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アフリカにおける社会主義指導者の新時代

<記事原文 寺島先生推薦>
A New Era of Socialist Leadership in Africa
筆者:ドガン・デュアル(Dogan Duyar)
出典:INTERNATIONALIST 360°  2023年8月12日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>  2023年9月29日


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「帝国主義と植民地主義からの独立の象徴」とされ、「時代遅れ」と言われた国の創設者たちが、今、歴史の舞台に再び登場している。アルジェリアのフアリ・ブメディアンや、ブルキナファソのトーマス・サンカラ、ガーナのクワメ・ンクルマ、マリのモディボ・ケイタ、ギニアのアフメド・セク・トゥーレ、そしてチュニジアのハビーブ・ブルギバなどだ。


 若い科学的社会主義の軍事指導者たちが2023年7月27日から28日にかけてサンクトペテルブルクで開催されたロシア・アフリカサミットで、注目の的となった。

 ブメディアンや、サンカラ、ンクルマ、ケイタ、トゥーレ、そしてブルギバなどの名前は、反革命から60年後、「完全に独立した」祖国の守護者として、自国のアフリカ民族を再び統一している。

 アフリカでは、「安全保障と生産の革命」が必要とされ、それには西側との関係を切り離す必要がある。軍事クーデターは、帝国主義から離脱できない「社会民主主義」政党を打倒した。独立戦争は、科学的社会主義の指導のもとで進行している。

 アフリカ各国の国家元首は、その演説で、ソビエト社会主義共和国連邦(USSR)が脱植民地化の闘いと新しく形成された国家の発展へ支援をしてくれたことを称賛した。彼らは社会主義の中華人民共和国との協力を強調した。また、新しい国際秩序の一環であるBRICSの一員として参加したいとの希望を表明した。


安全保障と生産の革命における社会主義者の指導

 アフリカ諸国の「安全、国家の統合、生産の革命」への必要性は、新帝国主義的な西洋によって妨げられている。解決策は西洋との関係を断絶することだ。

 アフリカの社会民主主義や、ポピュリスト、そして社会主義政府すら西洋から離れることができないため、科学的社会主義者が国家民主革命の指導を取っている。


マリや、ブルキナファソ、およびニジェールなどで崩壊した政党

 ニジェール、ブルキナファソ、マリ、アルジェリアで倒された政党は、「中道右派」でも「リベラル」でも「親フランス」でもない。ニジェールで打倒された政党の名前は「ニジェール民主社会主義党」(PNDS-Tarayya)である。党の綱領は民主主義革命であった。マハマドゥ・イシューフ前大統領が2011年3月に掲げた8項目の選挙公約は以下のとおり:

1. 公共投資を通じて経済の活性化と社会的発展の促進。
2. "3N"構想(Nigeriens Nourish Nigeriensニジェール人がニジェール人を養う)を通じた食品安全保障の確保。
3. 都市、農村、自然水力工事の改修および建設を通じて、全ての人に飲料水を供給できること。農村部における飲料水の供給率は約45%。言い換えれば、2人に1人が飲料水を供給されていない状況。
4. 道路、農村道路、電力、鉄道への投資を通じて、生活基盤施設と燃料の改善。
5. 社会指標(教育と健康)を大幅に向上させる。この2300万人の国では、識字率は約30%。
6. 若者に雇用の機会を創出する。ニジェールはアフリカで最も若い人口を持つ国。人口の70%以上が30歳未満。この99%がイスラム教徒である国は、1人の女性あたりの出生率が7.6。
7. 強固で信頼性のある持続可能な民主的機関の構築。
8. 国内全域で個人と財産の安全を確保する。
残念ながら、この民主主義の改革計画は大西洋系政府の影響を受けて紙上でしか存在せず、状況は大西洋式支配と政府の転覆という断絶が必要だった。


マリとブルキナ・ファソにおける左派同盟

 ロシュ・カボレの政党は、2022年1月24日にブルキナファソで転覆された政党で、「進歩のための人民運動」(MPP)と呼ばれていた。転覆当時、この政党はヨーロッパの「社会主義インターナショナル」の影響を受け、ブルキナファソの有名な指導者トーマス・サンカラの継承者であると主張し、連立政権を組むために「目覚めのための連合-サンカリアン党」(UNIR/PS)と連携していた。

 2020年8月18日にマリで打倒された頭文字IBKで知られるイブラヒム・エブベキル・キータは、「マリの民主主義のための同盟-正義と連帯のためのアフリカ党(Adéma-PASJ)」に由来する。いくつかの分裂を経て2001年に「マリのための統一」(RPM)と改名されたこの追放された政党は、自らを「左翼、社会主義」と表現した。

 アルジェリアで2019年2月22日に倒されたのは、国家創設党の国民解放戦線(FLN)の政府だった。それを倒したのはFLNの「新ブメディアン」と呼ばれる集団で、彼らは陸軍・国民連合の一部だった。


アルジェリアにおける国民解放戦線(FLN)の内紛

 さて、FLNは、1954年(この年に最初の武力闘争を開始した)に始まる歴史的な出発点に戻ろうとしている。2019年12月、選挙運動中、アブデル・マジド・テブン大統領は彼の「54の約束」宣言でFLN創設を強調した。2020年、政府は自分たちの計画を「どこまでやれたのか?」とまとめた。それはフアリ・ブメディエンの指導下での1965年から1978年までの時期を指し示している。この期間には国家主権への道で重要な進展が達成されたのだ。


アフリカで革命の火山が噴火した

 アフリカの政治史は60年周期で進展する。

 1900年から1960年までの期間は革命の時代だった。

 1960年から2020年までの期間は反革命の時期だった。

 20世紀初頭に植民地主義に対抗したアフリカ大陸は、今では60年間の新植民地主義的な秩序に対して反乱を起こしている。

 アフリカ諸国で「第二次独立戦争」が行なわれている。

 フランス軍は追い出されている。マクロンとその一党は今やアフリカで望まれない存在だ。
独立と帝国主義、植民地主義からの独立の象徴とされた「時代遅れ」と言われていた創設者たちが、現在、歴史の舞台に再び現れている:アルジェリアのフアリ・ブメディアン、ブルキナファソのトーマス・サンカラ、ガーナのクワメ・ンクルマ、マリのモディボ・ケイタ、ギニアのアフメド・セク・トゥーレ、チュニジアのハビーブ・ブルギバ。

 植民地支配者が忘れさせたかった科学的社会主義の創設者たちは、再びそれぞれの国の希望となっている。
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アフリカにおける「オバマの家来」、ガボンを揺るがす民衆クーデターで自宅軟禁中

<記事原文 寺先生推薦>
‘Obama’s Man in Africa’ Under House Arrest as Popular Coup Rocks Gabon
筆者:マックス・ブルメンタール(Max Blumenthal)  
出典: INTERNATIONALIST 360°  2023年8月31日
<記事飜訳 寺島メソッド翻訳グループ>  2023年9月29日


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2014年8月5日、ホワイトハウスでの米アフリカ首脳サミットの夕食会中、ブルー・ルームでアリ・ボンゴ・オンディンバ・ガボン大統領、バラク・オバマ大統領、ミシェル・オバマ大統領夫人


ガボンの腐敗しきっていたアリ・ボンゴ大統領は、軍事クーデターで解任される前、オバマ大統領に求められて、ワシントンからダボス会議まで招待された。この地域を不安定化させたアメリカの対リビア戦争は、彼がいなければ成功しなかったかもしれない。



 8月30日、軍事政権がアリ・ボンゴ・オンディンバ大統領を逮捕し、ガボンは軍事クーデターによって政府を退陣させた9番目のアフリカの国となった。ニジェール、ブルキナファソ、マリの国民がそうであったように、ガボンの群衆は、欧米が支援する指導者の退陣を祝うため通りに押し寄せた。国民の3分の1以上が困窮にあえぐなか、大統領一族が贅沢な暮らしを誇示していたからだ。

 「無責任で気まぐれな統治は、社会的結束を絶え間なく悪化させてきて、国を混乱に追い込む恐れがあった」とガボン政権の指導者ウルリッヒ・マンフンビ大佐は政権奪取時に宣言した。

 ガボン軍が現職の親フランス派アリ・ボンゴ大統領を追放した後、数百人が街頭に出て、クーデターへの支持を表明して歌い祝っている。

現在、ロスチャイルドが出資する鉱山会社はガボンでの操業を停止しており、インターネットの接続も停止している模様... pic.twitter.com/8EWzapbpuj
- アンジェロ・ジュリアーノ (@Angelo4justice3) August 30, 2023


 ボンゴ大統領の逮捕は、ワシントンとパリからの怒りに満ちた非難にさらされた。両国は、ガボンの莫大な石油資源を略奪するボンゴ大統領を支えてきたからだ。オバマ前大統領は、ガボンの独裁者を大陸で最も親密な同盟者の一人として育て上げ、リビアとの戦争で地域全体にテロと不安定を巻き起こすときに、外交的な支えとして彼を頼りにしていた。

 オバマとボンゴの絆は深く、フォーリン・ポリシー誌はガボンの指導者をアフリカにおける「オバマの家来」 と呼んだ。

 ボンゴは、オバマの助けを借りて、自らを改革派の近代主義者として仕立て上げようとした。世界経済フォーラムに出席するためにスイスのダボスへ何度も足を運び、そこで 「課題提案者」 に任命された。ボンゴはダボスで、自国の貧困にあえぐ人々に、金儲けに役立つデジタル身分証明書と決済システムを導入することで、アフリカにおける「第四次産業革命」を加速させることを約束した。

 WEFのウェブサイトに掲載されたボンゴの経歴によると、彼は「生物多様性に関するアフリカの唱道者」であり、「音楽作品の作曲家」であり、その趣味は「歴史、サッカー、クラシック音楽、ジャズ、ボサノバ」である。この自称ルネッサンス・マン(自由と革新に生きる人間)は、オバマ大統領と意気投合し、クラウス・シュワブに余計なお節介をし、ビル・ゲイツに握手しまくることができた。しかし国内では、苦境にあえぐガボンの大衆の中に彼の友人はほとんどいなかった。


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ガボンのボンゴ大統領とビル・ゲイツ、2016年


自国での運命に翻弄される「地球市民」

 アリ・ボンゴは、1967年から死去するまでガボンを支配した故オマール・ボンゴ・オディンバの息子として権力を握った。父ボンゴは2004年、失脚した共和党のロビイスト、ジャック・アブラモフと900万ドル(約9億円)にのぼるイメージ払拭の取引をした翌年、ジョージ・W・ブッシュ大統領との会談を実現させた。その5年後に父ボンゴは死去したが、5億ドルの大統領官邸、パリからビバリーヒルズまで十数軒の豪邸、そして不平等が跋扈する国を残した。

 ボンゴは、ディスコ・アーティストとして短期間活動した後、フランスのソルボンヌ大学で学び、国を率いる準備をした。2009年に大統領に就任すると、父親の後を継ぎ、ボーイング777型旅客機や高級車の購入のために公的資金を強奪し、国際的なPR会社と多額の契約を結んだ。ボンゴの妹、パスカルヌは、訴訟によれば、ジェット機でのバカンスや高価な邸宅に5000万ドル以上を費やし、彼女の家族は、中央アフリカ国家銀行から盗んだ資金をニコラ・サルコジとジャック・シラクの元フランス大統領の選挙資金に流用して、パリで影響力を培っていた。

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1977年、ディスコ・ファンク・アルバム『A Brand New Man』を演じるアリ・ボンゴ

 しかし、バラク・オバマ大統領が、リビアの政権転覆作戦を皮肉にも 「民主化促進」と正当化して始めたとき、ボンゴ一族の長きに渡る汚職の記録は何も気にならなかったようだ。ワシントンの支援で、ガボンは国連安全保障理事会の順番になり、2011年2月、リビアへの制裁と飛行禁止区域を要求するアメリカ決議の忠実な承認国として機能した。

 ボンゴの忠実な協力精神によって、4ヵ月後にはワシントンでオバマ大統領との面会を実現させた。大統領の私邸に滞在していたボンゴは、アフリカの指導者として初めてカダフィの権力放棄を求めたのだ。

 ボンゴの側近について、当時の駐ガボン米国大使エリック・ベンジャミンソンは、フォーリン・ポリシー誌にこう語った。「彼らはアフリカの指導者なら誰でも個人携帯番号に電話できた。彼らはカダフィのことを知っていて、彼の参謀長のこともよく知っていた。軍事行動をとらずにカダフィを退陣させるために、ガボン人を通じて働きかけようとしていた」。

 ベンジャミンソンは、「オバマは彼を気に入っていたようだ」、と付け加えた。

 米国が主導したリビアへの政権転覆戦争は、以前は安定し繁栄していたこの国を、アルカイダ系とISISの軍閥が支配する専制的な地獄絵図へと急速に変貌させた。リビア軍のかつての武器庫を事実上無制限に利用できるようになったジハード主義者たちは、サヘル地域*で暴れ始めた。彼らの虐殺への秘密支援は湾岸王国カタールから届いていた。カタールはカダフィを排除するために、フランスやアメリカと提携し、2012年にジハード主義者連合がマリ北東部に事実上のカリフ国家を樹立するのを可能にした。
*サハラ砂漠南端のセネガルからチャドまでの6か国を横切る乾燥地帯

 「かつては安定していたマリを2011年後半から苦しめている暴力は、西側諸国政府にとって驚きではないはずだ。なぜならそれは、NATOのリビア介入の直接的結果であるからだ」と「外交問題評議会(The Council on Foreign Relations)」は述べた。

 この地域で、フランスとアメリカの軍事的な展開が拡大しているにもかかわらず、あるいは、そのせいかもしれないが、2014年にはジハード主義者による攻撃が多発していた。同年8月、オバマ大統領はボンゴ大統領に、ワシントンで開催された米アフリカ首脳会議への招待状を送った。サミットの祝賀会で、オバマは伝説のポップ歌手ライオネル・リッチーの演奏を聴きながらボンゴ大統領の横に座り、アフリカ戦略におけるボンゴ大統領の極めて重要な役割を強調した。

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2014年8月5日、ホワイトハウス南庭で開催された米アフリカ首脳サミットの晩餐会で、ライオネル・リッチーのパフォーマンスに耳を傾けるオバマ夫妻とガボンのボンゴ大統領

 ボンゴは、2016年の怪しげな投票で再選を果たしたが、そのわずか1カ月後、再びアメリカに呼び戻された。今回は、悪名高い怪しげなNATO後援の大西洋評議会(アトランティック・カウンシル)によって、ニューヨークで開催されたシンクタンクの正装祝賀会で「グローバル・シチズン賞」を受賞するためであった。しかし、本国ガボンの選挙で、ある地域では100%に近い投票率で95%の得票が報告されるといった不正に対して疑問の声がくすぶり続ける中で、彼はこの旅行をキャンセルせざるを得なくなった。

 「大西洋評議会(アトランティック・カウンシル)は、ガボンのボンゴ大統領が自国での優先事項のために今年の地球市民賞の受賞を見送ったことを尊重する」とシンクタンクのウェブサイトに紋切り型の声明が掲載された。

 一方、マリの首都バマコでは、「マリの愛国者」 と名乗る市民グループが、フランスの外交官と軍関係者の国外退去を求める数百万人分の署名を集め始めていた。彼らはフランス軍に代わってロシア軍を要請し、そして、オバマ率いる対リビア戦争以来、彼らの社会を苦しめてきたイスラム主義のテロリストを追い出すよう要求した。

 一般的なマリ人の爆発寸前の怒りは、2021年に民衆による軍事クーデターを引き起こし、翌年には隣国のブルキナファソでもクーデターが起きるきっかけとなった。そこでは市民は手製のロシア国旗を手にして臨時政府を祝っている様子が見られた。

 今年8月30日、反乱軍がガボン政府を包囲し、ワシントンお気に入りの泥棒政治家の治世を終わらせたとき、ボンゴは所在不明の場所からビデオメッセージを録音し、「世界中にいる友人たちに、声を上げてくれ」 と必死に訴えていた。

 しかし、その時点では、オバマ大統領が耳を傾けているのかどうか、あるいは「アフリカの家来」を救済するために彼ができることがあるのかどうかははっきりしなかった。
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『立ち上がれ、アフリカ! 吼えろ、中国!』の著者、高云翔とのインタビュー

<記事原文 寺島先生推薦>
Arise, Africa! Roar China! Interview with Gao Yunxiang
出典:INTERNATIONALIST 360°  2022年6月13日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>  2022年9月29日


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 『起て、アフリカ! 吼えろ、中国!』は、進歩的なアフリカ系アメリカ人と中国革命の歴史的な結びつきの側面を探求した重要な本だ。2021年12月に北カロライナ大学出版局から刊行された。著者である高云翔博士は、中華人民共和国で生まれ育ち、現在はカナダのトロントメトロポリタン大学で歴史学の教授を務めている。彼女の本は、第二次世界大戦および冷戦中において、20世紀の最も有名な三人――アフリカ系アメリカ人であるW. E. B. デュボイス、ポール・ロブソン、ラングストン・ヒューズ――と、ほとんど知られていない中国の同盟者――ジャーナリスト、音楽家、クリスチャン活動家の劉良模、および中国・カリブ系ダンサー・振付家であるシルヴィア・シーラン・チェン――との間にあった、彼らの密接な関係を探求している。中米関係の研究において新たな道筋を描き出す高云翔博士は、アフリカ系アメリカ人を中心に据えつつ、黒人の国際主義の研究と中国系アメリカ人の経験とを結びつけ、太平洋をまたぐ物語と中国の現代的な大衆文化と政治の世界的な再構築の理解を組み合わせる。高云翔博士は、中国人とアフリカ系アメリカ人の進歩的な交流について、特に活発だった1960年代から1970年代初頭以前の交流を明らかにしている。

 この本を紹介するために、米国コーネル大学のアフリカ研究の博士候補生である劉紫鳳(りゅう・しほう)によってSixth Toneウェブサイトのために行なわれた高博士への2部構成のインタビューを再掲載できることは喜ばしいことです。
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劉紫鳳: 中国人とアフリカ系アメリカ人の関係に興味を持つきっかけとなったのは何ですか?『立ち上がれ、アフリカ! 吼えろ、中国!』を執筆することになった動機は何ですか?

高云翔:初めての著書『公正な性別』の研究中、私は『人民日報』でW. E. B. デュボイス(Du Bois)とシャーリー・グラハム・デュボイス(Shirley Graham Du Bois)に関する賞賛の記事を見つけました。それで私の少女時代に読んだものを想い出しました。特にある古い新聞記事と宣伝ポスターです。

 私の幼少期の家は内モンゴル自治区にあり、天井はまとめ買いした古い新聞で覆われた木製の平らな格子でした。読み書きを覚えた後、私は毎晩、自分の枕のすぐ上に貼られた見出しを見ることになったのです。それは、翌年の旧正月になって新しい古新聞の層で覆われるまでの間、毎晩のように続きました。それらの言葉を毎日読んだので、それらは私の脳に刻まれました。「ロバート・ウィリアムズとデュボイス夫人、毛沢東主席の発言を熱烈に支持、黒人アメリカ人の暴力的な抑圧に対する闘いを支持」という言葉です。

 その表題は、今度は、私たちの小さな教室に掛かっていた、1年から3年までの18人の生徒のためのポスターの記憶とつながります。解放闘争における団結を提唱するこのポスターには、憤慨した様々な民族の男性と女性が、活気ある服装を身にまとい前進している様子が描かれており、中央には筋肉質の黒人の男性が銃を持って立っていました。

 『公正な性別』は2013年に発表されました。同じくその頃、私はDu Bois Review誌に論文を発表し、W. E. B. とシャーリー・グラハム・デュ・ボイスの毛沢東主義中国での活動が中米関係と黒人国際主義に新たな次元をもたらしたことを探究しました。その論文を執筆する際、当然のようにポール・ロブソンとの出会いがありました。彼はデュ・ボイス夫妻と切り離せない連携を結んでいました。その後、ポール・ロブソンと中国の知られざる興味深い関係を調査する中で、彼の中国の仲間である劉良模とシルヴィア・シーラン・チェンとの出会いもありました。

 もちろん、私は彼らが誰なのかについてすぐに興味を持ちました。シルヴィア・シーラン・チェンについて調べているうちに、ラングストン・ヒューズが彼女の恋人であったことを知りました。そこで、まるで鎖のように絡み合ったこれらの人物を追跡しました。

劉:アフリカ系アメリカ人の知識人、アーティスト、そして活動家たちは、中国の何に惹かれたのでしょうか? どのように中国と出会ったのでしょうか? これらの出会いに対する彼らの印象はどうだったのでしょうか?

高:世界の有色人種間の団結と、彼らの反人種差別と反植民地主義への運命的な共感が、これらの人物の中国への注目を集めたのです。国家が課す圧倒的で組織的な人種差別と白人至上主義に立ち向かう少数派として、黒人の知識人や活動家は、同様に抑圧されている中国に目を向け、刺激と力を求めようとしたのです。

 これらの人物と左翼中国人および中国との結びつきは、深い感情的および知識的基盤の上に築かれました。彼らは、中国-アフリカの間には人種や、言語、哲学、そして芸術的な関連があるとの信念を共有していました。ヒューズは、中国人を「非常に陽気な人々で、故郷の有色の人々に似ている」と観察しました。デュボイスは中国人を「肉体的には私のいとこ」と称賛しました。

 デュボイスとロブソンの二人は、アフリカと中国の文明のつながりを一貫して述べ、孔子や老子などの有名な中国の文化的偉人を引用し、アフリカ文明は洗練されているとの議論を展開し、一般的に認識されているアフリカの「原始性」という否定的な固定概念に対抗し、白人至上主義の正体を暴露しました。

 文化的に共通性があることは必然的に政治的な連携をもたらしたのです。中国の革命を非白人社会と経済の向上の手段として受け入れることで、黒人知識人は、アフリカ系アメリカ人の闘争を中国民族主義者の闘争に直接、結びつけました。ヒューズが1933年に「信じられないくらい素晴らしい」上海を訪れたことで、彼は中国の土地に足を踏み入れた最初の有名黒人知識人となりました。彼は中国の植民地支配の下での苦難、特に日本の直近の侵略の下での苦難に深い共感を抱いていました。ヒューズは、1937年の日本の中国への全面侵略の後、中国の抵抗を讃える情熱的な詩「吼えろ、中国!」を書きました。

 1949年の共産党の勝利は、中国を非白人の革命的な闘争の柱にし、数百万人にとって植民地主義に打ち勝つお手本となりました。ロブソンはロマンティックに想像しました―非白人の世界は、立ち上がる中国を「東方の新しい星・・・帝国主義的な奴隷制から独立と平等への道を指し示している」と見るだろうと。

 1959年の壮大な中国旅行中、デュボイスは西洋の人種差別や、植民地主義、そして資本主義などに対抗する中国とアフリカの尊厳と結束を繰り返し宣言しました。「アフリカよ、立ち上がれ、そして姿勢を正せ、話せ、考えよ! 過去500年間の西洋とその奴隷制と屈辱に背を向け、昇る太陽に向かえ・・・ 中国はあなたの肉と血の一部だ」。 彼は「より肌の色の黒い世界」は社会主義を「肌の色の問題に対する唯一の答え」として採用するだろうと予測し、それによってアフリカ系アメリカ人の地位が向上するだろうと述べたのです。

 ヒューズは、アメリカでは反共ヒステリーがあったため、急進主義から身を引いたにもかかわらず、中国人民共和国に力があることへの自信は持ち続けました。中国共産党から得た刺激は抑えていましたが、アフリカ系アメリカ人が受けた残酷な人種暴力に対する怒りで再びそれは表面化しました。「バーミンガムの日曜日」というヒューズの詩は、1963年9月15日のアラバマ州バーミンガムの第16番街バプテスト教会での爆破事件で亡くなった4人の黒人少女に捧げられました。彼の怒りはかつて中国の抑圧された人々が感じた怒りと接点を持ちました。

劉: あなたが特にとりあげた中国の知識人と活動家についてはどうですか? 彼らは何者だったのですか? 彼らはなぜアフリカ系アメリカ人に接触しようとしたのですか、中国―黒人の連帯を築くために彼らは何をしましたか?

高: 中国の知識人たちは、文学と劇を通じて、中国の半植民地国家としての「奴隷制度」とアフリカ系アメリカ人の奴隷制度には共通するものがある昔から考えてきました。林紓(りん・じょ)と魏毅 (ぎ・い)は、ハリエット・ビーチャー・ストウの『アンクル・トムの小屋』の翻訳(1901年)の序文で、黄色い人々が受けた苦痛は黒人アメリカ人が耐えた苦痛よりもさらにひどいと主張しています。中国人はこの本を読む必要があったと林と魏は述べています。「奴隷制は中国人に差し迫っている。我々は国民の目を覚まさせるために叫び声を上げなければならなかった」からだと書いています。

 連邦捜査局や移民帰化局による嫌がらせ、人種的テロや差別に直面しながらも、劉良模(ちょう・りょうばく)とシルヴィア・シーラン・チェンが勇敢にも渡米したことは、中国とアフリカ系アメリカ人の文化的な提携を新たな歴史的設定へと導きました。劉は才能ある音楽家であり、多作なジャーナリストであり、第二次世界大戦中に戦争動員を目的とした太平洋横断大衆歌唱運動を始めたキリスト教活動家でした。彼はアフリカ系アメリカ人との緊密な協力関係を築いた中国人の先駆者であり、黒人の偉大さを憚ることなく称賛し、後に人民共和国でのデュボイスやロブソンの受け入れを促しました。劉とロブソンが協力した数多くの分野の中でも、彼らは大衆歌唱運動の代表曲を世界に広めることに貢献しました: 「チー・ライ(起来)」、あるいは 「義勇軍の行進」です。

 1941年、ロブソン、劉、そしてニューヨーク市チャイナタウンの中国人手洗い同盟*の一員である劉が組織した中国人民合唱団は、Keynote Recordsのために「チー・ライ(起来):新しい中国の歌(Chee Lai: Songs of New China)」というアルバムを録音しました。劉はそのアルバムのライナーノート(付属解説書)で、このコラボレーションを「中国人と黒人との強力な連帯の証」と考えていた、と書いています。
*1933年に設立された中国手洗い同盟(CHLA)は、北米に住む華僑の市民権を保護し、「アメリカ社会での孤立を打破するのを助けるため」に形成された労働組織。この開かれた左翼組織は、「中国を救うため、自分たちを救うため」というスローガンや「日本の満州侵攻に抵抗し、中国を救う」といったさまざまな手段を使って、満州への日本の侵略に反対した。(ウィキペディア)

 ロブソンのライナーノートには次のように記されています。「チー・ライ!(起きろ!)は、今日、何百万もの中国人が口ずさんでおり、私に言わせれば非公式な国歌のようで、この民族の不屈の精神を象徴しています。この現代の作曲による歌と、闘争の中で新たな言葉を付け加えた古い民謡の両方を歌うことは、喜びであり特権です」。

 この歌は1949年に中華人民共和国の国歌として採用されることになります。

 チェンは、現代アメリカ・メディアの報告によれば、国際的な評判を持つ世界初の「近代中国/ソビエトのダンサー・振付家」でした。彼女は1920年代に中国の外相であった陳友仁(ちん・ゆうじん)と、彼のフランス人の妻クレオールの娘でした。また、彼女は「中国のモダンダンスの母」として称賛される戴愛蓮(だい・あいれん)の従姉妹でもありました。

 陳家と戴は共にトリニダードで生まれ、中国語をほとんど話しませんでした。陳(シルヴィア・シーラン・チェン)はモスクワでヒューズとロマンティックな関係になり、ヒューズの中国に対する興味を掻き立てました。国際的な共産主義ネットワークとのつながりを築き、上海の左翼文化界に彼を引き込む手助けをしました。陳(チェン)はヒューズとロブソンにとって、黒人と中国人の「完璧な」融合を具現化しているものであり、二人の空想的な想像力を捉えました。一方、彼女自身は世界中で民族性、戦争、革命を振り付け、踊る旅を続けました。そしてそのように異人種を結合しようとする取り組みは人種的、政治的なねじれの複雑さを顕わにします。

劉: あなたの本で特に取り上げたアフリカ系アメリカ人の知識人は、中国人の黒人観や世界秩序の未来図をどのように形作ったのですか? そして、中国がアフリカ世界と関わることが、少なくとも劉良模とシルヴィア・シーラン・チェンの場合、アフリカ系アメリカ人が中国の政治と文化、そして一般的に黒人急進派の思考を理解する上で、どのような影響を与えたのですか?
高: W.E.B.デュボイス、ラングストン・ヒューズ、およびポール・ロブソンの中国滞在と中国人滞在者たちとの連携は、汎アフリカ主義と汎アジア主義の力学の変化を促進し、最終的には毛沢東の第三世界理論の「肌の色ライン」に影響を与えました。

 この変革の過程は、中華民国(1912-1949)における黒人のイメージの緩やかな変化から始まりました。アジアの「病人」だという恥ずべき評判に傷つき、ナチスの人種差別と日本の帝国主義的野望への警戒感もあり、中国は1932年と1936年のオリンピックで中国の選手たちが繰り返し敗北したことに胸がかきむしられるような苛立ちを感じました。そこで、中国のメディアは、世界の有色人種を代表してボクサーのジョー・ルイスと陸上競技選手のジェシー・オーエンズの「自然な」身体的な力強さを賞賛しました。

 中国の一流漫画雑誌である「モダン・スケッチ」の第一号の表紙は、1936年のオリンピックに捧げられ、オーエンズの勝利に刺激を受けています。この雑誌の裏表紙には、アメリカのシャンソン歌手ジョセフィン・ベーカーに似た筋肉質の、バナナのスカートを着た黒人女性が描かれ、表題には「オリンピックでの有色人種の勝利」とありました。

 これらの2つの画像は、アフリカ系アメリカ人の中国的な描き方を示しています。当時中国を訪れたデュボイスは、中国人は、「スポーツだけでなく、科学や、文学、そして芸術などにおいても代表とならなければならない」と宣言しました。ナイトクラブでのジャズミュージシャンは、「外国の楽器の悪魔(洋琴鬼)」として無視されるか、歯磨き粉や白いタオルの広告で風刺的に描かれるかかが、共和国中国のメディアが黒人を描く支配的な表現法でした。デュボイスや、ヒューズ、そしてロブソン(中国の評論家がその知的能力を「天才」と評した)などがこのような画一的な見方を変えていったのです。

 ヒューズは上海への旅行中、作家魯迅を中心とする市の左翼文化サークルにあっという間に受け入れられました。彼らの雑誌は彼を「名声の確立した最初の黒人革命作家」と賞賛し、「抑圧された人種のために吠え叫び、闘い続けている」と称賛しました。ヒューズの訪問は、彼の作品と黒人文学に対する持続的な関心を中国で引き起こしました。

 黒色と革命を結びつける最終段階は、中華人民共和国の時代に起こりました。国際的に有名なロブソンに関する語り口は、異国のエンターテイナーから、中国社会主義市民の英雄的な模範であり、それを鼓舞する人、とすぐに変わりました。彼は国営メディアで「世界の抑圧された大衆のための黒人の歌の王」として紹介され、「芸術と政治の完璧な結合を具現化した人」と評されました。

 デュボイスが好意的な視線を日本から中華人民共和国に転換した後、彼は、中国から「有色人種世界」の新たな柱としての象徴として扱われました。彼と彼の妻は訪中の際、前例のない国家的な歓待を受けました。この夫婦は頻繁に中国の最高指導者と交流し、国の国慶節の祝典で天安門広場の壇上に初めて登場し、主要新聞の一面を何度も飾りました。デュボイスの誕生日は重要な国家行事として祝われました。

 一方、劉と陳は、中国系アメリカ人とアフリカ系アメリカ人が直面していた、燃え上がるような問題(例えば、投票税、中国排除法、ジム・クロウ法、アフリカ系アメリカ人のリンチなど)を関連づけました。それらを廃止するよう呼びかけたのです。

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劉紫鳳:冷戦時代の国際秩序、中ソ関係、そして中国とアメリカの外交政策の変化が、中国系アメリカ人とアフリカ系アメリカ人の関係にどのように影響を与えましたか?

高云翔:冷戦の緊張が高まる中で生まれた幼児のような中国人民共和国は、朝鮮戦争で核兵器を持つ超大国と対峙せざるを得ませんでした。この時点で、歌手、俳優、活動家であるポール・ロブスンは、中国の勇敢で信頼できる友人として最上の賞賛を受けました。ロブスンにとって中国は彼が切望していた強力な支援の源でした。

 1949年4月20日は、ロブソンのアメリカでの政治的失墜の始まりを示す日でした。その日、彼はパリで開催された国際平和大会で、「アメリカの黒人が何世代にもわたり我々を抑圧してきた者たちのためにソビエト連邦と戦うことは考えられない」と述べました。この発言はすぐに各方面から非難を浴び、有名なアフリカ系アメリカ人野球スターであるジャッキー・ロビンソンもその中にいました。ロブソンは野球の(黒人)差別撤廃に力を貸していました。

 W.E.B.デュボイスとともにロブソンを強く支持したのは中国共産党でした。人民日報はロビンソンを非難し、ロブソンを擁護しました。人民日報はロブソンのスピーチを報道し、その中で、2,000人の出席者の中からスタンディングオベーションを受けたこのスターの姿に焦点を当てました。出席者には、ノーベル賞受賞者で核科学者のフレデリック・ジョリオ=キュリー、そしてロブソンの友人である画家パブロ・ピカソもいました。その組織的な、地域と世界の平和運動をアメリカの中国内戦への関わりやその後の朝鮮戦争への関与に対する一般市民の強力な非難と捉えた人民日報は、デュボイスとポール・ロブソンの平和主義運動への参加を詳細に報道しました。

 アメリカ合衆国は、急速にロブソンへの攻撃を加速させました。最も重要で醜悪な例は、1949年8月に右翼の群衆がロブソンのコンサートを残忍に襲撃した、いわゆる「ピーキル暴動」でした。その後、アメリカ合衆国国務省はロブソンのパスポートを取り消し、彼の輝かしい経歴の邪魔をしました。これは、ロブソンの著作と人民日報の報道の両方でしっかり記録されているように、ロブソンと中華人民共和国はお互いにもっとも困難な時期に絶えることのない支援を提供し合ったのです。

 1950年代末には、大失敗となった大躍進政策の余波で、中国はアフリカ系アメリカ人の文化的巨人たちの民衆支持を歓迎する直接的な理由がありました。中国共産党は、革命を再活性化し国を社会主義化するために新しい国内的見通しが必要でした。さらに、ソビエト連邦による世界共産主義の支配と、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの元農業植民地との運命を結びつけた「第三世界」の指導を志向する中で、新しい外交の擁護者と戦術も必要でした。

 中国共産党(CCP)は既にアフリカに接近していましたが、新たに独立したアフリカ諸国は中国の提案に対して慎重かつ控えめに応じました。これらのアフリカ系アメリカ人の評価は、中国が(アフリカ)大陸全体での同盟を築くための扉を開くのに役立ちました。特に、デュボイスの評判と支持は非常に重要でした。デュボイス夫妻が1959年に中国を訪れた後、中国のアフリカへの外交的な接近、援助、広報活動は頂点に達しました。外交的および経済的な理由から、中国はアフリカに大きな存在感を維持し続け、その育成にデュボイス夫妻が貢献したのです。

 1960年代、毛沢東は急進的な黒人との接触に興味を持ち、彼らを真の革命家として賞賛しました。影響力のある黒人活動家であるロバート・ウィリアムズは、『銃を持ったニグロ』の著者として、私の子供の頃の寝室の天井に掲示された人民日報の見出しに出ていました。同時に、黒人アメリカ人は毛沢東の反米帝国主義に感銘を受け、暴力的な闘争と文化的変革を革命の力として強調したことに感銘を受けました。

劉:国際的な交流の場合にしばしば起こるように、あなたが描写する中国とアフリカ系アメリカの知的、文化的な相互作用は、誤解、曖昧さ、そして対立に満ちたものでした。あなたの著書に登場する5人の中心的な人物の国際政治の複雑さと矛盾は何でしたか?

高:曖昧でときおり危険な、そして変動する太平洋を横断する政治とイデオロギーの世界に挟まれ、私が紹介した世界市民の5人、すなわちW.E.B. デュボイスや、ポール・ロブソン、ラングストン・ヒューズ、劉良模、そしてシルヴィア・シーラン・チェンなどは、それぞれ曖昧さと対立を経験しました。例えば、1962年には、中華人民共和国の国営メディアや出版社が突然、1950年代を通じて中国社会主義市民の英雄的な革命モデルとして宣伝していたロブソンについて発言しなくなりました。中ソ対立が公然となった後、ロブソンが平和共存を主張する立場は、太平洋を横断する大国間の力学の変化の中で、中国政治に嫌われたのです。

 公式の報道機関は、ヒューズへの対応の仕方を変えました。マッカーシズムと朝鮮戦争の頂点でヒューズが過去の過激な活動を公然と放棄したことについては、報道機関は不器用なまま沈黙し、代わりに彼が1930年代にいた作家として、まるで時間カプセルに保管されているかのように彼を見つめ続けたのです。一方、劉と陳(チェン)は、過激な毛沢東主義の時代には、彼らが長らく理想化してきた体制によって、軽視され、さらには攻撃されることもありました。

 W.E.B. デュボイスが帝国主義日本を「より色黒な(人間の)言葉」の柱として扱ったことは、最も論争を呼びました。デュボイスは1936年に分離された条約港の上海を訪れました。日本当局に甘やかされ、彼は上海外灘にある豪華なホテルの和平飯店に滞在しました。上海大学では、デュボイスは「ステージに座ったまま」、ロックフェラー財団の代表がアメリカへの奨学金について話すのを聞いていました。

「私は学長に対して、中国の集団と底意地のない形で人種的および社会的な問題について話をしたいと思います」とデュボイスは回想しました。彼はやがて、11月30日に香港ロード59号地にある中国銀行家クラブでの昼食会に「無謀にも飛び込みました」。彼は、「なぜあなた(中国人)は、イギリス、フランス、ドイツよりもむしろ日本を嫌うのですか? あなたたちは日本よりもむしろイギリス、フランス、ドイツからのほうが多くの苦しみを受けているのではないか?」と、その理由を知りたいと言いました。デュボイスは続けて、もし日本と中国が協力すれば、おそらくヨーロッパをアジアから永久に排除できるかもしれないと述べました。デュボイスは冷静に報告しています:「かなりの沈黙が続いた。私もその沈黙の中に入った」。

 彼に応対した人々は面食らって、中国が抱える問題に関係なく、日本の軍国主義が進展を妨げていると応答しました。デュボイスは納得せず、後になって「アジアで最も当惑するのは、中国と日本がお互いに抱いている火のような憎しみだ」と述べました。彼は1936年12月1日に上海を出発し、上海丸で長崎に向かう船上で、決定的に侮辱的言葉を放ちました。中国国民党員たちを「アジアのアンクル・トム」と呼び、彼らをアメリカ合衆国の白人の人種差別の従順な黒人奴隷になぞらえたのです。

 デュボイスは、日本の支配の美点を繰り返し強調し、中日同盟を強く提唱しました。この同盟は、「より肌の黒い人々のために世界を救う」と彼は主張しました。彼は日本軍が北京と上海を占拠した後も、これらの見解を断固として維持しました。1937年末から1938年初めにかけて、日本軍が中国の当時の首都である南京で行なった虐殺である南京大虐殺の報道に対して、デュボイスは、多くの白人アメリカ人がその殺戮に対する恐怖を表明しているにもかかわらず、エチオピアでのイタリアの最近の略奪行為について言及する人間はほとんどいないではないか、と反応しました。

劉: あなたの本に記された物語が中米関係を理解するために提供する教訓は何ですか?

高: 中米関係に関する大半の研究は、アメリカを白人の初期設定として扱っていますが、『立ち上がれ、アフリカ! 吼えろ、中国!』は、アフリカ系アメリカ人を前面に出すことで新しい道を切り開いています。これにより、ヘンリー・キッシンジャーとリチャード・ニクソンを中心に据えた論述から離れ、アフロアジアの歴史を世界史の中心と捉え、今日でも重要な存在である国際的な反帝国主義と人民運動に焦点を当てることができます。私の本は、黒人国際主義の研究と中国、中国系アメリカ人の経験を、太平洋をまたぐ物語で結びつけています。これにより、1960年代の黒人急進派と、毛沢東中国のよりよく知られている連携以前にあった中国と黒人左派の代表的な人物との広範な交流が明らかにされています。

 本書はまた、中国の現代大衆文化と政治が世界的に作り変えられていることも示しています。本書は、中国が一般的に孤立し、より広い世界とは無縁とみなされてきた時期にも、国境を越えた中国の関わりがあったことを追跡しています。

 この5人の世界市民の交錯する生活は、通常は重なり合わない領域に住んでいると見なされがちですが、人種差別や疎外感を前面に押し出す物語に対する強力な反論となっています。彼らが人種、国籍、文化、言語の境界を超えて取り組んだ努力は、政治的、法的、移民、外交上の障壁があっても、世界が常につながっていることを示しています。彼らの物語は、黒人の国際主義と中国系アメリカ人-アフリカ系アメリカ人の協力の力と可能性を垣間見るものです。「立ち上がれ、アフリカ!」とデュボイスが表現し、「吼えろ、中国!」とヒューズが表現したことは、それぞれ、ある民族とある国家にいる同一民族の共通の闘いに対応するものです。彼らが示した力と明るい見通しは今日まで響き渡っています。
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