2003年の米イラク侵攻を止めようとした経過とそれが失敗した理由
<記事原文 寺島先生推薦>
How I tried to prevent the 2003 US invasion of Iraq, and why I failed
筆者:スコット・リッター(Scott Ritter)

スコット・リッター元米海兵隊情報将校。著書に『ペレストロイカの時代の軍縮。Arms Control and the End of the Soviet Union(ペレストロイカの時代の軍縮:軍備管理とソ連の終焉)」の著者である。ソ連ではINF条約を実施する査察官として、湾岸戦争ではシュワルツコフ将軍のスタッフとして、1991年から1998年までは国連兵器査察官として勤務した。
@RealScottRitter@ScottRitter
出典:RT
2023年1月28日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>
2023年3月12日

2003年3月18日、クウェートとイラクの国境付近での軍事攻撃に備えて、3-7歩兵に所属する米陸軍第11工兵が所定の位置に移動する。© Scott Nelson / Getty Images
どんな真実も、大統領の嘘を燃料とする世界で最も強力な戦争マシンを止めることはできない。
憲法に定められた厳粛な義務の締めとして、2003年1月28日、第43代アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュは、合衆国議会の議場の壇上に立ち、アメリカ国民に語りかけた。
「議長、チェイニー副大統領、連邦議会議員、著名な市民、そして同胞の皆さん、毎年、法律と慣習により、我々はここに集まり、一般教書を検討することになっています。今年は、」と大統領は口火を切った。「私たちはこの議場に、これから待ち受ける決定的な日々を深く意識しながら集っています」と、重々しく宣言した。ブッシュが語った「決定的な日々」とは、イラクの指導者サダム・フセインを権力から排除する目的で、国際法に違反してイラクに侵攻するという、ブッシュがすでに下した決断のことである。
43代大統領ブッシュの父、41代大統領ブッシュ(ジョージ・H・W・ブッシュ)がサダム・フセインをアドルフ・ヒトラーと比較し、クウェート侵攻の罪に対してニュルンベルクのような裁きを要求して以来、政権交代は米国の対イラク政策の基本となってきたのである。「ヒトラーの再来だ」と父ブッシュはテキサス州ダラスで開かれた共和党の資金調達パーティーで観衆に語りかけた。「しかし、忘れてはなりません。ヒトラーの戦争が終結したら、ニュルンベルク裁判があったのです。」
アメリカの政治家、特に自国を戦争に駆り立てようとする大統領は、このような発言を簡単に撤回することはできない。1991年2月、イラク軍をクウェートから追い出した後も、ブッシュはサダム・フセインが権力を握っている限り、休むわけにはいかなかったのである。中東のアドルフ・ヒトラーは退場しなければならなかった。

関連記事:これが悪でなければ、悪という言葉は存在しなくなるだろう。この象徴的な演説により、米国は死と破壊の道へと舵を切った
第41代大統領ブッシュ政権は、国連が支援するイラク制裁を実施し、イラクの経済を疲弊させ、内部からの政権交代を促進することを目的としていた。この制裁は、長距離ミサイルや化学・生物・核兵器計画などの大量破壊兵器の武装解除をイラクに義務付けるものであった。イラクが国連の兵器査察団から武装解除を認定されるまでは、制裁は継続されることになっていた。しかし、ブッシュ政権のベーカー国務長官が明言したように、サダム・フセインが政権から追放されない限り、この制裁は決して解除されることはない。ベーカーは1991年5月20日、「サダム・フセインが権力を握っている限り、制裁の緩和を見ることに興味はない」と述べた。
制裁にもかかわらず、サダム・フセインは父ブッシュ政権より長生きした。ブッシュの後継者であるビル・クリントンは、イラクへの制裁政策を継続し、サダム・フセインを弱体化させるために、国連の武器査察と組み合わせた。1996年6月、クリントン政権は、国連の武器査察プロセスを隠れ蓑にして、サダムに対するクーデターを起こそうとした。この試みは失敗したが、政策は失敗ではなかった。1998年、クリントンはイラク解放法に署名し、イラクにおける政権交代を米国の公式政策とした。
サダムはクリントン政権よりも長生きした。2001年、父ブッシュの息子、ジョージ・W・ブッシュが大統領に選出されたとき、サダムの運命は決まったのだ。クリントンはサダム・フセインを政権から追い出すことはできなかったが、イラクの武装解除を監督する国連の査察活動を停止させることに成功し、米国はイラクが武装解除の義務を果たしていないと主張し続け、経済制裁の継続を正当化することができるようになった。
ここで問題は私個人に関わることになる。1991年から1998年まで、私はイラクで上級国連兵器査察官の1人として、イラクの武装解除を監督していた。1996年6月、CIAがサダムに対するクーデターを起こすために利用しようとしたのが私の査察団であり、私の査察団の活動にアメリカが干渉し続けたことが、1998年8月に私が国連を辞職するきっかけとなった。私が辞職した数ヵ月後、クリントン政権は国連兵器査察団をイラクから退去させ、空爆作戦「デザート・フォックス(砂漠のキツネ)」を開始した。

国連武器査察団の団長で元米海兵隊少佐のスコット・リッター(左から3番目)は、バグダッドの国連本部前で、チームのメンバーやイラク兵と歩く(1月13日)。© Karim Sahib / AFP
私は2003年に出版した著書『フロンティア・ジャスティス』の中で、「デザート・フォックス作戦で爆撃された目標のほとんどは、兵器製造とは何の関係もない」と書いている。「72時間の作戦の間に97の「戦略的」目標が攻撃され、86はサダム・フセインの身の安全に関わるものだけで、宮殿、軍の兵舎、警備施設、情報学校、そして司令部などだった。これらの拠点は、例外なくUNSCOM(国連大量破壊兵器破棄特別委員会)の査察官(そのほとんどは私が指揮を執っていた)の査察を受けており、その活動はよく知られており、UNSCOMとは無関係であることが証明されていた。」
私は最後に、「砂漠の狐作戦の目的は、これらの現場を知る者にとっては明らかだった。イラクの大量破壊兵器ではなく、サダム・フセインが標的だったのだ」と指摘した。この空爆の後、イラクは国連査察団を永久に追放した。
もちろん、これはずっとアメリカの目標だった。新政権が誕生し、アメリカは、イラクの大量破壊兵器開発状況の不透明さを、アメリカ国民、そして世界に対する影響力として利用し、サダム・フセインを権力から完全に排除するためにイラクへの侵攻を正当化しようとしていた。2002年の秋には、我が国が戦争に向かう国であることは明らかだった。
私はこれを個人的に受け止め、それを防ぐために行動を起こすことにした。私は議会に行き、上院情報委員会と外交委員会に、イラクに関する真っ当な公聴会を開かせようとした。しかし、彼らは拒否した。侵攻を阻止する唯一の方法は、査察官をイラクに戻し、イラクが戦争に値する脅威ではないことを証明することだった。しかし、イラク側はあまりにも多くの前提条件をつけてくるので、それが実現することはなかった。

関連記事:台湾での流血事件は、米国による決定事項にピッタリと適合している。
そこで私は、私人として介入することにした。南アフリカでサダムの顧問で元外相のタリク・アジズに会い、イラクの国民議会で、私の言葉を編集したり吟味したりすることなく、公に話す必要があると告げた。それが、査察団を復帰させる唯一の方法だった。アジズは最初、私のことを「正気じゃない」と言った。しかし、2日間の話し合いの末、彼は同意した。
私はイラク国民議会で演説した。それだけでも、人々は私の背信を非難した。私はイラク人を手加減せず、彼らが犯した罪の責任を追及したのに、だ。私は、イラクが侵略されようとしていることを警告し、査察団を戻すことが唯一の選択肢であると警告した。
それが放送されたことで、イラク政府は私に対応せざるを得なくなった。私は、副大統領、外務大臣、石油大臣、そして大統領の科学顧問と会談した。そして5日後、サダム・フセインを説得し、前提条件なしに兵器査察団をイラクに戻すことができた。私はこれを私の人生のハイライトのひとつに数えている。
しかし、残念なことにそうはならなかった。国連の査察団は戻ってきたが、その成果を否定しようとする米国によって、その活動はことごとく妨害されたのである。そして、2003年1月28日の運命の夜、大統領は、イラクと所在不明の大量破壊兵器がもたらす脅威を戦争の根拠として示すという使命を果たすために、一歩を踏み出した。
これは目新しい議論ではなかった。実際、1998年12月にアメリカが国連兵器査察団をイラクから撤退させて以来、私はこの種の議論を否定しようとしてきた。2000年6月には、上院外交委員会の重要メンバーであるジョン・ケリー上院議員(マサチューセッツ州選出)の要請で、私は自分の主張を文章にまとめ、Arms Control Today誌に長文の記事を掲載し、それを全議員に配布した。2001年、私はドキュメンタリー映画『In Shifting Sands』を制作し、イラクの大量破壊兵器に関する真実、その武装解除の状況、そして米国の戦争根拠の不十分さを米国民に訴えようとした。
それにもかかわらず、アメリカ大統領は、議会への報告という憲法上の義務を利用し、嘘の上に嘘を積み重ね、戦争賛成の意見を広めてしまったのである。
ブッシュは次のように宣言した:「ほぼ3カ月前、国連安全保障理事会はサダム・フセインに武装解除の最後のチャンスを与えた(注:これは私がイラクに国連の武器査察官の無条件帰還を認めるよう説得した後)。フセインは、武装解除などはせず、国連と世界の意見をまったく軽んじていることを示した」。 ブッシュは、イラクが国連の兵器査察団に協力しなかったことを指摘し、「イラクは、禁止された兵器をどこに隠しているかを正確に示し、それらの兵器を世界の人々に見えるように並べ、指示通りに破壊することが求められていた。このようなことは何も起こっていない」と述べた。

関連記事:20年前、米国は「悪の枢軸」という新語を発明した。それ以来1番邪悪な国とはどこだろう?
イラクは大量破壊兵器は残っていないと宣言していたため、存在しない兵器をどこに隠しているのか、誰にも示すことができない状態だった。実際、国連の兵器査察団は、イラク政府と完全に協力し、イラクが約束を履行していないと主張する米国が提供した情報を否定していた。米国は、1991年5月にベーカーが「サダム・フセインが政権から退くまで制裁は解除しない」と宣言したことを原則に行動していたのだ。
大統領はさらに、未確認の炭疽菌とボツリヌス毒素の生物学的製剤について、具体的な主張を展開した。また、化学兵器であるサリン、マスタード、VXについても同様の主張をしている。「国際原子力機関(IAEA)は1990年代、サダム・フセインが高度な核兵器開発計画を持ち、核兵器の設計図を持ち、爆弾用のウランを濃縮する5種類の方法に取り組んでいたことを確認した」と大統領は述べた。
これはほんとうだ。私は、イラクの核兵器開発を追跡する中心的な役割を担っていた査察官の一人である。しかし、大統領はさらに16の単語からなる次の言葉を発し、それは恥ずべき言葉として後々まで語り継がれることになる:
「英国政府が得た情報によると、サダム・フセインは最近、アフリカから大量のウランを調達した」。
CIAのジョージ・テネット長官は、後に議会で「この16の言葉は、大統領のために書かれた文章に含まれるべきではなかった」と認めざるを得なくなった。テネットが後に述べたように、英国諜報機関の存在に関する主張は正しかったが、CIA自身はこの報告書を信頼していなかった。「これ(英国発の情報の存在)は、大統領演説に求められるべき確実性のレベルには達していなかった。CIAはこれを確実に削除すべきだった 」テネットは述べている。

2003年1月28日、ワシントンDCの連邦議会議事堂で、連邦議会合同会議で一般教書演説を行うジョージ・W・ブッシュ米大統領。© Tim Sloan / AFP
事実として、ブッシュ大統領がイラクについて語ったことはすべて嘘であり、CIAは大統領がその嘘を広めるのを助けることに加担していた。この嘘の唯一の目的は、イラク、特にその指導者であるサダム・フセインが戦争に値する脅威であるという恐怖を議会とアメリカ国民に植え付けることだった。
ブッシュは、「サダム・フセインは、大量破壊兵器を製造し、保持するために、毎年、あの手この手を使い、巨額の費用をかけ、大きな危険を冒してきました」と強調する。しかし、なぜなのか?ブッシュは自分の質問に答える形で、「大量破壊兵器の用途は、支配、威嚇、あるいは攻撃しか考えられません」と言った。
核兵器や化学・生物兵器があれば、サダム・フセインは中東での征服の野望を再開し、同地域に致命的な大混乱をもたらすことができるでしょう。
そして、この議会と米国民は、もう一つの脅威を認識しなければなりません。情報源からの証拠、秘密の通信、現在拘束されている人物の供述から、サダム・フセインがアルカイダのメンバーを含むテロリストを援助し保護していることが明らかになりました。密かに、指紋もなく、彼はテロリストに自分の隠し持つ兵器の一つを提供したり、彼らが自分たちの兵器を開発するのを手伝ったりすることができるでしょう。
9月11日以前、世界の多くの人々はサダム・フセインを封じ込めることができると信じていました。しかし、化学物質、致死性のウイルス、そして影のテロネットワークは簡単に封じ込めることはできません。
あの19人のハイジャック犯が、今度はサダム・フセインによって武装され、別の武器と別の計画を持っていると想像してください。1本の小瓶、1つの容器、1つの木箱がこの国に持ち込まれただけで、これまでにない恐怖の日がやってくるのです。
そんな日が来ないように、私たちは全力を尽くします。」
そして大統領は、イラクに関するプレゼンテーションの核心に触れた。「米国は、2月5日(2003年)に国連安全保障理事会を招集し、イラクが世界に反抗し続けている事実を検討するよう要請する予定です。パウエル国務長官は、イラクの違法な兵器開発計画、査察団からそれらの兵器を隠そうとする試み、テロ集団とのつながりに関する伝聞と情報を発表するでしょう。」
大統領はカメラを正面から見据え、アメリカ国民に直接語りかけた。「私たちは協議します。しかし、誤解のないようにしてほしいのです。もしサダム・フセインが国民の安全、そして世界の平和のために完全武装解除しないのであれば、私たちは連合軍を率いて武装解除に向かうでしょう」。
テレビ画面を見つめ直した。胃がむかついた。大統領の演説は嘘で構成されていた。すべてが嘘だ。
私は、この嘘を覆すためにあらゆるエネルギーを費やしてきたが、無駄だった。私の国は、私には嘘だとわかっている言葉によって戦争に突入しようとしていたのである。
How I tried to prevent the 2003 US invasion of Iraq, and why I failed
筆者:スコット・リッター(Scott Ritter)

スコット・リッター元米海兵隊情報将校。著書に『ペレストロイカの時代の軍縮。Arms Control and the End of the Soviet Union(ペレストロイカの時代の軍縮:軍備管理とソ連の終焉)」の著者である。ソ連ではINF条約を実施する査察官として、湾岸戦争ではシュワルツコフ将軍のスタッフとして、1991年から1998年までは国連兵器査察官として勤務した。
@RealScottRitter@ScottRitter
出典:RT
2023年1月28日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>
2023年3月12日

2003年3月18日、クウェートとイラクの国境付近での軍事攻撃に備えて、3-7歩兵に所属する米陸軍第11工兵が所定の位置に移動する。© Scott Nelson / Getty Images
どんな真実も、大統領の嘘を燃料とする世界で最も強力な戦争マシンを止めることはできない。
憲法に定められた厳粛な義務の締めとして、2003年1月28日、第43代アメリカ合衆国大統領ジョージ・W・ブッシュは、合衆国議会の議場の壇上に立ち、アメリカ国民に語りかけた。
「議長、チェイニー副大統領、連邦議会議員、著名な市民、そして同胞の皆さん、毎年、法律と慣習により、我々はここに集まり、一般教書を検討することになっています。今年は、」と大統領は口火を切った。「私たちはこの議場に、これから待ち受ける決定的な日々を深く意識しながら集っています」と、重々しく宣言した。ブッシュが語った「決定的な日々」とは、イラクの指導者サダム・フセインを権力から排除する目的で、国際法に違反してイラクに侵攻するという、ブッシュがすでに下した決断のことである。
43代大統領ブッシュの父、41代大統領ブッシュ(ジョージ・H・W・ブッシュ)がサダム・フセインをアドルフ・ヒトラーと比較し、クウェート侵攻の罪に対してニュルンベルクのような裁きを要求して以来、政権交代は米国の対イラク政策の基本となってきたのである。「ヒトラーの再来だ」と父ブッシュはテキサス州ダラスで開かれた共和党の資金調達パーティーで観衆に語りかけた。「しかし、忘れてはなりません。ヒトラーの戦争が終結したら、ニュルンベルク裁判があったのです。」
アメリカの政治家、特に自国を戦争に駆り立てようとする大統領は、このような発言を簡単に撤回することはできない。1991年2月、イラク軍をクウェートから追い出した後も、ブッシュはサダム・フセインが権力を握っている限り、休むわけにはいかなかったのである。中東のアドルフ・ヒトラーは退場しなければならなかった。

関連記事:これが悪でなければ、悪という言葉は存在しなくなるだろう。この象徴的な演説により、米国は死と破壊の道へと舵を切った
第41代大統領ブッシュ政権は、国連が支援するイラク制裁を実施し、イラクの経済を疲弊させ、内部からの政権交代を促進することを目的としていた。この制裁は、長距離ミサイルや化学・生物・核兵器計画などの大量破壊兵器の武装解除をイラクに義務付けるものであった。イラクが国連の兵器査察団から武装解除を認定されるまでは、制裁は継続されることになっていた。しかし、ブッシュ政権のベーカー国務長官が明言したように、サダム・フセインが政権から追放されない限り、この制裁は決して解除されることはない。ベーカーは1991年5月20日、「サダム・フセインが権力を握っている限り、制裁の緩和を見ることに興味はない」と述べた。
制裁にもかかわらず、サダム・フセインは父ブッシュ政権より長生きした。ブッシュの後継者であるビル・クリントンは、イラクへの制裁政策を継続し、サダム・フセインを弱体化させるために、国連の武器査察と組み合わせた。1996年6月、クリントン政権は、国連の武器査察プロセスを隠れ蓑にして、サダムに対するクーデターを起こそうとした。この試みは失敗したが、政策は失敗ではなかった。1998年、クリントンはイラク解放法に署名し、イラクにおける政権交代を米国の公式政策とした。
サダムはクリントン政権よりも長生きした。2001年、父ブッシュの息子、ジョージ・W・ブッシュが大統領に選出されたとき、サダムの運命は決まったのだ。クリントンはサダム・フセインを政権から追い出すことはできなかったが、イラクの武装解除を監督する国連の査察活動を停止させることに成功し、米国はイラクが武装解除の義務を果たしていないと主張し続け、経済制裁の継続を正当化することができるようになった。
ここで問題は私個人に関わることになる。1991年から1998年まで、私はイラクで上級国連兵器査察官の1人として、イラクの武装解除を監督していた。1996年6月、CIAがサダムに対するクーデターを起こすために利用しようとしたのが私の査察団であり、私の査察団の活動にアメリカが干渉し続けたことが、1998年8月に私が国連を辞職するきっかけとなった。私が辞職した数ヵ月後、クリントン政権は国連兵器査察団をイラクから退去させ、空爆作戦「デザート・フォックス(砂漠のキツネ)」を開始した。

国連武器査察団の団長で元米海兵隊少佐のスコット・リッター(左から3番目)は、バグダッドの国連本部前で、チームのメンバーやイラク兵と歩く(1月13日)。© Karim Sahib / AFP
私は2003年に出版した著書『フロンティア・ジャスティス』の中で、「デザート・フォックス作戦で爆撃された目標のほとんどは、兵器製造とは何の関係もない」と書いている。「72時間の作戦の間に97の「戦略的」目標が攻撃され、86はサダム・フセインの身の安全に関わるものだけで、宮殿、軍の兵舎、警備施設、情報学校、そして司令部などだった。これらの拠点は、例外なくUNSCOM(国連大量破壊兵器破棄特別委員会)の査察官(そのほとんどは私が指揮を執っていた)の査察を受けており、その活動はよく知られており、UNSCOMとは無関係であることが証明されていた。」
私は最後に、「砂漠の狐作戦の目的は、これらの現場を知る者にとっては明らかだった。イラクの大量破壊兵器ではなく、サダム・フセインが標的だったのだ」と指摘した。この空爆の後、イラクは国連査察団を永久に追放した。
もちろん、これはずっとアメリカの目標だった。新政権が誕生し、アメリカは、イラクの大量破壊兵器開発状況の不透明さを、アメリカ国民、そして世界に対する影響力として利用し、サダム・フセインを権力から完全に排除するためにイラクへの侵攻を正当化しようとしていた。2002年の秋には、我が国が戦争に向かう国であることは明らかだった。
私はこれを個人的に受け止め、それを防ぐために行動を起こすことにした。私は議会に行き、上院情報委員会と外交委員会に、イラクに関する真っ当な公聴会を開かせようとした。しかし、彼らは拒否した。侵攻を阻止する唯一の方法は、査察官をイラクに戻し、イラクが戦争に値する脅威ではないことを証明することだった。しかし、イラク側はあまりにも多くの前提条件をつけてくるので、それが実現することはなかった。

関連記事:台湾での流血事件は、米国による決定事項にピッタリと適合している。
そこで私は、私人として介入することにした。南アフリカでサダムの顧問で元外相のタリク・アジズに会い、イラクの国民議会で、私の言葉を編集したり吟味したりすることなく、公に話す必要があると告げた。それが、査察団を復帰させる唯一の方法だった。アジズは最初、私のことを「正気じゃない」と言った。しかし、2日間の話し合いの末、彼は同意した。
私はイラク国民議会で演説した。それだけでも、人々は私の背信を非難した。私はイラク人を手加減せず、彼らが犯した罪の責任を追及したのに、だ。私は、イラクが侵略されようとしていることを警告し、査察団を戻すことが唯一の選択肢であると警告した。
それが放送されたことで、イラク政府は私に対応せざるを得なくなった。私は、副大統領、外務大臣、石油大臣、そして大統領の科学顧問と会談した。そして5日後、サダム・フセインを説得し、前提条件なしに兵器査察団をイラクに戻すことができた。私はこれを私の人生のハイライトのひとつに数えている。
しかし、残念なことにそうはならなかった。国連の査察団は戻ってきたが、その成果を否定しようとする米国によって、その活動はことごとく妨害されたのである。そして、2003年1月28日の運命の夜、大統領は、イラクと所在不明の大量破壊兵器がもたらす脅威を戦争の根拠として示すという使命を果たすために、一歩を踏み出した。
これは目新しい議論ではなかった。実際、1998年12月にアメリカが国連兵器査察団をイラクから撤退させて以来、私はこの種の議論を否定しようとしてきた。2000年6月には、上院外交委員会の重要メンバーであるジョン・ケリー上院議員(マサチューセッツ州選出)の要請で、私は自分の主張を文章にまとめ、Arms Control Today誌に長文の記事を掲載し、それを全議員に配布した。2001年、私はドキュメンタリー映画『In Shifting Sands』を制作し、イラクの大量破壊兵器に関する真実、その武装解除の状況、そして米国の戦争根拠の不十分さを米国民に訴えようとした。
それにもかかわらず、アメリカ大統領は、議会への報告という憲法上の義務を利用し、嘘の上に嘘を積み重ね、戦争賛成の意見を広めてしまったのである。
ブッシュは次のように宣言した:「ほぼ3カ月前、国連安全保障理事会はサダム・フセインに武装解除の最後のチャンスを与えた(注:これは私がイラクに国連の武器査察官の無条件帰還を認めるよう説得した後)。フセインは、武装解除などはせず、国連と世界の意見をまったく軽んじていることを示した」。 ブッシュは、イラクが国連の兵器査察団に協力しなかったことを指摘し、「イラクは、禁止された兵器をどこに隠しているかを正確に示し、それらの兵器を世界の人々に見えるように並べ、指示通りに破壊することが求められていた。このようなことは何も起こっていない」と述べた。

関連記事:20年前、米国は「悪の枢軸」という新語を発明した。それ以来1番邪悪な国とはどこだろう?
イラクは大量破壊兵器は残っていないと宣言していたため、存在しない兵器をどこに隠しているのか、誰にも示すことができない状態だった。実際、国連の兵器査察団は、イラク政府と完全に協力し、イラクが約束を履行していないと主張する米国が提供した情報を否定していた。米国は、1991年5月にベーカーが「サダム・フセインが政権から退くまで制裁は解除しない」と宣言したことを原則に行動していたのだ。
大統領はさらに、未確認の炭疽菌とボツリヌス毒素の生物学的製剤について、具体的な主張を展開した。また、化学兵器であるサリン、マスタード、VXについても同様の主張をしている。「国際原子力機関(IAEA)は1990年代、サダム・フセインが高度な核兵器開発計画を持ち、核兵器の設計図を持ち、爆弾用のウランを濃縮する5種類の方法に取り組んでいたことを確認した」と大統領は述べた。
これはほんとうだ。私は、イラクの核兵器開発を追跡する中心的な役割を担っていた査察官の一人である。しかし、大統領はさらに16の単語からなる次の言葉を発し、それは恥ずべき言葉として後々まで語り継がれることになる:
「英国政府が得た情報によると、サダム・フセインは最近、アフリカから大量のウランを調達した」。
CIAのジョージ・テネット長官は、後に議会で「この16の言葉は、大統領のために書かれた文章に含まれるべきではなかった」と認めざるを得なくなった。テネットが後に述べたように、英国諜報機関の存在に関する主張は正しかったが、CIA自身はこの報告書を信頼していなかった。「これ(英国発の情報の存在)は、大統領演説に求められるべき確実性のレベルには達していなかった。CIAはこれを確実に削除すべきだった 」テネットは述べている。

2003年1月28日、ワシントンDCの連邦議会議事堂で、連邦議会合同会議で一般教書演説を行うジョージ・W・ブッシュ米大統領。© Tim Sloan / AFP
事実として、ブッシュ大統領がイラクについて語ったことはすべて嘘であり、CIAは大統領がその嘘を広めるのを助けることに加担していた。この嘘の唯一の目的は、イラク、特にその指導者であるサダム・フセインが戦争に値する脅威であるという恐怖を議会とアメリカ国民に植え付けることだった。
ブッシュは、「サダム・フセインは、大量破壊兵器を製造し、保持するために、毎年、あの手この手を使い、巨額の費用をかけ、大きな危険を冒してきました」と強調する。しかし、なぜなのか?ブッシュは自分の質問に答える形で、「大量破壊兵器の用途は、支配、威嚇、あるいは攻撃しか考えられません」と言った。
核兵器や化学・生物兵器があれば、サダム・フセインは中東での征服の野望を再開し、同地域に致命的な大混乱をもたらすことができるでしょう。
そして、この議会と米国民は、もう一つの脅威を認識しなければなりません。情報源からの証拠、秘密の通信、現在拘束されている人物の供述から、サダム・フセインがアルカイダのメンバーを含むテロリストを援助し保護していることが明らかになりました。密かに、指紋もなく、彼はテロリストに自分の隠し持つ兵器の一つを提供したり、彼らが自分たちの兵器を開発するのを手伝ったりすることができるでしょう。
9月11日以前、世界の多くの人々はサダム・フセインを封じ込めることができると信じていました。しかし、化学物質、致死性のウイルス、そして影のテロネットワークは簡単に封じ込めることはできません。
あの19人のハイジャック犯が、今度はサダム・フセインによって武装され、別の武器と別の計画を持っていると想像してください。1本の小瓶、1つの容器、1つの木箱がこの国に持ち込まれただけで、これまでにない恐怖の日がやってくるのです。
そんな日が来ないように、私たちは全力を尽くします。」
そして大統領は、イラクに関するプレゼンテーションの核心に触れた。「米国は、2月5日(2003年)に国連安全保障理事会を招集し、イラクが世界に反抗し続けている事実を検討するよう要請する予定です。パウエル国務長官は、イラクの違法な兵器開発計画、査察団からそれらの兵器を隠そうとする試み、テロ集団とのつながりに関する伝聞と情報を発表するでしょう。」
大統領はカメラを正面から見据え、アメリカ国民に直接語りかけた。「私たちは協議します。しかし、誤解のないようにしてほしいのです。もしサダム・フセインが国民の安全、そして世界の平和のために完全武装解除しないのであれば、私たちは連合軍を率いて武装解除に向かうでしょう」。
テレビ画面を見つめ直した。胃がむかついた。大統領の演説は嘘で構成されていた。すべてが嘘だ。
私は、この嘘を覆すためにあらゆるエネルギーを費やしてきたが、無駄だった。私の国は、私には嘘だとわかっている言葉によって戦争に突入しようとしていたのである。
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