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日本は、米国の「アジア基軸」に追従して自らの首を絞めるのか?

<記事原文 寺島先生推薦>

Is Japan Willing to Cut Its Own Throat in Sacrifice to the U.S. Pivot to Asia?

筆者:シンシア・チャン(Cynthia Chung)

出典:Strategic Culture

2023年2月3日

<翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>

2023年3月4日

日本経済


日本経済に、ごく近い将来に待ち受けているものが何か、それを知るには、予言者や(占いの)水晶玉はいらない。日本は世界経済にとっての時限爆弾になっているのである。中国経済がこの先に終末を迎えるであろうという、いわゆる「専門家」による予言が10年近く続いており、この予言は経済分析というよりは希望的観測に近くなっている。

 この中国経済に関するメディアの轟音の中で聞こえないかもしれないが、日本経済には、そのごく近い将来に何が待ち受けているかを語るために預言者や(占いの)水晶玉は必要ない。つまり、日本が世界経済にとっての時限爆弾になっているということである。

 以下は日経アジア*の10月の報道だ。日本で「円安ドル高が進行し、1ドルが150円を超えるという32年ぶりの安値になったのは、日銀と米連邦準備制度理事会(FRB)の政策格差が拡大していることを受けてのことだ。・・・ 日銀は経済を支えるために金融超緩和策を続けているが、FRBはインフレに対処するために利上げを繰り返してきた。」
*日本経済新聞国際版。マルチデバイスメディア。

 「FRBのタカ派的な金融政策は、根強いインフレ予測に伴って、基準となる米国10年債の利回りを4%まで上昇させた。一方、日本銀行は10年もの国債利回りをゼロ近辺で維持し続けている。日本銀行は2日連続で国債買い入れオペを実施し、決められた範囲と目されている-0.25%から0.25%内に利回りを収めた。」

 「イールドギャップ(利回り差)が投資家に円ではなくドルでの投資を促し、日本の通貨に強い下落圧力を及ぼしている。」 (強調は筆者)

 これに対し、日本銀行(BOJ)は、「超低金利の金融政策」を維持することを決定し、黒田東彦総裁は、 「経済の下振れリスクを強調し、円安を容認する姿勢を示し」た。11月中旬には、インフレと円安が日本を襲い、日本経済が4半期ぶりに縮小したと報じられた。そして、「日本は極端な円高に苦しんだ歴史がある」と黒田は付け加え、たくましすぎる通貨よりも過度な円安の方が負担は軽いと述べた。

 11月中旬になると、日経アジアは 「日本銀行の超緩和政策でインフレ率が40年ぶりの高水準に迫っており」、10月の食品価格は前年比3.6%増と目標の2%を大きく上回ったと報じた。日銀の黒田総裁は、「日銀は金融緩和政策を持続させる意向だが、その目的は日本経済をしっかりと支え、それによって物価安定の目標である2%を持続的かつ安定的に達成することであり、その目的には賃上げも含まれている」と回答した。

 1月中旬までに日本は、2022年の年間貿易赤字が1550億米ドルとなり、過去最低を更新したと発表した。

グラフ


 これは日本経済にとって突然の結果ではなく、12年間かけてゆっくりと焦げ付いてきたものである。アレックス・クライナー(Alex Krainer)は次のように書いている。「その後12年間、これまで以上に大規模なQE(量的金融緩和政策)が数回行われたが、不均衡は悪化するばかりで、昨年2月には、日銀は「(ユーロを守るためには、)あらゆる措置を取る用意がある(all-that-it-takes)と語っていた元欧州中央銀行総裁のイタリアのマリオ・ドラギよろしく、日本国債を無制限に購入することを約束せざるを得なくなった。しかし同時に、日銀は国内の借入コストを膨らませないために10年もの国債の金利を0.25%に抑えた。 ... さて、暴走した政府債務をやりくりするために通貨を無限に生み出し、金利を市場レベル以下に抑えたら、確実に通貨は吹き飛ぶ。」

 この日本経済の展開と無関係ではないのが、この11月に東京で開催された「日米欧三極委員会」の50周年記念会議である。
三極委員会は、1973年のウォーターゲート事件と石油危機を契機に設立された。「民主主義の危機」に対処し、より「安定した」国際秩序と地域間の「協力」関係を形成するために、政治システムの再構築を呼びかけるという建前で結成されたのであった。

 アレックス・クライナーはこう書いている

 「委員会は1973年7月にデービッド・ロックフェラー、ズビグニュー・ブレジンスキー、アラン・グリーンスパン、ポール・ボルカーを含むアメリカやヨーロッパ、日本の、銀行家、公務員、学者のグループによって共同設立された。これは、今日の西側帝国の3ブロック構造を構成する国家間の緊密な協力を促進するために設立されたものである。その“緊密な協力”は、かつて繁栄していた大英帝国の手のものたちが策定した帝国の“3ブロック計画”のまさに基礎となるものであった。」

 その設立は、アメリカにおけるイギリスの手先である外交問題評議会(別名:イギリス王室の主要なシンクタンクである王立国際問題研究所を母体とする組織)によって組織されることになる。

 プロジェクト・デモクラシーは、1975年5月31日に京都で開催された三極委員会の会議「民主主義国家の統治能力に関する特別委員会」に端を発するものである。この事業は、三極委員会のズビグニュー・ブレジンスキー理事、ジェームス・シュレジンジャー(元CIA長官)、サミュエル・P・ハンティントンによって差配されていた。

 このプロジェクトは、「終わりの始まり」を告げるものであり、「社会の管理的な崩壊」を誘発するための「政策」、あるいはより適切な言い方をすればそのための「基本的な考え方(イデオロギイ)」を導入するものだった。

 しかし、この三極委員会の一部の参加者は、米国、西ヨーロッパ、日本による地域再編のための同盟(国際連盟のようなもの)の目的が、彼らが単純に考えていたものとは違うこと、つまり、競合する国々の経済の崩壊だけでなく、自分たちの国の経済(の崩壊)も含まれるということに気付き始めているようだ。

 つまり、競合する国々の経済だけでなく、自分たちの国の経済も含めて崩壊させるということ、そして最終的には、すべての人が新しい世界帝国のトップに跪き、従属することが期待されるのである。今回の三極委員会の出席者の一人は、「世界の重要な出来事はすべて三極委員会によって事前に決定されていると言う人もいる」と冗談を言い、ベテラン出席者の笑いを誘っていた。しかし、「我々は、誰がその決定過程に入っていて、その人たちが何を言っているかは分からない」とも語っていた。

 興味深いことに、日経アジア社から3名の記者が招待され、三極委員会50周年記念の会合に初めて報道陣の立ち入りが許可された。会議は、ラーム・エマヌエル駐日米国大使のスピーチから始まった。タイトルは、「民主主義 対 独裁主義: あなたは2022年を民主主義の成功の転換点として見ることになる」というものだった。

 興味深いことに、アジア諸国の代表者たちは、あまりよい印象をもたなかったようだ。

日経アジアは報じた「...報道関係者は、アジアと組織のその他の勢力の間に生じているかもしれない軋轢を強調するために招待されたのだ。『アジア、特に中国に対する米国の政策は、狭量で頑なな精神を持っていると感じている。私達はアメリカの人々にアジアには様々な見方があることを分かって欲しい」 と三極委員会の代表理事である池田祐久氏は述べた。池田氏は次期アジア太平洋グループ局長に指名され、来春に就任する予定である。

 ...アジア太平洋グループからは、今、新たな空気が生まれつつある。適切な舵取りをしなければ、米中対立は世界を危険な対立に導くかもしれない。」(強調は筆者)

 ラーム・エマヌエル駐日米国大使が、民主主義は 「ずさん」で 「厄介」だが、「民主的プロセスの制度や、米国・NATO・欧州諸国の政治的安定は保たれている」 と述べたことが引用された。

 しかし、エマヌエルの親米、親NATO、反中国という姿勢に異を唱える出席者も少なくなかった。「大使は何を言っているのだ」 と、日本の元官僚は非公式に語った。「中国を巻き込まなければならない。もしどちらかを選べと言われたら、東南アジアの国々は中国を選ぶだろう。重要なのは、無理に選ばせないことだ」と語った。

 日本の元財務官僚は、「今回の会議に中国の参加が全くないのを見ると、非常に恥ずかしいし、残念に思う」と述べた。フィリピンからのベテランの参加者も「アジア最大の国の参加なしにアジアを語る意味はない」と同意し、世界を2つの陣営に分けることに懸念を表明した。「2頭のゾウが戦えば、アリが踏みつぶされる。そして、私たちはそれを実感している。2頭のゾウが死ぬまで戦うと、私たちは皆死んでしまう。そして、問題は、何のために戦うのか?ということである。」(強調は筆者)

 韓国のある教授は、質疑応答の時間にエマヌエルに対し、米国の対中外交におけるゼロサム思考*について、アジアでは懸念があると述べた。「我々は、志を同じくしない国々を説得し、巻き込むために、何らかの実現可能な戦略を練らなければならない」 と。
*一方が利益を得たならば、もう一方は同じだけの損をし、全体としてはプラスマイナスゼロになることをいう。


 日経アジアはまた以下のように報じている。「ワシントンが提唱する自由主義的な国際秩序が、第二次世界大戦後に形成された本来の自由主義的な秩序といかに異なるかを指摘する参加者もいた。米国が主導した本来の秩序は、民主主義圏の多国間機関と自由貿易に基づく多面的で広範な国際システムを求めていた」と韓国の学者が述べている。「北朝鮮の核兵器に関する6者協議は、そのような本来の秩序の一例であり、米国、中国、ロシアがテーブルについたと、その学者は述べている。」(強調は筆者)

 日経アジアは、三極委員会のベテランである元フィリピン閣僚が、ポーランドでのミサイル爆発について、「この1週間で、我々は核紛争へと舵を切った」と述べたことを最後に紹介している。なおこのミサイル爆発は、当初ロシア製のミサイルだと考えられていたが、ウクライナの対空ミサイルがNATO加盟国領内に、「誤って」着弾したものである可能性の方が高いことが後にわかっている。「そしてその方向へと舵が切られたのは、我々年長者がゼロサムゲームのような馬鹿げたゲームに興じているからだ。自分たちの未来はこれでいいのか? 皆が崖に追いやられているのに、強硬な姿勢を取って、ゼロサムゲームのせいでこの星が消滅の危機にあることに気づいていない。こんな未来予想図を誰が望むというのか? 気候変動の話どころではないのだ」 とこのベテランの参加者は語っている。

 「民主主義の危機」に対する日本の 「ショック療法」

 三極委員会は非政府組織であり、そのメンバーには世界各地の選挙で選ばれた者、選ばれていない者が含まれ、皮肉にも最も非民主的な方法で選ばれたそんな人々が集まって、「民主主義の危機」に対処する方法を議論している。つまりこの委員会は、国民が誰を政治家に選んだかなど考慮しない、メンバーの「利益」を守るための組織である。

 1978年11月9日、三極委員会のメンバーであるポール・ボルカー(1979年から1987年まで連邦準備制度理事会議長)は、イギリスのウォーリック大学での講演で次のように断言することになる。「世界経済の統制された崩壊は、1980年代の正当な目的である」。これは、ミルトン・フリードマンの「ショック療法」を形づくった基本的考え方(イデオロギー)でもある。ジミー・カーター政権の頃には、政府の大部分が三極委員会のメンバーによって運営されていた。

 1975年、外交問題評議会(CFR)は「1980年代の事業」と題する世界政策の公開研究を開始した。そのテーマは、世界経済の「制御された崩壊」であり、その政策が世界のほとんどの人々にもたらす飢餓、社会的混乱、死を隠そうとしもなかった。

 その内容は、世界の金融・経済システムの全面的な見直しが必要であり、エネルギー、信用供与、食糧などの主要部門は、単一の世界政府の管理下に置かれるというものであった。この再編成の目的は、主権国家を廃することである(国際連盟モデルを使用)。

 このショック療法は、リチャード・ヴェルナーの著書を基にしたドキュメンタリー映画『円の王子たち(Princes of Yen)』で紹介されているように、過去40年間に日本経済に起こったことであり、まさに実証的なものである。ヴェルナーが示すように、日本経済は外国からの干渉を受ける前は世界でもトップクラスの経済実績を誇っていたにもかかわらず、大規模な構造改革を推進するために、80年代と90年代を通じて意図的に複数の経済危機を経験させられたのだ。

 ヴェルナーの言葉通り、危機を創造する最善の方法はバブルを作り出すことであり、そうすれば誰もそれを止めることはできない。

 この事がいかに重要であるかを理解するためには、40年以上にわたって日本経済に起こったことを簡単に振り返ってみる必要がある。

 「自由貿易」という祭壇の上で日本が神々に捧げたもの

 1980年代、日本は米国に次ぐ世界第2位の経済大国であり、米国を含む欧米向けの消費者向け技術製品の製造では指導者的存在であった。日本は自動化装置や製造工程への投資により、米国よりも早く、安く、品質も優れた製品を生産することができた。

 その一例が、メモリーチップ*のDRAM**市場における日米両国間の競争である。1985年、アメリカのコンピューター市場が不況に陥り、インテル社も10年来で最大の落ち込みを経験していた。1985年の不況は、需要の問題であり、競争の問題ではなかったにもかかわらず、アメリカのある方面から、日本は「略奪的」「不公正」な貿易慣行を行っていると批判されるようになった。
*データー保存のための集積回路
**「ディーラム」。 PCなどに使われる半導体の記憶装置


 そこで、自由市場主義を標榜するレーガン大統領は、1986年春、経済産業省との間で「日米半導体協定」を強行した。

 この協定の条件は、日本市場におけるアメリカの半導体シェアを5年後に20〜30%に引き上げること、すべての日本企業がアメリカ市場への「ダンピング(投げ売り)」をやめること、そしてアメリカ側は、これらすべてを実施するための別の監視機関を求めることであった。

 当然のことながら、日本企業はこの条件を拒否し、経済産業省も日本企業に、この条件を強制する術を持たなかった。

 レーガン大統領はこれに対し、1987年4月に3億ドル相当の日本製品に100%の関税を課した。日米半導体協定は、1985年のプラザ合意による円高と相まって、米国のメモリー・チップ市場に追い風となった。(米国が日本の半導体市場に干渉した経緯は、こちらを参照。)

 1985年、日本、ドイツ、フランス、イギリス、アメリカの5カ国で締結された「プラザ合意」。この協定は、アメリカの輸出競争力を高めるために、日本円とドイツマルクに対して米ドルを切り下げたものである。いかにも「自由市場」である。(ドゴールとアデナウアーが欧州通貨体制を作ろうとしたが、英米に妨害された話はこちらを参照。)プラザ合意から2年間で、ドルは円に対して51%も価値を失った。日本は、自国の商品に関税をかけられ、アメリカ市場から締め出されるのを避けるために、プラザ合意に参加したのである。

グラフ 2つ目


 円高は、日本の製造業を不況に陥れた。これを受けて、日銀は金融緩和を行い、金利を引き下げた。この安い金利は、生産にむけた努力に使われるはずであった。しかし、そのお金は株式や不動産、資産運用に使われた。このとき、日本の不動産と株式の価格はピークに達した。

 1985年から1989年にかけて、日本の株式価格は240%、地価は245%上昇した。80年代の終わりには、東京の中心部にある皇居の周りの庭園の価値は、カリフォルニア州全体と同じくらいになった。

 日本はアメリカの26分の1の面積しかないのに、土地の価値はその4倍もあった。東京23区のうち、千代田区の時価総額はカナダ全土を上回った。

 資産や株価がどんどん上がり、伝統的な製造業も株式相場の誘惑に抗えなかった。そのため、金融部門や財務部門を充実させ、自らも投機に手を染めるようになった。日産自動車など多くの大手メーカーは、自動車を製造するよりも投機的な投資で多くの利益を得るようになった。

 ドキュメンタリー映画『円の王子たち(Princes of Yen)』はこう説明している。「日本経済の好景気は、生産性の高さと上昇に原因があると多くの人が信じていた。だが実際には、1980年代の日本の輝かしい業績は、経営手法とはほとんど関係がない。窓口指導*は、信用を制限し誘導するために使われたのではなく、巨大なバブルを生み出すために使われた。銀行に貸し出しを大幅に増やさせたのは日銀だったのだ。日銀は、銀行が融資枠を満たすためには、非生産的な融資を拡大するしかないことを知っていたのだ」。
* 日本銀行が取引先金融機関の貸出しを,景気動向などそのときどきの金融情勢に応じて適正な規模にとどめるため,貸出し増加の枠を指示し,それを守らせるように指導すること。(コトバンク)

 1986年から1989年にかけて、福井俊彦は日本銀行の総務局長を務め、後に第29代日銀総裁に就任するが、総務局長は、窓口指導枠を担当する部署である。

 福井は、 ある記者から 「借入金がどんどん拡大しているが、銀行融資の蛇口を閉めるつもりはないのか?」と聞かれたとき、記者の質問に対してこう答えた。「金融緩和の一貫した政策が続いているので、銀行融資の量的統制は自己矛盾を引き起こすことになる。従って、量的引き締めは考えていない。経済の構造調整がかなり長期にわたって行われている中で、国際的な不均衡に対処している。それを支えるのが金融政策であり、金融緩和をできるだけ長く続ける責任がある。したがって、銀行融資が拡大するのは当然である。」

 日本では、民間の土地資産総額は1969年の14.2兆円から、1989年には2000兆円まで増加した。

 ドキュメンタリー映画『円の王子(Princes of Yen)』が伝えている。「1989年、第26代日銀総裁に就任した最初の記者会見で、三重野康は『これまでの金融緩和政策が地価上昇問題を引き起こしたので、今後は不動産関連の融資を制限する」と発言した』。三重野は、貧富の差を拡大させた原因であるこの愚かな金融政策に歯止めをかけた英雄として、マスコミでもてはやされた。しかし、三重野はバブル期の(日銀の)副総裁であり、バブルを作り出した張本人でもあった。

 突然、土地や資産価格が上がらなくなる。1990年だけで株式市場は32%下落した。そして、1991年7月、窓口指導が廃止された。銀行は、99兆円のバブル融資の大半が不調に終わることを知り、恐怖のあまり、投機筋への融資を止めるだけでなく、それ以外の人への融資も制限した。500万人以上の日本人が職を失い、他に職が見つからなくなった。20歳から44歳までの男性の死因の第1位は自殺であった。

 1990年から2003年の間に、21万2千社が倒産した。同期間に株式市場は80%下落した。大都市の地価は最大で84%下落した。一方、日本銀行の三重野総裁は、『この不況のおかげで、誰もが経済改革の必要性を意識するようになった』 と述べた。」

 1992年から2002年にかけて、146兆円規模の景気対策が10回行われた。政府支出によって内需を拡大し、その後、外需も拡大するという考え方であった。10年間、政府はこの方法を実行し、政府債務を歴史的なレベルまで増加させた。

 リチャード・ヴェルナーは「政府は右手で支出して経済に資金を投入したが、資金調達は債券市場を通じて行われたため、左手で同じ資金を経済から取り出していた」と述べている。「購買力の総量は増えず、だから政府の支出は影響を与えることができなかった」 。

 2011年には、日本の政府債務はGDPの230%に達し、世界一となる。財務省は万策尽きた。(日銀の怠慢が明らかであるにもかかわらず)評論家は、財務省に責任があるとする見方や、不況の原因は日本の経済体制にあるとする声に耳を傾けるようになった。

 日本では、当局と日銀は、ほぼその20年後に欧米列強がそうしたように、納税者がそのツケを払うべきであると主張した。しかし、納税者は銀行問題の責任を負っていない。したがって、そうした政策はモラルハザード*を引き起こした(ここで言うモラルハザードの意味は、経済主体がその危険の費用を全て負担しないために、危険にさらされる恐れが増大する状況のことである)。
*「倫理観が危ういこと」。倫理観の欠如や道徳的な節度がないこと。

 ドキュメンタリー映画『円の王子(Princes of Yen)』によると、塩川正十郎財務相は日本銀行に、デフレを食い止める、あるいは少なくともデフレと闘う手助けをしてほしいと頼んだという。ところが、日本銀行は、大蔵大臣や総理大臣が、景気を刺激して長い不況を終わらせるためにもっとお金を作れという政府の要請を一貫して無視し続けた。時には、日銀は経済界に流通するお金の量を積極的に減らし、それが不況を悪化させたことさえあった。日銀の主張は、いつも同じ結論、つまり日本の経済構造に原因があるというものであった。 

 また、あらゆる年代層の日本の経済学者が米国に派遣され、米国式経済学の博士号やMBA(経営学修士)を取得したことも特筆すべき点である。新古典派経済学は、株主と中央銀行が支配する完全な自由市場という一種類の経済システムしか想定していないため、多くの日本の経済学者はすぐに米国の経済学者の主張を繰り返すようになった。

 1990年代後半になると、日本経済は崖っぷちに立たされた。この時期に日米交渉の「交渉人」を務めたアイラ・シャピロは、「生命保険・損害保険の大企業と大蔵官僚の凝り固まった利益を克服するためには、まずは規制緩和が必要だ」と 述べている

 シャピロの連邦主義協会の経歴ページには、「北米自由貿易協定(NAFTA)や、多国間ウルグアイ・ラウンドの交渉と立法承認において中心的役割を担った。ウルグアイ・ランドは、世界貿易機関(WTO)と現在の貿易ルールを作り出した」 と記されている

 この日米協議は、米国が決めた期限までに合意に達する必要があった。もし、期限を過ぎても合意が得られない場合、米国は貿易制裁を科すと脅していた。

 リチャード・ヴェルナーは、シャピロの要求が日本側にどのような結果をもたらすかを 明らかにした。不動産の証券化は推進されているが、有意義な証券化を行うためには規制緩和が必要であり、規制緩和を行うためには大蔵省の権限を縮小しなければならない。そのためには大蔵省の力を削ぐ必要があり、そうすると大蔵省の管轄下にあった日銀が力を持つことになる。

 1990年代半ば以降、政府は大蔵省の権力構造の大部分を解体し始めた。一方、日本銀行は、その影響力を大きく拡大した。日銀は大蔵省から切り離され、ほぼ独立した存在となった。

 三重野康は、1994年に日銀総裁を退任した直後から、各種団体や利益団体で講演を行うなど、活動を開始した。日銀法を改正してほしい、と陳情した。大蔵省が日銀を間違った政策に走らせたということを、さりげなく指摘するのである 。このような問題を将来起こさないためには、日銀に完全な法的独立性を持たせる必要がある。

 1998年、金融政策は新たに独立した日本銀行の手に委ねられた。

 2001年初頭、新しいタイプの政治家が政権を握った。小泉純一郎が日本の首相になったのである。その人気と政策から、彼はしばしばマーガレット・サッチャーやロナルド・レーガンと比較される。彼のメッセージは、「構造改革なくして景気回復なし」である。

 ドキュメンタリー映画『円の王子(Princes of Yen)』はこう言った。2001年、日本では毎日のようにテレビで「構造改革なくして経済成長なし」というメッセージが流されていた。日本は米国型の市場経済に移行しつつあり、それは経済の中心が銀行から株式市場に移りつつあることも意味していた。預金者の資金を銀行からリスクの高い株式市場へと誘導するため、改革派は銀行預金の保証を取りやめる一方、株式投資に対する税制優遇措置を講じた。

 米国型の株主資本主義が浸透するにつれ、失業率は大幅に上昇し、所得と貧富の格差が拡大し、自殺や暴力犯罪も増加した。そして2002年、日銀は銀行のバランスシート(総資産)を悪化させる努力を強化し、銀行に債務者の差し押さえをさせた。竹中平蔵(新金融担当大臣)は、債務者の差し押さえを増やす日銀の計画を支持した。東京の有名な経済学者、森永卓郎は、日銀に刺激されて作った竹中の提案は多くのこれまでの国内の受益者ではなく、不良資産の買い取りにおいて主に米国のハゲタカ・ファンドが利益を得ることになると力説している。 福井俊彦が破綻処理案への支持を表明したとき、福井はウォール街の投資会社ゴールドマン・サックスの顧問であり、世界最大のハゲタカ・ファンドの運用者の一人であった。

 リチャード・ヴェルナーはこう 発言している。「福井俊彦(第29代日銀総裁)、その師匠の三重野(第26代日銀総裁)、その師匠の前川春男(第24代日銀総裁)、お察しの通り、この本に書かれている「円の王子様」たちです。彼らは80年代から90年代にかけて、『金融政策の目的は何か? それは経済構造を変えることだ』と公言してきた。では、どうすればいいのか?それには危機が必要です。経済構造を変えるために危機を作ったのです」。

 日銀の窓口指導枠を担当する部署は、銀行局と呼ばれていた。1986年から1989年まで、そのトップにいたのが福井俊彦である。つまり、福井はバブルを直接的に作り出したのである。福井は日銀総裁になった時、「高度成長モデルを壊しながら、新しい時代に合ったモデルを作っていく」と言っていた

 リチャード・ヴェルナーはこう述べた。「彼らはあらゆる面で成功した。彼らの目標のリストを見ると、大蔵省を破壊し、解体し、独立した監督機関を持ち、日銀法を改正して日銀自体の独立性を確保し、製造業からサービス業への移行、開放、規制緩和、自由化、民営化など、経済の深い構造変化を実現する。」とある。

[第2部では、タイガー・エコノミーのアジア危機、アメリカの2008年の経済崩壊、欧州債務危機の原因は何か、また、今日の世界経済と地政学的状況を形成する安倍晋三の暗殺との関連性について議論します。
 著者の連絡先は、https://cynthiachung.substack.com.]。
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