現在ウクライナ政府を実質支配している民族主義ファシスト集団の残忍な手口の伝統は、第二次世界大戦以前に遡る
ASSASSINATIONS, CIA, DEEP STATE, FASCISM, GERMANY, NATO, NAZIS, RUSSIA, TERRORISM, UKRAINE, USA
How Pre-WW II Ukrainian Fascists Pioneered Brutal Terror Techniques; Later Improved by CIA, Now Ironically Taught to Descendants
(第二次世界大戦前のウクライナ・ファシストたちが残虐なテロ技術を開発した方法;それをのちにCIAが改良、現在皮肉にもそれが末裔たちに教えられている。)
筆者:エヴァン・ライフ(Evan Reif)
出典:INTERNATIONALIST 360°
2022年6月10日
<記事翻訳 寺島メソッド翻訳グループ>
2022年7月23日

一堂に会するCIAの熱心な生徒たち―民間人を対象としたテロ技術の花形生徒たち:ソ連と戦うためにCIAにリクルートされたOUN(ウクライナ民族主義者組織)のパルチザン[出典: rbth.com]
「テロは自衛手段だけでなく、敵味方関係なく、望むと望まざるとに関わらず影響を与える運動形態となる。」
ーUVO(ファシスト・ウクライナ軍事組織)、1929年のパンフレット
ウクライナのファシズムと米国についての3部シリーズ、その第一部
ウクライナの歴史は長く、豊かである。黒土と豊かな海を持つウクライナの肥沃な土地は、何千年にもわたって激しい争奪戦が繰り広げられてきた。古代のスキタイ人、ルルキド人や初代皇帝となるヴァランギア人、モンゴル人、ヘトマン国、ウクライナSSRなど、歴史的背景なしに今日のウクライナの状況を真に理解することは不可能であろう。
ウクライナで生き、戦い、死んでいったすべての人々の中で、あるグループが今日の出来事にとって重要である点で際立っている。ウクライナ民族主義者組織(OUN)として知られるファシストのテロリスト、盗賊、協力者たちだ。
私は、ここでOUNの包括的な歴史を語ろうとは思っていない。私がしたいのは、過去のテロリストと現在のテロリストを直接結びつける一本の糸を引きだすことだ。そのためには、いくつかの背景が必要である。
初期:イエベーンとUVO
「テロは自衛手段だけでなく、敵味方関係なく、望むと望まざるとに関わらず影響を与える運動形態となる。」ーUVO(ファシスト・ウクライナ軍事組織)、1929年のパンフレット
元オーストリア・ハンガリー帝国陸軍中尉のイエベーン・コノヴァレッツ(Yevhen Konovalets)は、1929年にオーストリアのウィーンで、それまで所属していたウクライナ軍事組織(UVO)の残骸からOUNを設立した。UVOは、第一次世界大戦に参戦したオーストリア・ハンガリー帝国の右翼退役軍人が、戦間期初期に存在した短命のウクライナ人民共和国のために戦ったグループから1920年に生まれたもの。UVOは、当時ポーランドに占領されていたウクライナ西部で主に活動し、ポーランドとソビエトに対して大規模なテロ作戦を展開した。
ここで、公平を期すために、当時のポーランド政権は極右政権であり、不人気な土地改革法や言語法を次々と実施していたことに触れておく必要がある。とはいえ、それに対するUVOの大量虐殺的な反応は正当化できない。UVOは、兵士や警察に対してよりも罪のないポーランドの一般市民に対して攻撃し、殺害した。このグループは、数多くの爆弾テロや暗殺(未遂も成功も)を行い、1921年にはウクライナSSR(ソビエト社会主義共和国)に侵攻して、最終的に「解放のための襲撃」に失敗している。
同年、コノヴァレッツはドイツ情報部との公式な協力を開始し、ワイマール軍情報部の司令官フリードリッヒ・ゲンプ(Friedrich Gempp)と面会することになる。1921年から1928年にかけて、UVOはワイマール・ドイツから数百万マルクの援助を受けることになる。ポーランドとソビエト政府の圧力により、UVOの指導者はベルリンに移転させられ、ワイマール情報部はそこで訓練を開始することになった。ナチスが政権を握った後も、コノヴァレッツとアプヴェール*(Abwehr)は協力を続け、何も変わらなかった。
アプヴェール*・・・(ドイツ語: Abwehr、「防衛」「防諜の意)は、ドイツ軍において戦間期の1921年から第二次世界大戦末期の1944年5月まで存在した情報機関/諜報機関である。(ウイキペディア)
UVOは、テロリズムを彼らの闘争の不可欠な部分とみなしており、イワン・バビジ(Ivan Babij)のような穏健な民族主義者を、過激さが十分でないとして殺害したほどである。彼らは主に盗賊として活動し、その戦術を決して放棄することはなかった。例えば、1922年にUVOがポーランドの農場を襲ったのは約2,300件、ポーランドの軍や警察を襲ったのはわずか17件であった。UVOは、農場を襲撃して物資を調達し、所有者や労働者がいれば殺害し、収穫が終わると農作物を焼却するのである。その後、ポーランド人の財産を「収奪」するために飛行旅団が設立され、しばしば銀行強盗をして組織の資金を調達した。
UVOはその後も同じ路線で、テロ攻撃や盗賊襲撃を行い、さまざまな成功を収めた(ポーランド警察によって何度か掃討されそうになったこともあるが)が、1929年に5つのウクライナ民族主義団体が合併してOUNが設立された。
ステパン・バンデラ(Stepan Bandera)が実権を把握:OUN-Bとなった経緯
「OUNはメンバーの命を大切にします。しかし、私たちの理解の中にある目的は非常に壮大であり、その実現のためには、一個人ではなく、何百人もの犠牲者が犠牲にならなければならないのです。」-ステパン・バンデラ
合併後、コノヴァレッツは、より急進的な若いメンバーがOUNの手綱を取るようになり、衰退していくことになる。UVOは技術的には存続するが、その役割は新組織の中で大幅に減少した。その若い指導者の一人がステパン・バンデラであった。バンデラはリヴィウのカトリック司祭の息子で、OUNに移る前にプラスト運動(ファシストのスカウト集団)で少年時代を過ごしたことに端を発する、生涯を通じて長期間ファシストとして生きた人物であった。
バンデラは、1931年に宣伝部長、1933年には全国執行部長の地位に就き、急速に出世していくことになる。
バンデラは、献身的だが、精神を病んだファシストだった。若い頃から自分の体を痛めつけ、それで回復力を高めるようなことをしていた。そして狂信的で暴力的な反ユダヤ主義者、反共産主義者、反ハンガリー主義者、反ポーランド主義者だった。彼はまた、失地回復論者でもあったが、ウクライナ人が何世紀にもわたって保有していなかった土地さえも取り戻し、非ウクライナ人をすべて粛清しようとしていた。バンデラはすぐにOUNをさらに急進させ、彼には人の才能を見極める眼力が備わっていたので、OUNはより大きく、より効果的な組織へと成長した。1934年、OUN-Bはポーランド外相ブロニスワフ・ピエラツキ(Bronisław Pieracki)をピストルで至近距離から暗殺するという、これまでで最も大胆な攻撃を行った。
ポーランド当局は、バンデラを捕らえ、他のOUN指導者とともに死刑を宣告した。死刑は終身刑に減刑され、バンデラは1939年にナチスがポーランドに侵攻した際に釈放されるまで獄中に留まった。彼を釈放したのがナチス自身なのか、それともナチスの侵攻から逃れた仲間たちなのかは不明である。ナチスによってではないにせよ、ナチスのせいで釈放されたのだから、その区別は重要ではないと思う。
釈放後、ナチスはバルバロッサ作戦の準備を始め、バンデラとOUNはソ連への侵攻の主役となる。
ヒトラー、アップヴェール長官ヴィルヘルム・カナリス(Wilhelm Canaris)、ヴィルヘルム・カイテル(Wilhelm Keitel)、そしてアルフレート・ヨードル(Alfred Jodl)将軍を含むナチス上層部の指示により、アップヴェールは1940年からバンデラとOUNを積極的に起用することになる。この協力の目的は、ソビエトを攻撃することだけでなく、民間人に対する報復と残虐行為を実行するための残忍で効率的な部隊を持つことであった。
ニュルンベルク裁判でのエルヴィン・フォン・ラハウゼン(Erwin von Lahousen)将軍の証言から引用する。
「アーメン大佐:記録を完全に明確にするために、カイテル(Keitel)は、どのような措置がすでに合意されていると言ったのですか?
ラハウゼン:OKW*長官によれば、ワルシャワへの砲撃と、私が前に述べたような種類の人々の射殺は、すでに合意されていたそうです。
OKW*・・・国防軍最高司令部(こくぼうぐんさいこうしれいぶ、独: Oberkommando der Wehrmacht、略号:OKW、オーカーヴェー)は、国防軍最高司令官である大統領(総統)が国防大臣(英語版、ドイツ語版)に直接指揮を負託する従来の仕組みを廃し、最高司令官であるアドルフ・ヒトラー自らが国防軍を直接指揮するために1938年に創設された組織である。(ウイキペディア)
アーメン大佐:それはどんな人たちだったのですか?
ラハウゼン:主にポーランドの知識人、貴族、聖職者、そしてもちろんユダヤ人です。
アーメン大佐:ウクライナのグループと協力する可能性があったとすれば、それはどのようなものですか?
ラウゼン:カナリス(Canaris)はOKW長官から命令を受けています。OKW長官は、外相リッベントロップ(Ribbentrop)の政治的計画に関連して、どうやら彼から受け取ったらしい指令を伝えていると述べているのです。すなわち、ユダヤ人とポーランド人の絶滅を目的とした蜂起をガリシア地方のウクライナで扇動することがその内容です。
アーメン大佐:どの時点でヒトラーとヨードル(Jodl)はこの会合に参加しましたか?
ラハウゼン:ヒトラーとヨードルは、先に述べた議論の後か、あるいはこの問題の議論がすべて終わったころ、カナリスがすでに西側の状況、つまり西壁でのフランス軍の反応に関するニュースを報告し始めていたころに、入ってきました。
アーメン大佐:そしてその時どんな突っ込んだ議論がなされましたか?
ラハウゼン:OKW長官の専用車でのこの議論の後、カナリスは馬車を降りてリッベントロップと再び短い話をしました。リッベントロップはウクライナの話に戻って、蜂起を演出してポーランド人のすべての農場と住居を炎上させ、すべてのユダヤ人を殺害すべきだと再び告げました。
アーメン大佐:それを言ったのは誰ですか?
ラハウゼン:当時の外務大臣だったリッペンドルフがそれをカナリスに言いました。私は彼の隣に立っていました。
アーメン大佐:そのことについてあなたは一片の疑いもないのですか?
ラハウゼン:ありません。そのことについての疑念は一切ありません。特に鮮明に覚えているのは、「農家も住居も全部燃えてしまえ」という、ちょっと新しい表現です。それまでは「清算」「排除」という言葉しかありませんでした。
アプヴェールの大佐エルヴィン・シュトルツ( Erwin Stolz)は、ラハウゼンが誰のことを言っているのか明らかにすることになるだろう:
「私は、上記のカイテルとヨードルの指示を実行する際に、ドイツ情報局に所属するウクライナ人国家社会主義者やその他の民族主義ファシスト集団のメンバーと接触し、彼らが上記のような任務を遂行するように働きかけました。
特に、ウクライナ民族主義者の指導者であるメルニク(コードネーム「領事I」)とバンデラには、私が個人的に指示を出し、ドイツのソ連に対する攻撃を受けて直ちに組織し、ソ連軍の背後を混乱させ、さらにソ連後方の崩壊の疑いを国際世論に納得させるために、ウクライナでデモを引き起こすよう求めた。
また、ソ連のバルト共和国での破壊活動のために、アプヴェール IIによる特別な陽動部隊を用意しました。」
ナチスとの協力には異存はなかったが、その後の対応については、OUNの中でも意見が大きく分かれた。この時のOUNのリーダー、アンドリー・メルニク(Andriy Melnyk)は、よりナチスに従属した穏健な姿勢をとっていた。
バンデラは、革命的な姿勢とウクライナの独立宣言を支持し、これに反対した。この意見の相違は激しい分裂に発展し、バンデラは最も急進的なメンバーを引き連れてOUN-Bを結成した。メルニクのグループは、分裂とバンデラからの攻撃により、あっという間に追い抜かれてしまった。OUN-Mは戦争を生き延びたが、これ以降、バンデラがウクライナのファシスト運動を支配し、反対意見はほとんど出なかった。
やがて、アプヴェールとの協力関係は恐ろしい結末を迎えることになる。アプヴェールのコマンド大隊「ブランデンブルク」の庇護のもと、OUNの指揮のもと、「ローランド」と「ナイチンゲール」という2つのOUN部隊が結成された。後者は悪名高いローマン・シュケビッチ(Roman Shukhevych)の指揮下にあり、後にOUNの最悪の残虐行為を計画することになる大量殺人者であった。その他、ドイツ国防軍とゲシュタポの部隊に所属するOUN部隊もあり、主に通訳やガイドとして活躍していた。ナイチンゲールとローランドは、ナチス軍とともに、1941年に血生臭い任務を遂行するためにリヴィウに送られた。
血塗られたナイチンゲール
「我々はUPA(ウクライナ蜂起軍)の兵士であり、特に地下の戦闘員であり、残忍な力との戦いで遅かれ早かれ死ななければならないことは承知している。しかし、私は保証します、私たちは死ぬことを恐れません、なぜなら私たちが死ぬとき、私たちはウクライナの土地の肥料になることを意識するからです。この土地には多くの肥料が必要だ。将来、この土地で新しいウクライナ人の世代が育ち、我々が完成させる運命になかったものを完成させることができるのだ。」
– ローマン・シュヘビチ(Roman Shukhevych)
1943年まで、リヴィウ(Lviv)は1300年代からポーランドやオーストリアの支配下にあった。リヴィウは約50万人の都市で、半数以上がポーランド系カトリック教徒、10~16万人のユダヤ系少数民族、そのうちの数万人はナチス占領下のヨーロッパからの難民であった。ウクライナ人は2割程度であった。OUNは、ほとんど時間をかけずにこの状況を変えた。
OUN軍は、ユダヤ人、ポーランド人、ロシア人を絶滅させるという具体的な命令を持ってこの街に入り、その任務は見事に遂行されることになった。6月30日の深夜、通訳が最初の犠牲者となった。彼らは、リヴィウ陥落後最初の大虐殺という不名誉な栄誉を手にしたのである。つまり、反ナチス派のポーランド人教授たちを誘拐し、拷問し、殺害したのである。
OUNが作成していた射撃対象者リストから、ナチスとウクライナ軍は教授とその家族を逮捕し、何時間も寮に拘束して拷問を加えた。一人を除いて全員が処刑され、死後、彼らのアパートはSSとOUNの将校に略奪され、占拠された。
ナイチンゲールも負けじ、とすぐに仕事に取り掛かった。1941年6月30日からリヴィウで起こったことは、一つの大虐殺として理解するのではなく、一ヶ月以上にわたる一連の虐殺として理解する必要がある。ナイチンゲールは、リヴィウに最初に入った2つの部隊のうちの1つであった。ナチスの精鋭山岳部隊を従えたナイチンゲールは、丘の上の城を占領して本部を設置し、地元のユダヤ人を検挙し始め、最初は通りから死体や爆弾の被害を強制的に片づけさせた。ユダヤ人の家屋や財産に対する無差別殺人と略奪が行われたのは、この作業が行われた最初の夜だった。
朝には、OUNの潜入者、脱走者、シンパが動員され、ナチスとともにユダヤ人に対する組織的暴力が開始された。攻撃の前の数日間、OUNの宣伝ビラがリヴィウで広範囲にまかれ、住民に伝えた:
「まだ武器を捨ててはいけない。それを手に取るのだ。敵を破壊せよ モスクワ、ハンガリー人、ユダヤ人......これらは君の敵だ。彼らを殺すのだ。」
その忠告を多くの人が真に受けたようだ。その結果、ウクライナの民族主義者たちは、白昼堂々、街中の何千人ものユダヤ人を残虐に殺害した。
彼らは、多くの女性を強制的に路上に連れ出し、そこで民族主義者たちは彼女たちを裸にし、レイプし、殺害した。男たちへの扱いは少しましだった:多くの男たちは、街頭で棍棒や拳で残酷に殴られ、群衆は彼らを嘲り、ゴミを投げつけた。ナチスの記者たちは、このような暴力行為の多くを撮影し、写真に収めた。
ドイツ国防軍の宣伝会社は、たとえば、地元の男が街頭でユダヤ人を殴っているこの画像を撮影した。これは、ナチスが長い間計画し、よく知られていた絶滅計画を実行する、そして実行できることの証拠として、ドイツ中の新聞や映画放送でその役目を果たした。この日、2,000人から5,000人のユダヤ人が無残にも虐殺されたが、そのほとんどすべてがOUNとその関連部隊によるものであった。
アインザッツグルッペン(The Einsatzgruppen)*はそのすぐ後に到着することになる。彼らはプロの殺し屋であり、ポーランドとソビエト連邦の無数の市町村をすでに「浄化」したファシスト処刑人の精鋭部隊であった。
アインザッツグルッペン*・・・、ドイツの保安警察 と保安局 がドイツ国防軍の前線の後方で「敵性分子」を銃殺するために組織した部隊である。 アインザッツグルッペンは複数表記で、単数形はアインザッツグルッペとなり、直訳すると「展開集団」である。正式名称は「保安警察及び保安局のアインザッツグルッペン」という。(ウィキペディア)
アインザッツグルッペンは、一軒一軒を訪ね歩き、優先ターゲットを探し出した。アインザッツグルッペンの兵士たちは、ある程度整然としたやり方で、あらかじめ掘られた穴まで行進させ、無理やり、ひざまづかせ、銃で処刑した。彼らは、約3000人のユダヤ人が死ぬまで、この作業を何時間も繰り返した。ナイチンゲール、OUN民兵、その他様々なファシスト協力者が、この虐殺のあらゆる側面に関与していた。彼らは警察として、ユダヤ人をトラックに乗せ、スタジアムに運び、機関銃で大量処刑するのを手伝った。
このような絶滅作戦は何日も続けられ、ユダヤ人から価値のあるものは何でも組織的に略奪した。ベルリンのナチス会計士は、被支配者の歯の詰め物を取り除くまで、最大限に経済的に搾取することを要求し、その金の多くは、ナチスの働きと絶滅計画から莫大な利益を得たドイツの実業家たちに直接送られたのである。
その過程で、4千人以上が殺され、その多くがこん棒で殴り殺された。この大虐殺の犠牲者たち、そしてこのような多くの犠牲者たちから盗まれたものの価値は、決して知ることはできないだろう。
悲しいことに、ナイチンゲールとその仲間たちの所業は、まだ終わってはいなかった。
7月25日、ウクライナ軍は約3日間にわたる別のポグロムを開始する。暗殺されたウクライナ人指導者の名前をとって「ペリトゥーラ(Pelitura)の日」と呼ばれ、地方から来たウクライナ人民族主義者がOUNの指揮下でリヴィウに進軍してきた。民族主義者たちは、ウクライナ補助警察から提供されたリストをもとに、残ったユダヤ人、ポーランド人、共産主義者などの「好ましからざる者たち」を駆逐していった。
3日間で約2000人が殺され、そのほとんどが農具で切り刻まれた。このような残虐さは、シュケビッチとOUNの名刺代わりとして、その存在をずっとアピールし続けることになる。
1944年に赤軍がリヴィウを解放した時、市民は15万人しか残っておらず、そのうちユダヤ人は800人だけだった。OUN、ウクライナ補助軍、ナチスは残りを殺害するか、逮捕してベルゼク強制収容所に強制送還していた。そこでナチスは「ラインハルト作戦」の一環として、彼ら全員を殺害することになる。ベルゼック収容所での殺害行為は非常に効率的であったため、生存者の身元が確認されたのは12人以下だった。
城の高みにいて、OUN指導部は何もしなかったわけではない。リヴィウで虐殺が続く中、OUNの副司令官でリヴィウ出身のヤロスラフ・ステツコ(Yaroslav Stetsko)は、自らも過激なファシストであり、ナチスと提携したウクライナ政府の独立を宣言したのである。これが、OUNの歴史におけるより複雑な章の土台となるのである。
協力の問題
「新生ウクライナ国家は、ヨーロッパと世界に新秩序を形成し、ウクライナ人民がモスクワの占領から自らを解放するのを助けているアドルフ・ヒトラーの指導の下、国家社会主義の大ドイツと緊密に協力することになる。
ウクライナの地で結成されたウクライナ人民革命軍は、全世界の主権的統一国家と新秩序のために、連合ドイツ軍とともにモスクワ占領に対抗して戦い続ける。
ウクライナ主権の統一ウクライナ万歳! ウクライナ民族主義者組織万歳! ウクライナ民族主義者組織とウクライナ国民の指導者ステパン・バンデラ万歳。ウクライナに栄光あれ!」
―ヤロスラフ・ステツコ、「ウクライナ国の復活行動」より
この辺りでナショナリストたちからの反論の声が上がるだろう:バンデラは逮捕された!彼は収容所に行った!彼はファシストでもナチスでもなかったのだ!OUNはナチスと戦ったのだ!
私は、いくつかの理由から、これらの議論が説得力を持つとは思わない。第一に、バンデラとOUNはファシストとして誰の手も借りずにやっていけていた。彼らは暴力的かつ過激に反ユダヤ、反ポーランド、反共産、民族主義を掲げた。たとえ彼らがナチスの協力者でなかったとしても、彼ら自身のひどい残虐行為は、彼らの評判への汚点を永久への残すことになるだろう。
その中でも最も衝撃的だったのは、ポーランド軍とOUN軍の2年にわたる戦闘で行われ、「血の日曜日」で頂点に達した民族浄化作戦、ヴォリナであろう。1943年7月11日、ローマン・シュケビッチ(Roman Shukhevych)によって、約100のポーランド人居住地に同時に攻撃が開始された。この日、UPAは約8000人のポーランド市民を殺害し、その多くはミサに参加していた教会内で銃殺されたり、生きたまま焼かれたりした。その後、UPAは地方に広がり、逃げ延びた者を斧、ハンマー、ナイフで追い詰め、殺害した。OUNは2年以上にわたって住民を虐殺し続け、その結果、約10万人の死者が出たが、そのほとんどが女性と子供だった。
このような残忍さは、OUNの典型的なものであった。バンデリウツイ*から身を隠していたウクライナ系ユダヤ人のモーシェ・マルツ(Moshe Maltz)は、そのことを日記に記しており、後に彼の回顧録として出版されている。
バンデリウツィ*・・・またはバンデリウツィ。ウクライナ民族主義者組織のメンバー。この用語は、1929年にウクライナファシスト連合を含む運動の合併として結成されたウクライナ民族主義者組織の長であるステパン・バンデラの名前に由来している。
「ユダヤ人がほとんどいなくなったので、バンデラ一味はポーランド人に牙を剥いたのだ。彼らは文字通り、ポーランド人をバラバラに切り刻んでいる。毎日......首にワイヤーをかけられたポーランド人の死体がバグ川に流れているのを見ることができる。」
したがって、OUNは自分たちを悪者にするためにヒトラーを必要としない。第二に、彼らはナチスの協力者であった。
ナチスが受け入れなかった独立宣言の数ヵ月後、緊張が高まり、ナチスはバンデラ、ステツコなどの指導者を逮捕する。自宅軟禁の後、1943年にザクセンハウゼン強制収容所に移された。
しかし、バンデラの収容所待遇は破格だった。バンデラには絵画と絨毯のある2部屋のスイートルームがあり、妻との面会が許され、強制労働はなく、制服も着ず、点呼も免除され、看守と食事をし、夜も独房のドアに鍵をかけないというものだった。
ナチスは1944年、ヒトラーの最高司令官オットー・スコルツェニ(Otto Skorzeny)との会談の後、進攻する赤軍に対するテロ作戦を実行するためにバンデラを解放した。ナチスはその間にいつでもバンデラとステツコを殺すことができたのに、殺さなかった。むしろ、彼らを配下に納めるために骨身を惜しまず、それはうまくいった。
OUNはナチスに対して何らかの行動を起こすが、それは短時間で中途半端なものでしかない。1942年には、事実上戦闘は全くなかった。
1943 年初めにそれは変わり、ウクライナ西部でいくつかの戦闘があった。山賊という評判通り、OUNは主に農場や小さな集落を襲い、焼き討ちや殺戮を行った。これらの攻撃のほとんどは、OUNの典型的な残忍さで実行され、軍人よりも民間人の死者の方が多かった。
この1年間の戦闘で、OUNは約12,000人の「ドイツ人」を殺害した。そのうち 700-1000 人がドイツ国防軍で、残りはナチの管理下にある民間人、あるいはナチの支配下にある地域の単なる農民や小作人であった。実際、当時のソ連のパルチザンの報告によると、OUNは必要なときだけナチスの兵士と交戦したという。:
「民族主義者は破壊活動を行わず、ドイツ軍がウクライナ人をあざ笑うときと、ドイツ軍が攻撃するときだけドイツ軍と戦闘を行う。」
ナチスは、最終的に両派を絶滅させるつもりで、この状況を利用して、ポーランド人協力者部隊をこの地域に移動させることにした。この部隊はハンガリー人の助力部隊とともに、OUNとの戦いの大部分を担った。
しかし、スターリングラードでのソ連の勝利は、ナチスと OUN の双方に恐怖を与え、交渉と緊張の冷え込みを余儀なくさせた。1943 年後半の第 3 回評議会で、OUN 指導部はソビエトを主敵として再確認し、ナチスに対する積極的な取り組みを終了した。ナチスと OUN の間の小競り合いは 1944 年まで続いたが、もはや重要な戦闘ではなかった。
歴史家のラス・ベラン(Russ Bellant)の言葉を引用しよう:
「ウクライナ民族主義者組織は1943年、ドイツの後援のもと、退却するドイツ軍に代わって戦う多国籍軍を組織した。43年のスターリングラードの戦いの後、ドイツ軍はより多くの味方を得る必要性を感じ、ルーマニア鉄衛団、ハンガリー矢十字団、ウクライナ国民党組織など、支援するための軍事組織を持つものが集まり、被支配国委員会という統一戦線を形成して、再びドイツ軍のために活動した。1946年、彼らはこれを反ボルシェビキ民族ブロック(ABN)と改称した。ステテコは1986年に亡くなるまでその指導者だった。」
OUNを指導者だけのものと考えたくなるが、実際には、OUNは常に何千人もの、ほとんど無名の、一般人戦闘員で構成されていたのである。これらの戦士の多くは、民族主義的な民兵からナチスへと行ったり来たりしていた。
ナチスが「安全保障戦争」と呼ぶ汚い仕事の大部分は、この「警察」部隊によって行われたのである。これは、ナチスの支配に反対する者を恐怖に陥れて大量に殺害するための婉曲表現に過ぎなかった。アプヴェールコマンド部隊もまた、OUNの戦士たちに別の協力の場を提供し、抵抗運動を鎮めるためにほぼ全面的に使われた。
悪名高いSSガリシア師団も1943年に結成され、この師団とOUNの重複は広範囲に及んでいた。その評判を白紙に戻そうとする大規模な試みにもかかわらず、ガリシアはSSと変わらないような犯罪集団であった。このSS部隊を称える行進や記念碑は、今日、ウクライナ西部でよく見られる。
「ロシアのウクライナはオーストリアのガリシア(現在ポーランドとウクライナ国境付近にまたがる地域)と比較できない... オーストリア・ガリシアのルテニア人(ウクライナ人の古称)は、オーストリア国家と密接に絡み合っている。したがって、ガリシアでは、地元住民からSSが一つの師団を形成することを認めることが可能である」-アドルフ・ヒトラー、1942年。
しかし、この議論はほとんど無意味で、1993年にウクライナ人自身がこの問題に決定的な決着をつけた。当時のレオニード・クラフチュク( Leonid Kravchuk)大統領率いるウクライナ政府の指示で、SBU(ウクライナ国家保安局)はOUNのナチスとの協力の度合いを調査するよう命じられたのである。クラフチュク大統領は、OUNの再建に着手する意図で、その歴史的正当性を求めていた。
それは手に入らないだろう。
以下は彼らが発見したもの:
「この保存記録には、OUN-UPAとドイツの特殊部隊の資料や戦利品が含まれており、1943年のUPA部隊とドイツ軍との小競り合いについての証言だけが残っている。重要な攻撃や防衛作戦、大規模な戦闘は記録されていない。この時期のUPA部隊のドイツ軍との戦いの戦術は、拠点への攻撃、小部隊、拠点の防衛、道路での待ち伏せに絞られていた。」 -ウクライナ治安局 -ウクライナ治安維持局、「OUN-UPAの活動について」、7-3-1993年
先に述べたように、1942 年には全く戦闘がなく、1944 年までに OUN はナチスに対する武装闘争を公式に終了している。したがって、OUN は 1943 年にはナチスとほとんど戦っていないので、ナチスとはほとんど戦っていないことになる。
この点から、元コメディアンのゼレンスキーはもっとましなジョークが必要だろう。
矛と短剣:
「ABNはかつてないほど優れた商業的ヒットマンだ。」
ーL.フレッチャー・プラウティ(Fletcher Prouty)、ケネディ政権時、統合参謀本部特別作戦部長だった。
バンデラとOUNは、終戦までナチスの手先であった。その最も明確な証拠は、1945年にアメリカ軍が空爆したナチスの輸送隊にヤロスラフ・ステツコ(Yaroslav Stetsko)が乗っていて、もう少しで彼が死ぬところだったということだ。
OUN は 1950 年代まで何らかの形で、ウクライナ西部でテロ攻撃を続けることになるが、KGB によれば、OUN は損失を補充することができなかったという。損失を補充しないまま積極的な対策を取ろうとしたことで、OUN は 1954 年頃には戦闘組織としては崩壊してしまった。
1950年のソ連軍の空襲によるローマン・シュケビッチの死は、UPAにとって大きな痛手となり、その後立ち直ることができなかった。
OUNは新しい後援者を切実に必要としており、彼らはそれを見つけるのにほとんど時間をかけなかった。1944年、OUNは他の民族主義グループとともに、ウクライナ最高解放評議会(UHVR)を結成することになる。そのメンバーはOUN系組織の常連であった。会長は、ナイチンゲールの元従軍牧師、イワン・フリニオフ(Ivan Hrinioch)であった。
外相は、悪名高い秘密警察OUNのトップで、アメリカ軍が「よく知られたサディストでドイツ軍の協力者」と呼んだミコラ・レベド(Mykola Lebed)だった(彼は後にCIAの協力者となる)。
この2人は、UPAの連絡員ユーリ・ロパチンスキー(Yuri Lopatinski)とともに、同年バチカンに乗り込み、西側諸国の政府からの支援を求めた。この会談がどうなったかは不明だが、この頃、イギリスが支援を始めたことが証明されている。
バンデラは、以前OUNに対して行ったように、すぐにUHVR内に激しい分裂を引き起こすことになる。これは1947年に東ウクライナの問題をめぐってバンデラ/ステツコと他方のレベド/フリニオフの間で公然と行われるようになった。東ウクライナは大部分がロシア領であり、激しく反ロシア的なOUNにとって常に大きな弱点となっていたのである。
バンデラは、一党独裁(自分が指導する)だけでなく、ロシアの影響を排除した純粋なウクライナの民族国家を主張した。レベドとフリニオフは、運動を成功させるためには東部ウクライナ人を取り込むことが必要だと考えた。
このため、バンデラは1948年に彼らを追放することになる。このことが、バンデラの失脚につながった。CIAは、彼があまりに極端で、妥協を許さないため、有用な諜報員にはなれないと考えるようになったからだ。
バンデラは、ファシストの地下組織で大きな名声を得ていたが、長年にわたってライバルを激しく攻撃してきたため、多くの者が彼とは組まないでいた。CIAは統一戦線を望んでおり、バンデラが指揮を執っている限りそれは不可能であることを理解していた。
戦後間もない時期の時系列には、まだまだ埋まらない隙間がある。しかし、最近の文書の機密解除により、バンデラやOUNがCIAや欧米の工作員としてどのような役割を担っていたのか、理解が深まってきている。
確実に言えるのは次のことだ。
戦後間もなく、アメリカ軍の防諜担当は、バンデラがアメリカ占領地でソビエト軍から隠れているのを発見した。これは、1946年にバンデラを誘拐する特別作戦が失敗したことを詳述したKGBの機密解除文書によるものである。これは、バンデラを犯罪者として送還するための交渉が1年間失敗した後に試みられたものだった。
バンデラは、少なくとも1946年の初めからミュンヘンに住んでいた。そこで彼は、ナチスのスパイマスターからCIA工作員に転身し、後に西ドイツ情報部のトップとなるラインハルト・ゲーレン(Reinhard Gehlen )の保護のもと、緊密に協力して働いていたのである。
ゲーレンは全く反省していないナチで、悪名高い「ラットライン」を秘密裏に運営し、無数のナチがアメリカの同盟国へ司法逃亡するのを助けていた。彼は、彼らを資産として利用しようとするCIAの全面的な支持と後ろ盾を得て、これを行った。1946年だけでもゲーレンは約350万ドルを受け取り、50人を雇った。そのうち40人は元SSだった。ゲーレンが逃亡を手助けした者の中には、アドルフ・アイヒマン(Adolf Eichmann)やオットー・スコルツェニ(Otto Skorzeny)がいた。
バンデラとOUN(というより、レベドによって結成された秘密警察SB)は、当初、MI6のために避難民キャンプ内で暗殺者として働いていた。SBは、共産主義者、敵対するファシスト、OUNの血なまぐさい過去について詳しく知っている人物をターゲットにしていた。西側諸国が「オハイオ作戦」と呼ぶ作戦で、何千人もの難民がOUNの手にかかり、命を落とした。彼らは恐ろしく有能な殺し屋として評判になり、リーベドはここで悪魔というコードネームを得た。
1946年、バンデラとステツコはミュンヘンで反ボルシェビキ諸国ブロック(ABN)を設立した。一種のファシズム的な国際組織で、世界中の極右の反共テロリスト集団を、資金力のある1つの戦線に統合した。ヤロスラフ・ステツコがリーダーであった。しかし、バンデラとの親密な友情は、当時のCIAにとって受け入れがたいものであったことを意味する。
バンデラは当初、OSS(CIAの前身)と接触していたが、すぐに極端すぎる、作戦上危険だ(暗号通信を拒否することが多い)、反抗的だと見なされるようになった。そのため、バンデラは主にMI6と行動を共にし、CIAはレベドを支援した。この2つの状況は最終的に非常に緊迫したものとなり、1954年にはCIAが介入してMI6にバンデラを諜報員から外すように強く働きかけた。
彼はその年のOUN会議でOUNの指導者から外され、「改革派」と入れ替わることになった。とはいえ、CIAとドイツ軍もバンデラを何度か暗殺未遂から守った。彼は、陸軍CICのアメリカ人やゲーレンの親衛隊に守られたこともあった。CIAは少なくとも一度、バンデラを守るために西ドイツ警察に機密情報を無線で伝えた。CIAは、もはやバンデラを全面的に支援する気はなかったが、彼が殉教者になることも望まなかった。
しかし、CIAはその願いをかなえることはできなかった。1954年以降、彼らの戦略は、単に獣を飢えさせることだったようだ。アメリカ側はバンデラの失脚を望んでいた。バンデラを指導者からはずし、資金源を断つという考えである。
バンデラのキャリアは、ただ枯れて死んでいくだけだった。バンデラは、ゲーレンの下で何らかの形で生涯働き続けることになるが、その役割と業績は意図的に減らされていた。この間、KGBは決してあきらめなかった。終戦後、アメリカに対してバンデラを戦争犯罪人として引き渡せと何度も要求したが、完全に拒否された。そのため、KGBはバンデラの命を何度も狙った。1947年、1948年、1952年、1959年に失敗したことが分かっている。
1959年、2度目の試みがついに成功する。1959年10月15日、KGBのボーダン・スタシンスキー(Bohdan Stashynsky)がミュンヘンのバンデラ宅に忍び込み、特殊な毒スプレー銃でバンデラの顔面を撃ったのだ。
バンデラは口から血を流して倒れ、いくつかの階段で頭蓋骨の付け根にひびが入った。当初、死因は倒れたことによる脳卒中とされた。しかし、1961年にスタシンスキーが亡命し、逮捕されるまで、誰が彼を毒殺したかは不明であった。1941年にナイチンゲールの政治委員を務めた西ドイツの政治家で元ナチスのテオドール・オーバーレンダー(Theodor Oberländer)が有力な容疑者であった。
バンデラが疎外され、その後死亡したことで、ABNに対するCIAの規制が解除され、ヤロスラフ・ステツコはCIAの協力者として活躍の場を大きく広げることになる。彼は残りの人生、この役割に突出した役割を果たすことになる。
今後の記事では、少なくともマイダンのクーデターが起こった時点で、ステツコとCIAの間に明確なつながりがあることを、詳しく説明するつもりだ。
Evan Reif was born in a small mining town in Western South Dakota as the son of a miner and a librarian. His father’s struggles as a union organizer, and the community’s struggles with de-industrialization, nurtured Evan’s deep interest in left-wing politics. This, along with his love of history, made him a staunch anti-fascist. When not writing, researching or working, Evan enjoys fishing, shooting, and Chinese cooking. Evan can be reached at wharghoul@gmail.com.
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