アメリカ帝国の顔である故ジョージ・H・W・ブッシュ氏の素顔
Oil tycoon, CIA chief, President: George H.W. Bush was the epitome of American empire
RT Op-ed 2018年12月4日
(翻訳: 寺島メソッド翻訳グループ 2019年1月31日)
<記事原文>(寺島先生推薦)
https://www.rt.com/op-ed/445468-oil-tycoon-cia-chief-bush/

ロバート・ブリッジはアメリカ人作家でジャーナリストです。「モスクワ・ニュース」の元編集長。2013年刊行の『Midnight in the American Empire』の著者です。

元アメリカ大統領ジョージ・H.W・ブッシュが「大統領の”門番”」のインタビューを受ける。2011年10月24日, テキサス © Getty Images / David Hume Kennerly
先頃亡くなった元アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュは、アメリカでも最高の権勢を持つ名士の家系であった。アメリカは、石油中毒で、秘密主義と戦争が頭から離れず、自分だけが傑出した資質を持っているという自信にあふれた国であるが、ブッシュはそういうアメリカの権化であった。
彼の人生や彼が生きた時代を考えると、どうしてもガードの固い彼の大邸宅に足を踏み込まざるを得ない。その住まいは何層にも積み重なった富と権力と秘密主義に包まれているので、その表面を引っ掻こうとするだけでもツルハシやダイナマイトが必要なほどだ。というのもこの論考のテーマとなっている人物はありきたりの政治家ではなく、王家一族[女系の先祖がイギリス王室につながる家柄]の末裔だ。彼は今日のアメリカを形作るのに、傍からでは窺い知れない手腕を持っていた。
ジョージ・H・W・ブッシュは、普通の職業政治家のように、初めから政治家の人生を決められていたわけではなかった。そこがJ・F・ケネディやビル・クリントンとは違った。まずは、世界にしっかりした独占的基盤を取得することが、ブッシュ家の優先課題だった。政治権力は食後のデザートのミント菓子のようなもので、どちらかと言えば取得した富の添え物みたいなものだった。いや、その政治権力は更なる富を獲得するひとつの方法だったかもしれない。
彼の父親のプレスコット・シェルドン・ブッシュは、投資銀行A・ハリマン社の副社長になった。そこで相当な財産を作った後に、60歳で政界に進出し、コネチカット州の上院議員に選出された。
父親と同じようにジョージ・H・W・ブッシュは、その人生の初期、政治ではなく「とにかく金」の生活を送った。エール大学を卒業すると、彼は家族を引き連れ、石油業を手がけるためテキサスへと南下した。 1964年には、齢40歳にして「たたき上げ」の億万長者になっていた。 しかし、テキサスでどんなに埃と油にまみれても、彼の血管に濃く流れる「貴族の」高貴な血筋は隠しようがなく、如才のない「テキサスの石油男」というイメージの陰にある東海岸の血筋を露わにした。
石油から無限の世界へ
ブッシュ家の、プレスコット・ブッシュ(1985-1972)からジョージ・’ダビャ’・ブッシュ(ジョージ・W・ブッシュ)に至る男性家系は、金儲けとゴルフよりさらに多くの共通点がある。その共通点はこの二つの「気晴らし」に劣らず重要なものだ。
3人共名門エール大学に学んだ。大学では、’ダビア’・ブッシュも父も祖父も「スカル・アンド・ボーンズ(頭蓋骨と骨)」として知られる秘密結社のメンバーだった。1832年に結成されたこの結社は数多くの陰謀理論の源泉となっている。その陰謀理論はあまりにも多いので、ここでそのすべてを論じ尽くすのは不可能だ。ただ、これだけは言っておこう。 結社の規模は小さいが、そのメンバーの多くは政府の高官になっている。
同じ大学で、同じ結社のメンバーに三代続けてなったからといって、もちろん、何か厄介ななことがあったということの証明には必ずしもならない。しかし、はっきりしているのは、ブッシュ一族には何世紀にも亘る伝統があるから、世界最高の名士やその家族と親密な繋がりをつけることができた。言い換えれば、ブッシュ家の人も家柄も他に引けを取るようなものでは全くない、ということでもある。
密室で造り上げられるそのような親密な絆は、ケネディ大統領の有名な「秘密社会」スピーチを思い出させる。そのスピーチでケネディが警告したのは、オープンでない場所で結ばれる連帯は民主主義とは相容れない、というものだった。しかし、G・H・W・ブッシュにとって、その連帯はケネディが警告するようなものであっても、彼が実業界から政治、諜報の世界に身を移動する際、何の障害にもならなかった。
力の政治
ブッシュ家の名前を最大限に活用して、1970年、上院への立候補こそできなかったが、翌1971年にはニクソン大統領によって国連大使に任命された。ここからブッシュの華やかな政治活動は始まった。共和党全国委員会代表を務めた後すぐ、1976年に、ブッシュはフォード大統領からCIA長官に指名された。
1年間の任期中のエピソードで絶対無視できないのが、「コンドル作戦」だ。「コンドル作戦」とはチリのアウグスト・ピノチェト将軍のような南米の右派軍事独裁者たちを支援する恥知らずな冷血作戦のことだ。目的達成のために暴力の使用を惜しまなかった。
当時の国務長官キッシンジャーは、虐殺を止めようとする周囲の動きを阻止していたが、「コンドル作戦」では暗殺チームを組織し、少なくとも13、000人の反体制派が追い詰められ、殺害された。その他にも、何十万人もの人々が収容所に拘束された。そこで拷問され、最後は死に至った人も多かった。
ジョージ・H・W・ブッシュはCIA長官として、彼の息のかかった部局が指揮して、右派勢力の大虐殺が行われていたのだから、それを止められる地位にいた。しかし、彼は止めなかった。彼はその経歴に嘆かわしい記録を残した。これはその多くのうちのひとつだ。
ロナルド・レーガン政権の副大統領として比較的平穏な8年間(1981-1989)の後、ジョージ・H・.W.・ブッシュは41代アメリカ大統領としてホワイトハウスの住人となる。
ブッシュの1期だけの大統領職を、アメリカの政治戦略家ズビグネフ・ブレジンスキーはその著書『セカンド・チャンス』でうまくまとめている:
「公平に見れば、第二次世界大戦以来、ブッシュほどに激しく世界的に広範囲に及び、厳しい混乱に直面しなければならなかった大統領は誰もいなかった。」
実際、1989年だけでも天安門事件があり、イランの精神的指導者アヤトラ・ホメイニの死があり、ベルリンの壁の解体があった。その後、同年12月3日、ブッシュとソ連指導者ミハイル・ゴルバチョフが冷戦の終結を宣言した。
しかし、イラクの侵略からクエートを解放するための軍事攻撃「砂漠の嵐作戦」は、何よりもブッシュ政権を特徴づける出来事となった。しかし、共和党政権は再び短命に終わった。
「アメリカ人がリビングで快適に見られる最初の大戦争です」との触れ込みで、「砂漠の嵐」作戦は1991年1月16日、本格的に始まった。アメリカ主導軍は、イラクに42日間昼夜連続で、軍事史上最大の集中空爆のひとつとなる攻撃を加えた。無慈悲な攻撃で、軍事インフラも民間インフラも荒廃させられた。ふたたび、アメリカ軍の過剰殺傷が荒れ狂うこととなった。
フセインの好戦的な姿勢を罰するためにイラクを石器時代に戻す必要など全くなかった。しかし、その戦争こそジョージ・H・Wが認可した命令の内容だった。あのブレジンスキ-ですら、なぜブッシュはフセインに「政権の座を降りて亡命しなければ、遁走するイラク軍は一掃される」との最後通牒を与えなかったのか、との疑問を呈したほどだ。
一方、ブッシュが首都バグダッドを攻撃しないことを決断したことを、他の多くの人々のように、賞賛することは難しい。首都バグダッドを攻撃していれば、間違いなく甚大な人道上の危機をもたらしたはずで、ブッシュは首都は攻撃しなかった。しかし、今度は彼の息子のジョージ・W・ブッシュが、約10年後のイラク侵略で、バグダッドを攻撃することになったから同じ事だ。どうして攻撃に及んだか?子ブッシュは、サダム・フセインが「あるとき父を殺そうとしたことがある」ことを理由のひとつとして説明している。
現代戦(軍事衝突)が個人的な復讐心が引き金になったと考えるのは、控えめに言っても、不穏当なことだ。いずれにしても、ジョージ・H・Wは、現在のアメリカ外交政策を席巻しているアメリカ例外主義を信じて、熱望していた。例えば、1945年の広島・長崎への原爆投下にアメリカは謝罪しないのか、と尋ねられて彼は答えた。
「いかなる謝罪も必要ない。これからも大統領のこの私が謝罪を求められることはないだろう。そのことはきちんと申し上げておきます。」
同じような答えがあったのは、イラン航空655便の撃墜について質問された時だ。 1988年7月イランの旅客機がアメリカ海軍によって撃墜され、290人(内子ども66人)が死亡した事件だ。
アメリカはイランに謝罪しないのか、と質問されると、ブッシュはすぐに言い返した:
「私は合衆国がやったことで謝罪することは絶対にない。 事実はどうでもいいのです... アメリカがやったことを、私が謝罪する?私はそんな人間ではありません。」
結論として、公平に言うならば、ジョージ・H・W・ブッシュは、生まれた時から「エリート」階級に属しているアメリカの指導者の一人で、そのため国内でも、国外でも戦場でも、一般人の苦労を理解する能力に欠けているようだ。こういう言い方でアメリカ政府の外交政策への取り組みを説明してもあながち的外れではない。
第41代アメリカ大統領となったこのジョージ・H・W・ブッシュと同様、アメリカ政府は、世界に対する常軌を逸した振る舞いが増えても、それを説明する気持ちを全く持ち合わせていない。その結果、アメリカの利益のために、世界は大きな破壊に苦しんできた。それは、アメリカが、その歪んだ現実観で、自分の国はいかなる疑いもなく、いかなる説明、いかなる謝罪も必要ない、と信じ込んでいることがその理由だ。アメリカはこれからも外国の地で自国の利益を確保し、必要とあれば、軍事的衝突を続けるだろう。
その意味で、ジョージ・H・W・ブッシュは、確かに典型的なアメリカのリーダーだった。
RT Op-ed 2018年12月4日
(翻訳: 寺島メソッド翻訳グループ 2019年1月31日)
<記事原文>(寺島先生推薦)
https://www.rt.com/op-ed/445468-oil-tycoon-cia-chief-bush/

ロバート・ブリッジはアメリカ人作家でジャーナリストです。「モスクワ・ニュース」の元編集長。2013年刊行の『Midnight in the American Empire』の著者です。

元アメリカ大統領ジョージ・H.W・ブッシュが「大統領の”門番”」のインタビューを受ける。2011年10月24日, テキサス © Getty Images / David Hume Kennerly
先頃亡くなった元アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュは、アメリカでも最高の権勢を持つ名士の家系であった。アメリカは、石油中毒で、秘密主義と戦争が頭から離れず、自分だけが傑出した資質を持っているという自信にあふれた国であるが、ブッシュはそういうアメリカの権化であった。
彼の人生や彼が生きた時代を考えると、どうしてもガードの固い彼の大邸宅に足を踏み込まざるを得ない。その住まいは何層にも積み重なった富と権力と秘密主義に包まれているので、その表面を引っ掻こうとするだけでもツルハシやダイナマイトが必要なほどだ。というのもこの論考のテーマとなっている人物はありきたりの政治家ではなく、王家一族[女系の先祖がイギリス王室につながる家柄]の末裔だ。彼は今日のアメリカを形作るのに、傍からでは窺い知れない手腕を持っていた。
ジョージ・H・W・ブッシュは、普通の職業政治家のように、初めから政治家の人生を決められていたわけではなかった。そこがJ・F・ケネディやビル・クリントンとは違った。まずは、世界にしっかりした独占的基盤を取得することが、ブッシュ家の優先課題だった。政治権力は食後のデザートのミント菓子のようなもので、どちらかと言えば取得した富の添え物みたいなものだった。いや、その政治権力は更なる富を獲得するひとつの方法だったかもしれない。
彼の父親のプレスコット・シェルドン・ブッシュは、投資銀行A・ハリマン社の副社長になった。そこで相当な財産を作った後に、60歳で政界に進出し、コネチカット州の上院議員に選出された。
![]() ALSO ON RT.COM Late George H.W. Bush valued 'constructive dialogue' with Russia --- Putin |
父親と同じようにジョージ・H・W・ブッシュは、その人生の初期、政治ではなく「とにかく金」の生活を送った。エール大学を卒業すると、彼は家族を引き連れ、石油業を手がけるためテキサスへと南下した。 1964年には、齢40歳にして「たたき上げ」の億万長者になっていた。 しかし、テキサスでどんなに埃と油にまみれても、彼の血管に濃く流れる「貴族の」高貴な血筋は隠しようがなく、如才のない「テキサスの石油男」というイメージの陰にある東海岸の血筋を露わにした。
石油から無限の世界へ
ブッシュ家の、プレスコット・ブッシュ(1985-1972)からジョージ・’ダビャ’・ブッシュ(ジョージ・W・ブッシュ)に至る男性家系は、金儲けとゴルフよりさらに多くの共通点がある。その共通点はこの二つの「気晴らし」に劣らず重要なものだ。
3人共名門エール大学に学んだ。大学では、’ダビア’・ブッシュも父も祖父も「スカル・アンド・ボーンズ(頭蓋骨と骨)」として知られる秘密結社のメンバーだった。1832年に結成されたこの結社は数多くの陰謀理論の源泉となっている。その陰謀理論はあまりにも多いので、ここでそのすべてを論じ尽くすのは不可能だ。ただ、これだけは言っておこう。 結社の規模は小さいが、そのメンバーの多くは政府の高官になっている。
同じ大学で、同じ結社のメンバーに三代続けてなったからといって、もちろん、何か厄介ななことがあったということの証明には必ずしもならない。しかし、はっきりしているのは、ブッシュ一族には何世紀にも亘る伝統があるから、世界最高の名士やその家族と親密な繋がりをつけることができた。言い換えれば、ブッシュ家の人も家柄も他に引けを取るようなものでは全くない、ということでもある。
密室で造り上げられるそのような親密な絆は、ケネディ大統領の有名な「秘密社会」スピーチを思い出させる。そのスピーチでケネディが警告したのは、オープンでない場所で結ばれる連帯は民主主義とは相容れない、というものだった。しかし、G・H・W・ブッシュにとって、その連帯はケネディが警告するようなものであっても、彼が実業界から政治、諜報の世界に身を移動する際、何の障害にもならなかった。
力の政治
ブッシュ家の名前を最大限に活用して、1970年、上院への立候補こそできなかったが、翌1971年にはニクソン大統領によって国連大使に任命された。ここからブッシュの華やかな政治活動は始まった。共和党全国委員会代表を務めた後すぐ、1976年に、ブッシュはフォード大統領からCIA長官に指名された。
1年間の任期中のエピソードで絶対無視できないのが、「コンドル作戦」だ。「コンドル作戦」とはチリのアウグスト・ピノチェト将軍のような南米の右派軍事独裁者たちを支援する恥知らずな冷血作戦のことだ。目的達成のために暴力の使用を惜しまなかった。
当時の国務長官キッシンジャーは、虐殺を止めようとする周囲の動きを阻止していたが、「コンドル作戦」では暗殺チームを組織し、少なくとも13、000人の反体制派が追い詰められ、殺害された。その他にも、何十万人もの人々が収容所に拘束された。そこで拷問され、最後は死に至った人も多かった。
![]() George H.W. Bush last Cold War-era US pesident, dead at 94 |
ジョージ・H・W・ブッシュはCIA長官として、彼の息のかかった部局が指揮して、右派勢力の大虐殺が行われていたのだから、それを止められる地位にいた。しかし、彼は止めなかった。彼はその経歴に嘆かわしい記録を残した。これはその多くのうちのひとつだ。
ロナルド・レーガン政権の副大統領として比較的平穏な8年間(1981-1989)の後、ジョージ・H・.W.・ブッシュは41代アメリカ大統領としてホワイトハウスの住人となる。
ブッシュの1期だけの大統領職を、アメリカの政治戦略家ズビグネフ・ブレジンスキーはその著書『セカンド・チャンス』でうまくまとめている:
「公平に見れば、第二次世界大戦以来、ブッシュほどに激しく世界的に広範囲に及び、厳しい混乱に直面しなければならなかった大統領は誰もいなかった。」
実際、1989年だけでも天安門事件があり、イランの精神的指導者アヤトラ・ホメイニの死があり、ベルリンの壁の解体があった。その後、同年12月3日、ブッシュとソ連指導者ミハイル・ゴルバチョフが冷戦の終結を宣言した。
しかし、イラクの侵略からクエートを解放するための軍事攻撃「砂漠の嵐作戦」は、何よりもブッシュ政権を特徴づける出来事となった。しかし、共和党政権は再び短命に終わった。
「アメリカ人がリビングで快適に見られる最初の大戦争です」との触れ込みで、「砂漠の嵐」作戦は1991年1月16日、本格的に始まった。アメリカ主導軍は、イラクに42日間昼夜連続で、軍事史上最大の集中空爆のひとつとなる攻撃を加えた。無慈悲な攻撃で、軍事インフラも民間インフラも荒廃させられた。ふたたび、アメリカ軍の過剰殺傷が荒れ狂うこととなった。
フセインの好戦的な姿勢を罰するためにイラクを石器時代に戻す必要など全くなかった。しかし、その戦争こそジョージ・H・Wが認可した命令の内容だった。あのブレジンスキ-ですら、なぜブッシュはフセインに「政権の座を降りて亡命しなければ、遁走するイラク軍は一掃される」との最後通牒を与えなかったのか、との疑問を呈したほどだ。
一方、ブッシュが首都バグダッドを攻撃しないことを決断したことを、他の多くの人々のように、賞賛することは難しい。首都バグダッドを攻撃していれば、間違いなく甚大な人道上の危機をもたらしたはずで、ブッシュは首都は攻撃しなかった。しかし、今度は彼の息子のジョージ・W・ブッシュが、約10年後のイラク侵略で、バグダッドを攻撃することになったから同じ事だ。どうして攻撃に及んだか?子ブッシュは、サダム・フセインが「あるとき父を殺そうとしたことがある」ことを理由のひとつとして説明している。
![]() ALSO ON RT.COM Russian diplomacy is winning the New Cold War --- Stephen Cohen |
現代戦(軍事衝突)が個人的な復讐心が引き金になったと考えるのは、控えめに言っても、不穏当なことだ。いずれにしても、ジョージ・H・Wは、現在のアメリカ外交政策を席巻しているアメリカ例外主義を信じて、熱望していた。例えば、1945年の広島・長崎への原爆投下にアメリカは謝罪しないのか、と尋ねられて彼は答えた。
「いかなる謝罪も必要ない。これからも大統領のこの私が謝罪を求められることはないだろう。そのことはきちんと申し上げておきます。」
同じような答えがあったのは、イラン航空655便の撃墜について質問された時だ。 1988年7月イランの旅客機がアメリカ海軍によって撃墜され、290人(内子ども66人)が死亡した事件だ。
アメリカはイランに謝罪しないのか、と質問されると、ブッシュはすぐに言い返した:
「私は合衆国がやったことで謝罪することは絶対にない。 事実はどうでもいいのです... アメリカがやったことを、私が謝罪する?私はそんな人間ではありません。」
結論として、公平に言うならば、ジョージ・H・W・ブッシュは、生まれた時から「エリート」階級に属しているアメリカの指導者の一人で、そのため国内でも、国外でも戦場でも、一般人の苦労を理解する能力に欠けているようだ。こういう言い方でアメリカ政府の外交政策への取り組みを説明してもあながち的外れではない。
第41代アメリカ大統領となったこのジョージ・H・W・ブッシュと同様、アメリカ政府は、世界に対する常軌を逸した振る舞いが増えても、それを説明する気持ちを全く持ち合わせていない。その結果、アメリカの利益のために、世界は大きな破壊に苦しんできた。それは、アメリカが、その歪んだ現実観で、自分の国はいかなる疑いもなく、いかなる説明、いかなる謝罪も必要ない、と信じ込んでいることがその理由だ。アメリカはこれからも外国の地で自国の利益を確保し、必要とあれば、軍事的衝突を続けるだろう。
その意味で、ジョージ・H・W・ブッシュは、確かに典型的なアメリカのリーダーだった。
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