞれ、ヴォルガ・アヴィアエクスプレスとシベリア航空の便が、モスクワのドモジェドヴォ空港からヴォルゴグラードとソチへ向かう途中だった。この二重攻撃により89人が犠牲となった。どちらの爆弾も、飛行機に乗っていた女性の自爆テロ犯によって爆発させられた。テロリストの一人の妹は、ほんの数日後に起こったベスランの学校包囲事件に関与していた。チェチェンの過激派シャミル・バサエフは爆発と学校襲撃の両方に対する犯行声明を出した。

2004年8月は特に死者数が多かった月だった。飛行機の悲劇から数日後、モスクワで新たなテロ攻撃が発生した。2004年8月31日、地下鉄リシュカヤ駅の入り口で自爆テロが発生し、10人が死亡、50人以上が負傷した。そしてその翌日、ベスランでの悲劇が起きた。

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ベスラン

2004年9月1日、新学期初日の祝賀行事中に、ルスラン・フチバロフ (「大佐」として知られる) が率いるテロリスト組織がベスラン第一中等学校を占拠し、生徒やその親族、学生や教員を含む1100人以上を人質に取った。校舎に地雷が仕掛けられた。武装勢力はほぼ3日間、人質を体育館に監禁し、食事や水、トイレの使用を拒否した。人質の中には生まれたばかりの子供を連れた母親もいた。

ルスラン・アウシェフ(イングーシ共和国の元大統領であり、テロリストが建物への立ち入りを許可した唯一の人間)の交渉のおかげで、9月2日に26人の女性と子どもが解放された。翌日、テロリストに撃たれた人質の遺体の引き渡しが合意された。

9月3日正午頃、非常事態省が遺体を回収するため学校に到着した。まさにその時、建物内で数回の爆発が起きた。特殊部隊が緊急作戦を開始した。人質の何人かは窓と爆発の結果できた壁の隙間から逃げ出すことができた。残りはテロリストによって学校の別の場所に連れて行かれた。戦闘は夜遅くまで続いた。

ベスランでの攻撃では、子ども186人、教師と学校職員17人、FSB職員10人、救助隊員2人を含む334人の命が失われた。

ヌルパシャ・クラエフを除く過激派は全員殺害された。クラエフには死刑判決が下されたが、執行猶予により判決は終身刑に変更された。チェチェンのバサエフが犯行声明を出した。

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ファイル写真。 2004年9月9日、北オセチアのベスランの人質事件の現場、学校の廃墟となった体育館にいる女性。© AP Photo/Alexander Zemlianichenko

第二次チェチェン戦争の終結

これらの重大な悲劇に加えて、多くのあまり知られていないテロ攻撃が2000年から2006年にかけて発生した。地下鉄での爆発(2001年モスクワ)から、多数の死傷者を出した攻撃(2001年ミネラーリヌィエ・ヴォーディ:死者21人、負傷者約100人、2002年ウラジカフカス:死者9人、負傷者46人)などさまざまな事件が発生した。また、バスの乗客が人質に取られる事件(ネヴィノムイスク、2001年)、バス内での爆発(グロズヌイ、2003年)、電車内での爆発(キスロヴォツク~ミネラーリヌィエ・ヴォーディ間の列車での爆弾で7人が死亡、約80人が負傷)といった事件もあった。 2004年、エッセントゥキ近郊のスタヴロポリ地方での列車爆発:44人が死亡、156人が負傷)、混雑した場所での自爆テロ(クラスノダールでは2003年8月25日のバス停での爆発、チェチェンでは祝賀会での爆弾テロ) 2003 年 5 月 14 日: 30 人が死亡、150 人以上が負傷)。

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政治家(2004年5月9日、テロリストはチェチェンの指導者アフマド・カディロフとチェチェン国家評議会議長のフセイン・イサエフを殺害)や警察官、軍への攻撃のほか、小規模な爆発で国民の命が失われる事件も定期的に発生した。

第二次チェチェン戦争は2009年4月16日に終結した。それにもかかわらず、テロ攻撃は続いた!

コーカサス地方のテロリストによる最後の攻撃

2009年11月27日、モスクワからサンクトペテルブルクへ向かう高速鉄道ネフスキー急行の3両が爆発により脱線し、28人が死亡、130人以上が負傷した。翌日、同じ悲劇の現場で2発目の爆弾が爆発した。事件は捜査現場近くで発生し、携帯電話を通じて起動されたものだった。違法武装組織の一員だった7名がテロ行為で有罪判決を受け、2010年3月2 日にイングーシでの戦闘中に殺害された。他に10名が投獄された。

2010年3月29日の朝、モスクワで新たな二重の悲劇が起きた。地下鉄のルビャンカ駅とパーク・カルトゥリー駅でテロ攻撃が開始された。両駅での爆発は女性の自爆テロ犯によって1時間の間に実行された。犠牲者は計44人、負傷者は88人となった。

チェチェンのテロ指導者ドク・ウマロフが犯行声明を出した。 2006年、ウマロフは未承認国家であったイクケリア共和国の大統領であると主張し、2007年にはコーカサス首長国連邦ジハード主義組織を設立し、その最高指導者となった。

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ドク・ウマロフ。 ©ウィキペディア

2011年1月24日、ウマロフ率いるチェチェンのテロリストによって別の悲劇的なテロ行為が実行された。ロシアで二番目に大きい空港であるモスクワのドモジェドヴォ空港で、自爆テロ犯が群衆の中で自爆した。その結果、37人が死亡、170人以上が負傷した。数人の加害者が逮捕され、投獄された。

この間何年にもわたって、過激派は他の攻撃を実行し、多くの命を奪った。

2010年8月27日にはピャチゴルスクでの爆発により40人以上が負傷し、2010年9月9日にはブラジカフカスでのテロ攻撃により17人が死亡、さらに158人が負傷した。

2013年にウマロフは殺害された。

ウマロフの死により、チェチェン戦争後に発生したコーカサス地方およびイスラム主義過激派組織によって組織されたテロ行為は終焉を迎えた。

イスラム過激派による新たな攻撃

多くのイスラム過激派とその指導者の死亡または逮捕、および国際情勢の変化により、ロシアにおけるテロ活動は影響を受けている。ウマロフと他の多くの司令官の死後、コーカサス首長国のテロ組織は分裂し、解散した。その結果、多くのイスラム主義者がイスラム国(IS、旧ISIS)に忠誠を誓った。

ISと関係のある過激派は過去数十年にわたり、ロシアで多数のテロ攻撃を行なってきた。最悪の出来事の一つは、2013年にヴォルゴグラードで起きた一連の襲撃事件だ。10月21日、女性の自爆テロ犯がバスを爆破し、7人が死亡、37人が負傷した。12月29日には鉄道駅での爆発で18人の命が奪われ、その翌日の12月30日にはトロリーバスでのテロ攻撃が発生し16人が死亡、25人が負傷した。

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2015年10月31日、ロシアの航空会社メトロジェット所属のエアバス321型機(A321)が、エジプトの都市エル・アリシュから100キロメートル離れたシナイ半島北部で墜落した。9268便はシャルム・エル・シェイクからサンクトペテルブルクへ向かう途中だった。この事故により、子ども5人を含む乗客乗員224人全員が死亡した。

この悲劇は、エジプトの空港職員によって隠蔽された飛行機内の爆発物によって引き起こされた。ISシナイ支部は災害発生から数日後に犯行声明を出した。

ロシア第二の都市サンクトペテルブルクもテロ攻撃に見舞われている。2017年4月3日、センナヤ・プロシャド駅と工科大学駅の間の地下鉄で爆発が発生した。その結果、テロリストを含む16人が死亡、67人が負傷した。攻撃は自爆テロ犯アクバルジョン・ジャリロフによって実行された。11人が襲撃準備の罪で起訴され、全員が長期懲役刑を言い渡された。

ロシアの近代史の過程において、テロリストは罪のない民間人に対してかなりの数の攻撃を実行してきた。標的の中には、旅客機や電車、学校、住宅、空港、コンサートホール、音楽祭など大勢の人が集まる場所も含まれている。

本記事においては、過去30年間にテロリストによって組織された攻撃の一部についてのみ言及した。いずれの場合も、当局は迅速に対応し、犯人を捜し出す必要があった。そしてロシアはテロ対策においてかなりの経験を積んできたが、残念ながらテロの脅威は過去のものになったわけではない。

筆者、アルテミー・ピガレフ。ロシア帝国とソ連の政治生活を専門とするロシアの歴史家
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シオニズム:イスラエル‐パレスチナ関係における危機の根源

<記事原文 寺島先生推薦>
Zionism: The Root of the Crisis in Israel-Palestine
筆者:シッド・シュニアド(Sid Shniad)
出典:INTERNATIONALIST 360° 2024年4月2日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年4月9日


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国連総会での演説で、パレスチナ自治区を省略したイスラエルの地図を示すネタニヤフ首相。画像はYouTubeより。


以下は 、 2024年3月24日にブリティッシュ・コロンビア州キャッスルガーでシド・シュニアドが行なった講演の記録 である。シュニアドはIndependent Jewish Voices Canada (IJV)の創設メンバー である。IJVは国際法の適用と全当事者の人権の尊重を通じて、イスラエルとパレスチナにおける紛争の公正な解決を促進することを使命とする全国的な人権団体である。2008年に設立されたIJVは、ハリファックス、モントリオール、オタワ、トロント、ハミルトン、ウィニペグ、バンクーバー、ビクトリアに支部がある。

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カナダ人は、イスラエル・パレスチナの現実について、シオニスト入植者たちが頑(かたく)ななパレスチナ人反対勢力の犠牲者であるかのような誤ったイメージを持たされてきた。現実の状況は、カナダの状況に酷似している。ここカナダでも入植者が土地を奪い、民族浄化され抑圧を受けている先住民を蔑視しているからだ。

イスラエルが享受している見当違いの同情の根拠を理解し、今日ガザで起きていることを位置づけるために、反ユダヤ主義と反シオニズムというテーマについて、いくつかの背景を説明したい。

反ユダヤ主義とは、ユダヤ人に対する憎悪、敵意、偏見、差別である。人種差別の一形態であり、イスラム恐怖症やアジア系、アフリカ系、ラテン系の人々に対する憎悪に似ている。

反ユダヤ主義(antisemitism)という言葉の中で「セム人」という言葉が使われると、それがセム系民族に向けられたものであるかのような誤った印象を与える。しかし、1879年にこの言葉を作ったドイツのジャーナリストで白人至上主義者のヴィルヘルム・マールは、この言葉をユダヤ人に対する憎悪を正当化するために使える科学的な響きのある言葉として考えた。それ以来、この表現はそのように使われている。

反ユダヤ偏見は、キリスト教とユダヤ教の対立に端を発し、キリスト教会はイエスを殺したのはユダヤ人だと非難した。端(はな)から、反ユダヤ主義は、個々のユダヤ人に対する憎悪や差別の表現を始め、ユダヤ人社会全体に対する暴徒、警察、軍隊による組織的なポグロムまで、さまざまな形で現れてきた。

反ユダヤ主義は、しばしば社会的・経済的危機の際に燃えあがり、ユダヤ人が社会に蔓延する問題の原因であるとしてスケープゴートにされる。

反ユダヤ的暴力と迫害の主な例としては、1096年の第一回十字軍に先立つラインラントでの虐殺、1290年のイギリスからのユダヤ人追放、1348年から1351年の黒死病の間のユダヤ人迫害、1391年のスペイン人ユダヤ人虐殺、スペインの異端審問による迫害、1492年のスペインからの追放、1648年から1657年までのウクライナでのコサックの虐殺、ロシア帝国での反ユダヤ的ポグロム、 スペインの異端審問による迫害、1492年のスペインからの追放、1648年から1657年までのウクライナにおけるコサックの虐殺、19世紀末から20世紀初頭にかけてのロシア帝国における反ユダヤ人ポグロム、フランスにおけるドレフュス事件、第二次世界大戦中のナチス占領下のヨーロッパにおけるホロコーストなどがある。

反ユダヤ主義は、あらゆる形態の人種差別や差別に抵抗するのと同じ理由で、進歩的活動家が闘うべき社会の病である。

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「博士たちの中のキリスト」アルブレヒト・デューラー 1506年。 この油絵では、イエスは明るい肌と白い髪に見えるが、ラビたちは邪悪な表情をした悪魔か動物のように見える。画像は ウィキメディア・コモンズより。

シオニズムは、19世紀後半に中東欧で繰り返し起こった反ユダヤ暴力の反動としてユダヤ人の間で生まれたイデオロギーである。ユダヤ人憎悪の災いから逃れる手段として、パレスチナにユダヤ人国家を樹立し、支援することを信奉している。ユダヤ人が避難を享受できる場所の創造を推進する信条として見れば、シオニズムは異論がないように見える。しかし、シオニズムは端(はな)から、ヨーロッパの思想形態であり、他の民族主義と根本的に類似していた。シオニズムの支持者は、自分たちの国家を置く場所として選んだパレスチナの住民と土地を共有しようとは考えなかった。むしろ、シオニストはヨーロッパ社会の仲間として、中東におけるヨーロッパ支配者の同盟国としてユダヤ人国家を推進した。近代シオニズムの父であるセオドア・ヘルツルは、その代表的な著書『ユダヤ人の国家』の中で、このことを明言している。彼はこう書いている:

私たちはそこで、アジアに対抗するヨーロッパの防壁の一部を形成し、野蛮に対抗する文明の前哨基地となるべきである。中立国として、全ヨーロッパと連絡を取り続けるべきであり、ヨーロッパはわれわれの存在を保証しなければならない。


ヘルツルが宣言したあらゆる形態の植民地主義との類似性は、これ以上ないほど明確である。この簡潔な声明に、彼はシオニスト事業計画の2つの重要な特徴を凝縮している。第一に、ユダヤ国家は中東におけるヨーロッパの前哨基地であるということ、第二に、その建国と存続に必要な政治的・軍事的支援を世界の大国に依存するということである。

イスラエルを支持する人々は、この国が入植者による植民地主義の一例であると説明されると、しばしば怒りをあらわにする。しかし、ヘルツルはシオニズム運動のきっかけとなった著書の中で、彼が推進していた実行計画を「入植者」や「植民地」という言葉で表現している。ヨーロッパの植民地主義が花開いた時代にシオニズムが生まれ、ヘルツルが計画したユダヤ人国家という発想を植民地主義の他の事例から得たという事実を考えれば、これは驚くべきことではない。

シオニズムは当初、ユダヤ人の間で非常に不評であった。ユダヤ人は、シオニズムがすでに居住している国に住む自分たちの権利の正当性を損なうものだと考えたからである。1916年、イギリス政府がパレスチナにユダヤ人国家を建設することを支持するバルフォア宣言を発表したとき、ユダヤ人は圧倒的にこれを拒否した。シオニズムはその後30年間、ユダヤ人の間で嫌われ続けた。


反ユダヤ主義からの避難所として描かれたユダヤ人国家の樹立が、ユダヤ人の間で広く受け入れられるようになったのは、ホロコーストが起こってからである。それ以来、ユダヤ人の聖域を提供するユダヤ国家というロマンチックで高度に理想化された将来構想が、ユダヤ人のコミュニティや組織で推進されてきた。しかし、ユダヤ人の立場を優遇する国家の創設と維持が、すでにパレスチナに住んでいた先住民の生活に与える影響は、シオニズムの支持者たちによって組織的に無視されてきた。

しかしここ数十年、拡大し続けるイスラエルによる占領、非ユダヤ人に対する差別を制度化したアパルトヘイト政治体制、そしてこれらすべてがパレスチナ社会に与えた壊滅的な影響によって特徴づけられる現実のシオニズムの姿が人々に自覚されるようになってきている。しかし、イスラエルとその擁護者たちは、人々のこのような意識覚醒から生み出された本質的批判に対処するのではなく、そういうシオニズム批判に反ユダヤ主義の現れというレッテルを貼り、批判者を中傷することを選んだ。

パレスチナとの連帯を求める国際的なキャンペーン、とりわけボイコット(Boycott)、ダイベストメント(Divestment)(資本引き上げ)、制裁(Sanctions)(BDS)運動の高まりは、イスラエルとそのシオニスト支持者たちに大きな懸念を抱かせている。イスラエルはBDSに対抗するために政府省を設置したほどだ。ヘブライ語でプロパガンダを意味するハスバラを展開し、イスラエル国家の行動をごまかし、イスラエル批判を反ユダヤ主義の現れと烙印を押すキャンペーンを行なっている。

ここ数年、この戦略は国際ホロコースト記憶連盟(IHRA)と呼ばれる組織を通じて積極的に推進されてきた。IHRAは、イスラエル批判に圧倒的に焦点を当てた反ユダヤ主義の定義を採択した。このインチキ定義を推進する人々の目的は、BDSのような活動を反ユダヤ主義の現れとして非難させ、それに従事する人々を法的制裁の対象とすることである。この定義を最初に作成したケネス・スターンは、ガーディアン 紙に寄稿し、その見出し:「反ユダヤ主義の定義を起草したのは私だ。右翼ユダヤ人はそれを武器にしている。」

私たちの組織であるIJVCanadaが2009年に合法的で非暴力的な戦術としてBDSを受け入れたことを誇りに思う。さらにIJVは、IHRA構想に反対するため、国内外で主導的な役割を果たしている。

皮肉なことに、そして危険なことに、真の反ユダヤ主義が世界にその醜い頭をもたげている今、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相をはじめ、多くの著名なシオニストは、ドナルド・トランプやハンガリーのヴィクトール・オルバン首相のような明白な反ユダヤ主義者を受け入れている。これらの政治家たちに共通しているのは、白人至上主義的な世界観である。

イスラエルの問題は現在の右派政府に限定されない。ネタニヤフを含むウルトラ右翼の政府は、ファシストで同性愛者嫌悪者であることを自慢する財務大臣ベツァレル・スモートリヒなどが含まれている。問題は、ガザでのジェノサイド的行動を批判することに限定もできない。問題の根源は、19世紀末の初めから、シオニズムの目標がユダヤ人が数的多数派を形成する国家を確立することであり、世界中からのユダヤ人の移民を奨励し、特権を享受する社会的および政治的地位を持つことにまでさかのぼれる。

当初から、わずかな例外を除いて、シオニズムのすべての主張は、ユダヤ人国家(ユダヤ人が圧倒的多数を占め、それに付随する特権を享受する国家)の建設には、すでにパレスチナに住んでいた先住民を移住させる必要がある、というものであった。この目標をどのように達成するかについては、運動のさまざまな部分で戦術的な違いがあった。ある者はパレスチナ人に進んで出て行くよう説得し、ある者は買収し、またある者は武力によって追放することを信じた。しかし、この地域から先住民を追い出すことは、ユダヤ人国家の建設に不可欠であるという考え方は共通していた。

シオニストの間では、この目標を公の場で論じるべきではないというのが一般的な合意であったが、シオニストの指導者たちは、ユダヤ人国家の創設にはパレスチナ住民の強制移住が不可欠であるであること支持した。1937年にスイスのチューリッヒで開かれた第20回シオニスト会議では、この問題の実際的な側面を調査することを任務とする専門家からなる「移送委員会」を設置するまでに至った。

第二次世界大戦後、シオニスト指導者たちは、ユダヤ人虐殺から欧州のユダヤ人を救わなかった世界の罪悪感につけこんだ。シオニストたちはユダヤ人の苦境への同情を利用し、国際的なユダヤ国家の創設のための支援を得ることに成功した。1948年に、国連は委任統治領パレスチナの領土を分割して、55%をユダヤ人に、45%をパレスチナ人に与えることを賛成多数で可決し、イスラエル国家の設立を決定した。

シオニストの宣伝担当は、彼らの運動が合理的で受け入れやすいものであると論じている。なぜなら、彼らは国連の分割案を受け入れたが、パレスチナ人はそれを拒否したから。しかし、シオニストの指導者たちが国連の分割案を受け入れたのは純粋に戦術的なものだった。彼らは常に最終目標であるその地域全体の併合を忘れたことはない。

さらに、1948年に国連がパレスチナを分割したことは、フランスとイギリスの君主国が北米の土地をそれぞれの植民者に遺贈したことと同様に正当ではなかった。これらの事例のいずれにおいても、土地の所有権は、それらを付与する権利を持たない機関によって付与された。

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パレスチナ人が 「ナクバ」 (災害) と呼ぶ1948年のシオニスト軍によるパレスチナ人の強制退去は、長年にわたるシオニスト政策の論理的な結果と見るべきである。シオニズムの擁護者は、逃げてきたパレスチナ人は周辺のアラブ政権の避難要請に応じていたと主張しているが、歴史的記録にはそのような記載はない。パレスチナ人が逃亡する動機となったのは、ハガナとして知られるシオニスト準軍事組織とテロリストのイルガンとスターンのグループが、多数の虐殺を行うことによって彼らを恐怖に陥れて退去させたという事実であった。その結果、その後の戦争の過程で、70万人以上のパレスチナ人が家を追われ、500以上のパレスチナ人の村が物理的に破壊された。住民が後日戻ることを防ぐためだった。

言い換えれば、パレスチナにユダヤ人の多数派を作り出し、維持するために、シオニスト勢力は、他の同じような状況で「民族浄化」と表現されるような政策を追求したのである。表向きは防衛的だった1948年の戦争が終わる頃には、イスラエルが支配するパレスチナ領土の割合は、国連分割計画で定められた55%から78%に増加していた。

シオニストは、ユダヤ人に特権的地位を与えるユダヤ人国家の建設を進め、土地と人民に対する支配を強化し、残されたパレスチナ人を二流の地位に追いやった。

1967年、イスラエルはヨルダン川から地中海に至る委任統治領パレスチナ全域を支配するというシオニストの夢を実現するため、先制攻撃を仕掛け、残りの22%の領土を占領した。それ以来、イスラエルはヨルダン川西岸とガザのパレスチナ人の生活を支配する軍事占領を敷いたのである。

1970年代初頭、シオニスト過激派が占領された西岸にユダヤ人入植地を建設し、そこでのシオニストの支配を強化する取り組みが始まった。この占領拡大過程は現在も続いており、70万人以上のイスラエル人がそこでユダヤ人だけの入植地に住んでいる。

イスラエルの支配下にある自分たちの地位と、占領に関する問題や軍事支配下にある自分たちの窮状に対処することを断固として拒否するイスラエルに不満を抱いたパレスチナ人は、平和的に、あるいは武装闘争によって占領に抵抗するようになった。イスラエルはこれに対し、パレスチナ人に対する支配を強化し、ますます多くの人々を投獄し、拷問を含むより過酷な状況に追いやった。

2006年に住民がハマスに投票したガザでは、イスラエルは過去18年間続いた包括的封鎖を実施し、世界最大の屋外刑務所を作り上げた。

イスラエルの政治指導者たちは、長年にわたる彼らの発言と行動を通じて、彼らの意図が一貫していることを明らかにしてきた。すなわち、ヨルダン川から地中海までのすべての領域を支配し、維持することによって、当初のシオニストの将来構想を堅持し、パレスチナ人を二級市民として永遠の占領下で生活させることである。

イスラエルがヨルダン川から地中海にかけてパレスチナ人に課してきた支配体制は、ヒューマン・ライツ・ウォッチ、アムネスティ・インターナショナル、イスラエルの人権団体B'Tselemによってアパルトヘイトと評されてきた。また、入植者植民地主義の典型的な例と評する者もいる。
昨年9月、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は国連に出席した際、パレスチナ人との和解交渉に意欲的であるという建前を消し去り、シオニストの夢の実現を描いた地域の地図、すなわちヨルダン川から地中海までの全領土を包含するイスラエルの地図を振りかざした。

10月7日、イスラエルによるガザ封鎖を解除し、ガザに住む人々の窮状を世界に訴えるために武力攻撃が行われた。世界はこのイスラエルの頑なな態度に対するパレスチナの反応を目の当たりにした。イスラエルはこれに反発し、14,000人の子どもを含む30,000人以上の市民を殺戮した。

私たちの多くは、カナダ政府の積極的な協力を得て、ガザで起きている大量虐殺の悪夢に終止符を打とうと懸命に取り組んでいる。しかし、イスラエル・パレスチナで進行中の危機を長期的に解決するためには、この虐殺を即座に終わらせることが重要であるのと同様に、問題の根源であるシオニスト・イデオロギーに基づくユダヤ人至上主義の制度化に取り組む必要がある。

IJVからのお願い:この取り組みにぜひご参加ください。
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シド・シュニアドは、2008年にイスラエル・パレスチナの平和と正義の原則に基づいて結成されたアドボカシー・グループ、Independent Jewish Voices Canadaの創設メンバー。バンクーバー在住。

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ドミトリー・トレニン: ロシアは目に見えない新たな革命を遂げつつある

<記事原文 寺島先生推薦>
Dmitry Trenin: Russia is undergoing a new, invisible revolution
ドミトリー・トレニン(高等経済学校研究教授、世界経済・国際関係研究所主任研究員)著。ロシア国際問題評議会(RIAC)のメンバーでもある。
米国主導連合は、ロシアが自国と世界における自らの位置について新たな認識を持つよう後押しした。
出典:RT 2024年4月2日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年4月9日


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ファイル写真: ロシア・モスクワのクレムリン大宮殿で、選挙運動員との会合で演説するプーチン大統領。© Grigory Sysoev / Sputnik

ウラジーミル・プーチン大統領が2022年2月にウクライナでロシアの軍事作戦を開始したとき、彼は特定の、しかし限定的な目的を念頭に置いていた。それは本質的に、NATOに対するロシアの安全保障を保証することだった。

しかし、ロシアとウクライナの和平合意への破壊攻撃や、ロシア国内で重大な攻撃を仕掛けたりする米国主導連合の紛争への関与の激化など、ロシアの動きに対する劇的で拡大的なよく連携のとれた西側の反応は、我々のかつての友人に対する我が国の態度を根本的に変えることになった。

もはや「怒り」や「理解不能」に対する不満は聞かれなくなった。この2年間で、モスクワの外交政策は、ウクライナ介入前夜に予想されたものよりも過激で広範囲に及ぶ革命となった。この25ヶ月の間に、それは急速に強さと深みを増してきた。ロシアの国際的役割、世界における地位、目標とその達成方法、基本的な世界観、すべてが変わりつつある。

プーチン大統領が1年前に署名した国家外交構想は、これまでのものとは大きく異なる。それは、独自の文明であるという点で、この国ロシアの独自性を揺るぎないものにしている。実際、ロシアの公式文書でそんなことをするのは初めてだ。ロシア外交の優先順位も大きく変わり、ソ連崩壊後の 「近隣諸国」 がトップで、中国とインド、アジアと中東、アフリカとラテンアメリカがそれに続く。

西ヨーロッパとアメリカは、南極のすぐ上に位置する。

ロシアの 「東方転換」 が最初に発表された過去10年間とは異なり、今回は単なる言葉ではない。政治的な対話者だけでなく、貿易の相手国も入れ替わった。わずか2年で、外国貿易の48%を占めた欧州連合 (EU) は20%に減少し、アジアの占有率は26%から71%に急増した。ロシアの米ドルの使用も急落しており、中国人民元やインドルピー、UAEディルハム、ユーラシア経済連合の友好国の通貨、ルーブルなどの非西側通貨での取引がますます増えている。

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関連記事:ドミトリー・トレニン:ロシアは西側諸国に核兵器を思い出させる時だ

ロシアはまた、米国主導の世界秩序に適応するための長く退屈な努力に終止符を打った。1990年代初頭に熱狂的に受け入れ、その後の10年間で幻滅し、2010年代には共存の道を確立しようとして失敗したものだ。ロシアは冷戦後、何も言えなくなった体制に降伏する代わりに、覇権主義的な米国中心の体制にますます反発し始めた。ボリシェヴィキ革命以来、初めて、当時とはまったく異なる方法とはいえ、ロシアは事実上、革命大国となった。中国が依然として既存の世界秩序における地位を向上させようとしているのに対して、ロシアはその世界秩序を修復不可能なものと見ており、代わりに新たな代替的取り決めの準備をしようとしている。

ソ連が1986年にゴルバチョフ政権下で受け入れた 「一つの世界」 構想の代わりに、現在のロシアの外交政策は二つに分かれている。ロシアの政策立案者にとって、2022年以降の西側諸国は 「敵対者の家」 に変わった。一方、ロシアの友人は非西側諸国にしか存在しない。我々は非西側諸国のために 「世界多数派」 という新しい表現を作った。このグループに含まれる基準は単純で、米国とブリュッセル(NATO)が課した反ロシア制裁体制に参加しないことだ。100以上の国からなるこの多数派は、同盟国の烏合の衆とは考えられていない。ロシアとの関係の深さと暖かさは大きく異なるが、これらはモスクワとビジネスができる国々だ。

何十年もの間、わが国はさまざまな国際機関に際立った支援を与えてきた。今やモスクワは、安全保障理事会を含む国連(拒否権を持つ常任理事国であるロシアは、国連のことを伝統的に世界システムの中心的存在と称賛してきた)でさえ、機能不全に陥った論争の場に成り下がっていることを認めざるを得ない。欧州安全保障協力機構(OSCE)は、モスクワが長い間、欧州における主要な安全保障機関となることを望んでいたが、NATO/EUの多数派である加盟国の反ロシア的な姿勢により、現在ではほぼ完全に打ち捨てられた状態だ。モスクワは欧州評議会を脱退し、さらに北極海、バルト海、バレンツ海、黒海周辺の多くの地域グループへの参加は保留されている。

確かに、その多くは西側諸国がわが国を孤立させようとする政策の結果であったが、ロシア人は価値あるものを奪われたと感じるどころか、脱退や加盟停止を余儀なくされたことをほとんど後悔していない。国際条約に対する国内法の優位性を再確立したことで、モスクワは今や、敵対国が自国の政策や行動について何を言おうが何をしようが、ほとんど気にしていない。ロシアの立場からすれば、西側諸国はもはや信用できないだけでなく、西側諸国が支配する国際機関はすべての正当性を失っているからだ。

ロシアからの欧米主導の国際機関に対するこうした態度は、非欧米主導の国際機関に対する見方とは対照的である。今年、ロシアは最近拡大されたBRICSグループの議長国として、開催準備に精力的に取り組んでいる。ロシアはまた、盟友ベラルーシが参加しようとしている上海協力機構を最も強く支持している。アジア、中東、アフリカ、ラテンアメリカの国々とともに、金融・貿易、基準・技術、情報、医療といった多くの分野で新しい国際体制を構築するために緊密に取り組んでいる。これらは、欧米の支配や干渉を受けないように制度設計されている。成功すれば、モスクワが推進する未来の包括的な世界秩序の要素としての役割を果たすことができる。

このように、ロシアの外交政策の変化は非常に深いところで進行している。しかし、どの程度持続可能なのかという問題はある。

とりわけ、外交政策の変化は、ロシアの経済、政治、社会、文化、価値観、精神的・知的生活において進行している、より広範な変革の重要な要素ではあるが、比較的小さな要素でもあることに留意すべきである。こうした変化の一般的な方向性と重要性は明らかだ。これらの変化は、ロシアを西欧世界の片隅にある遠い存在から、自給自足的で先駆的な存在へと変貌させようとしている。こうした地殻変動は、ウクライナ危機なしにはあり得なかっただろう。強力で痛みを伴う負担が与えられた結果、ロシアは自前の活力を手にすることができたのだ。

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関連記事:ゼレンスキーの新たな妄想:なぜこのウクライナの指導者はロシアの複数の地域の領有権を主張することにしたのか?

2022年2月自体が、約十年間勢いを増してきたいくつかの傾向の最終結果であったことは事実だ。2012年のプーチンのクレムリンへの復帰と2014年のクリミア再統一を経て、ようやく完全な主権が望ましいという感情が支配的になった。2020年に承認されたロシア憲法の改正という形で、国家の価値観とイデオロギーに関するいくつかの真に根本的な変更がなされた。

2024年3月、プーチンは大統領選挙で大勝し、新たな6年間の任期を確保した。これは、西側に対する実存的闘争 (プーチン自身がそう表現している) の最高司令官としての彼への信任投票と見るべきである。その支援があれば、大統領はさらに深い変更を進めることができる。そして、大統領がすでに行なった変更を、クレムリンの後継者によって確実に保存し、構築しなければならない。

1990年代以降、西側諸国と密接に結びついてきたロシアのエリートたちは、最近、自分の国と自分の資産の間で厳しい選択を迫られた。残留を決めた人々は、その見通しと行動において、より「愛国的」にならざるを得なかった。一方、プーチンはウクライナ戦争の帰還兵を中心に新たなエリートを形成する運動を開始した。ロシアのエリートたちの入れ替わりが予想され、利己的な個人からなる国際的な集団から、国家とその指導者に仕える特権階級の、より伝統的な同胞集団へと変貌を遂げることで、外交政策革命は完全なものとなるだろう。

最後に、過去20年間の西側の政策、すなわちロシアとその指導者を絶えず悪魔化することがなかったら、ロシアは主権の方向へこれほど早く動き出すことはできなかったかもしれない。こうした選択は、プーチン自身やドミトリー・メドベージェフをはじめとする、現代ロシアが経験した中でおそらく当初は最も西欧化し、親欧州的だった指導者たちを、反欧米を自認し、米国・EU政策の断固とした反対者に仕立て上げることに成功した。

このように、ロシアは西側の型に合わせて変化を強いられたのではなく、そういった圧力すべてがかえってロシア自己再発見の助けとなったのだ。
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アフリカにおけるサヘル諸国連合という「抵抗軸」

<記事原文 寺島メソッド翻訳グループ>
The Sahel’s ‘Axis of Resistance’
筆者:ペペ・エスコバル(Pepe Escobar)
出典:INTERNATIONALIST 360°2024年4月1日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年4月9日


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アフリカのサヘル諸国は西側の新植民地主義に反旗を翻している。外国の軍隊や基地を追い出し、代替通貨を考案し、旧来の多国籍企業に挑戦している。結局のところ、多極化は抵抗がその道を切り開くことなしには開花しないのだ。


さまざまな地理における抵抗軸の出現は、私たちを多極化世界へと導く長く曲がりくねったプロセスの、切っても切れない副産物である。覇権国(アメリカ)への抵抗と多極化の出現、この2つは絶対に相補的なものである。

アラブ諸国とイスラム諸国にまたがる西アジアの抵抗軸は、セネガルやマリ、ブルキナファソ、ニジェールからチャド、スーダン、そしてエリトリアに至るアフリカの西から東のサヘルにまたがる抵抗軸を魂の姉妹とみなしている。

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アフリカ・サヘル諸国

新植民地主義に対する政権交代が軍事クーデターと結びついたニジェールとは異なり、セネガルでは政権交代は投票によって直接もたらされる。

セネガルは3月24日の総選挙でバシル・ジョマイ・ファイ (44) が圧勝し、新時代に突入した。2週間の刑期を終えたばかりの元税務調査官のファイは、フランスの傀儡である現職のマッキー・サルの下で 「アフリカで最も安定した民主主義」をひっくり返すために、劣勢な汎アフリカの指導者という人物像で登場した。

セネガルの次期大統領(バシル・ジョマイ・ファイ)は、ブルキナファソのイブラヒム・トラオレ(36歳)、エチオピアのアビー・アーメド(46歳)、マダガスカルのアンドリー・ラジョエリナ(48歳)、そして南アフリカの未来のスーパースター、ジュリアス・マレマ(44歳)とともに、主権を重視する新しい若い汎アフリカ世代の一員となった。ファイは選挙マニフェストの中で、セネガルの主権を取り戻すことを18回以上公約した。

こうした布陣の鍵を握るのが地質経済学だ。セネガルが実質的な石油・ガス産出国になるにつれ、ファイは、ブリティッシュ・ペトロリアム(BP)や英国の金鉱運営会社エンデバー・マイニングとの最大の契約を含む、鉱業・エネルギー契約の再交渉を目指すだろう。

重要なのは、彼がフランスの支配下にある通貨システムであるCFAフラン(14のアフリカ諸国で使われている)をやめるつもりであり、さらに、新しい通貨を創設することすら考えている点である。これは、新植民地主義的な強国であるフランスとの関係を再構築する一環だ。ファイは、習近平同志に倣い、「ウィンウィン」の友好関係を望んでいる。

サヘル諸国連合の参入

ファイは、フランス軍をセネガルから追い出すつもりがあるかどうかについては、まだ明らかにしていない。もしそうなれば、パリへの打撃は前例のないものとなるだろう。四面楚歌の小皇帝エマニュエル・マクロンとフランスの支配層は、内陸のニジェール、マリ、ブルキナファソを封鎖する上でセネガルが重要な役割を果たすと考えている。これらの国々はすでにパリを(サヘルの)塵の中に置き去りにしている。

サヘル諸国連合(Alliance des Etats du Sahelの頭文字からAES)を結成したばかりの後者の3カ国(ニジェール、マリ、ブルキナファソ)は、連続的な屈辱を味わったパリにとっての悪夢であるだけでなく、ワシントンとナイジェリアの首都ニアメとの軍事協力の壮絶な断絶に象徴されるように、アメリカの頭痛の種でもある。

アメリカのディープ・ステート(闇の国家)によれば、犯人はもちろんロシアのプーチン大統領である。

アメリカ政界の誰ひとり、昨年以来、サヘル地域からエジプトやエチオピアなどの新興アフリカBRICSメンバーまで含め、ロシアとアフリカが活発な外交を展開していたことに十分な注意を払ってきていないのは明白だ。

ニジェールをサヘル地域の強力な同盟国とみなしていたのは昔の話。米政府は現在、軍事協力協定が破棄された後、ニジェールから米軍を撤退させるカレンダーの日付を提示せざるを得なくなっている。国防総省はもはやニジェール領内での軍事訓練に関与できない。

国防総省が1億5000万ドル以上を投じて建設した、アガデスとニアメという2つの重要な基地がある。ニアメは2019年に完成したばかりで、米軍のアフリカ司令部(AFRICOM)が管理している。

作戦目的は、予想どおり謎に包まれている。ニアメの基地は基本的に情報センターであり、MQ-9リーパー無人偵察機が収集したデータを処理している。米空軍もディルクー飛行場をサヘルでの作戦基地として使用している。

そこで話は俄然面白くなってくる。ディルクー飛行場に実質的なCIAのドローン基地が存在し、数名の作戦要員が常駐しているなどということを(アメリカは)認めてすらいないのだから。この秘密基地は、中央アフリカ全域西から北まで、情報収集ができる。元CIA長官マイク・ポンペオの「嘘をつき、だまし取り、盗みを働く」のもうひとつの典型的な例だ。

ニジェールにはおよそ1,000人の米軍が駐留している。アメリカは出血を止めようとあらゆる手を尽くしている。今月、モリー・フィー米国務次官(アフリカ担当)がニジェールを2度訪れたばかりだ。ニジェールの基地を失うことは、ワシントンがパリに続いてサヘルの支配権を失うことを意味する。ニジェールはロシアとイランにますます接近しているのだ。

これらの基地は、バブ・アル・マンデブ上空を監視するためになくてはならないものというわけではない。この基地の存在価値は、サヘルのすべてが対象であり、無人偵察機をそのやれるところまで活用し、あらゆる主権領空を侵害することにあるからだ。

ちなみに、1月にはニアメからの大規模な代表団がモスクワを訪問した。そして先週、プーチン大統領はマリのアシミ・ゴイタ暫定大統領、ニジェールのアブドゥラマン・チアーニ軍事政権大統領との電話会談で安全保障協力について話し合った後、コンゴ共和国のデニス・グェッソ大統領と会談した。

コートジボワール(象牙海岸):帝国の折り返し地点

親欧米の傀儡政権はアフリカ大陸全域で急速に減少している。サヘル諸国連合(マリ、ブルキナファソ、ニジェール)はアフリカの抵抗軸の前衛かもしれないが、それ以外にもBRICSの正式メンバーである南アフリカ、エチオピア、エジプトがいる。

ロシアは外交的に、中国は商業的に、さらにはロシアと中国の戦略的パートナーシップの全重量をかけて、アフリカ全体を大事な多極的プレーヤーと見ている。先月モスクワで開催された多極的会議でも、再度追加の証拠が出てきた。この会議でカリスマ的な汎アフリカの指導者であるベナン出身のケミ・セバがスーパースターの一人となったのだ。

汎ユーラシアの外交界では、パリの小皇帝(マクロン)の最近のヒステリックな行動について冗談を言うことがまかり通っている。フランスがサヘル地域で受けた決定的な屈辱が、フランス軍隊をウクライナに送る(記録的な速さでロシアによってタルタル・ステーキにされるだろう)というマクロンの大見えを切った脅しと、アルメニアで現在進行しているロシア嫌悪的愚挙をマクロンが熱心に支持していることにつながっているのだろう。

歴史的に、アフリカ人はかつてのソビエト連邦は天然資源を吸い上げる際はるかに柔軟であり、支援的であるとさえ考えていた。その善意は現在、中国に受け継がれている。

地域統合の舞台として、サヘル諸国連合はゲームチェンジャーになるために必要なすべてを備えている。ファイの率いるセネガルがいずれ加盟するだろう。が、ギニアは同盟に信頼できる海上アクセスを提供する地理的能力をすでに備えているのだ。そうなれば、西側諸国が支配し、ナイジェリアを拠点とするECOWAS(西アフリカ諸国経済共同体)は徐々に消滅していくだろう。

ただ、覇権国(アメリカ)の強大な触手を決して無視してはならない。ペンタゴンの主計画に、アフリカをロシア・中国・イランという多極圏に委ねることは入っていない。サヘル地域の抵抗軸において、もはや誰も米国の「テロ脅威」カードを信じていない。2011年までアフリカには実質的にテロはなかった。この年にNATOはリビアを荒廃させ、その後アフリカ全土に軍隊を送り込み、軍事基地を建設したのだ。

これまでのところ、サヘル諸国同盟は主権優先の情報戦争に勝利している。しかし、帝国(アメリカ)が反撃するのは間違いない。結局のところ、すべてのゲームは、ロシアがサヘルと中央アフリカを支配するというアメリカ政界の突拍子もない妄想に結びついているからだ。

コートジボワール(象牙海岸)の参入。セネガルがサヘル諸国連合に歩み寄ろうとしているからだ。

コートジボワールは、例えばチャドよりもワシントンにとって戦略的に重要である。なぜなら、コートジボワールの領土はサヘル同盟に非常に近いからだ。それでも、チャドはすでに外交政策を再調整しており、もはや西側の支配下にはなく、モスクワに近づくことに新たな重点を置いている。

帝国(アメリカ)の前途は? サヘル同盟を牽制するために、コートジボワールのフランス軍基地でパリと共有する米国の「対テロ」無人偵察機ということになるのかもしれない。西アフリカで干からびたクロワッサンのパン屑すら受け取れない覇権国(アメリカ)を抱いている卑屈な「ガリアの雄鶏」(フランスのシンボル)とでも言っておこう。
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シオニズムは、そのイデオロギーも運動もファシズムだ

<記事原文 寺島先生推薦>
Zionism as a Fascist Ideology and Movement
筆者:L.アルデイ(Allday)とS.アル‐サレ(Al-Saleh)
出典:INTERNATIONALIST 360°


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アル‐アクサ門でパレスチナ人女性を殴打し逮捕するイスラエル警察


ファリス・ヤフヤ・グラブ(Faris Yahya Glub)著『シオニストとナチス・ドイツの関係』

弱者は崩れ去り、殺戮され、歴史から抹消される一方で、強者は・・・生き残る。
- ベンヤミン・ネタニヤフ 1
(訳注:1~63までの番号は以下のサイトで説明を確認できます)
https://liberatedtexts.com/reviews/zionism-as-a-fascist-ideology-zionist-relations-with-nazi-germany-by-faris-glubb/

我々が目にしたのは・・・シオニズムはファシズムだということ・・・まちがいない。
ジョージ・ハバシュ( George Habash)2


『シオニストとナチス・ドイツの関係』は、1978年にパレスチナ研究センター3によって出版された。ベイルートがシオニスト軍の占領中に略奪され、後に爆撃されたわずか4年前だった。この研究は、主要メディアでは抑圧されてほとんどタブーとなっているテーマを扱っている。4

この簡潔で強力な本が出版されてから40年以上が経過し、ほとんど注目されず、引用されず、知られることはなかった。しかし、この本は必読書だ。なぜなら、それはシオニズムと欧州ファシズムとの関係について重要な歴史的文脈を提供しているからだ。その歴史的文脈は、欧州ファシスト勢力と協調したときから今日に至るまでシオニズムがまぎれもなくファシスト的性格をもったイデオロギーと運動であることを明らかにしているからだ。そして75年以上まえに始まったパレスチナ人に対するジェノサイドは今も進行中だ。したがって、『シオニストとナチス・ドイツとの関係』は、2つの関連する方法で読むことができる:1)ユダヤ人シオニズム運動の抑圧された歴史に関する歴史的証拠として、そして2)シオニズムに対するイデオロギー闘争を戦う研究書として。シオニズムはレイシズム(人種差別主義)であり、すべてのユダヤ人の救済運動だというのは自己詐称にすぎない。

この本の表紙には著者はファリス・ヤフヤと記されているが、中に貼り付けられた別紙によると、それはファリス・グラブのペンネームだ。彼は興味深いがあまり知られていない革命的人物で、彼の生涯も業績も人々の目に触れることはなかった。

ファリス・グラブの略歴

1939年にエルサレムでゴドフリー・グラブとして生まれたファリスは、ジョン・バゴット・グラブ (グラブ・パシャとしてよく知られている) とムリアル・ローズマリー・フォーブスの息子だった。彼の父親は、著名な英国の軍人であり、アラブ軍団の司令官を務め、1939年から1956年5に解任されるまでトランスヨルダンの英国保護領 (1946年以降はヨルダン王国) の軍人だった。福音派のキリスト教徒であり、大英帝国の献身的な奉仕者であるグラブ・シニアは、エルサレムの十字軍王国の最初の支配者であるブイヨンのゴドフリーにちなんで息子を名付けた。しかし、彼の人生は、彼の父親や彼につけられた名前とは全く異なる軌道をたどることになった。ファリス・グラブの人生はパレスチナの大義と反帝国主義の闘争に捧げられた。

グラブの多面的な人生についての完全な経歴はこの書評の範囲を超えるが、イギリス帝国内で育ったにもかかわらず、彼がいかにしてパレスチナの大義に関わりをもつようになったかについてのある程度の知識は、この本の文脈と著者の動機を十分に理解するために必要である。パレスチナで生まれ、ヨルダンで育ち、生まれたときからアラビア語にどっぷりと浸かったゴドフリーは、若い頃からファリスという名で知られるようになった。アラビア語で騎士を意味するこの名前は、父親が長年にわたって緊密に協力していたトランスヨルダン首長アブドラ1世から与えられたものである6。主にアラブ軍団のベドウィン部隊に囲まれた軍国主義的な環境で育ったグラブは、「シャマフ付きの」軍服の特製レプリカを着用している父親の仲間たちとよく交わっていた7

1947年から48年にかけての少年時代、グラブはシオニストによるパレスチナ民族浄化(ナクバ)の影響を目の当たりにした。シオニスト民兵によって追放された難民が、彼の家にパレスチナ人の孤児を置き去りにした。そのうちの2人はグラブの両親の養子となり、彼の兄弟として育てられた。グラブの息子であるマーク・グラブは、ナクバが人間に与えた壊滅的な影響をこのように直接目撃したことが、グラブのパレスチナ問題への深い思い入れと生涯にわたる関与に火をつけたと考えている8

英語と同様にアラビア語にも堪能だったグラブは9、イギリスの寄宿学校に入れられたとき、適応するのに苦労し、ウェリントン・カレッジからロンドンのヨルダン軍代表部に逃げ込んだ。1951年に彼がイギリスに到着したことは、地元の新聞でも取り上げられた。ロンドンの挿絵入り新聞スフィアには、「アラブ軍団司令官の息子がロンドンに到着」という見出しで、「ロンドン空港で飛行機を降りるとき、アラブの頭飾りをつけた」若きグラブの姿が描かれている10。彼は18歳でイスラム教に改宗したが、息子のマークによれば、カイロのアル・アズハル・モスクで正式に改宗するずっと前から、グラブはイスラム教徒だと感じていたという。11オックスフォード大学のエクセター・カレッジに入学したが、中退した後12、グラブはロンドンの東洋アフリカ研究学院で学び、そこで親パレスチナ派の組織活動に関わるようになった13

学業を終えたグラブはロンドンに残り、政治的な執筆活動や組織作りに積極的に取り組み続けた。1966年までに、彼は「植民地自由のための運動」(Movement for Colonial Freedom)の幹事となった。この運動は、党の多数派やその指導部とは異なり、イギリスの植民地の独立を支持する労働党の議員たちによって1954年に設立された著名な反帝国主義擁護団体である14。彼はオマーン権利委員会の事務局長となり、ニューヨークの国連総会を含め、湾岸におけるイギリス帝国主義の暴力に対して公然と発言した。イギリス政府高官たちはこのことに驚愕した。グラブ・パシャの息子がこのような立場に立つことに当惑したのだ。15。実際、グラブの活動がイギリス国家にとって重大な関心事であったことは外務省のファイルから明らかであり、1965年の国連総会での質問でグラブは、彼の属する委員会が英国当局から嫌がらせを受けており、その郵便物が開封された証拠を持っていると主張した。

グラブは委員会の機関紙である『自由オマーン』を数年にわたって編集し、断固たる反帝国主義的で革命的な立場を取り、その中で国内外の抑圧との関連性を指摘した。当時の彼の活動は重要であり、比較的知られていたにもかかわらず、グラブは無視された。たまに公に言及されることはあっても、だいたいはまともにとりあげられず、見下すような論調だった。西洋の帝国主義的な流れに抗う者がしばしば辿る運命だった。1963年の記事で、グラブと彼が属する委員会について嘲笑的なプロフィールを書いたガーディアンは、『自由オマーン』を、エジプト大統領ナセルを支持する「エジプトの宣伝紙」として一蹴し、グラブの「個人的な誠実さ」は疑われないものの、「青白く、痩せこけた、わずかに髭をたくわえた若者」と彼を見下し、「明白な誠実さでその理念を擁護しているものの、オマーンには一度も行ったことがない」とこき下ろした。16

オマーンと湾岸諸国への関心に加え、グラブはパレスチナ連帯サークルでも活動していた。1966年5月、英国・アイルランド・アラブ学生連合がロンドンで開催したパレスチナ・デー会議で、彼は熱弁をふるった。同委員会の委員長から「中東全域でよく知られ、愛されている人物・・・11年間にわたってアラブ解放運動に奉仕してきた人物」と紹介されたグラブは、パレスチナを反帝国主義の枠組みの中に明確に位置づけ、パレスチナを孤立したものとして捉えるのではなく、「アラブ世界と、人類にとって最も危険な敵であるアメリカ帝国主義に率いられた帝国主義に対抗する全人類の、より広い文脈における反帝国主義闘争の一部」として捉えるべきだと主張した。17グラブはまた、ヨーロッパ諸国がヨーロッパでユダヤ人に加えた「野蛮な扱い」を嘆き、「アラブ人はヨーロッパの野蛮主義が犯した犯罪の責任を負っておらず、犠牲者への補償は・・・アラブ人ではなくヨーロッパ諸国自身が行うべきである」ことも力をこめて明言した18

1967年6月の六日間戦争(アラビア語ではナクサ)の後、グラブはロンドンを去った。しばらく教育と放送に携わっていたチュニジアも離れ、幼少期からの故郷であるヨルダンに戻った。19 翌年の『デトロイト・ユダヤ・ニュース(The Detroit Jewish News)』 紙に掲載されたグラブへの辛辣な人物紹介に、次のような彼の説明を引用している:「アラブ人とイスラエル人の6月戦争は私に大きな影響を与えました。私は常にアラブ人を同胞だと感じていました。イスラエルの爆撃で黒焦げになったヨルダンや、アレンビー橋に押し寄せる難民の写真を見たとき、私の居場所はここにあると思ったのです!」20同年末の右翼タブロイド紙『ニューズ・オブ・ザ・ワールド(The News of the World)』でも、グラブはアンマンのラジオで「広告塔」となり、「アラブ人よりもアラブ人らしい」と、同様に失礼な報道がなされた。21 実際には、ヨルダンに戻っていたグラブはジャーナリストとしての仕事に加え、パレスチナ難民のための学校で教鞭をとり、ヨルダンを拠点に急成長していたパレスチナ革命運動とのつながりを強めていた。1970年の「黒い9月」の後、西側帝国主義と協力したヨルダン国家による軍事的敗北の後、PLOをはじめとするパレスチナ人グループはレバノンに向かうことを余儀なくされたが、グラブは彼らとともにベイルートに向かった。

レバノンの首都(ベイルート)で、グラブは闘争に身を投じた。欧米の新聞社向けにジャーナリストとしての仕事を続け、しばしばマイケル・オサリバンというペンネームで執筆した。ジャーナリズムだけでなく、レバノンに亡命したパレスチナ人派閥のいくつかと親密な関係を築き、援助活動家、作家、編集者、翻訳者、通訳、国際代表団の出迎え役、そしてアラビア語で書かれたいくつかの証言によれば、戦闘員としても活動した。実際、ある元同志は、ファリスが複数の派閥で軍事的に活動していたことを回想し、指揮官の一人が冗談半分で「我々はいつも彼(ファリス)を最も危険な状況に送り込んだが、彼は無事に戻ってきた。我々はイギリス人の殉教者を必要としていたのに!」22元同志の別の回想によると、グラブの名字はアブ・アル=フィダであり、彼は新しい幹部のために革命的な治安訓練を行い、多くの任務に参加していた。

この数年の間に、グラブはPLOのパレスチナ研究センターと緊密な関係を築き、ここで取り上げているテキストを出版した。この作品に加えて、グラブはこの時期に『国際法におけるパレスチナ問題(The Palestine Question in International Law)』(1970) や『シオニズムは人種差別か?(Zionism,is it Racist?)』(1975)など多くの作品を発表している。彼はまた、『サダト:ファシズムからシオニズムへ(Sadat:From Fascism to Zionism)』 (1979) や、パレスチナ人作家の短編集である『パレスチナの空の星々(Stars in the Sky of Palestine )』 (1978) を含む多くの作品を翻訳し、寄稿した。

グラブは、自らを単なる支持者や大義への同調者とは考えておらず、実際、自らをパレスチナ人だと考えていたことがわかる。内戦中、あるジャーナリストから、英国人でありながらなぜベイルートとパレスチナ人を守るために戦っているのかと尋ねられたグラブは、「私はパレスチナ人であり、パレスチナの首都エルサレムで生まれました。私のルーツはアイルランドにもさかのぼるが、私の血と肉はパレスチナ人です」23。このことは、この時期のグラブの友人アドナン・アル=グールも認めており、彼は自分がエルサレム出身のパレスチナ人であると常に感じており、それ以外の方法で名乗ることを拒否し、(パレスチナの)大義に心から献身していたと述べている24。また、別の元同志ハッサン・アル=バトルの言葉を借りれば、グラブは「生まれも所属も、まさにパレスチナ人」25であった。

シオニズムとのイデオロギー闘争

パレスチナ問題への深い親近感を持ちながら、グラブは、パレスチナの闘いを支援し、それに立ち向かうイデオロギー的な闘いに関わる研究と執筆を行なった。その中で、彼は『シオニストとナチス・ドイツの関係』という著作を執筆した。この著作は、ナチス・ドイツとシオニスト運動の協力関係に関する歴史的記録が、シオニスト運動によってぼかされ、抑えられている時点で書かれた。これは「シオニスト運動がプロパガンダ技術でどれほど成功しているか」26を指摘している。この著作から25年後、2人のイスラエルのシオニスト著者が、自らの記事『パレスチナの公的な論議におけるホロコーストの認識』27において、グラブの『シオニストとナチス・ドイツの関係』を取り上げ、彼の主張を単なる申し立てとして扱い、パレスチナ人や彼らの支持者を反ユダヤ主義者でホロコースト否認論者と描写した。彼らの立場は、パレスチナ民族解放運動関係者がシオニズムの歴史的現実を明らかにし、説明しようとすると、日常的に偏見と反ユダヤ主義だとの非難にさらされることを物語っている。グラブは、歴史的知識の抑圧を含むこの戦術が、ナチとシオニストの協力の歴史、あるいは彼が別の言葉で言うところのナチとシオニストの「便宜的同盟」に対する「広範な国民の無知」をもたらしたことをよく知っていた。 28「シオニストたちは、非シオニスト、あるいは反シオニストの視点はすべて「反ユダヤ主義」と決めつける傾向がある」ことを指摘し、そのような非難を先取りする明確な試みとして、グラブは「ユダヤ人資料のみから取られた」資料を研究に用いることを選択した29 。グラブが研究を書いてから数十年の間に、レニ・ブレンナーやジョセフ・マサドをはじめとして、ナチとシオニストの関係についてさらなる歴史的研究が書かれたが、一般的には、この関係は一般大衆の知識や意識の片隅にとどまっているにすぎない。

グルブは第1章で、 「シオニズムと反ユダヤ主義の間の哲学的共通点」 、すなわち、ユダヤ人は非ユダヤ社会に同化できず、排他的な人種集団を構成するという共通の前提を確立することに専念している30。シオニズムと反ユダヤ主義の間のこの哲学的共通点は、シオニズム運動が当初からヨーロッパの人種差別勢力と公然と協力し、支持を求めていたことから、歴史の中で具体的に展開された。グルブにとって、このことはシオニズムの基礎テキストの一つである『ユダヤ人国家』 (1896) に示されており、著者のテオドール・ヘルツルは 「反ユダヤ主義に苦しめられているすべての国の政府は、我々が望む主権を得るために我々を支援することに強い関心を持つだろう」と宣言している31

ヘルツルの外交目標は、シオニスト運動への支持を得ることだった。それに関してグラブは、ロシア帝国からイギリスに至るまで、ヨーロッパ各地の主要な反ユダヤ主義者たちにヘルツルがどう訴えたかを書いている。ロシアにおいて、「ユダヤ人をヨーロッパから排除するシオニスト計画を支持した」ヴェンツェル・フォン・プレーヴェなどの反セム主義的政治家たちに訴えた。しかし、「シオニズムの将来の成功のためにヘルツルが築いた最も重要な基盤は、イギリスの反ユダヤ主義者だった」。イギリスでは、彼は右翼のイギリスの取り組みを支持し、ユダヤ人の移民を国に入れないことを薦めた。グラブは反シオニストのユダヤ人思想家モーシェ・メニュヒンから引用している。「ヨーロッパを支配する悪党や反動主義者たちの中で、ヘルツルがひとつ好ましい約束をした:シオニズムはユダヤ人の間にあるあらゆる革命的、社会主義的要素を解消するだろう」32。シオニズムは、反動的な政治思想として始まり、発展し、ヨーロッパの支配階級と手を結び、その利益を確保する政治思想だった。

1904年にヘルツルが死んだ後、彼の努力はチャイム・ワイズマンに引き継がれた。彼のシオニスト運動への取り組みも、政治的イデオロギーに基づいていた。そのイデオロギーは帝国主義であり、反ユダヤ主義だった。帝国主義の点では、シオニスト国家、つまり初代イギリスのエルサレム総督が「潜在的に敵対的なアラブ主義の海における少数の忠実なユダヤ人アルスター(北アイルランド)」と述べたものの設置は、イギリス政府高官たちによって自分たちの帝国がその地域を支配する手段と見なされていた。そして反ユダヤ主義の点では、それは「ヨーロッパからユダヤ人を追い出す便利な方法だった」。331917年のバルフォア宣言は、パレスチナにシオニスト国家を設立するというイギリスの約束を確固たるものにし、「それ故に、それを発行した右派政治家たちの帝国主義的な野望と反ユダヤ主義的な偏見の組み合わせによって動機づけされたものだった」。34グラブの出版元であるパレスチナ研究センターの創設者フェイエズ・セイエグが1965年に書いたように、イギリス帝国主義とシオニスト植民地主義との連携は「便宜上の必要と相互の必要性」の連携だった。

シオニスト―ナチ関係の歴史的事実

シオニズムと反ユダヤ主義の間の哲学的、歴史的なつながりをはっきりさせることで、グルブはシオニズム運動とナチス・ドイツの関係を具体的に探求するための本の舞台を設定している。その後、1930年から1940年にかけてのシオニズムとナチス・ドイツとの関係を考察し、1950年から1970年までの歴史を消去しようとするシオニズムの存在を分析する。シオニズムの歴史的発展の抑圧は、イスラエルをナチズムへのアンチテーゼを代表する進歩的な反ファシズム事業計画として再ブランド化するための広範な運動の一部であった。しかし、これへの反論として、『シオニストとナチス・ドイツとの関係』は、シオニズムとファシズムとの協力が偶然の一時的なものではなく、その基盤の一部であったことを示唆している。

「シオニズムとナチズムの共通点」の章でグラブは、シオニズム運動がナチズムと同様に、ユダヤ人をヨーロッパ社会に同化させることはできないという考え方、すなわち異化を受け入れていたことを示している。アドルフ・アイヒマンのような確信犯的なナチスが、ナチスのイデオロギーに専心しながら、シオニストと友好的な関係を築き、自らを親シオニストと称することができたのは、このような異化の理念の共有があったからである」35。1935年、SSの諜報部員がナチス党の新聞に書いたように、「(ナチス)政府は、・・・シオニズム(そして)それに完全に同意している・・・すべての同化主義的な考えは拒絶する」。36ナチスがドイツを占領する以前にも、ナチスは1932年にブレスラウ(現在のヴロツワフ)を行進し、ユダヤ人を恐怖に陥れ、「ユダヤ人はパレスチナへ帰れ」と叫んだと報告されている37。グルブから見て、1930年代にシオニズムが勢力を伸ばしたのは、反動勢力と進歩勢力との間のより広範な政治的闘争があったからだ:「シオニズムは、ヒトラーの台頭がドイツ・ユダヤ人のイデオロギー的指導権をめぐる主要なライバルを粉砕することにつながったという事実から、確かに恩恵を受けた」38。ヒトラーが権力を掌握したわずか数ヵ月後、ドイツのシオニスト連盟のトップは、「今日、ドイツのユダヤ人をシオニズムの思想に引き入れるまたとない機会が存在する」39と宣言した。

グラブの研究の次の章では、1930年代に*ハアヴァラ協定を通じて、シオニスト運動とナチス・ドイツとの間に経済関係が確立されたことが取り上げられている。この協定により、ナチスはドイツのユダヤ人が資本をパレスチナに移すことを許可し、結果として、グラブによれば、総額1億4000万マルク相当(2021年時点で約13 億ドル)の移転が行われた。これらの合意は、パレスチナの植民地化を促進し、同時に、ナチス政権によるユダヤ系企業へのボイコットに対する世界的な対応を弱体化させた。「世界中のユダヤ人は、ドイツ製品へのボイコットで返答することによって、自らを迫害される同胞たちとの連帯を示し、おそらくはナチス政権に迫害の緩和を求める圧力をかけることができると希望した。が、シオニストたちがハアヴァラ協定に署名することで、この希望は事実上失敗に終わった」40
*ハアヴァラ協定・・・1933年8月25日にナチス・ドイツとシオニスト・ドイツ系ユダヤ人の間で締結された協定である。この協定は、シオニスト・ドイツ連邦、アングロ・パレスチナ銀行、ナチス・ドイツの経済当局による3か月の協議を経て完成した。(ウィキペディア)

ドイツ・シオニスト連盟は、ナチス政権との経済関係を確立することによって、反ナチス・ボイコットを打ち破っただけでなく、「「今日頻繁に行われているようなドイツのボイコットを求めるプロパガンダは、本質的には完全に非シオニストである」とナチス高官を安心させた」。この関係を通じて、ナチスは二つの目的を達成することができた。第一に、反ファシスト・ボイコットがドイツ経済に及ぼす影響を弱めること、第二に、「(ドイツ)帝国からパレスチナへのユダヤ人の出国を促進する」ことである。41

ハアヴァラ協定は「ニュルンベルク法が成立した2年後の1937年に記録的な水準に達した」。グラブの目から見て、これはシオニストの台頭と反ユダヤ主義者の猛攻と相関関係を示している:「皮肉なことに、ヒトラーが権力を握って以来、シオニスト運動が獲得してきた特権は、ニュルンベルク法によって実際に増大し、その一方でドイツ系ユダヤ人の立場は悪化の一途をたどった」42。結局、これらの協定は、「シオニストの政治的野心のためにヨーロッパのユダヤ人大衆の利益を犠牲にするという・・・不幸な前例」を作ったのである43

『シオニストとナチス・ドイツとの関係』の特徴は、シオニスト運動がいかに大多数のユダヤ人を犠牲にしてナチス政権に協力したかに焦点を当てていることである。グラブは、シオニスト運動はナチズムと闘うために資源を投入するのではなく、いかなる人的犠牲を払ってでもパレスチナにおける植民地入植計画を促進することに力を注いだと主張する。このことを証明するために、グラブは、モサドの副長官になる前に、1930年代のパレスチナにおける不法入植をテーマにした本を共同執筆したデイヴィッド・キムチェの研究を引用している44。当時、ナチス党はシオニスト運動を支援し、パレスチナにおけるシオニストの植民地入植とドイツからのユダヤ人移住を準備するために、「ユダヤ人開拓者」のための特別な農業訓練学校を設立した45。これらの取り組みは、ユダヤ人共同体連合の公式代表であるシオニストの使節たちによって行なわれた。彼らはナチ党親衛隊(SS)やゲシュタポと関係を築いた。グラブは、キムチェを引用しつつ、あるシオニストの使節がナチの上級幹部アドルフ・アイヒマンから農場や農業機械の支援を受けたことまで記述している。46実際、キムチェは「1938年末までに、これらのナチ提供のキャンプで約千人の若いユダヤ人が訓練を受けていた」と述べている。ここで注目すべきは、共同体連合はパレスチナのキブツ(集団農場)の設立と強化のために活動を行ない、これらの集落は「準軍事的な性格」を持っていたというグラブの指摘だ。47

さらに、グラブは、パレスチナの修正主義者イルグン民兵のシオニスト指導部も、ポーランドの反ユダヤ主義的な政権と「訓練キャンプなどの協力協定」を結んでヨーロッパのファシスト勢力と協力したと主張する。48グラブは、シオニスト運動のこのような取り組みが単なる手段であるとは示唆していない。代わりに、彼は次のように書いている:

反ユダヤ主義と、それを必要とする「推進力」として利用しようとするシオニストの便宜的同盟という二つの現象を完全に切り離すことはできない。対決であれ協力であれ、密接な接触の関係にある2つの政治勢力では必然的に起こるように、彼らは相互依存的に反応した。



この時期、反ユダヤ主義とファシズムがシオニズムに影響を与えたとすれば、そのファシズム的性格は、ヨーロッパにおけるユダヤ人の抵抗に対して見せた行動様式ほど荒涼としたものはない。第5章「ゲットーの反乱」で、グラブは反ファシズムのユダヤ人抵抗を称える。彼は、ユダヤ人捕虜がナチスの大量虐殺計画を知った最初の場所の一つであるヴィルノ・ゲットーに注目する。彼らは「ナチスに対する破壊活動を行なったが・・・大衆蜂起の望みは実現しなかった」。その一因は、修正シオニストで、ゲットーの警察隊長であり、ヴィルノのユダヤ人レジスタンスを弾圧し、弱体化させる中心的役割を果たしたヤコブ・ゲンスにある。ナチスの命令で、彼は脅迫しながらレジスタンスの共産主義者リーダー、イツィク・ウィテンベルクにナチスに寝返るよう強要した。ナチズムに直面したシオニズムが戦闘的抵抗に反対したことについて、グラブはこう付け加えた:「歴史には、ヨーロッパのナチズムに対するシオニスト運動の反乱宣言は記録されていない」49

グラブは、ファシズムに抵抗して命を捧げたヴィテンベルクのような人物に敬意を表している。彼は「ユダヤ人の抵抗を打ち砕くためのナチスの取り組みにシオニストの指導部が手を貸したにもかかわらず、反人種差別主義者のユダヤ人たちは、身を守るための手段を自分たちで精一杯工夫していた」50と書いている。ナチズムに対するユダヤ人の抵抗をこんな風に思い返していることは、グラブの研究において非常に強力な側面となっている。なぜなら、彼の研究はヨーロッパのファシズムの多くの犠牲者を賞賛しているからだ。彼らの歴史と記憶を、シオニストたちは植民地主義ファシズムの支持のために厚かましくも利用しようとしている。

シオニスト運動とファシズムとの関係は、多くの懐疑論と論争の対象となっている。グルブ自身もその事実を知っていたので、彼は次のような疑問を提起せざるを得なかったのだろう。「ナチズムと様々な形で協力した多くのシオニスト指導者たちは、個人として、あるいはシオニスト政策を実行する役人として行動していたのだろうか?」この疑問に対して、グルブは、「シオニストの伝統的政策を破り、ナチスに対する反乱に参加した個々のシオニスト」はいたが、そのような反乱には 「国際レベルでのシオニスト運動の協力」51 はなかったと答えている。彼は次のように書いている:

シオニズム運動の上層部、特に将来のイスラエル政府となる安全な隠れ場所で戦争を傍観していたユダヤ機関 [訳註:イスラエルと世界中のユダヤ人コミュニティとを結び付けることを目的とした団体_英辞郎] の指導者たちに意見の分裂はなかった。これらの指導者からナチズムに対する反乱の号令はかからなかったし、例えば、必死に武器を必要としていたゲットーの戦士たちに武器を密輸しようと試みたという記録もない。



『シオニストとナチス・ドイツの関係』は、シオニスト運動はユダヤ民族の絶滅を認識していなかったという主張の謎解きをする。さらに、シオニスト運動にはナチスの絶滅に直面するユダヤ人を助けるための十分な手立てがなかったという主張にも反論している。グラブが指摘するように、シオニスト運動の「唯一の関心事は、パレスチナに国家を確実に創設すること」であった52

このような歴史的な議論を実証するために、グラブは著名なシオニストの指導者イツァーク・グリーンバウムについて書いている。彼は第二次世界大戦中、ヨーロッパのユダヤ人を救うための救済委員会の責任者に任命された。グリーンバウムは後にイスラエルの初代内務大臣となった。ホロコーストの最中、彼はこう宣言した:

ヨーロッパにおけるユダヤ人大量虐殺の救出か、(パレスチナで)土地の解放かの2つの案が私たちに持ちかけられた際、私は迷いなく土地の解放に、疑いなく投票する。私たちの民の虐殺について言及が多くなればなるほど、私たちの土地のヘブライ化を強化し促進する取り組みが最小化される。もし今日、ナチス支配下の飢えるユダヤ人のために食糧パッケージを(リスボン経由で送るために)ケレン・ハエソッド(連合ユダヤ人アピール)の資金で購入する可能性があれば、私たちはそのようなことをするだろうか? 否! 繰り返す、否!だ。53

ヨーロッパのユダヤ人を助けるためにユダヤ機関の資金を送るよう要求することは、グリーンバウムにとって、事実上「反シオニスト的行為」であった54。このような大量虐殺肯定感情は、チャイム・ワイツマンのホロコーストに関する議論にも同様に見られ、彼はヨーロッパのユダヤ人を「残酷な世界の塵、経済的、道徳的塵」と表現している55

グリーンバウムとワイツマンの言動は例外的なものではなかった。グラブが提供した別の例では、ブダペストのユダヤ機関の救済委員会の長であるルドルフ・カストナーの卑劣な話を知ることができる。彼はアイヒマンのようなナチスと秘密協定を結び、「600人以上の著名なシオニストを救ってパレスチナに連れて行くことを許可してもらう代わりに、ハンガリーのユダヤ人の大部分を絶滅させる手助けをした」。カストナーの行動は、グラブによって引用されたソロモン・ションフェルト(Solomon Shonfeld)が「シオニスト政策の基礎:選択性」56と呼ぶものを反映している。この特徴はシオニスト国家が設立された後も続き、2022年現在、ホロコースト生存者の3分の1が貧困の中で生活している。2014年にインタビューを受けたある人は、「我々はホロコーストの生存者を非常に弱い集団として見ていた.・・・我々は彼らとは非常に異なっていた。私たちは強く、そんな立場になることを許そうとはしなかった」と語った。

カストナーの裁判とイスラエルによる歴史消去の取り組み

1950年代初頭ころには、ルドルフ・カストナーはイスラエル商工省の報道官となり、政党マパイの幹部となっていた。そのため、1952年にアマチュア・ジャーナリストでホテル経営者のマルキエル・グリーンワルドによってナチスとの協力関係が暴露されると、イスラエル政府はグリーンワルドを名誉毀損で告発し、この事件を鎮圧するために躍起となった。1955年、グリーンワルドには名誉毀損の罪なしとしたベンジャミン・ハレヴィ判事の所見は、詳細に引用する価値がある:

ユダヤ人の大多数のための重要な利益を犠牲にして、著名人を救出することが、カストナーとナチスとの間の合意の基本要素だった。この合意は、国民を2つの不平等な陣営に分けることになった。片方は、ナチスがカストナーに救出を約束したごく一部の著名人で、もう片方は、ナチスが死ぬと決めたハンガリーのユダヤ人の大多数だった。ナチスによる著名人たちの陣営の救出のための必須条件は、カストナーが大多数のハンガリー・ユダヤ人に対するナチスの行動に干渉せず、その殲滅を妨害しないことだった。カストナーはその条件を果たした。ユダヤ機関救援委員会とユダヤ人の殺害者との協力はブダペストとウィーンで確立された。カストナーの職務はSSの要だった。ナチSSは殲滅部門と略奪部門に加えて、カストナーが率いる救助部門を開設した。57



カストナーは、ナチスの強制収容所総司令官であったクルト・ベッヒャーSS大将を戦争犯罪の容疑から擁護することまでした。彼は個人としてではなく、彼自身の言葉を借りれば、「ユダヤ機関とユダヤ世界会議を代表して」そうしたのである。58ベッヒャーは*ベン・ヘクト(Ben Hecht)の『背信』を引き合いに出しながら、ベッヒャーがその後、さまざまな企業の社長になり、その中には彼の会社ケルン・ハンデル・ゲゼルシャフトも含まれている。この会社は「イスラエル政府と結構なビジネス」を展開した。59
*ベン・ヘクト(Ben Hecht)・・・アメリカ合衆国の脚本家、劇作家、小説家、映画プロデューサー。ハリウッドとブロードウェイを代表する最も偉大な脚本家の1人として知られ、数々の名作を残している。アカデミー賞では6回のノミネートで2回の受賞を果たしている。(ウィキペディア)

名誉毀損裁判での成功に勇気づけられたグリーンウォルドの弁護士シュムエル・タミールは、カストナーに対する新たな証拠を集め、彼をナチスとの共謀罪で裁判にかけようとした。しかし、この2回目の裁判が始まる前に、カストナーは、元「イスラエル政府情報局の金で雇われた潜入工作員」であったゼーブ・エクスタインによって暗殺された60。カストナー事件に関して幅広く執筆し、彼を裁判にかけるよう求めていたジャーナリストのモーシェ・ケレンにも、同じような運命が訪れた。ベッヒャーとのインタビューのためドイツに飛んだ後、ケレンはホテルの部屋で死亡して見つかり、公式には心臓発作で死亡したとされている。

グラブは、これらの死を、イスラエル政府が以前、検事総長を任命してまでカストナーを擁護し、容疑を晴らそうとした、より広い文脈の中に位置づけている。グリーンウォルドに対する名誉毀損裁判が敗訴し、さらに不利になる可能性のある別の裁判が目前に迫ったときになって初めて、カストナーと、そして彼へのさらなる尋問によって明らかになるであろう秘密は、排除しなければならないと考えられるようになった。カストナーが殺される前、戦争末期に彼がベッヒャーだけでなく、悪名高いアドルフ・アイヒマンの逃亡も手配していたことが明らかになった。このようにグラブは、1962年の有名なアイヒマンの逮捕、裁判、それに続く処刑を、イスラエル政府が「カストナー事件が明るみに出した不愉快な事柄をもう一度すべて葬り去る」61ための手段として、また、すべてのユダヤ人の庇護者としてのシオニズムという公式の物語を再確認するための公的なプロパガンダの見世物として、さらには、シオニズム運動とナチスの関係についてのアイヒマンの深い知識を彼とともに死滅させる直接的な手段として、捉え直している。

イデオロギー的対決の歴史的研究—グラブの遺産

『シオニストとナチス・ドイツの関係』はわずか85ページの短い本である。論題の複雑さと繊細さを考えると、グラブは、反シオニストであるモーシェ・メニュヒンなど、これまで無視され、抑圧されてきた(そしてそれは変わらない)ユダヤ人作家のさまざまな資料を駆使して、自分の主張を冷静に要約している。同様に重要なのは、グラブの著作が、シオニスト運動とナチズムとのつながりを歴史的に痛烈に告発している一方で、ユダヤ人の反ファシスト的抵抗を記念するものでもあるということである。

本書の結論は、その内容全体を物語っている。簡潔な数ページの中で、グラブは彼の中心的な主張を再度強調している:特に、シオニスト運動が「シオニストの国家建設に貢献できない高齢者を軽視」していたことを考えれば、「優れた人種」というファシストの概念がシオニストのイデオロギーに存在すること、シオニストとナチスの協力は「個人の逸脱ではなく、シオニストの公式政策の反映」であったこと、シオニスト運動はナチズムに対する持続的な抵抗を組織することはなかった。「その闘争の主導権と負担を自らに課したのは非シオニストのユダヤ人個人と組織であった」62とグラブは述べている。

シオニズムが自らの歴史を意図的に隠蔽する中で、『シオニストとナチス・ドイツとの関係』は、歴史を正すと同時に、反シオニスト、反ファシスト闘争のための極めて重要な方法である。歴史を正すこととして、グラブはシオニズム運動の歴史について歴史的証拠を提供し、ひいてはシオニズムとヨーロッパ中の反動的政治勢力との歴史的関係を解明している。この歴史的解明は、シオニストによる事業計画と、ウクライナのネオナチ・アゾフ運動のようなファシズムの現代的顕在化との関係についての現代的分析に情報を与え、文脈を整理するのに役立つだけでなく、ハマスが「新しいナチス」であるとするイスラエルの足掻きが、心理的投影の明らかな事例であることを浮き彫りにする。政治的資料として、『シオニストとナチス・ドイツとの関係』は、イスラエルとシオニスト運動全体とのイデオロギー的対決、とりわけ、イスラエルは世界中のユダヤ人の利益を代表する進歩的勢力という自己神話化との対決のために歴史研究を結集することになる。

グラブの著書について一番心をひきつけられるのは、その歴史的分析によって、現代のシオニズムとそのファシスト的性質について洞察を開いていることだ。彼の本から私たちが推測できることは、シオニズムがどこかで道を踏み外した進歩的な運動ではないということだ。その創設以来、シオニスト運動は反動的であり、資本主義的で、帝国主義的で、反ユダヤ主義的で、右翼的であり、ファシスト勢力と連携してきた。シオニズムはこうした勢力との関係を通じて、自らを維持してきたのだ。

そして今日、反動勢力との提携を通じて、シオニスト運動は自らを維持し続けている。この原稿を書いている現在、私たちはイスラエルとアメリカが、包囲されたガザでパレスチナ人に対する大量虐殺行動を実行しているのを目の当たりにしている。彼らは6日間でガザに6000発の爆弾を投下した。これは、アメリカが1年間にアフガニスタンに投下した爆弾よりも多い。何日間も、15分に1人の割合でパレスチナの子どもが殺された。彼らは地球上から家族全員を消し去った。そして彼らは、「弱者は崩れ去り、虐殺され、歴史から抹殺される」というシオニズムのファシズム的マントラの旗印のもとに、このようなことを行なったのだ。

だから我々みんなが目にしたのは、「シオニズムはファシズムである―まちがいない」。シオニズムの反対者がイスラエルはファシスト的政体であると宣言するとき、彼らは歴史的真実を語っており、それはイスラエルが世界にむき出しで示し続けているものである。我々は植民地主義63の中にファシズムの根源を見出し、イスラエルはこの歴史的基本方針の主要な実例である。

2004年、グラブは、1994年からクウェート通信のジャーナリストとして働いていたクウェートで、交通事故により悲劇的な死を遂げた。それ以来、彼のパレスチナ問題への幅広い貢献は、その言葉においても行動においてもほとんど知られていない。『シオニストとナチス・ドイツとの関係』のようなグラブの重要な著作を取り上げることでグラブに敬意を表するだけでなく、グラブと彼の遺産を称える最も適切な方法は、彼が人生の多くを捧げた現在進行中の緊急の闘い、すなわちシオニズムと帝国主義に対する正義の闘いに彼の著作を利用し、それを土台とすることである。


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サマル・アル‐サレはニューヨーク大学で歴史学と中東・イスラム研究の博士課程に在籍。
ルイス・アルデイは作家・歴史家で、『Liberated Texts』創刊編集者。

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付録 1966年、英国・アイルランド・アラブ学生連合第14回パレスチナ・デー会議におけるファリス・グラブのスピーチ

議長(フェイド氏):

ご列席の皆様、この度、私は、英国とアイルランドのアラブ学生連合を代表して、第14回パレスチナの日会議の議長を務めることに深い光栄を感じております。

時間の都合で、わたしは今すぐファリス・グラブ氏を呼びたいと思います。彼は中東全域でよく知られ、愛されている人物であり、11年間、中東のアラブ解放運動に奉仕してきた方です。私たちが皆心から歓迎することでしょう・・・ファリス・グラブ氏。

* * *

議長、兄弟姉妹の皆さん、パレスチナの問題は孤立した問題ではありません。それは、アラブ世界における反帝国主義闘争の一部であり、人類にとって最も危険な敵であるアメリカ帝国主義に率いられた帝国主義に対する全人類の闘いという、より広い文脈におけるものです。このことは、地図を見れば一目瞭然です。地図を見れば、アフリカとアジアの間に、短剣のような形をした小さな領土があることに気づくでしょう。それがシオニストの占領したパレスチナです。アフリカとアジアの2つの大陸を分断しているのは、この小さな短剣のような形をした領土です。この問題の本質が帝国主義から生じたものであることを理解するには、パレスチナ問題の歴史を見、帝国主義列強の理屈を見るだけでよいのです。バルフォア宣言の結果、中東におけるイギリス帝国主義の結果、シオニスト国家がパレスチナに押しつけられた歴史、そしてイギリスの将軍、アレンビーがエルサレムに入り、イギリス軍とともにパレスチナを占領したとき、彼は「私は十字軍の最後の戦いに勝った」と言ったことを、私たちは皆知っています。アレンビーの話は勇み足でした。十字軍の最後の戦いはまだ終わっていません。しかし、アレンビーが言及した戦いは、ヨーロッパ諸国がアジアとアフリカの民族に支配を押し付けようとしてきた十字軍の時代から続いてきた一連の過程の一段階なのです。ここで、帝国主義のプロパガンダがパレスチナ問題に関してどのような論拠を用いているかを見てみましょう。

イギリスやアメリカの報道を読むと、アラブ人が受け入れるべき既成事実として、パレスチナにおけるシオニストの占拠が変えられないものであり、私たちが受け入れるべき歴史上の事実の1つだと繰り返し述べられています。しかし、歴史を振り返ると、多くの場合、人々がそのような既成事実を受け入れなかったことで、それらを打ち破ったり元に戻したりすることができた例がたくさん見られます。私はアレンビーから十字軍の引用をしました。十字軍自体がパレスチナに国を立てることで既成事実を築きましたが、その地域の人々がこの支配を受け入れなかったため、その既成事実は今では消し去られています。アルジェリアの人々は、自分たちがフランスの一部であることは既成事実であると言われましたが、こんなことを彼らが受け入れることはしませんでした。私の人生の中で最も幸せな時間は、アルジェリアがフランスの一部であるというこの定説を覆すための戦いの中で、高貴なアルジェリアの人々に奉仕することに費やしたことです。また、アルジェリアの独立闘争に少しでも貢献できたことを非常に光栄に思っています。南アフリカの白人入植者はアフリカの人々に白人支配を既成事実として受け入れるように言っていますが、これはアフリカの人々も拒否しています。さて、なぜこのパレスチナ問題、シオニストによるパレスチナ占領が、既成事実として受け入れられないのでしょうか? 帝国主義列強が今回私たちに何を求めているのか見てみましょう。帝国主義列強は、単にアラブの人々がユダヤ人をもてなすことを要求しているのではありません。

何世紀にもわたって、アラブ世界に住むユダヤ人コミュニティは、尊厳と平等の条件の下で生活してきました。そこでは、ユダヤ人はアラブ世界で最高の地位を獲得することができ、閣僚の地位にまで達していましたが、ヨーロッパ人は種々の問題を整理し、優れたヨーロッパ文明の名の下にユダヤ人をガス室に押し込んでいました。私はヨーロッパ諸国がヨーロッパのユダヤ人に対して行なってきた野蛮な仕打ちを真っ先に非難し、さらにその後も数え切れないほど非難を繰り返してきました。しかし、私はこう言いますし、これからも言い続けます。アラブ人はヨーロッパの蛮行によって犯された罪に責任はなく、ヨーロッパの蛮行の犠牲者への補償はアラブ人ではなくヨーロッパ諸国自身が行なうべきであり、ヨーロッパ帝国主義者とアメリカ帝国主義者は、この既成事実をアラブ人に押し付けようとして、ヨーロッパでユダヤ人に対して行なってきた虐殺と非人道的行為に対する責任を回避しているのです。だから、私たちは誰もこれに惑わされないようにしましょう。罪はヨーロッパのものであるのに、その代償は100万人、100万人以上のパレスチナの人々によって支払われてきました。パレスチナの人々は、ヨーロッパのいわゆる文明の歴史を通じてヒトラーや彼の前任者の犯罪には関与していませんでした。

アラブ人は本質的にユダヤ人に偏見を持っているわけではなく、彼らの歴史を見ればそれがわかります。しかし、アラブ人が偏見を持つのは、おそらくどの人間も持つものであり、それは自分たちの領土の一部が異国の支配者に奪われ他の誰かに与えられ、原住民が追放されることについての偏見です。これは帝国主義の宣伝機関があなたに信じさせようとしていることとは非常に異なるものです。そしてなぜ帝国主義者はこのような戦術を採用するのでしょうか、なぜ彼らはシオニスト国家(イスラエル)の保存にそんなに関心を寄せるのでしょうか。すでに地理的要因について指摘しています。つまり、シオニスト国家(イスラエル)がアジアとアフリカを分断し、アラブ世界を二分するという事実です。シオニスト国家(イスラエル)は西洋帝国主義にとっても非常に有益であり、アフリカとアジアの大陸全域で軍事的および政治的な蠱惑(こわく)のおとりとして機能しています。もしこれに疑念を持つのであれば、1956年にさかのぼって10年前を振り返ってください。その時、イギリスとフランスの帝国主義がエジプトの支配を取り戻そうとした試みにおいてシオニズムが果たした役割を見ればよいでしょう。

エジプト(現在の統一アラブ共和国)の人々が、この侵略に対して非常に勇敢に抵抗したことは、私たち全員にとって反帝国主義の闘いの模範であり、アフリカやアジア全体で帝国主義の狙いの本質を非常に明確に示しています。そして今、私たちは将来を見据えなければなりません。現在、中東の中心における帝国主義の拠点という状況に直面しており、これはアラブ人だけでなく、アフリカとアジアを分断する脅威であり、占領された世界中の解放闘争および帝国主義に抵抗している人々にとっても脅威です。そして私たちが明確に目指すべきことは、すべての帝国主義の打倒です。私たちは非常に明確に敵を認識しなければなりません。私たちの敵は、米国帝国主義を先頭に置く世界帝国主義です。パレスチナ問題がこれをはっきりと示しています。なぜならこのシオニスト国家(イスラエル)は、1948年以来の間、米国からの援助、米国の資金に支えられてきたからです。イスラエルは他人の領土で不法に生み出された米国の子であるのです。

この問題を切り離して考えるのではなく、世界の人々、アラブ人と非アラブ人、そして実情を認識しているここにいるイギリス人たちが、敵が誰であるかを非常に明確に認識し、帝国主義が打倒されるまでその敵に対して断固たる戦いをしなければならないことを認識しなければなりません。そして今、兄弟姉妹よ、私は平和について一言述べたい。私は平和を愛するが、私はある種の平和を愛します。尊厳と自由の平和を愛します。自分が安全であり、自分の所有物がより強力なものに脅かされることがないと知っている平和を愛します。私は墓場の平和を愛するわけではありません。しかし、尊厳ある平和、自由な平和は、戦争の原因である帝国主義が取り除かれることによってのみ達成されることができるのです。

ご清聴ありがとうございました。
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なぜNATO傘下のネオナチ軍事政権は、ロシアでのテロ攻撃の隠し方があんなに杜撰なのだろう。NATOはロシアと戦争をしたがっているのだろうか?

<記事原文 寺島先生推薦>
Why Is NATO’s Neo-Nazi Junta’s Cover-up for Terrorist Attacks in Russia So Sloppy? Does NATO Want War with Russia?
筆者:ドラゴ・ボスニック(Drago Bosnic)
出典:グローバル・リサーチ(Global Research) 2024年3月28日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>  2024年4月1日


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クロッカス・シティ・ホールでの300人以上に対する凶悪な虐殺行為(その半数近くが現在死亡)、過去20年間のロシアにおける最悪のテロ攻撃であり、過去5年間で世界最悪のテロ攻撃の1つである。それにもかかわらず、主流のプロパガンダ機関の多くは、これを「銃撃」、おそらくは「銃乱射」、または単に「攻撃」などと呼び、ロシア民間人に対する共感がいかに少ないかを示している。テロ攻撃自体、十分に恐ろしいものだったが、ネオナチ軍事政権とその支持者から発せられた怪物のような歓喜の声が事態をさらに悪化させた。

さらに、ロシア諜報機関は、クロッカス・シティ・ホール・テロ攻撃の真の首謀者が西側諸国政府、特に米国であることを示す気がかりな証拠を発見した。

いっぽう米国側は、ISISが背後にいるという「否定できない証拠」があると主張している。

むしろ興味深いのは、テロ攻撃のわずか数時間後、現地にいたロシア軍ですら詳細を把握していなかったにもかかわらず、米国がどのようにして首謀者がISISであると主張できたのかということだ。誰がノルド・ストリーム・パイプラインを破壊したのか米国は「ほんとうに知らない」が「深海を潜れる謎のウクライナ人組織」であることは分かっている、などと言っていた。

さらに悪いことに、米国21世紀の歴史の決定的な瞬間となった9/11攻撃から23年が経った今でも、米当局は未だにその捜査を終えていない。

政府支配者層が何かを隠していることは「ほぼ間違いないようだ」。しかし、何らかの理由で、彼らは1万キロ離れた場所でのテロ攻撃の背後に誰がいるのかを「即座に見抜いて」おり、彼らのお気に入りの傀儡政権であるゼレンスキー政権とは「まちがいなく何の関係もない」と主張している。

さらに、ロシアがウクライナ・ネオナチ軍事政権への関与について公式声明を発表する前に、米国はこの軍事政権を擁護し始めた。

そして、カマラ・ハリス副大統領を含む問題の多いバイデン政権がキエフ政権の「無実」を「証明」するために全力で戦っている一方で、キエフ政権は数百人の非武装ロシア民間人に対するこの残忍な虐殺を祝うパーティーを開催しようとしている。このような不穏な事件は少なくとも2件あり、ひとつはウクライナのレストランが「クロッカス・シティ・セット」と呼ばれるメニューを出した件で、もうひとつはウクライナのゲーマーが世界的に人気のある「カウンター・ストライクFPS」というテロ組織と対テロ組織が戦うゲームの地図上に、クロッカス・シティ・コンサート・ホールを作成した件である。その場所では、仮想の人質に発砲して放火したり、爆発物を仕掛けて爆破したりすることもできるよう設定されている。

そのような行為への対処は精神科医や臨床心理士に任せるべきだが、ネオナチ軍事政権の最高幹部らの反応は、クロッカス・シティ・ホール・テロ攻撃の真の黒幕が誰なのかを明確に示している。

テロ攻撃を賞賛しただけでなく、犠牲者とロシア全体を嘲笑し、さらにそのような虐殺をすると脅したオレクシー・ダニロフ(現在は元)国家安全保障・国防会議長官だけではなく、SBU(ウクライナ保安庁)ワシル・マリューク長官も、ダリヤ・ドゥギナ氏やマキシム・フォミン(別名ヴラドレン・タタルスキー)氏を含む多くのロシアの公人を殺害したテロ攻撃を組織したことを公然と自慢しており、明らかにクロッカス・シティ・ホール・テロ攻撃にも関与していることをほのめかしていた。

今年初め、GUR(キエフ政権の軍事情報局)キリロ・ブダノフ長官も、ロシアでのテロ攻撃を「ますます深く」進めると脅迫していた。ネオナチ軍事政権の2つの最も重要な諜報機関(SBUとGUR)の高官がそのようなことを発言したとなれば、即座にNATOが支援する傀儡政権全体が罪を問われることになる、ということだ。しかし、ウォロディミル・ゼレンスキー大統領にとってSBUのマリューク長官かブダノフ長官のどちらかを解任するのは危険であるため、ネオナチ軍事政権の傀儡であるゼレンスキー大統領は、ダニロフ氏のような下級官僚を解任することで自らの痕跡を隠蔽せざるを得なくなっている。ゼレンスキー大統領の側近の一人であるダニロフ氏は当初から非常にタカ派であり、米国主導のNATOと連携して可能な限り多くの破壊活動やテロ攻撃を行なうことを公然と主張してきた。

これは、悪名高きネオコン戦争屋ビクトリア・ヌーランド氏がロシアの特別軍事作戦(SMO)2周年という機会を利用してロシアを脅迫したときに、米国で起こったもう一つの同様の話を思い出させる。

彼女が述べたのは、米当局がキエフ政権に提供したいわゆる「軍事援助」によって、「プーチン大統領は今年、戦場でえげつない贈り物を受け取る」ことが確実になるだろう、ということだった。

その数日後、彼女は国務省を去った。ネオナチ軍事政権だけが彼らの足跡を隠蔽しようとしているわけではないようだが、ヌーランド氏はもう少し狡猾であったようで、クロッカス・シティ・ホール・テロ攻撃の前に逃げた、ということだ。しかし、損な脅迫を行なったのはヌーランド氏だけではない。昨年、元統合参謀本部議長のマーク・ミリー将軍も同様の脅迫を行なっていた。

ワシントン・ポスト紙は、「真夜中に喉を切られるのではないかと心配せずに寝るロシア国民はいないはずだ。ロシアに戻って前線の後ろからの工作を考え出すべきだ」というミリー将軍の言葉を報じた。

この直後、ミリー将軍の身に何が起こったのか?

ご想像のとおり、彼は職を辞した。しかし、ロシア全土でのテロ攻撃は激化し続けている。そのいっぽうで、西側諸国政府は、クロッカス・シティ・ホール虐殺事件を犯したテロリストの扱いを非難することで、その恐るべき偽善をさらに暴露している。米国民ジャーナリストのジュリア・デイビス氏は容疑者らの安否を「懸念している」いっぽう、スティーブ・ホール元CIAロシア工作部長は、これは「ロシアで起きていることと西側諸国で起きていることの価値観の違い」を示していると述べた。そのとおり。明らかな違いがある。それは、米国占領軍が無数のイラク兵士や民間人を拷問した悪名高いアブグレイブ刑務所のような刑務所をロシアは運営していないからだ。

ロシアはまた、数百人(数千人ではないにしても)が不法投獄されている残忍なグアンタナモ湾収容所のような施設の運営もしていない。この収容所には、起訴されることもなく、何十年も独房に閉じ込められている人もいる。

したがって、ロシアが真のテロリストを処罰しているいっぽうで、米国は300人以上を殺傷した大量殺人者の身の安全を「懸念」している。同時に、好戦的なタラソクラシー(海洋帝国)である英国は、外国の侵略者と戦っていた人々、あるいはさらに悪いことに、何もしていない人々を拷問し、投獄している。この点に関しては、ホール氏の指摘は確かに正しい。ロシア政府と米国政府では価値観に大きな違いがある。これらすべては、西側政治とそのネオナチ傀儡が隠蔽工作に従事していることを明らかに示している。

しかし、問題は、なぜすべてがこれほどずさんで明白すぎるのかという点だ。専門家やジャーナリストがこれらすべてに簡単に気づいたのであれば、ロシアの諜報機関や国家機関は間違いなくはるかに多くのことを知っているはずだ。ロシアのセルゲイ・ラブロフ外相は先日、最近のテロ攻撃に関する捜査に「協力」するといういわゆる「国際機関」の申し出に言及し、ノルド・ストリームの妨害行為に関する同様のロシアの要請を無視したことを指摘し、その偽善性を強調した。念頭におくべきことは、このテロ攻撃についても、米国から事前に発表されていた事実だ。米国はこのパイプラインが「海の底の金属の塊」になる、と確約していたのだから。言い換えれば、真のテロ実行犯の米国はもはや隠れる気さえなくなっている(いまや姿を明らかにしてからかなり長い時間が経っている)ということだ。

これらすべては、NATOがロシアとの戦争を望んでいることを明らかに示している。

このことを試すかのごとく、先日、フランスのエマニュエル・マクロン大統領は、ウクライナ紛争に直接関与するという尊大な発表を行なった。しかし、ヨーロッパの大部分がこの狂気には参加しないと述べているため、NATOは現在、ロシアに先制攻撃を促す方法を必要としている。そうする唯一の方法は反撃を引き起こすことであり、それが世界で最も攻撃的な軍事同盟であるNATOがクロッカス・シティ・ホールでのテロ攻撃を組織した理由だ。このようにして、NATOはロシアに報復を促し、その後ロシアを「侵略者」として提示し、西側諸国政府に「防衛戦争」を遂行する完璧な口実を与えようとしている。それがNATO全体(または少なくとも大部分)の参加を確実にする唯一の方法でからだ。しかし、パンドラの箱は一度開けてしまうと、もう後戻りはできなくなる。
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この記事の初出はInfoBrics

ドラゴ・ボスニック氏は独立系の地政学・軍事専門家。Global Research に定期的に寄稿している。
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ゼレンスキー大統領、最も親密な同志を解任

<記事原文 寺島先生推薦>
Zelensky sacks closest ally
ウクライナ大統領は長年の側近セルゲイ・シェフィール氏と数人の上級顧問を解任した
出典:RT 2024年3月30日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年4月1日


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© ゲッティイメージズ/ポーラ・ブロンスタイン


ウクライナのウラジミール・ゼレンスキー大統領は土曜日(3月30日)、長年の同志で側近のセルゲイ・シェリフ氏を解任した。ゼレンスキー大統領は進行中の政権改造のさなか、この一週間で複数の上級顧問を解任した。

シェリフ氏は、2019年5月に就任し、大統領就任初日からゼレンスキー大統領側近として仕えてきた数少ない政府高官の1人だった。政界に入る前は、ゼレンスキー氏と長年緊密な仕事仲間であり、同氏とともに「クヴァルタル95(地区95)コメディ・スタジオ」を共同設立した。

2021年9月、シェリフ氏は自身の車が未知の襲撃者に襲撃された暗殺未遂事件を生き延びた。車両は多くの弾丸を受け、運転手は負傷したが、シェリフ氏自身は無傷だった。そのとき、ゼレンスキー大統領は、この攻撃は同国の「体制(system)」による報復だ、と主張した。この体制を彼は「打破」しようとしていたと言われていた。

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ここ数日間、ゼレンスキー大統領はフリーランス(自由契約)大統領補佐官3名と全権代表2名(ボランティア運動関連問題を担当するナタリヤ・プシュカレワ氏と軍人の権利に関する問題を担当するアリョナ・ヴェルビツカヤ氏)を解任した。

この解任は、ゼレンスキー大統領が今年初めに始めたウクライナ指導部の再編の一環として行なわれた。この取り組みの最も著名な犠牲者はヴァレリー・ザルジニー元最高司令官で、この役職は先月アレクサンドル・シルスキー氏に代わった。ザルジニー元最高司令官には数か月間ゼレンスキー大統領と対立していたとの噂があり、その後昨年末に前線の状況についての懸念が公になった。
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「オデッサは陥落するだろう」とマスク氏がウクライナに警告

<記事原文 寺島先生推薦>
‘Odessa will fall’, Musk warns Ukraine
ウクライナ政府は黒海への接点を完全に失う前に、ロシア政府との「交渉による解決」を追求すべきだ、とこの億万長者は主張
出典:RT  2024年3月30日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年4月1日


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ファイル写真© Chesnot / Getty Images


テスラ社とスペースX社のイーロン・マスク最高経営責任者(CEO)は、戦争が続くなか、日を追うごとにウクライナの立場が弱まっている、との考えを繰り返し、「本当の問題」は、ロシア政府との協議に臨むまでに、ウクライナ政府がどれだけの領土を失い、どれだけの人命を無駄にすることになるかだ、と警告した。

この起業家は土曜日(3月30日)、自身のプラットフォームXへの投稿で、昨年大々的に宣伝されたウクライナの反撃が失敗に終わることは「愚か者でも予測できた」と主張し、たとえウクライナ政府が「防衛に全力を注ぎ、すべての資源を投入する」という同氏の勧告に従ったとしても、強力な自然の障壁がない土地を保持するのは難しい」だろう、とも述べた。

「ウクライナに装甲車輛も制空権もないのに、縦深防御、地雷原、強力な大砲を備えたロシアの大軍を攻撃することは、ウクライナにとって悲劇的な命の無駄づかいでした」とマスク氏は書いた。

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ロシア国防省の先月の推計によると、ウクライナ軍は現在進行中の紛争の過程で44万4000人以上の軍事的死傷者を出しており、その中には昨年の反転攻勢時の16万6000人以上が含まれている。しかし、ウラジミール・ゼレンスキー大統領は2月、2022年2月24日以降に殺害された自国の兵士はわずか3万1000人だと主張した。

この億万長者は続けて、「戦争が長引けば長引くほど、ロシアはドニエプル川に到達するまでにさらに多くの領土を獲得することになるでしょう。そうなればそれを克服するのは困難になります」と主張した。

しかし、戦争が十分に長引けば、オデッサも陥落するでしょう…私の考えでは、ウクライナが黒海への接点を完全に失うかどうかが、本当の残された問題です。そうなる前に、交渉による解決をお勧めします。

イーロン・マスク氏は、2022年初めに紛争が始まって以来、ウクライナに対する立場を何度か変えている。彼は当初、ウクライナ政府に無料のスターリンク・インターネット端末と衛星を使ったネットワークへのアクセスを提供したが、ウクライナが利用することを恐れてクリミア近郊でのサービスの開始を彼は拒否した。それは、ロシアの黒海艦隊に対するドローン攻撃を誘導することになるからだった。もしこれが起こっていたら、スペースX社は「戦争と紛争激化という重大な行為に加担する」ことになっていただろう、と同氏は昨年説明した。

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関連記事:Zelensky changes stance on talks with Russia

マスク氏はまた、自身のXアカウントを利用して、紛争の軌跡について広く語っている。1年以上前、同氏はキエフがクリミアへの領有権を放棄し、中立を宣言し、新たにロシアの4地域(ドネツク、ルガンスク、ヘルソン、ザポリージャ)がロシア連邦への加盟を問う新たな住民投票を行なうことを許可するよう提案していた。この提案は、ロシアが当初ドネツクとルガンスクの自治だけを求めていたことを除けば、紛争開始前にロシアがキエフと西側諸国に提示した条件と似ている。

ロシア政府は、ウクライナ政府との有意義な協議に引き続き前向きであると強調し、外交的打開策が見つからないのは「現場の現実」を受け入れようとしないウクライナ当局のせいだとしている。

クレムリンのドミトリー・ペスコフ報道官は土曜日(3月30日)、ウクライナは2022年以降国境が大幅に変わっているという事実を考慮する必要があると述べ、ゼレンスキー大統領の言う「1991年の国境に戻る」という提案はもはや交渉の前提条件ではない、と発言した。
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捜査当局、モスクワのテロ攻撃容疑者とウクライナ民族主義者のつながりを立証

<記事原文 寺島先生推薦>
Investigators establish link between Moscow terrorist attack suspects and Ukrainian nationalists
クロッカス・シティ・ホール襲撃犯らにウクライナから多額の資金が送金された、とロシア捜査委員会が発表
出典:RT 2024年3月28日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ> 2024年4月1日


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ソーシャルメディア


先週のモスクワのテロ攻撃の容疑者らはウクライナ民族主義者に関連している、とロシア捜査委員会は木曜日(3月28日)、予備調査結果を引用して発表した。同法執行機関は、犯人らはウクライナから「多額の金」を受け取っていた、と発表した。

捜査当局は、襲撃の容疑者らがウクライナから仮想通貨の形で資金を受け取り、その金がテロ攻撃の準備に使用されたという「裏付けられた証拠」を入手した、と声明で述べた。

捜査委員会によると、法執行官らは攻撃資金提供に関与したとされる別の容疑者も特定し、拘留した、という。ただし個人名は明らかにしなかった。

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これに先立ち、ロシア連邦保安局(FSB)のアレクサンドル・ボルトニコフ長官は記者団に対し、米国と英国、ウクライナが攻撃の背後にいる可能性がある、と述べていた。同当局者は、ウクライナ側が国境を越えて戻るための「窓口」を準備していた可能性があると述べた。「ウクライナでは、襲撃者らは英雄として歓迎されるはずだったのです」とボルトニコフ長官は付け加えた。

実行犯とみられる4人は、アフガニスタンに本拠を置くイスラム国(IS、旧ISIS)の分派が運営していると思われるオンラインチャットを通じて募集されたイスラム過激派である、と以前に特定されていた。しかし捜査当局は当時、テロ行為に対する同組織の犯行声明にもかかわらず、ウクライナ諜報機関など別の団体が計画に関与した可能性がある、としていた。

先週金曜日(3月22日)、ロックバンド「ピクニック」のコンサート直前に、アサルトライフル(突撃銃)で武装した集団がモスクワ郊外のクラスノゴルスクにあるクロッカス・シティ・ホールの音楽会場を襲撃した。この襲撃と実行犯によるその後の放火により、140人の命が奪われ、約200人が負傷した。

襲撃者らは襲撃から数時間後、ウクライナと国境を接するロシアのブリャンスク州で逮捕された。
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